瓶詰め猫
「歪んでいる」
瓶詰め猫は静かに言った。その声は鼓膜を揺らすのでなく、直接心に響いてくるような不思議な力を持っていた。
瓶詰め猫は瓶に詰められているのか自ら詰まっているのか。けれど入口を見ると、到底出入りできそうなサイズではない。瓶詰め猫はそれ一つで完成形なのだ。
ちょうどポストと同じくらいの背丈の瓶に、巨大な猫が上品に座っている。
「私を見て思うことはありませんか?」
老いた猫なんだろう。しゃがれた声で問った。
「そう、まず目だね。私の瞳は猫目石・キャッツアイだ。瞳孔に見えるのは、この石の持つシャトヤンシー効果が写しだすただの線に過ぎないのだよ」
瓶詰め猫の目は黄色かった。黄色に白い筋が入っている。
「私を見る者全ての方向を、さも私が見ているかのように見えるのだよ。さあ、私はどこを見ているのかな」
おかしそうに一匹で笑った後、瓶詰め猫は「歪んでいる歪んでいる」とぶつぶつ呟いて、再び言葉を続けた。
「さて、次に何を思うかね」
その生気の無い瞳の筋が、光に合わせて動く。
「ふむ、食生活」
瓶詰め猫は尻尾で瓶の底をぴしゃりと叩いて話を進めた。
「私は生まれてから死んでいくまで瓶詰め猫。瓶詰めの猫なのだよ。猫が食べるものは決まっている、そう魚だ」
瓶詰め猫はその身動きがとれないほどのサイズの瓶の中、微動だにせず大声をあげた。魚を食べることが、戦争の始まりや世界の終わりと同じくらい重要に聞こえる威圧感だった。
「しかし私は瓶詰め猫。生きた魚は食べられない。死んだ魚は鮮度が無い。だから食うのは溺れた魚だ」
尻尾は絶えず一定のテンポで瓶の底を打っている。
「溺れた魚は捕まえるのが簡単だ。暴れなくなったところを一つかみにすればいい」
そう言って瓶詰め猫は舌舐めずりをした。その魚のことを考えているのだろうか、空腹なのだろうか。瓶詰め猫の舌舐めずりは不気味だった。
「ところで、人間は飛び降り自殺する瞬間、何を考えるのだと思う?」
瓶詰め猫は話をがらりと変えて、我々人間の自殺について語り出した。
「飛び降りる前の一歩一歩は、見えない「死」に向かって歩んでいることと同じ。そして飛び降りた瞬間は、生きながらにして死をも垣間見ることになる」
どこを見つめているか分からない瓶詰め猫は、我々をくまなく観察しているようにも見える。私のことを見ているようにも、あなたのことを見ているようにも見える。
「人間は、猫もだけれど、地面に両足をつけているから立って生きることが出来る。でもそれがもし、足が離れてしまったらどうなるのだろうか。立つことの出来ない人間は、翼の無い鳥と同じだ。翼を失くした鳥は、鳥では無くなってしまうのだろうか。では一体、それはなんだというのだろうか。鳥ではない何か? 人ではない何か?」
それでは化け物ではないかと言わんばかりに、瓶詰め猫は含ませて笑った。
猫が笑うところを我々は初めて見た。形容しがたい不気味さがそこに漂っていた。
「翼の無い鳥は、それでも自分が飛べると信じ地上から飛び立つ。だが、落ちる。翼を失くした鳥自身には、どうして落ちるのか分からない。魚が溺れていくような、不思議な感覚を味わう」
瓶詰め猫は話しながら顔を洗っていた。ペロペロと手を舐めては顔に擦り付けている。
「死に向かう時味わう不思議な感覚、それは魚が溺れる感覚。おもりでもついているのだろうか、体が故障してしまっているのだろうか。溺れる魚が泳げなかった原因は何だったんだろうかねえ」
そしてまた不気味に笑う瓶詰め猫。黄色い瞳をぎょろつかせ、尻尾を鞭のようにしならせて。
瓶詰め猫の瓶の中に何かが落ちてくる。ゆっくりと、瓶詰め猫が簡単に口に出来るような速度で。
よく見るとそれは、人間だった。
「おお、そうこう話している間に私の食事が届いたようだ」
瓶詰め猫は尻尾の運動を停止させ、口を半分開けて舌をだらしなく伸ばしていた。
「それにしても瓶が歪んでいる。景色が見えづらい」
瓶詰め猫が不満げに言う様子を我々は静かに見守っていた。そこに、案の定ではあったが恐ろしい提案がなされた。
「そうだ、君たち、私の瓶を替えてくれないか? 見ての通り足元も乱雑に散らかっているのだよ」
瓶詰め猫の足許には、中身を食われた人間の透明な抜け殻が所狭しと散らばっていた。それ自身が新たな大地となり得そうなくらいに。
「ほら、瓶を替えてくれ、君たち。それが嫌なら、自殺をしなさい」