出発前夜
計画が決まったとはいえ、出発には準備が必要だ。下校時間がきたらゾウ生徒たちには各々帰ってもらい家族に海外旅行に行ってもらえるか確認を取ることにした。
私はジョセフィーヌの暮らしているレンガ造りの家で一晩泊まることにした。
ジョセフィーヌは鼻を前方にかざしホログラム投影された画面を操作し各生徒の家族とテレビ電話をしているようだ。
「……プーバッハもOKなようです。全員OKなので問題なく旅行に行けそうですね。」
そりゃあよかった。それで飯はどうするかな。ちゃぶ台の前に胡坐で座る。
ジョセフィーヌ「パー、それならあっちに、あなた方……ヒトも用いている万能フード生産機がありますよ。パエオ……ヒト用にしてメニューはおかませに設定しますか?」
ああ、それでかまわないが、カプサイシン入りの料理だけは避けてくれ。あれだけは苦手だ。
「わかりました。」彼女は設定をいくつかしてボタンを鼻で押した。しばらくして料理が出てくる。何、分子レベルで再構成する3Dプリンターのようなものだ。ただし、それには光エネルギーを化学エネルギーに変換したギ酸やアミノ酸、ブドウ糖、などの材料を前もってタンクに入れる必要がある。無からエネルギーを生成することは不可能なのだ。なお、水はそこらへんの川か井戸の水をフィルターでろ過すれば病原菌が入り込むことはない。海水でさえ容易に真水に濾過できる。
ジョセフィーヌは皿を運んでそこにキャベツをたくさん、スイカを半球、海老味に改良された陸生昆虫を少々盛りつけた。私の皿にはきつねうどんに加え、刻まれたキャベツと生のピーマンと茹で上がった海老味に改良された陸生昆虫が多めに並んでいる。スイカは一切れ。
やはり生ピーマンはうまい。バリバリと感触を楽しみながらほおばる。……あれ?ビールも勝手に追加されているな?私は飲まないんだが。
「パォリャ?ビールは飲まれないのですか?すみません、事前に確認しておくべきでした……これはエネルギーの無駄遣いになりますね……」
ジョセフィーヌはうなだれる。
そこに何か白い毛皮をまとった肌色はほんのりピンク色をした怪しい生き物がのそのそとやってきた。よく見るとその生き物は四足歩行だが指を折り曲げ地面につけるナックルウォークであり、眼窩上隆起が突出している。額から上の頭部は私と同じくらいのサイズだ。首には黒い首輪のようなものをつけており、腰にはエプロンを蒔いている。
その生き物はビールをやや青みがかった黒い瞳で物欲しそうにしばらく見つめており、立ち上がり手を動かして話しかけてきた。
「ねえ、飲まないの?飲まないならボクに頂戴!」これは紛れもない手話である。
「ああ、いいですよ。どうぞどうぞ。」意識せずに私も手話で返答すると、その白い生き物はおもむろにビールジョッキを手にとりゴクゴクと飲み始めた。
「うめえ!やっぱりビールの喉ごしは最高だな!」と白い毛皮の生き物は満足そうな顔をして手で答えた。
うむ。
「ちょっとちょっと!ビールを勝手に飲ませて大丈夫なんですか?!」
ジョセフィーヌは手話のやり取りが分からなかったようで目を丸くし慌てだす。
「なあに、問題はない。オランウータン以外の類人猿はアルコール分解酵素とアセトアルデヒド分解酵素を持っているから一杯程度では深刻な酩酊状態にはならないし体に悪影響はほとんどない。ヒトのほとんどもそうだ。」
「そうですか……よかった……、いやいや、そういうことではなくてあの子は仕事中ですよ!仕事中にビール飲んじゃだめですよ!」
まじか。振り返ると白い毛皮の生き物はバツの悪そうな顔をして、それからニヤリと人間のような笑みを浮かべた。すまないねと手で答え、しばらくして彼はこの場を離れていく。仕事に戻ったようだ。
うっかりビールを飲ませたのは悪かった。というより彼が飲みたがったからあげたんだが。しかしなんでまた、家畜化および知性化に成功したチンパンジーがここにいるんだ?存在自体は昔から知っていたがゾウの国にいるとはな。
「あの子はメイドというか使用人というか、そんな感じです。目がよくて手先がそこそこ器用な方をお願いしたら派遣されてきたんです。てっきりロボットが来るものと思っていましたのでまさか家畜化チンパンジーが来るとは思っていませんでしたよ……でもよく仕事をするし役に立っていますよ。」
なるほど。家畜化チンパンジーならゾウよりも目が良いし細かい仕事もできるし高所の仕事も容易にこなせる。我々ヒトでさえ高所の作業には代わりにやってもらうことが時折ある。
「ただ、旅行に行くとなると……しばらく家を空けることになります。あの子はその間どうしましょうか、今考えているところです。一時的に実家に帰ってもらうか、別の仕事についてもらうか……」
私もしばらく考えていたが、不意に家畜化チンパンジーがまたやってきて近くにあったタイムカードを手に取り機械にかざす。仕事が終了したようで、彼は万能フード生産機へと歩いていきボタンを押す。そしてちゃぶ台の前に座り食事をし始める。メニューは私が先ほど設定したものと一緒だ。
「ビールはもうこれ以上は体に悪いから駄目だよ。」と私は手話で話しかける。
彼は眉毛に相当する部分を左右別々に上げ下げし、しぶしぶとビールの設定を解除する。
ジョセフィーヌ「どうやら手で話しかけているようですが、あの子はヒトの言葉がわかりますよ。ですから普段は声で会話していますよ。あの子が首につけているのは人工声帯でしたっけ……ですので彼は機械の力を借りた形ではありますが言葉を話せますよ。」
考えてみればそうか。意思の疎通ができなければ仕事にならないもんな。
家畜化チンパンジーはちゃぶ台にすわり食事をしているが、こちらをみて口をパクパク動かす。
「へっへっへ。先ほどはすまなかったね。私の名はブレッドと言う。ところで、何の話をしているんだい?」と機械音声が答える。ほう、首の黒い首輪のようなものは家畜化チンパンジー用の人工声帯だったか。
経緯をブレッドに話すと、「ほう、それは楽しそうだ。できれば私もついて行っていいかね?」
それはユクラセルに聞いてみないとわからんな。どうなんだ?ユクラセル?
ユクラセル「……陰で支えるものの判断しだい。ブレッドのほうから直接私に話しかけて。手話でも可。」
ブレッドはユクラセルのほうへ歩み寄り手話で話しかける。話が難航しているのか次第にブレッドは自分の熱意をアピールするかのように飛びはね、手を合わせ、お辞儀をし、拍手をし、最後には土下座をした。
……そこまでやるのか?
ユクラセル「……なるほど、君のやる気は十分伝わった。ジョセフィーヌおよび生徒たちの補佐をするという条件なら同行することを許可する。元々使用人でもあるしな。」
ブレッドは万歳をした。そして喜びのバック宙を何度も繰り返した。こうしてブレッドも特別授業の旅行に参加することになった。
夜
ベッドが無いことに私は気づく。寝室は藁が敷いているだけの部屋だ。そもそもゾウにはベッドという概念が無いのだから無理もない。ブレッドはどうしているだろうか?ブレッドの寝室へと行ってみる。
ブレッドは新しい藁を手でかき集め、整え、あたかも大きな赤血球のような形の窪んだベッドを作っていた。古代チンパンジーが樹上で枝を折り曲げ重ねたりして葉のベッドを作るのと同じ行動だ。やはりチンパンジーなのか……
とはいえ古代チンパンジーの作る寝床は意外と寝心地が良いらしい。ブレッドに私の寝室のベッドメイキングを頼んでみる。
「今晩のベッドは作ってあげるよ。お礼に明日の夜もビールを頂戴!」と手で語り掛ける。
……やれやれ、そんなにビールが好きなのか?
ブレッドはニヤリと人間のような笑みを浮かべた。
「パメェ……」
就眠時間になり明かりを消すと、窓には無数の星が輝く夜空が浮かび上がり、他のどの天体よりも大きくみえる、青空と雲を湛えた本当は小さな丸い衛星が見える。かつての月である。クレーターだらけで空気がない古代の月は今の時代にはもはや存在しない。
この家の生きものたちがすっかり眠りに落ちた後、ユクラセルは窓から星空を眺めながらつぶやいた。
「……美しい。」




