ニューヨーク到着
2人は8月8日にニューヨークをやってきた。正樹が自分で言っていたとおり、8月7日まで官庁に行き家に戻ってきたのは8日の朝6時だった。引継ぎがあるからかえって先月は忙しかったと正樹は言った。二人はそのままスーツケースを持って空港に向かった。飛行機が離陸してニューヨークのJFK空港に到着するまでに正樹は眠り続けた。夏美は特に海外に住みたいと思ったことはなかったが、正樹が毎日深夜まで働き続けることから解放されるのならニューヨークも悪くないかもと思った。夏美は飛行機の中で、カズオ・イシグロの「私を離さないで」を読み続けた。正樹は飛行機が着陸した瞬間にちょうど目を覚ました。
「ずっと寝てたね」と夏美が正樹の髪の毛を触りながら微笑みかけた。
「もう着いたの?」と正樹が聞いた。
「着いたよ、ほら」と言って夏美が小さな窓の外を指さした。夏美が指差した先には、飛行機が2機隣通しで止っているのと空港特有の灰色のコンクリートがどこまでも伸びているのが見えた。すぐにシートベルトのランプが消えて乗客が待ち構えていたように我先にと頭の上のラックから荷物を降ろしていた。日本語と英語で乗継便の案内が客室内に流れる。
「英語全然わからない。勉強しなきゃ」と夏美が言った。
「俺と一緒に日本で勉強すればよかったのに」と正樹が立ち上がり荷物を降ろしながら言った。正樹は財務省に入省したときからずっと個人レッスンを受けてきた。
「ニューヨークで生活すれば自然にできると思ってたんだけど、着いたら急に不安になってきた」と少し舌を出しながら恥ずかしそうに夏美が言った。
「夏美なら何とかなると思うよ。昔から水泳もスキーもボードも俺がちゃんと教室に入って一生懸命練習したのに、夏美は俺がちょっと教えただけで、後は見よう見まねで俺よりすぐにうまくなってきたから」と正樹が言った。
「それは正樹の教え方がうまかったからだよ。それにスポーツと英語は全然違うから」と夏美が言った。夏美は英語の話をしているうちにますます不安になった。正樹が先に歩きだし、夏美はそのあとに続いた。2人は結局乗客の中で一番最後に降りることになった。出口のところで、よい旅を、と飛行中ずっと2人の担当だった日本人のキャビンアテンダントが声をかけて微笑んでくれた。夏美もありがとうと言い、飛行機を降りた。いい旅になるだろうか、と夏美は考えた。厳しい生活になるかもしれない、でも今まで通り正樹と一緒にいれば大丈夫、何があってもそれだけは忘れないようにしよう、夏美はそう思った。