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愛する君が俺に落ちてくれるまで

作者: 真栄田エイラ


 八時十五分。

「おはようございます!」

 校門の前に立ち、登校してくる生徒たちに元気よく朝の挨拶をする。

 制服の左腕に『風紀』の腕章をつけた、風紀委員の仕事の一つだ。

 高野(たかの)美咲(みさき)は、この春、二年生に進級したと同時に、風紀委員に任命された。

 三学年、各クラスから一名ずつ任命される風紀委員の人数は、全員で二十一人。シフトを組んで、毎日数名ずつ校門の前に立つ。

 朝は主に、校則違反や遅刻者を指導する。

 進学校として有名なこの高校は、自主性を高めるため、生徒の自由を尊重する校風だ。 だから、校内の風紀にも教師はあまり口を出さず、風紀委員が取りしきっている。

 だからといって、何をしてもいいということにはならない。金髪などの常識の範囲外のヘアスタイルや、ピアスやネックレス、指輪などのアクセサリー、華美な色のマニキュアは校則違反の対象となる。

 すすんで指導されたいと思う生徒などいないので、ほとんどがアクセサリー類やマニキュアは、校門での風紀委員のチェックを通過してから身につけたりしているから、校舎の廊下などで風紀委員とすれ違ったときに校則違反を見つけられるケースもあるが、それはまれだ。

 校則違反した生徒は、その回数や、度合いによって指導方法が異なる。

 あまりにもひどい違反であったり、朝のチェックで何度指導しても改善しようとしない生徒は、放課後に風紀委員が指導室に呼び出して指導したり、顧問の教師に提出する、校則違反者の始末書を書かせることがある。

 美咲はとても真面目な性格なので、風紀委員の仕事に向いていると、三年生で風紀委員長の佐々倉要(ささくらかなめ)に褒められた。「高野さんが三年生だったら、絶対に風紀副委員長に任命するよ」と、言われたこともあるくらいだ。

 美咲に、風紀委員の仕事をイチから教えてくれたのも佐々倉であるし、美咲が風紀委員の仕事に慣れていないのと、奥手な性格ゆえにうまく校則違反者を指導できなかったりと悩んでいるのを、美咲が言う前に佐々倉の方から気づいて励ましてくれたり、アドバイスをくれたりもした。

 将来は警察官になるという夢を持つ佐々倉は、一年生のときから風紀委員に立候補し、ずっと務め続けてきて、今期から風紀委員長にまでなった男なのだ。

 そのため、風紀委員と言えば佐々倉と言われるくらい実績も経験もあり、余裕を感じるが、それをひけらかしたりしない。仕事は丁寧に教えるし、どんな相談にでも快くのる。だから、風紀委員になった生徒からの人望も厚い。

 美咲も同じである。特別視されたことによって、使命感のようなものを持つようにもなったし、いざというときには頼れる委員長なので、佐々倉を尊敬するようにもなった。

 シフト制なので毎回ではないが、佐々倉と同じ日に当番になったりもする。尊敬する先輩と一緒の時は、張りあいがあるような気もしていた。少々、引っ込み思案な美咲も、本気で風紀副委員長を目指そうかなと思うくらいだ。

 そんな風に風紀委員の仕事に燃えてきていた美咲だったが、ブラックリストに確実に名前が載っているだろう、風紀委員泣かせの校則違反常習者が数名いるのだ。

 そういう生徒たちは、放課後に指導室に呼び出して、マンツーマンで指導していかなければならない。そのマンツーマン指導が、今の美咲の悩みの種となっている。

 毎朝、微妙に一、二分、遅刻してくる生徒がいるのだ。

 学校の生徒用玄関は、八時半になると風紀委員が内側から鍵をかける。遅刻者を見逃さないためだ。そのため、遅刻者は唯一鍵の開いている職員用玄関から入り、待ちかまえている風紀委員に指導される仕組みだった。たまたま遅刻しただけだったり、数回程度ならその場での指導でかまわないことになっているが、常習犯はブラックリストに載ることになる。

 ―――やっぱり今日も遅刻か。

 悪びれもなく職員用玄関から入ってきた男子生徒・駿河真(するがまこと)。何度指導しても時間通りに登校してきてくれない。たった一、二分ならほんの少し家を出る時間を早めるなり、なんなりとできるはずなのに。この人は時間を守ろうという意識がまるでないのだろうと、美咲はハアと肩をおとした。

「……放課後、指導室に来てください」

 今日もこの言葉を言わなければならないのか……と、美咲は気分が一気に重くなる。

 指導室でのマンツーマン指導は、佐々倉が作ったマニュアル通りに行えばいいことになっている。

 そのうえで、それでも直す意志のない生徒は、委員長である佐々倉に依頼する。

 佐々倉は、この世の中には『善』と『悪』しかないと思っているのではないかというくらい、極端な性格なのだ。

 佐々倉に指導を依頼するくらいの生徒は、佐々倉が一度、指導したところで変わるわけのない生徒なのだ。佐々倉にかかれば、そういう生徒は、即、顧問の教師に指導を依頼されてしまう。

 教師からの指導ということは、風紀委員の指導とはまったく違ってきてしまう。

 タバコを見つけた場合は、法律違反なので即、教師からの指導になる。

 美咲が耳にしたうわさでは、タバコで指導になった生徒は、退学になったらしいとのことだ。

 教師からの指導では、いくら常習犯でも、校則違反で退学にはならないと美咲は思っているが、停学とかになってしまうかもしれない。停学くらいならと思う人もいるかもしれないが、それで出席日数が足りなくなって、留年。そして自主退学。

 と、いうことがおこりうるかもしれない。

 そんなことになったら、その生徒の人生を狂わせてしまうのではないのだろうか? と思うとこわくなってしまう。

 そう思って、美咲はまだ佐々倉に指導を依頼していない生徒を、個人的な理由でマンツーマン指導し続けているのだ。

「生徒手帳を提出してください」

「持ってねえよ、そんなもん」

「そうですか。では、この書類に記入してください」

 そう言って、校則違反者の始末書を差し出すが、彼は置かれたボールペンを手に取ろうともしない。

「では、わたしが記入します」

 駿河真。二年B組。出席番号八番。

 聞かなくても、彼のデータをスラスラと書いていく。もう、毎回のことだから覚えてしまった。

 違反箇所の欄には、髪型とピアスとアクセサリー、服装。そして遅刻にチェック印を入れる。男子だから、かろうじて化粧とマニキュアにチェックがつかないだけで、ほとんど全部だ。

 駿河は、肩につくかつかないかくらいの長髪を金色にブリーチをしている。

 風紀委員のチェックをすりぬけるために、長髪にしてピアスを隠している生徒はいる。 だが、駿河の場合は長髪でも、耳が見えるような独特なカットをしたヘアスタイルなのだ。しかも、耳たぶにはボディピアスと呼ばれる、通常よりも太いゲージの目立つピアスをつけ、美咲は数えたことはないが、耳輪にも何個もピアスをつけている。

 他にも、首にはシルバーのネックレス。

 学校指定のネクタイをしてこない。

 派手ではないがいつも黒や青などと、校則で決められている白のワイシャツを着てこない。

 服装も、当然のようにワイシャツをスラックスの中に入れない。などなど、数え切れない。

「今日も、反省文の欄は白紙にしていいですか?」

「ああ」

「わかりました」

 始末書なのだから、反省文欄は記入しなくてはならない。美咲はよくわからないが、佐々倉だけでなく、顧問の教師にもまわっているのではないかとささやかれている、重要なものだ。

 始末書には見向きもしないくせに、呼び出せば、駿河はなぜかこうして必ず指導室へ訪れるのだ。

 指導室に来ない生徒も多い。いわゆるヤンキーと言われる生徒たちは、絶対と言っていいほど来たことはない。

 駿河も、ヤンキーとよばれるカテゴリーの中の一人。それも、古い言葉で表すならばこの学校の番長と呼ばれる存在の生徒だ。

 指導室に来てくれるなら、髪や服装を改めてくれればいいのに。

 美咲は、もう何度そう思ったかしれないことを心の中でつぶやきながら、最終確認である風紀担当者の欄に自分の名前を記入した。

 それを確認するのを、待ってましたとばかりに、

「じゃ、もう帰っていいんだな?」

 と、言うと同時に、席を立つ駿河。

 本当はよくないんですけれども。と、思うも、駿河を相手に風紀指導なんて、美咲にできるわけがない。こうして毎回呼び出しているのでさえ、おっかなびっくりでこなしているというのに。

「はい」

 もう、二度と来くるようなことをしないでください。

 そう、毎回思いながら、美咲は駿河の背中を見送った。

 美咲が、こうして毎回、駿河をかばうような真似をしているのには理由があった。

 駿河は今、二年生のクラスに在籍しているが、実は三年生への進級時に進級できず、留年しているのだ。

 美咲は、駿河と同じクラスではないから詳細はわからないが、ケンカで相手に大けがを負わせて、本来なら退学だったかもしれなかったらしい。と、いううわさだけは聞いていた。

 そんな生徒なら、教師からの指導になればまた停学か、最悪で退学になってしまうかもしれない。

 高校を退学なんてしたら、駿河の人生はどうなってしまうのだろう。

 本来なら、もう佐々倉に相談するべきなのだろうが、そんな駿河に引導をわたすようなことはできないと美咲は思い、相談すらできないでいたのだった。

 時間にして、駿河が指導室にいたのは五分もあっただろうか。

 しかし、彼の存在はそれだけで威圧感があるのに、二人きりにならなければならないのだから、そうとう神経をつかう。

 憂鬱でならない時間は何倍にも長く感じ、どっと疲れてしまうのだ。

「はぁ……」

 美咲は、毎度のこととはいえ、慣れられない緊張から解き放たれた気持ちで、大きく息をはいた。

 そして、駿河の始末書の、風紀委員記入欄の、『改善指導』にチェックを入れた。こうしておけば、佐々倉に提出しても一応は『指導済』ということで処理されるからだ。



   *  *  *


「高野さん、ちょっといいかな?」

 ある日の昼休みの出来事だった。

 親友の麻里(まり)とお弁当を食べようとしていたとき、美咲は、教室に訪ねてきた佐々倉に呼び出された。

 三年生が訪ねてくるのだけでもめずらしいことなのに、来たのは誰でも知っている風紀委員長だ。

 しかも、佐々倉はメガネの奥の瞳が冷たそうなイメージだけど端正な顔立ちだし、成績も良いし、誠実そうだから付き合ったら大事にしてもらえそうと、女子生徒からの人気も高い。

 そんな佐々倉の登場に、クラスの女子たちが「佐々倉先輩だ!」と、ざわめいた。

 そんな中、『指名』をされてしまったのだから、いくら風紀委員だからといっても注目の的になっていることくらい、美咲にもわかっていて気恥ずかしかった。

「お弁当は持ってきていいから」

 と、教室から連れ出されたことが、一時の気まずさから解放されだけで、教室ではうわさの的になっているのではと、恥ずかしがり屋な美咲は、気がかりでならならなかった。

「ちょっと話そうか」

 そう、佐々倉に言われ、指導室に連れていかれた。

 指導室には、真ん中にいつも風紀指導で使っている、向かい合わせになった机と椅子がある。美咲はてっきりそこで話をされると思っていたら、

「とりあえず、こっちにおいで」

 と、壁際に置かれた、二人がけのソファを指さされた。

 美咲は一瞬「えっ?」と、とまどったが、

佐々倉がソファに座ってしまったので、おずおずと隣に腰かけた。

 美咲は標準よりも細い方だけれど、二人がけなので、少しでも気を抜いたら、佐々倉にふれてしまうそうだと、できるだけ端に寄った。

 美咲が体をこわばらせているというのに、佐々倉は何とも思っていないかのように、リラックスしていた。

「時間制限もあるし、食べながら話そうか」

 と、佐々倉は購買で買ってきたと思われる菓子パンと缶コーヒーをひざの上に置いた。そして、「早く食べないと、昼休みが終わってしまうからね」と、パンの袋を開けた。

「はい……」

 美咲も、持参してきた弁当箱を開けた。

「お弁当、自分で作ってるの?」

 佐々倉にのぞきこまれ、美咲はすごく恥ずかしく、弁当箱のふたをしめてしまいたくなった。

 白いごはんの横には、卵焼きと母親が作ってくれた昨晩のおかずの残り物と、冷凍食品のハンバーグとプチトマトと漬け物。

 たしかに美咲の手作りだが、手抜きもいいところだったし、なによりも、大好きだからと言って毎回入れている、漬け物が恥ずかしかった。

 中学に入学したときに同じクラスになり、ヴィジュアル系バンドが好きということで意気投合して以来、なんでも相談できる大親友になった麻里にも「ばばくさい」と、よくからかわれていたが、本当のことだと、痛感した。

 せめて、小粒の梅干しにしておけばかわいかったかもしれないのに……。

 美咲がそんなことを思っていたのに、佐々倉は、

「えらいね。卵焼き、おいしそうだ」

 と、言い、「俺、卵焼き好きなんだよね」

と続けた。

 ほめられると、美咲も素直にうれしいと思った。

「あの、よかったら食べます?」

 一応、という感じで言ってみると、

「いいのかい? じゃあ、いただくよ」

 と、本気にされてしまった。

 正直、美咲は料理上手というわけではないから、他人(ひと)に食べさせられる味付けか自信がなかった。

 どうしようと思っていても、言ってしまった手前、しかたなく弁当箱のふたのうえに卵焼きを一つ置いて佐々倉に差し出した。

「あまり自信はありませんが……」

 ポンと、弁当箱のふたの上に乗せられた卵焼き。焦げたりはしていないが、適当に作ったものだ。こうしてみると不格好でなおさら恥ずかしかった。

 しかし、佐々倉は手で卵焼きをつまむと、一口でそれを食べた。そして、

「甘いんだね。おいしい。俺も実は甘いの好きなんだよ」

 と、味もほめた。

「そうですか。よかったです!」

「卵焼き。他にレパートリーある?」

「レパートリーですか? そうですね。しょうゆ味とか、ネギ入りとか好きで作ります」

「ネギ入りか。たしかにおいしそうだ。それも食べてみたいものだ。そうだ。今度作ってきてくれないかい?」

「え?」

「迷惑ならいいけれど」

「いえ! 迷惑なんて。わかりました。練習してきます!」

「わざわざ練習? 僕のためにかい? それはうれしいね。ありがとう」

 佐々倉は、うれしそうに優しい笑みを美咲に向けた。

 そして、

「ところで、本題なんだけど」

 と、メガネの中央のブリッジ部分を指で押しあげる仕草をしながら切り出した。

「はい」

「高野さん、駿河真とのマンツー多くないかい?」

「……そ、そうですか?」

「駿河は、入学したころからああだ。それに高野さんも知ってると思うけど、ケンカで留年している、ともて危険人物だ。もう高野さんの手におえなくなってきてるんじゃないのかい?」

「……」

「もし、そうなら俺が代わりに風紀指導してあげるよ?」

「いえ。大丈夫です」

 多分……と付け加えたいほど、正直自信はなかったが。

「本当かい? 駿河はケンカっぱやいことで有名だ。何かされる前に俺が言って――」

「本当に大丈夫です。駿河さんはたしかに校則違反が多いですが、呼び出しにはちゃんと来ますし。特に何もされてませんから」

「だが、何かされてからでは遅いんだよ? 俺は、高野さんが心配で、こう言ってるんだよ」

「ありがとうございます。もし、わたしでは無理だと思ったら、佐々倉先輩に言います」

「そうかい? 必ず俺に言うんだよ?」

「はい」

「俺は高野さんが心配で――」

 そのとき、昼休み時間終了のチャイムが鳴り、佐々倉の言葉をさえぎった。

「もうタイムリミットか。卵焼き、ごちそうさま。今度は、ネギ入りを頼むよ。って言ってもいつになるかな? 俺も、一応受験生だから、昼休みも補習があるんだよね。だから残念ながら、ときどきしかこれないんだ。だけど、また一緒に食べてくれるかい? 高野さんとは、もっといろんな話がしたいし」

「はい」

「じゃあ、携帯のアドレス交換しようか。三年の俺が、いちいち君の教室を訪ねたら迷惑だろう?」

「そ、そんな! 迷惑なんてことはないですけど――」

 また騒がれるのはたしかだろう。

「では、わたしのアドレス送ります。先輩、赤外線使える機種ですか?」

「ああ、使えるよ」

 そう言って、佐々倉は自分のスマートフォンを美咲に向けた。

「では、送信っ」

 美咲は、スマートフォンの赤外線機能で、自分のアドレスを送った。

「あ、来たよ。では、俺のも送るね」

 次は佐々倉が操作する。すると、一瞬で美咲のスマートフォンの画面に佐々倉の電話番号とメールアドレスが表示された。

「来ました! ありがとうございます」

 美咲は、スマートフォンの電話帳に『佐々倉先輩』と登録し、おじぎをしながら礼を言った。


 放課後、麻里と一緒に帰る支度をしていると、美咲のスマートフォンにメッセージ受信を知らせるライトが光った。

 画面をタッチしてみるなり、美咲はつい、大きな声を出してしまった。

「麻里、どうしよう! メールきちゃったんだけど!」

「だれから?」

 教室には、まだクラスメイトが数名残っている。聞かれてはやっかいだと、美咲は麻里の耳元でささやいた。

「佐々倉先輩!」

「は!? なんで? いつのまにそんなことになってんの!?」

 美咲が佐々倉のことを尊敬していることは麻里も知っていたが、奥手の美咲がもたもたしているせいで、美咲と佐々倉はまだ風紀委員の先輩後輩の間柄はず、と、麻里はやきもきしていたのだ。それが、いつのまにか進展していることに驚いた。

「とりあえず、読もうよ。なんて書いてあるの?」

「そ、そうだね。えとね――」

 画面を指でスライドさせると、佐々倉からのメッセージが表示された。

『今日もおつかれさま。気をつけて帰るんだよ。俺は、これから塾でまた授業があるけどね』

「――だって。どうしよう。なんて返したらいいかわかんない」

「ええと、とりあえず、勉強がんばってください、とかでいいんじゃない?」

「そ、そだね。うん、そうする」

 麻里の言うとおり、『勉強がんばってください』と打ち、メッセージを返した。

「まさか本当にメールがくるなんて思ってなかったからびっくりした!」

「わたしは、美咲があの佐々倉先輩とメル友なのがびっくりよ!」

 美咲と麻里がそう言って騒いでいると、美咲のスマートフォンにまたメールの着信があった。

 差出人は、佐々倉だった。

『ありがとう。きみとの時間を作るためにもがんばるよ』

 と、メールには書いてあった。

「きみとの時間て何!? ちょっと、どういうことなの!?」

 興奮した麻里が、美咲につめよる。

「ちょっと待って。ちゃんと話すから!」

 教室では、誰かに聞かれたら騒がれるかもしれないから言いづらいと、美咲はとりあえず場所を変えようと提案した。

 そして、着いた先は、何度もおじゃましている麻里の家だった。

「ただいまー」

 そう言って、気が急いでいる麻里は、ポンポンと少し乱雑に靴を脱いで家にあがった。

 その麻里の後に、

「おじゃまします」

 と言って、美咲は麻里の家に入った。



「失礼しました」

 美咲は、ふう、と、ため息をつきながら職員室を出て、左右にスライドするドアを閉めようとした。

 その時、閉めているはずのドアをさえぎられた。

 気分が落ち込んでいて、どんよりと下を向いていたから、ろくに周りを気にしていなかったから、他にも職員室から出る人がいたことに気づかなく、驚いた。

「あ、すみませんっ」

 そう言って顔を上げると、そこには駿河が立っていた。

 美咲は内心、大の苦手とする相手だったことに、「うわぁ……」と 思いながらも慌ててもう一度彼に、「すみませんっ」と言って頭を下げた。

 駿河は相変わらず何も言わず、美咲に代わって職員室のドアを閉めた。

 下校時間を過ぎていたため、生徒は部活動をしているか、下校している。つまり、職員室前の廊下に二人きり。「じゃ!」とでも言ってそそくさと帰りたかったが、駿河相手にそう言ってもいいとは思えない。

 ここは、『失礼します』の方がいいだろうかと思っていたら、

「風紀委員サンが何の呼び出し? ずいぶん暗そうだったけど」

 と、駿河から話しかけられた。

 思いもよらないことに、美咲は驚いて目をぱちくりしながらも、

「あ、あの、中間テストの数学の点数が悪くて、先生に……」

 しどろもどろにそう答えた。

「そういやアンタ、いつも国語と英語は五十位以内に入ってるけど、数学では名前見たことなかったな」

 中間や期末テストの後には、成績の総合順位とともに、教科別のランキングも張り出される。

「あと、理科も入ってなかったよな。もしかして、理数系苦手とか?」

 美咲は、よく見てるなあと思いながらも、「はい」と、小さな声で答えた。

 美咲は、国語と英語は得意で、通知表も五の評価をもらっているが、典型的な文系のためか、理数系は二が並んでいる。数学は一になるギリギリなほど苦手で、今日もその話で数学の教師に呼び出されていたのだ。

 美咲が手に持っていたプリントが気になったのか、駿河が、

「アンタ、宿題出されたの?」

 と、聞いてきた。

「……はい」

 そのプリントは、補習を受けてもまだ成績の上がらなかった、いわば美咲専用ともいえる問題集だと教師から聞かされていた。そんなこともあって恥ずかしかったし、駿河はこわいしと思い、美咲が小さな声で返事をすると、

「どれ」

 と、美咲の心とはうらはらに、駿河が美咲の手からプリントを取り上げた。

「ああ、これか」

 そうつぶやきながら、駿河は二枚目、三枚目とプリントに目を通した。そうしてプリントを美咲に返すなり、

「アンタさ、この程度の問題が理解できてないって相当じゃね? 基本ができてないってことだろ? 一人でやっても、多分またできないと思うぞ」

 と、バッサリと言い放ち、美咲のと痛いところをついてきた。答える言葉もない。そんなことは美咲自身が一番わかっている。正直教科書や、授業中に板書されたのを、意味がわからなくてもとりあえず書き写したノートを見ても、補習にさえもついていけなかったのだ。どうしよう……と、ほとほと困っていたところだった。

「オレが教えてやろうか?」

 美咲は、聞き間違いかと思った。目をまるくして、「え?」と聞き返すと、

「基本から教えてやるって、言ってんの」

 と、駿河は言った。

 ヤンキーで名高い駿河だが、実はテストの成績では、いつも十位以内に入っている。

 周囲には、留年して二回目の二年生だからだとかうわさしている生徒もいるが、だからといって簡単にとれる成績ではない。美咲も思っているが、謎だらけの男なのだ。しかもヤンキーで見た目もこわい。そしてさらに同級生とはいえ、年上なのだから接し方もわからない。風紀委員としてなら、事務的に事を進めるだけなので、まだなんとか言葉を交わせたが、こういう生徒同士のシチュエーションでは、顔を見るのもこわいし、会話なんてできるわけがない。冷や汗こそかかないが、体が今にも震えだしそうなのだから。

 別のクラスだからというのもあるし、駿河はいつもの悪友メンバーと一緒にいるか、三年生か、二年生でも駿河と並んでも違和感のないような、大人っぽい雰囲気の女子生徒と話しているのを遠巻きに見かける程度だ。

 だから、風紀委員のこと以外で話しかけられたのも初めてだったし、美咲もまさか話しかけられるなんて思ってもみなかった。

 言われた言葉はちゃんとわかっている。でも、口には絶対に出せないが、「なんでですか?」という答えしかないし、なぜ駿河がそう言ってきているのか、彼の意図もわからない。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。

 駿河を怒らせないように、この場から一刻でも早く立ち去れる方法はないだろうか。

 そうするには、なんて言えばいいのだろうか。

 駿河のことはこわいし、困り果てているしと、美咲は、プリントを持つ手にも無意識に力が入ってしまっていた。プリントが、カサッと小さな音をたてていた。

 美咲がずっと無言でいると、

「その提出日って、いつまで?」

 と、駿河が聞いてきた。

 おそるおそる、美咲は小さな声で、

「あ、明後日まで、です……」

 と、震える声をおさえながら答えた。

「明後日か。じゃあまだ時間あるな」

 今日やれば間に合うな、などと、駿河はひとりごとをつぶやいた。

 そして、

「アンタ、もう帰っていいのか?」

 と、唐突に聞いてきた。

「あ、はい。もう……」

 美咲は、なぜそんなことを聞かれるのかわからないままもそう答えると、

「じゃあ、帰るぞ。近くのコンビニでプリントコピーするから」

 と、駿河は再び美咲の手から再びプリントを抜き取った。

 何が起きているのかついていけないでいる美咲は、「なんで?」「どうして?」と、頭の中がハテナマークに占領されていた。

「ほら、教室戻るぞ」

 そう言って、駿河は先に踵をかえした。

 プリントを取られたままであったし、その前に、「プリント返してください」なんて絶対に言えない美咲は、言われるがままに駿河の後について行った。

 階段を上ってすぐの、駿河の教室の前に着くと、

「ちょっと、そこで待ってろ」

 と言って、美咲がコクンと頷いたのを見届けた駿河は、自分の教室に入って行った。

 下校時間もだいぶ過ぎていたせいか、引き戸を開け放たれたために見ることができた教室内には、だれもいなかった。

 窓際の、一番後ろの席。

 ヤンキーに一番似合いそうな特等席が、駿河の席だった。

 授業中、机の上に片ひじを立てて、そこに顔をのせてボーっと外を眺めているか、ドカッと椅子にふんぞりかえり、一番後ろからクラスメイトや教師に、無言の威圧感を与えているのかの、どちらかなんだろう。

 美咲は、風紀委員という立場から、何度か駿河が教師から指導されているのを見たことがあったが、そのときの教師に対する態度を思いおこせば、後者の方だろうな。と、想像しながら、駿河と同じクラスでなくて良かったと思っていた。同じクラスで、席が駿河の前や隣だったとしたら……と、想像するだけでおそろしい。

 万が一、自分が駿河の機嫌を損ねるようなことをしてしまった日には、登校拒否か、保健室登校になりそうだと、美咲は本気で思ったほどだ。

 机の横のフックにぶらさがっていた、いかにも勉強道具は何も入ってなさそうなカバンを手に取ると、駿河はスタスタと美咲の方に戻ってきた。

 そして、廊下に設置されている、駿河個人のロッカーを開けると、教科書や体育の授業のための学校指定のジャージやらで、乱雑になっている中から、数学の教科書だけを抜き出し、さきほど美咲から奪ったプリントと共にカバンに入れた。

「さてと、次はアンタの教室行くか」

 そう言って、駿河は美咲の教室へと向かった。

 定期テストの順位表で、美咲のクラスを知っていたのだろう。美咲に確認することもなく、駿河は美咲の教室に向かった。

 駿河は、美咲の教室の前に着くと、

「ここで待ってるから、支度してこい」

 そう言って、教室の壁に背を向け、そこにもたれかかった。

 無造作にカバンを床に落とし、腕組みをしながら壁に寄りかかっているその姿は、何度も言うが本当にヤンキーそのもので、美咲にはものすごい威圧感があった。

 美咲は、「はいっ」と、返事をするのと同時に、教室の中に駆け込んだ。

 教室には、美咲の帰りを待っていてくれた麻里がいた。

「あら美咲、おかえりー。遅かったね。こってりしぼられた?」

 なんて言って席を立ち、微笑みながら美咲の方へとやってきたので、美咲は、

「本当にごめんっ! 今日は一緒に帰れなくなっちゃった。詳しくは帰ってから電話するから!」

 と、両手を合わせて平謝りをし、自分の席へと向かった。

 そして、机の中から今日の授業で使った教科書を全部カバンに入れ、最後にできたすきまに、ペンケースを押し込んだ。

 カバンのジッパーを勢いよく閉めると、もう一度麻里に、「本当に、ごめんね!」と言い、その重たいカバンを肩にかけ、駆け足で駿河の元に戻った。

 教室の中からは駿河の姿は見えなかったので、麻里は「どうしたんだろう?」と思いながらも、美咲が麻里との先約を断るのは初めてのことだったし、すごく急いでいた様子だったこともあり、ドタキャンでも怒るようなそぶりはみせなかった。

 そして、

「わかったよー。電話待ってるわー」

 と、声をかけ、そのまま美咲を見送った。

 バタバタと慌てて帰り支度をしていた美咲が帰って、嵐が去ったような静けさが教室内に戻った。

 美咲は、どちらかというと物静かで、おっとりとした性格だ。だから、あんな風に焦っているのはめずらしかった。

「なんだったんだろう?」

 麻里は、首をひねりながらも、「悪いことではありませんように」と、美咲の身を案じながら、自分も帰り支度をするために、さきほどまで時間つぶしに読んでいた少女マンガを閉じた。

 このとき、マンガなんか置いてすぐに美咲を追いかけていれば。

 のちに、そう思うことになるとは、夢にも思わなかった。


 麻里に申し訳ないと思いながらも、駿河のおそろしさにはかなわないと、美咲は教室を飛び出した。

「す、すみません。お待たせしました」

 美咲は、普段からテキパキできないタイプなせいもあって、マラソンでもしてきたかのように、少し息があがっていた。

 ただ、帰る支度をしてきただけなのに、なんでこんなに息があがるんだ? と、駿河は不思議に思った。

 それに、美咲の肩には、パンパンにふくれあがって、肩にくいこみそうなくらいに重たそうなカバン。

 その両方に駿河は、

「大丈夫かよ?」

 と、言って、美咲の肩からカバンを取り上げた。

 駿河は、基本、教科書類は持ち歩かない。だから、美咲がこんなに重いカバンを毎日持って通学していることを知り、根っからの真面目チャンなんだな。風紀委員は天職だろうなと、思った。

 同時に、教科書を持って帰るっていうことは、家で復習や予習なりの勉強をしているのだと推測できる。当然、数学の勉強もしているだろうはずなのに、なんであんな簡単な問題もわからないんだ? と、更に不思議に思った。

 一方、美咲は、またわけもわからずに、今度はカバンも奪われる。だが、何も言えないので、ただ黙って駿河の後を追った。

 美咲も標準くらいの身長で、決して小さくもなかったが、百八十センチ以上はある駿河とは、歩幅が大きく違う。

 一緒に校舎の玄関を出ても、一歩後ろだったはずが、二歩、三歩と美咲は遅れをとってしまった。だが、駿河はどんどん先へと行ってしまう。

 駿河のそばに行くのはこわいが、カバンとプリントを、美咲にとっては『人質』にとられているようなものだ。早歩きでもして追いつこうかと悩んでいたとき、駿河がふと立ち止まって振り返った。

「わりぃ。女は歩くの遅いの忘れてた」

 予期せずに謝られ、驚きとともに、美咲のほうこそ恐縮してしまって、

「とんでもございませんっ!」

 なんて、変になってしまった敬語とかけあしで、慌てて駿河の隣に着いた。

 すると、駿河はまた歩き出した。今度は、美咲に合わせているようで、美咲は、駿河の一歩後ろをキープできる歩幅だった。

 黙々と、二人で並木道を歩いた。

 いつも麻里と美咲いている道だが、麻里とはおしゃべりをしながらだから気づかなかったが、今は下ばかりを向いていたので、色違いのインターロッキングで規則的な模様を造り出し、きれいに舗装されているのが素晴らしいと感じた。

 ようやく学校から一番近くのコンビニに着くと、駿河は中へ入って行った。しかたなく美咲も駿河に続く。

 駿河はコピー機の前に行くと、美咲から奪ったプリントをコピーしはじめた。

 美咲にとって、内容の難易度がどうであろうとも、紙にすればたったの三枚。コピーはすぐに終わった。

「これの提出って、明後日のいつまで?」

「明後日の放課後までです」

「じゃあ、明日の昼休みまでに要点書いてきてやるから、やってみな」

「え?」

 思いがけないことを言われ、美咲はポカンとしてしまった。

「おい、聞いてるのか? バカでもちゃんとわかりやすく書いてやるから安心しな」

 駿河は、わざとバカにしたような口調で言ったが、美咲のためにしてくれていることだとようやく理解し、

「あ、ありがとうございます」

 と、美咲は深々と頭を下げて礼を言った。

「じゃあ、これ返すわ。あんまり詰め込みすぎるのもよくないぞ。適当にやれって」

 と、駿河はプリントと美咲の重いカバンを美咲に返した。そして、 

「したら、明日な。俺が教室に行ったら迷惑だろうから、昼休みに屋上に取りにこい」

 と、言った。

 たしかに、教室まで駿河にたずねてこられては、クラスメイトたちが何事かと思うかもしれない。駿河も他人から見た自分の印象をよくわかっているから、美咲を気づかって出した提案だった。

 ただ、この場にいるだけで精一杯だった美咲には、駿河がそこまで美咲のことを考えてくれていることをすぐに気づけなかったが、駿河の提案はありがたいと思った。

「わ、わかりました。明日、よろしくお願いします」

 再び、美咲が深々とおじぎをしながら礼を言うと、駿河は、

「じゃあな」

 と、美咲に背中を向けたまま、片手をあげて帰って行った。

駿河の姿が見えなくなって、ようやく美咲は「フウー」と息をはきながら、こわばっていた身体中の力が抜けていくのを感じた。

 しかし、今日はなんとか無事に終わったけれど、明日の昼休みにプリントを取りに屋上へ行かなければならないことに気づいた美咲は、麻里にアドバイスを求める、泣きの電話を入れたのであった。


 翌日の昼休み。

 美咲は、この時間がくるのがこわくて、昨夜はあまり眠れなかった。

 電話で麻里に相談したら、麻里は一緒について行ってあげると言ってくれて心強く思っていたのだが、頼みの綱の麻里が、今朝になって風邪をひいてしまい、熱が三十九度も出てしまったから学校へ行けなくなったと美咲に電話してきたのだ。申し訳ないと謝罪する麻里の声はつらそうにかれた声で、美咲は自分ひとりでもなんとかできるから大丈夫、早く身体を治してと、強がった。

 麻里からは、高熱でもうろうとしているだろうに、一生分ではないかと思うくらいの謝罪と、心配をするメールが何度も美咲に届いた。

 麻里からのアドバイスは、まるでお願いのようなもので、

『絶対に、駿河さんを怒らせないように気をつけて、プリントをもらったらソッコーで教室に戻ってくるきて!』

 だった。

 昼休みの屋上は、駿河以外のヤンキーたちもたむろしている、危険な場所だからだ。

 麻里には強がったものの、刻一刻とせまってくる約束の昼休みが近づくにつれ、美咲の方も倒れてしまいそうなくらい、緊張で胃が痛んだ。顔面蒼白で、友達にも保健室をすすめられたほどだった。こうして心配してくれら友達に頼めば一緒に屋上へ行ってくれるとは思ったが、風紀委員がヤンキーと関わりがあると誤解されたりしたら、話がややこしくなりかねない。美咲は覚悟を決めて、ひとりで屋上で待つ駿河のもとへ行こうと席を立った。

 美咲の心を反映するかのように、重たい屋上への扉を開けると、数グループのヤンキーたちがたむろしていた。そんな中に風紀委員が入って行ったのだ。グループの中のひとりが美咲のもとにやってきて、からむように声をかけた。

「風紀委員さんじゃねーの。こんなとこになんのご用ですかー?」

 駿河ほどではないが、声をかけてきた男子生徒も、美咲にとってはこわい存在だった。

「ねー、聞いてる? 無視?」

「昼メシ時だっていうのに、熱心に風紀指導ですかー?」

 最初の男子生徒に続いて、他の男子生徒まで美咲にからんできた。

 どうしよう。このまま教室に戻った方が安全なのでは? と、そう思ったときだった。

「美咲は、俺サマの客だ。手出しすんじゃねーよ」

 美咲の背後から、駿河の声が聞こえた。

 駿河は、この学校の中では一番強いといううわさは本物だった。

「駿河さんの客でしたか。すいません」

 そう言って、美咲にからんでいた男子生徒たちは、そそくさと自分たちのグループへと戻って行った。

「嫌な思いさせちまって悪かったな。ま、こっちにこいよ」

 駿河はすまないと謝りながらも、緊張して硬直していた美咲の腕をつかむと、ツカツカと仲間のいる場所へと歩きだした。腕をつかまれている以上、美咲もあとをついていかなければならなかった。本当は、早くプリントをもらって教室に戻りたかったのに。

 駿河に連れて行かれた先で待ち受けていたのは、これも風紀委員会のブラックリストに載っている二人の男子生徒だった。

「こっちのワンレンの方が翔平で、パーマ頭の方が竜司。俺のダチだ。二人とも三年だけど、気ィつかわんでいいから」

 駿河は自分の仲間を紹介すると、美咲に、

「まあ、座れや」

 と、仲間に入るようにすすめた。

 昼休みだから、当然、昼ごはんを食べに来ている。翔平と竜司も、購買で買ったであろう、パンにかぶりつきながら、

「アンタが真の言ってた美咲ちゃんか。けっこうかわいいじゃん」

「へー。ホント真面目で風紀委員がお似合いって感じな子だな」

 と、それぞれ美咲を品定めするかのように感想を言いながら見上げた。

 駿河だけでもこわいのに、その仲間まで現れてしまっては、美咲は恐怖に耐えきれず、足が震えだしてしまった。そんな美咲におかまいなしに、駿河は自分の着ていたブレザーを床に置くと、美咲の腕をひっぱってその上に座らせた。そうして、駿河自身は、直に床に座った。

「真クン、優しー」

 駿河の仕草を見て、翔平がはやしたてた。

「うっせぇ。早く食え」

 駿河は翔平の頭を軽く叩くと、用意していたパンの袋に手をかけた。開けようとしたその瞬間、ハッと気づいたように手を止めた。

「美咲、おまえ昼メシは持って来たか?」

「……いえ」

 プリントだけ取りに来たのだ。お弁当なんて持って来ているはずがなかった。

「じゃあ、これでも食ってろ」

 駿河は、まさに今、袋を開けようとしていたパンを美咲になげてよこした。

「翔平、おまえ、こんなに食えんだろう? ひとつよこせ」

 と、翔平が無造作に床に置いていたサンドイッチを奪った。

「あ! それ、俺が最後に食べようとしてたやつ!」

「パンふたつも食えば十分だろ」

 翔平の抗議に耳をかさず、駿河は翔平のサンドイッチを開けてほおばった。

「美咲ちゃん、真になんか言ってやってくれよー!」

「え?」

 突然、翔平に話をふられて、美咲はドキリとした。美咲は、駿河と翔平がやりとりをしている間もずっと緊張して震えたままだったし、自分がこの場にいることに違和感を感じていた。あと、駿河のブレザーの上に座っていたら、汚れたりシワになってしまうのではと、思っていて、気が気でなかったのだ。

 その時、竜司が、

「アンタさ、風紀イインチョーとどういう関係?」

 と、唐突に聞いてきた。

「え?」

「カマトトぶってんの? あの委員長と付き合ってんのかって聞いてんの」

 意外とフランクな話し方をしてきた翔平と違い、竜司は見た目通りに強い口調だ。美咲は尻込みしながらも、

「ええっ? つ、付き合ってないですよ! なんでそんなこと……」

 と、全力で否定した。

 ヤンキーたちの間では、美咲と風紀委員長である佐々倉と付き合ってると勘違いされているのだろうか。美咲は、これはなに何かを探られているのだろうかと思った。だが、

「だってさ、真。よかったな!」

 と、竜司が駿河の肩を軽く叩いた。

「あんなダザメガネと付き合うヤツの気がしれん」

 と、はじめから興味などないといった顔をする駿河。

 美咲が思っていたものとは、話が違う方向へと向いてきていた。さらに、

「わけわかんないって顔してる。美咲ちゃんって、けっこうにぶいね」

 と、翔平が缶コーヒーをすすりながら美咲に言った。

「え?」

 翔平の言うとおり、本当にわけがわからない。美咲があたふたしていると、駿河が割って入った。

「美咲が気にすることじゃない。おまえらももうやめろ。あのダサメガネの話してたら、メシがまずくなる」

「まあねー」

「同感」

 竜司が同意して、どうやら佐々倉の話は終わったようだった。

 風紀委員の美咲を利用して、佐々倉の弱点でもさぐろうというような魂胆は、なかったようで美咲は安心した。

「そうだ、このプリント。要点まとめといてやったから、参考にしろ」

 駿河は、ズボンのポケットから四つ折りにしたプリントのコピーを美咲に差し出した。

「ありがとうございます」

 美咲は頭を下げて礼を言った。

「あ、それなにー?」

 すかさず翔平がプリントにくいついた。

「おまえには関係ない」

 と、一蹴した駿河に翔平は、

「あー、二人だけの秘密ってやつ? やだねえ、お熱いこと!」

 と、駿河をからかった。翔平は、また駿河に頭を叩かれていたが、それも覚悟の上なのか、それが当たり前のやりとりなのかは、美咲にはわからなかった。

 さて、プリントも手に入れたし、ここには用はないと、立ち上がろうとしたとき、

「美咲、明日から晴れた日は屋上に来い。俺ら、屋上でメシ食ってっから」

 と、駿河が言い出した。

「え、と、なんでですか……?」

「なんでって、アンタ、ほんとにぶいな。まあ、そんなとこが真のツボに入ったんだろうけど」

 と、翔平がニヤニヤとしながら駿河の方を見た。駿河は、「うるせえ」と、また翔平の頭をどついた。

「委員長には、内緒だよ」

 竜司が、背中を凍りつかせるような低い声で、そっと美咲に耳打ちした。

 今の美咲に拒否することなんてできない。強引に、駿河たちとお弁当を食べる約束をさせられてしまったのだった。



「麻里どうしよう……」

「どうしたのよ?」

 プリントの件しかり、昼休みの件しかり、最近の美咲は、よくこう言って泣きついてくるので、麻里は、「今度は何?」と言った風に聞き返した。

「明日、駿河さんの家に行くことになっちゃったよ……」

「えー!? なんで! どういうこと!?」

 思いもいなかった美咲の言葉に、麻里はつい、声が大きくなってしまった。すぐに、口元に人差し指を立てて、シーッと静かにしてという美咲の仕草に、平常心を取り戻した。

「駿河さんが、数学教えてくれるって」

「なんで!?」

「わたしが、あまりにも数学のデキが悪いからって」

「それはそうだけど、なんで駿河さんが教えてくれることになるの?」

「わかんない。ただ、教えてやるからって言われて……」

 美咲には、プリントの件といい、なぜ駿河が自分に数学を教えると言い出したのか、見当もつかなかった。駿河の美咲に対する気持ちにはちっとも気づかず、駿河にはなんのメリットもないのにとさえ思っていた。

「駿河さん、いつもテスト上位だもんね。でも、なんで家? 学校じゃダメなの? ほら図書室とかは?」

「図書室は、聞いてみたんだけど、俺みたいなのが行ったら浮くだろ? って……」

「たしかにねえ。教室は?」

「教室でもいいけど、わたしが注目の的になってもいいのか? って……」

「それで、家ってわけ?」

「うん……」

 事のいきさつを話し、自分ではどうしたらいいかわからなくなった美咲は、麻里のアドバイスを求めた。

「もう、駿河さんが、何考えてるかわかんないよ」

「美咲、家は行かない方がいいと思うわ。だって、あの駿河さんよ? おとなしく勉強すると思う?」

「わたしもそれ思った」

「でしょ? 絶対、ヤられるわよ!」

「……」

「エッ――」

「わーっ! わかってるって! 言わなくてもいいわよ!」

 恋愛経験のない美咲には、その言葉だけでも赤面ものだった。

「わかってないから言ってるんじゃない! いいの? 美咲は佐々倉先輩が好きなんでしょ? それなのに駿河さんとなんて」

「べ、別に、佐々倉先輩のことは好きとかじゃないよ。ただ憧れてるだけで」

「それを好きって言うんじゃない!」

「そうなのかなぁ。そういう風に考えたことないけど」

「もう、じれったいわねっ! じゃあ、想像してみたら? 付き合うとしたら、佐々倉先輩と駿河さん、どっち?」

「えー! そんなの急に言われても……。つか、なんでその二人限定なのよ?」

「たとえばの話でしょ。さ、どっち?」

「うーん」

 佐々倉のことは尊敬している。風紀委員の仕事のことや、他にもいろいろと相談にのってくれて、美咲にとっては、いいお兄さんのような先輩だ。

 一方、駿河は、ヤンキーだけど意地悪なことはされない。同じ学年でも、駿河は留年しているから年は一つ上だし、クラスも違う。それなのに、なぜかかまわれるし、今回ように、勉強を教えると言い出したりと、意味がわからない。しかも、場所は駿河の自宅だ。麻里の言うように、裏の意味のほうを考えてしまうはあたりまえだ。

 美咲は男子と付き合ったことがないから具体的にはわからないが、高二ともなればまわりの友達の話からどういうものなのか、だいたいの知識だけはあった。だが、中学生のころに友達のだれかが言っていた、

『付き合ってるんだったら、最後までするのはあたりまえ』

 と、いう言葉に驚愕したのも事実だ。

 美咲も、好きな男子がいたこともあった。それに、まわりの友達のように彼氏は欲しいと思っている。でも、そういう大人の付き合いをしたいかと問われれば、ただでさえ内気な性格なのに、未知の世界の恐怖に、さらに臆病になってしまうのだった。

「断れないの?」

「う、ん……」

「そうよねぇ。あの駿河さんを怒らせたらと思うと断れないわよね……」

 美咲の性格は麻里もよくわかっている。どうしたらいいかと少し考えた後、

「わかったわ。明日は、絶対、リビングで勉強教えてもらいなさい。リビングなら家族もいるだろうし!」

 と、名案でしょう? と言うように提案した。

「そうだね! そうする!」

 美咲は、それならば大丈夫そうだと、少し

不安がぬぐえたような気がした。


 待ち合わせは、駿河の家の最寄りの駅。

 美咲は待ち合わせ時間よりも十分も早く着いたというのに、もう駿河が待っていた。

 今までは、制服姿しか見たことがなかったが、駿河の私服は、レザージャケットにTシャツ。そして、腰履きのジーンズと美咲の想像するヤンキーの私服よりはシンプルだったが、後ろポケットに入れた財布からジーンズに連なるチェーンがゴツくていかにもヤンキーと言う感じを受けた。

 それだけならまだよかったのだが、駿河がかけてきたサングラスが、より一層美咲の恐怖をあおった。

 あの駿河さんを待たせちゃうなんて。もっと早く家を出ればよかった。

 美咲は、しまったと思いながら、おそるおそる駿河のもとへと走った。

「す、すみません。お待たせしてしまって」

「いや、まだ時間前だ。やっぱ予想通り早く来るのな。俺も早く来て正解だったよ。ここらへん土地勘ないからどこで待ってればいいか困っただろう?」

 そう言われてみればそうだ。駅で待ち合わせと言われても、駅のどことは打ち合わせていなかった。土地勘のある駅なら、モニュメントの前など、言わなくても地元ならではの場所があるのだ。もし駿河が来ていなかったら、美咲は間違いなく迷っていただろう。

 色の濃いサングラスのせいで、駿河の表情が読めない。こわくて、何か理由を考えて帰りたかったが、駿河が、

「さ、行くか」

 と言って、歩き出してしまったので、言い出せなかった。

「は、はい……」

 美咲は置いて行かれたら迷いそうだと、先を行く駿河の一歩後ろをついて歩いた。

「その格好、意外だったな」

 と、急に美咲の服装についてふれられた。

「美咲のことだから、ワンピースにカーディガンとかかと思った」

 そして、「ま、その格好も似合ってなくはないけど」と言ってまた前を向いて歩いた。

 美咲の今日の服装は、膝に届きそうなくらい丈が長く、かつ、透け感が全くない厚手の青のチュニックに、黒のスキニーパンツだった。

 変だったかな? と美咲は思った。

 それは着慣れていないせいもあった。駿河の言ったワンピースにカーディガンほどお嬢様っぽい服装ではないけれど、だいたいスカートが基本だった。

 それを、

『いい? 少しでも女の子らしさを見せたらダメよ。スカートなんて履いて行ったら、絶対アウトよ! スキニーにしなさい。あと、座ったときに腰が見えないように、上は丈の長いのを着ること! できるだけ露出は控えて。タートルネックにしてもらいたいところだけど、バストが強調されたら意味がないから、ゆるめのチュニックにしなさい。でも、透けないようしっかりとした生地のね!』

 と、麻里からのアドバイスで決めた服装だった。スキニーパンツなんて持っていなかったので、慌てて麻里と買いに行ったから、初めて履いたのだった。

「着いたぞ」

 そう言われたところは、とあるアパートの前だった。

 駿河は、ジャラジャラとつけた鎖から鍵を取り出し、アパートの一階の角部屋の鍵を開けた。その行動に、

 鍵? まさか家に誰もいないんじゃ……。

 と、美咲は不安を覚えた。

 ガチャリと鍵が開く音に震えた。

 玄関の扉を開いた駿河が、

「どーぞ」

 と言って、部屋に入るよううながすので、美咲は駿河がこわくて断ることもできず、しぶしぶ中へと入った。

「おじゃまします……」

 美咲がそう言って玄関に入ると、後ろから駿河が、

「さすが。礼儀正しいね。でも、だれもいないから気兼ねなく座ってて」

 と、一瞬で身が凍りつくようなことを言った。

 美咲は、一縷の望みをかけて、『今は』だれもいないだけだろうと駿河に問いかけた。

「あの、ご両親は……?」

「ああ、俺、ここで一人暮らししてっから」

「え……」

 見渡せば、玄関を上がるとすぐキッチンやリビングがあった。リビングにはガラス製のローテーブルのほかにベッドも置いてあったから、部屋はこれ一つなのだろうと想像できた。

 どうしよう……。こんなとこまでのこのこついてきちゃって……。リビングでならって思ってたけど、一人暮らしだなんて聞いてないよ。

 不安で硬直したままの美咲に、

「ほら、早く入って」

 と、駿河は美咲の腕を引っ張って、なかば強引に部屋に入れた。

 目に入ったベッドが、急に生々しく思え、いままでで一番の恐怖を覚えた。

 美咲は、ここで帰りますと言わないと後悔するかもしれないと思い、意を決して駿河に言おうとしたのだが、連れて行かれたのは意外にもローテーブルの前だった。しかも、ベッドとは一番遠い方に座らされた。

「コーヒー煎れるけど、って、美咲コーヒー大丈夫?」

「すみません。おかまいなく……」

「やっぱりね。美咲は、コーヒー苦手そうだし。紅茶買っといて正解だったな。今持ってくからちょっと待ってな」

そう言って美咲を座らせたまま、駿河は台所に立った。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを入れたヤカンをガスコンロで沸かす。しばらくするとヤカンがピーッと、沸騰したことを音で告げた。駿河は、ガスコンロの火を消し、美咲用に用意したマグカップにティーバックを入れ、ヤカンのお湯をゆっくりとそそいだ。自分用のマグカップには、インスタントコーヒーを慣れた手つきで瓶から直接、マグカップへと適当に入れていた。

「おまたせ」

 そう言って、駿河はマグカップに入れた紅茶を美咲に差し出し、自分用であるコーヒーをローテーブルに置いた。

 駿河は、美咲の真向かいにドカッと座り、コーヒーを一口すする。

 そして、

「じゃあ、さっそくはじめようか。教科書持ってきた?」

「は、はい」

 美咲は、緊張しながらもカバンから数学の教科書とノートを出してローテーブルの上に置いた。すると、駿河が美咲の教科書を取りあげて、パラパラと開きだした。そして今日教えようと思っていたページに到達すると、そのページを美咲に見せるようにしてローテーブルに置き直した。

「まずは、公式を覚えること。まあ、美咲の場合は公式を覚えていても、問題の意図がわかってないのかもしれないからな。俺がコツを教えてやる。たとえば、この問題の場合はこの公式を――」

 そう、駿河が説明をしながら勉強会が始まった。

 途中、駿河が再度入れてくれた紅茶での休憩を挟んだりもしたが、勉強中はほとんど私語もなく、勉強にあけくれた。

 気づけば、時計は夜の六時を指していて、来る前は駿河と二人きりなんて時間がもたないよと思っていた美咲も、『もうこんな時間経ったんだ』と、驚いた。

「ちょうど、腹減ったかと思ったら六時か。まあ、今日のところはこのへんでいいんじゃね? なんか質問あるか?」

「いえ、特にないです」

「そか。ちゃんと頭に入ったか? テストするぞ?」

 そう言って、駿河は美咲の頭をクシャリと撫でた。無骨なその手に、美咲はドキッとした。

「じゃあ、駅まで送ってくわ」

「いえいえ、一人で帰れます」

「女を一人で帰すのは男じゃねーだろ。ちゃんと甘えるとこは甘えとけ」

 そう言って、駿河はレザージャケットを羽織った。

 美咲も、ローテーブルに開きっぱなしになっていた教科書やノートを急いでカバンにしまい、席を立った。

 すると、残された二つのマグカップが美咲の目に入った。

「すみません。マグカップ、洗いますね」

 そう言って、美咲がマグカップを手に取ろうとしたら、駿河は、

「いいよ。あとでまた洗いモン増えるから一緒に洗うし」

「洗いものですか?」

「ほら、一人暮らしって、基本自炊だろ? だから俺はこれからごはん支度」

 そう言って、駿河は今日の晩ごはんの食材が入っているだろう、冷蔵庫を指さした。

「そうなんですか。すごいですね」

「なんもすごくねーよ。慣れだよ、慣れ。さあ、行くか」

 美咲にほめられたのがうれしかったのか、駿河は少しだけ照れたが、それを美咲に見せないように、急いで玄関へと向かった。

「はい」

 あわただしくなって焦ったが、美咲も後に続いた。

「じゃあな、気をつけて帰れよ」

「ありがとうございました」

 改札を出て電車を待っている間、美咲はハァと息をはいた。

 危惧していたことは何もなかった。勉強を教えてもらっていた間も、勉強に集中してはいたが、そのあと無事に帰してもらえるだろうかと、そのことは頭の片隅で常に思っていた。それが、なにもなかったのだ。ホッとするのは当然のことだった。


 美咲は自宅に帰って夕ごはんを食べ終わると同時に、二階の自室へと駆け上がった。

 母親から、

「なにそんなに慌ててるの?」

 と聞かれたが、

「麻里に電話するの!」

 と言った。

「麻里ちゃんと一緒だったのに? 何そんなに話すことがあるのかしら」

 と、母親は不思議そうに美咲の後ろ姿を見送った。

 母親には、今日は麻里と勉強会をすると言って家を出ていたのだ。つじつまが合わないことだったが、美咲は今まで両親を心配させるようなことはしたことがなかったし、学校では、風紀委員に立候補したくらいの優等生だ。母親は、今日のことは麻里の家に行くという嘘を信じていたし、まさか美咲が学校イチのヤンキーである駿河と二人きりだったなんて夢にも思ってなかった。

 美咲は、駆け足で階段をのぼり、一直線に自室へ入ると、カバンからスマートフォンを取り出した。

 駿河の家や電車内ではサイレントマナーモードにしていたため、スマートフォンの画面には着信やメールが何件もあった。見れば、それらは全部麻里からのであった。

 メールには、

『大丈夫? 襲われたら、タマ蹴って逃げるのよ!』

 とか、

『超心配! 早くメールか電話よこして!』

 などの、美咲を心配する内容が、数件送られて来ていた。

 受信時間を見れば、初めは一時間おきくらいだったのが、夕方に近づくにつれて間隔が短くなり、一日中美咲のことを心配していてくれていたのがうかがえた。

 そんな麻里に感謝しながら、美咲は麻里に電話をかけた。

 麻里の方は、本当に美咲からの電話を待ちきれなかったようで、わずかワンコールで麻里は電話に出た。

『美咲! 電話待ってたわよ! 大丈夫? 無事だった?』

 美咲の声も聞かずに、麻里はそう言ってきた。

 麻里からのメールは、電車を待っている間に全部読み終えて、

『さっき、駿河さんの家を出たよ。大丈夫。何もなかったよ』

 と、返信しておいたのだが、そのメールだけでは麻里の安堵は得られなかったようだった。電車を待っている間に電話してあげればよかったかなと思い、美咲は、

「電話、遅くなってごめんね。すぐ電話したかったんだけど、外で話せる内容じゃなかったから」

 と、開口一番に謝った。

『メールで、何もなかったって書いてあったけど、本当でしょうね?』

「本当よ。ずっと勉強を教わってただけ。途中で休憩もあったけど、特に何を話すでもなく」

『よかったー。それを聞いて安心したわ。それで? 駿河さんは手早そうだから心配で心配で。ちゃんと作戦通りリビングで勉強会できたんだ?』

「それがね、駿河さん、一人暮らしだったのよ」

『えー! 美咲アナタ、一人暮らしってわかっても駿河さんの部屋に入ったの!?』

「う、うん。びっくりしたし、初めはやっぱり帰ろうと思ったんだけど、強引に中に入れられて……」

『こわいー! それで?』

「部屋はリビングだけの一間って感じで、ベットもあったから超緊張したんだけど、ローテーブルのとこに座らされて、紅茶出してくれた」

『まさか、その紅茶に何か入ってなかったでしょうね!』

「ないない。駿河さんはコーヒー飲んでたんだけど、そのままそのローテーブルで教科書開いて、勉強会開始だったよ」

『マジで?』

「マジ。わたしも何かされたら逃げる覚悟でいたんだけど、本当に何もされなかったよ」

 そう電話口で言った瞬間、美咲は最後に駿河が自分の頭を撫でたことを思い出した。

 それを思い出している間、美咲が無言になってしまったので、麻里が、

『ちょっと! なんで無言になってんのよ? やっぱ何かされたんじゃないの!?』

 と、するどくつっこんできた。

「何もないって! 本当に、ただ勉強教えてくれただけだよ。帰りも駅まで送ってくれたし」

『あの駿河さんが? 信じられない!』

「わたしも信じられないけど、そうなんだって」

『へえ。駿河さんって、いろんな女とっかえひっかえとかってうわさされてるけど、デマなのかな? いや、美咲の服装に魅力を感じなくて、今日はそういう気分じゃなくなったとかじゃないの?』

「あはは。何それ。でもそうかもね。服のことは最初に言われたよ。わたしなら、ワンピースにカーディガンを羽織ってそうなイメージだったって」

『ほら! やっぱりあの服装のおかげよ! わたしに感謝しなさいっ』

「ありがとう。あとたくさん心配してくれてありがとう」

『どういたしまして。でも本当に心配で、気が気じゃなかったわよ。美咲が無事でよかった』

 そう言った麻里の声が、やっとホッとしたというような感じで、美咲は再度、

「ありがとう」

 と、心からの礼を言った。

『それで? 駿河さんとの勉強会とやらはどうだったのよ?』

「それがね、すごく教え方が上手くて、今までさっぱりわからなったところも、なるほどって、理解できたの」

『へえ、駿河さんはダブりだから成績良いのかと思ってたけど、本当に頭良いのかもね』

「うん。そうだと思う」

 美咲たちの通う高校は、私立の中学から高校、大学までエスカレーター式だ。だが、中学受験はそんなに易しくはなかった。難関校とまではいかないが、それなりに良い成績をとらなければ入試を突破できない。

 駿河が退学ではなく、停学と留年で済んだのは、親が学校に多額の寄付をしたといううわさが大々的に広まっていたが、一方では、駿河の優秀な成績もあったという、うわさも美咲は耳にしたことがあった。

 うわさは後者の方かもねと、美咲は駿河への見方が少し変わった。


 翌日の放課後、再び佐々倉が美咲の教室を訪ねてきた。

「高野さん、ちょっといいかな?」

「すみません、今日はちょっと用事が……」

「急用なんだ。頼む」

「用事って、わたしとショッピングなだけですから。先輩、どうぞ美咲をよろしくお願いします」

 ひょいと、麻里が美咲と佐々倉の会話に入ってきた。用事とは、麻里の言うとおりだったが、麻里の方が先約だ。

「麻里……」

 本当にいいの? というような顔を向ける美咲に麻里は、

「いいって! 佐々倉先輩の方が重要みたいよ! わたしとはいつでも行けるでしょ?」

 と、背中を押した。

「麻里、ごめんね」

「園田さん、といったかな? 急に悪かったね」

 佐々倉も知らなかったとはいえ、美咲と麻里の予定をキャンセルさせてしまったのだ。麻里に謝罪すると、麻里は、

「いえいえ、いいんです! じゃ!」

 と、邪魔者は消えるわとでも言っているかのように、そそくさと退散してしまった。

「場所を変えようか」

 と、佐々倉は美咲を風紀委員が使用を許可されている指導室へと連れ出した。

 指導室に入ると、ドアをしめるなり佐々倉は、

「高野さん、単刀直入に聞こう。昨日、高野さんと駿河が駿河の家の最寄り駅に一緒にいたといううわさは本当かね?」

 と、まるで尋問のように聞いてきた。

「えっ……」

「どうなんだね?」

 佐々倉の目を見れば、うわさで何もかも知っているのだと言っているように見えた。駿河のアパートは、それほど学校から遠くなかった。あの最寄りの駅を利用する生徒も少なくないのだろう。そのうちの誰かに、駿河と一緒にいるところを目撃されていたわけだ。

「……すみません。本当です」

 美咲は、観念したように肯定した。

 すると、佐々倉はショックを受けたかのように頭をかかえた。そして、

「なぜだ? なぜきみは駿河なんかを気にかける?」

 と、美咲に問い詰めた。

 どうしょう。勉強を教わっていたと言っても信じてもらえるだろうか?

 美咲がどう言おうか迷っているうちにも、

「高野さん、きみはもう駿河に関わらなくていい。担当は僕が引き継ぐ」

 と、佐々倉は、風紀委員長としてこれは決定事項だと言うかのように告げた。

「え、でも……」

 佐々倉に担当が代わってしまったら、駿河はすぐにでも退学になってしまうかもしれない。

 美咲は、どう言えば担当替えを撤回させらるか考えた。

 すると、佐々倉が、

「僕は、きみに駿河と二人きりになってほしくないんだ。この意味、きみならわかってくれるよね?」

 と言いながら、美咲の両肩をつかまえた。

「……」

 美咲が、佐々倉の言っている意味を理解しようとしていると、

「すまない。今のは立場を利用した卑怯な手だった。改めて言おう。僕はきみが好きだ」

 と、佐々倉は美咲に告白をした。

「え?」

「高野さん、きみが好きなんだ。僕とつきあってほしい」

 佐々倉は、真剣なまなざしで、もう一度美咲に好きだと告げた。

「……」

 美咲は、思いもしなかった、突然の佐々倉からの告白に驚いて言葉が出せなかった。

「当たらずといえども遠からずきみも、僕を慕ってくれていたと思っていたのは、僕の勘違いだったのかい?」

「いえ、わ、わたしは佐々倉先輩を尊敬してました!」

「尊敬。それだけかな?」

 徐々に、佐々倉が美咲に近づいてきた。心なしか、肩に置かれた佐々倉の手の力も強くなってきた気がした。

「ちょっと、せん、ぱい……」

「僕と一緒にいる方が、きみのためだと思うのは、かいかぶりかい?」

「そ、そんなことはないです。けど、ちょっと、せんぱい、近いです……」

「高野さんは、やっぱり男性経験がないんだね。震えちゃってかわいい」

「せんぱい……」

 佐々倉は、カタカタと震える美咲を、その腕の中に抱きしめた。

 普段は頼りがいがあって優しくて、安心する存在のはずなのに、今の佐々倉は違った。

 早くこの腕の中から抜け出したい。そればかりを美咲は思った。

 顔を佐々倉の胸に押しつけられていたために息苦しく、空気を求めて美咲が顔をあげた瞬間だった。

 なんの了承もなく、佐々倉は美咲にキスをした――。

 唇と唇が触れあっているという実感はあったが、びっくりしすぎて美咲は動くことができなかった。

 拒否をしないということは、了承とのばかりに、佐々倉はさらにくちづけを深くした。

両手で美咲の両頬を覆い、逃げられないようにして。

 美咲の口の中に、佐々倉の舌がねじ込んでくる。美咲の舌をからめとり、逃げれば執拗に追いかけてきた。

「うー! うー!」

 美咲は、やめて欲しいと声をあげたが、言葉にならなかった。

『キスは、イチゴの味だってよっ! 本当なのかなあ?』

 お互いにキス未経験者の麻里と、そんな話をしたことがあった。だが、今は、イチゴの味どころか、ぬるぬるとした佐々倉の舌の、気持ち悪い感触しかしなかった。

 いやだと顔を動かしてみたが、佐々倉は手を放す気などさらさらないようで、さらキスを深めていった。

 お互いの唾液が口腔内にたまっていく。美咲は吐き出したくてしかたなかったが、佐々倉が放してくれず深いくちづけをやめないために、嚥下するしかなかった。それも、とても気持ちが悪かった。

 何分の間、こうして無理矢理なキスをされていたのだろうか。いやでいやでたまらない美咲にとっては、もうとてつもなく長く、拷問でしかなかった。

 佐々倉のことは、本当に尊敬していた。佐々倉が女子に人気で、生徒会長や副会長に次いで、『彼氏にしたい男子ベスト三』にランクインされていることも知っていた。

『イケメンだし、銀縁のメガネが知的だし、優しく女の子をエスコートしてくれそう』

 だという理由だったが、今、美咲の前にいる佐々倉は、優しさのかけらもないように思えた。美咲の気持ちなんて考えず、ただ自分の欲求のみに従っている、ただの危険なオオカミ男だった。

 美咲だってもう高校二年生だ。つきあっていく男女がどこまで進むのかくらいは、だいたい知識としてはあった。マンガや小説で得たものだから想像でしかなかったけれど、最終的に何が待ちかまえているのかも。でも、キスがこんなに気持ち悪いとは夢にも思わなかった。キスでこんなに気持ち悪いなら、その先なんて絶対考えられない。

 気持ち悪さと、自分には恋愛ができないのかもしれないと思うと、美咲は、その大きな瞳から大粒の涙を流した。

 美咲の頬を伝った涙が、佐々倉の指に届いた。佐々倉の指がハラハラと流れてくる美咲の涙で濡れていく。それで失っていた理性を取り戻したのか、佐々倉はようやくくちづけをやめ、美咲を解放した。

 佐々倉が美咲の顔を見下ろせば、美咲は、さらに激しく泣き出した。

「高野さんっ、ごめん。まさか泣かせちゃうなんて。初心者のきみにはびっくりさせちゃったかな?」

 何も答えず、ただ泣きじゃくるだけの美咲に、クールで通している佐々倉もさすがに慌てて自分のハンカチを美咲に差し出した。

「ごめんね。こわがらせるつもりはなかったんだ。ただ、僕はきみのことが好きだって伝えたくて」

 佐々倉は、自らハンカチで美咲の頬をぬぐおうとしたが、美咲はそれを手でふりはらって拒否をした。拒否されるなんて微塵にも思っていなかったのであろう。佐々倉は、まいったなあとばかりに、前髪を手ぐしで後ろにやった。佐々倉は、『先輩』と慕ってくる美咲が、自分のことを好きだと思って疑いもしなかったのだ。佐々倉もそんな美咲をかわいい子だと思って狙っていた。だから、強引にキスにもっていけば、美咲も完全に自分に落ちるだろうと思って実行した。美咲の反応があまりにも初々しくて興奮したのと、美咲のまわりをウロチョロする邪魔な駿河の存在を消し去りたくて、多少はキスが深くなってしまったのかもしれない、と、佐々倉は自分の中でそう分析した。ここは普段やっているように、自分の中の『男』を見せず、優しく接して美咲の気持ちを落ちつかせなければならない。

 ずっとつかまえていた美咲の肩から手を放し、

「高野さん。もう何もしないから、泣くのをやめ──」

 そうなだめる佐々倉の言葉を振りきり、美咲は教室から飛び出した。

「高野さん!」

 背中から佐々倉の呼び止める声が聞こえたが、美咲は足を止めなかった。

 あんなのひどい! 佐々倉先輩のこと尊敬してたのに!

 美咲は、制服のジャケットの袖で涙で濡れた頬をこすりながら、まっすぐに自分の教室へと走った。カバンを取りに行くために。もう、一刻も早く、佐々倉のいるこの学校から逃げ出したかったからだ。

 全速力で階段を上りきった、そのときだった。

「おっと、あぶねーな! って、美咲じゃねーの。おまえ、何慌てて」

 ちょうど階段のそばにいた駿河にぶつかってしまった。

 普段なら、『あの駿河さんにぶつかってしまった。どうしよう!』なんて、おびえて足もすくむところだったが、今日の美咲は、

「すいません」

 と、ろくに顔も見ず、下を向いたまま一言謝っただけで、駿河の横をすり抜けようとした。だが、

「おい、おまえなんで泣いてんだよ?」

 と、駿河に腕を引っ張られてつかまってしまった。

「………」

 美咲は、何も答えなかった。そして、つかまれた駿河の手を振り払おうと腕を大きく振った。しかし、それだけでは駿河の手は放れてくれなかった。

 力では振り払えないと観念した美咲は、

「すいません。放してください」

 と、一言お願いをした。これだけでは叶うわけはないと知りながらも。当然のように、駿河は手を放さなかった。

「放せるわけねーだろ。泣いてる理由を言えよ。あ? 誰に泣かされたんだ? 俺が今すぐシメてきてやる」

 美咲の腕をつかむ手は優しいが、口調は強く、本当に相手が佐々倉だと知ると、佐々倉をボコボコにしてしまいそうな勢いだった。

「なんでもありません。だから、ケンカはやめてください」

「なんでもないやつが、そんな風に泣くわけねーだろが! 何があった?」

 駿河は、手を美咲の両肩につかみなおして問いただした。

「本当に、なんでもないですから、放してください」

 もう、これ以上誰とも関わりたくない。美咲は、両手で駿河の胸を押して逃れようとした、そのときだった。

「高野さん!」

 美咲を追ってきた佐々倉が、階段をのぼってきた。すぐに、駿河が美咲をつかまえているところが目に入った。

「駿河! きみ、何をしてる! 高野さんから離れろ!」

 そう怒鳴りつけながら、佐々倉は駿河の肩をどついた。そのひょうしに、駿河の手が美咲から離れた。

「いってーな! 何すんだよ! 調子にのってんじゃねーぞ、このメガネが!」

 駿河は、佐々倉にどつかれた肩を、まるで汚いものに触れたかのように手で払った。

 佐々倉は、その銀縁のメガネの中央ブリッッジ部分を指でクイっと上げると、人間のクズと言わんばかりに上から目線で駿河に言い放った。

「高野さんは、きみのような奴が近づいていい(ひと)ではないと、何度言えば理解できるんだね?」

「なんだと、コラ!」

 少しだけ背の高い駿河が、佐々倉を見下ろしですごんだ。

「不良は、すぐそれだ。さ、高野さん、行こう」

 佐々倉に手を差し出された瞬間、美咲はビクッと震えてしまった。そして、佐々倉から離れるように、少しずつ後ずさる。その美咲の仕草を見て、駿河はするどくハッとした。

「佐々倉! てめえだな! 美咲になんかしただろ!」

「きみには関係ないことです」

 佐々倉は、しれっと言ってのけた。だが、美咲の態度が嘘だと叫んでいる。

「てめえコラッ!」

 駿河は、右手に拳を作り、大きく振り上げた。

 佐々倉先輩が殴られる! そうしたら駿河さんが退学になってしまう! 佐々倉先輩の思う壺だ!

 佐々倉は、自分が一発浴びようが、日ごろから邪魔な駿河を退学に追い込みたかった。それがわかっているから、美咲は絶対に殴らせないぞとばかりに、駿河の右手に飛びついた。

「美咲……」

 突拍子もない美咲の行動に、駿河が目をまるくした。それは佐々倉も同じだった。

「高野さん? なぜ駿河をかば──」

「ケンカはやめてください!」

 瞳は涙で濡れていたけれど、キリッとした表情で美咲は佐々倉に言い放った。

「高野さん……」

「……」

 佐々倉が美咲に呼びかけたが、美咲は答えなかった。そのまま、自分の教室へと走り去った。

 取り残された駿河と佐々倉は、お互いににらみ合った。不穏な空気が流れる。一触即発かのように見えたが、佐々倉が沈黙をやぶった。

「今日のところは高野さんに免じてみのがすが、次は容赦しない」

「なんだと?」

 駿河は、今決着つけてやってもいいと言いそうになったが、そこは口をつぐんだ。ここで手を出したら、美咲の気持ちが無駄になってしまうと気づいたからだ。

「いいか? これ以上高野さんに近づくな。次は容赦しない」

 自制した駿河とは正反対に、佐々倉は挑発的なセリフをはいた。

 だが、そんな駿河はそんな佐々倉の挑発にはのらなかった。

「負け犬ほどよく吠える。早く帰れよ。下校時間過ぎてんだろ。風紀委員長サマよ」

 佐々倉よりも、今は美咲だと、駿河の心はすでに美咲を追っていたのだ。

 美咲を追っていたのは佐々倉も同じだったのだが、下校時間の規則を指摘されてしまってはもう、何もできなかった。風紀委員長自らが規則をやぶっては示しがつかない。美咲にひとこと言い訳をしたかったのだが、この場は立ち去ることにした。

 美咲と二人きりになったことで、今まで心の中でふくれあがっていた思いがあふれ、はやる気持ちでやりすぎてしまったと、佐々倉も思っていた。泣かせたかったわけではないのだ。一刻も早く謝罪と、告白の仕切り直しをしたかったのだが、佐々倉がいる以上今すぐには叶いそうにもない。

 美咲とは、携帯番号を交換している。電話には出てくれないかもしれないが、あとでメールだけでもして、美咲に謝罪と自分の思い伝えよう。それに、美咲とはまた委員会の仕事でだが、一緒になる機会がたくさんある。そのときに誠意ある行動をとろうと、佐々倉は踵をかえした。

 もっとごねるかと思ったが、佐々倉が意外にもあっさりといなくなったので、駿河は拍子抜けした。

 だが、それは、美咲の涙の原因が佐々倉であることを意味していることだと駿河は確信した。

「あの野郎、美咲に何しやがったんだ!」

 ふつふつとわきあがる怒りが、駿河の口から飛びだす。あのとき、美咲が止めようが佐々倉に一発おみまいしてやればよかったと悔しく思いながらも、自分の教室へと走って行った美咲を追った。

 駿河が美咲の教室へとたどりつくと、美咲は、まだ気持ちの整理ができていないのか、

幾重にもこぼれ落ちる涙を指でぬぐいながらカバンに机の中に入っている教科書ノート、筆記道具などを入れて帰り支度をしていた。

「美咲!」

 駿河は美咲のもとに駆け寄ると、美咲の肩をつかんで自分の方へと振り向かせた。

「……!」

 美咲は、その駿河の強引さに驚いてしまって、声も出せなかった。

「美咲、おまえ佐々倉に何をされた?」

 いきなり核心をつく駿河の問いに、美咲はビクッと身体を震わせた。強引にキスされたからなんて、美咲にとっては恥ずかしかったし、悔しくて言えない。それに言ってしまったら、駿河には「それは合意だったのか? なら、なぜ泣いている?」と、聞かれるだろう。

 美咲にとって、あれは合意のキスなんかではなかった。佐々倉のことは尊敬していたけれども、それには恋愛感情は一切なかった。

 あんなことをする人だったなんて思わなかった。

 美咲は、そんな佐々倉に対する失望と、初めてのキスが、あんなかたちで奪われたことへのショックで涙が止まらなかった。早く泣くのをやめないと、駿河に根掘り葉掘り聞かれてしまうのはわかったいたのだけれども。

「美咲!」

 今度は両肩を駿河につかまれて身体を揺さぶられた。そのたびに、うつむいたままの美咲の瞳からあふれた涙が床に飛び散るように落ちた。

 美咲のこぼす涙を見て、駿河はますます怒りがこみあげてきた。美咲にはまだ伝えていなかったが、美咲は自分のものにすると心に決めていた女の子だった。

 最初は、顔がかわいいなと思った。だが、それだけでは心は揺れなかかった。駿河の心を美咲が占めるようになったのは、震えながらも一生懸命に風紀委員の仕事をしようとしていることと、ヤンキーの自分なんかを一人の生徒として見てくれていることに気づいたからだ。そんな駿河にとって大切で大事な女の子が、泣かされている。それも、佐々倉という、男にだ。今すぐにでも佐々倉を追って殴りたいところだが、泣いている美咲を放ってはおけない。今は、美咲のそばにいるほうが優先だ。

 駿河は、自分が美咲にこわがられていることに気づいていた。そして、美咲は恐怖のあまり自分には「ノー」と言えないことにも。だから、それを利用して強引に勉強を教えたり、弁当を一緒に食べるようにしむけた。余計に美咲の恐怖心がふくらむおそれもあったが、怖がられているようではいつまで経っても美咲との距離は縮まらない。美咲の恐怖心を利用したのだ。卑怯かもしれないとは思ったが、強引に打って出たのは、駿河にとっても賭けだった。これで美咲が自分に少しずつでも心を開いてくれたら。そうして美咲との距離を十分に縮めてから、美咲の自分に対する恐怖心が消え去ってから、そのときがきてくれるのを待って、駿河は自分の気持ちを美咲に伝えようと思っていた。それほど美咲のことを、本当に大切に思っていたのだ。

 美咲は何も答えずに、さきほどからうつむいて涙を流しているだけだった。肩を震わせて、時折聞こえる小さな嗚咽が、まだ美咲の涙が止まらないことを示していた。駿河は、美咲の肩に置いていた手のひらに伝わる、美咲の小さな震えに、か弱さと同時に愛しさを感じていた。

 俺までもが美咲を傷つけてはならない。

 駿河は、美咲が何も言いたくないというなら、それでいい。泣きたいのなら、いくらでも、気の済むまで泣けばいいと思うことにした。佐々倉に対する憤りはこみあげる一方だったが、男に泣かされた女の子には、優しく見守ってやれる男になろうとしたのだった。

「美咲、ずっと立ちっぱなしだったら疲れるだろう? 涙が止まるまで座っていな」

 駿河は、そう言って美咲の席のイスを引くと、美咲に座るよううながした。美咲は、何も言わず、駿河の言葉に従った。美咲がイスに座ると、美咲の肩に置いていた手を放し、駿河は隣の席にドカッと座った。

 駿河は、いまだにシクシクと涙の止まらない美咲の頭をなでて、なぐさめてやろうかと手を伸ばしたが、寸前でその手を止めた。今は、男を見せない方が美咲のためと思って。

 しばらくそうしていると、美咲はハンカチで涙をぬぐいはじめた。美咲も、何も言わないくせに帰らずに、ずっとそばに座っている駿河の存在が気になりだしたのだ。多分、自分が帰らないと駿河は帰らないつもりなのかもしれないと。

 美咲の気持ちの整理はまだまったくつかないままだったが、いつまでも教室にいるわけにいかない。下校時間はとうに過ぎてしまっているのだから。このままでは、見回りの先生が来てしまう。

「駿河さん」

 美咲は、涙声で駿河を呼んだ。

「どうした? もう気が済んだのか?」

 やはり、駿河は美咲を待っていたのだと悟った。

「ありがとうございました。もうひとりで大丈夫です」

 と、美咲は強がってみせた。だが、目を真っ赤にはらしたその顔はまったく大丈夫には見えなく、

「強がってんじゃねーよ」

 と、駿河に指摘されてしまった。美咲がまたシュンと下を向いてしまうと、駿河は言い方がキツかったかと反省した。

「もう、帰れるのか?」

 今度は意識して優しい声色でたずねた。美咲は下を向いたままだったが、

「……はい」

 と、答えた。

「じゃあ、送ってやるから帰るぞ」

 そう言って、駿河は美咲のカバンを取りあげた。

「いいです。自分で持てます!」

「いいから。こういうときは甘えろ。さ、行くぞ」

 そう言って、駿河は教室を出て行こうとしていた。美咲は観念して、

「ありがとうございます」

 と、駿河の背中に向けて礼を言った。

 駅でベンチに座り、電車を待っているときだった。

 美咲がなにげなくスマートフォンの着信をチェックしようと、駿河に、

「あの、カバンから携帯を出したいんですけど……」

 と、頼んだ。

「ああ、出しな」

 駿河は、抱えていた美咲のカバンを差し出した。

「ありがとうございます」

 美咲はカバンを開けると、中からスマートフォンを取りだした。学校に持って来ていいが、授業中は電源をオフにしなければならない。音量をサイレントにして授業中もメールやゲームをする生徒もいたが、美咲は真面目な性格だから、校内では必要なとき以外は電源をオフにしていた。

 美咲は、その手に持ったスマートフォンの電源を入れた。すると、メールが何通か来ていた。麻里からのメール。そして、佐々倉からのメールもあった。件名に、『すまなかった』の文字があり、メールを開かなくても内容が謝罪であることは容易に想像できた。

 横から美咲のスマートフォンの画面が見えてしまった駿河は、我慢できず聞いた。

「佐々倉からメールがきているのか? あいつとアドレス交換しているのか?」

「はい。先日」

「あいつのアドレスは消してくれ。ついでにメールも」

「え?」

 美咲にとっても、佐々倉のアドレスなんてもういらなかった。けれど、それを駿河が消去を頼んできたことに驚いてしまった。うすうす佐々倉に何かされたことは感づいているかもしれないが。

「あいつのことだけは許せねえ。だから消してくれ」

 駿河の声色で、佐々倉に対する憤りを隠せないのがわかった。当然怒りもあったが、同時に嫉妬も駿河の心に広がっていた。こんなに心のせまい男だったかと、自分でも驚くほどだった。

「わかりました」

 美咲は、佐々倉のアドレスと、メールもすべて消去した。さきほど届いた未開封のメールも読まずに。

「すまない。美咲の携帯なのに無理言って」

「いえ、いいんです。わたしも消そうと思っていましたし。持ってたら、前に進めなさそうですから」

 そう言って、美咲はようやく駿河に顔を向けた。普段はぱちくりとしてかわいい大きな目が、泣かされたことによってかわいそうなほどはれている。駿河は、いますぐ抱きしめてやりたい衝動を、必死におさえた。

「そうだ。あんなヤツのことなんか忘れてしまえ」

「はい」

 一生懸命に、もう大丈夫だと伝えてくる美咲にけなげさに、駿河は心を打たれた。

「おまえには、俺がついてるから」

 ボソッと呟いた駿河の言葉に、

「え?」

 と、美咲は聞き返したが、駿河はもうそれ以上何も言ってくれなかった。

 聞き取れなかったわけではなかった。

 どういう意味だろう? と、美咲は考えたが、美咲も子どもではない。しかも、年上の駿河の言葉だ。その言葉どおりの意味なのだろう。今まで気にかけてくれたのも、駿河や翔平、竜司によって時折放たれる意味深な発言も、そういうことだったと考えていいのだろうかと思うと、美咲は一気に赤面してしまった。

 美咲が耳まで真っ赤にしているのに気づいた駿河は、自分の性格上言葉足らずだったのに、自分の思いが美咲にちゃんと伝わったのだと思って安心した。そして、これからは、もっと自分を意識してくれるだろうことを期待した。

 今は、以前のようにこわがらず、一人の男として見てくれるだけでいい。

 男によって傷つけられた美咲には、ゆっくりとその傷を癒す時間が必要だ。だから、じっくり攻めていこうと、駿河は真っ赤になっている美咲の横顔を愛おしそうに見ながらそう決意した。

 もう泣かせるようなことにならないよう、俺がおまえを守るからと、心に誓って。

 


(おわり)

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