12月
「ぴりかー、起きてるー?」
「うん! 今起きた!」
いつぞやと違って本当に今起きたばっかりなのに、やけに意識がはっきりとしています。深緑色のカーテンを鳴らすと、結露の詰まったガラス越しに放射冷却で冷やされた朝の空からキラキラ放たれた白い光が私を包みました。
今日は12月24日、家族や友達じゃなくて愛する人と過ごす、人生で初めてのクリスマスです。そんな特別な一日だから念入りに、デートの計画をあれこれを考えながら今日を迎えました。
昨日はベッドの中に入ってもなかなか眠りにつけなかったほどだったけど、今は体調も気分もすこぶる良好です。掛け布団をはねのけて上半身を空気に晒すとさすがに寒かったけど、その程度で今の胸騒ぎが冷えるはずもありません。加熱した期待感は私の指を筆に、目の前のガラスをキャンバスに変えました。
「へへへ、いよいよだねクリスマス。早く逢いたいな。それでさ、今日はクリスマスだしさ、勢い付けてさ……、どこまでいっちゃうかな」
私は人差し指を一筆書きのようにためらいなく動かして、カズくんの似顔絵を描きました。こんなものはもう目を閉じてても描けます。ずっと心の中にそれを浮かべ続けてきたんだから。
まず髪の毛はスルリと横分け。きりりとした眉毛は釣り上げ気味に、そして口は大きく空けた笑顔が一番似合います。そして全体的には丸っこくマイルドに仕上げれば、それだけでもうカズくんの完成です。
いつもならここで「ああ、よく描いた」となるのですが、今日の場合はまだまだ心の躍動が止まらないから勢いで吹き出しなんてつけてみました。そして今日これから言われるといいなって台詞をあれこれと考えました。
「そうだな。『愛してるよ』とか、いや、そんなストレートで行くかな。あれで結構照れ屋だからな、『愛してる』系より『好き』ぐらいかな。『好きだ』、とか。『好きだぜ』、いや、それは変か。もっとマイルドにするかな。ふふふっ」
「早く起きてきなさい。朝ごはん冷めるわよー」
「はーい! 今行く!」
お母さんの声のお陰でようやく現実に戻り、慌ててセリフの部分をてのひらで塗り潰してからあらかじめ用意しておいた今日の服に着替え、足をばたつかせながら食卓へと急ぎました。
「それで今日はクリスマスパーティーに行くんだったっけねえ」
「うん。まあ夕方には帰るから」
「あんまり遅くならないでね。それと今日の夕食は美味しい鶏肉買ってくるからね、それにしましょう」
「うわあ楽しみだなあ」
確かにそれも楽しみだけど、でも今はそれよりも待ち遠しいものがある。きっといい日になる。純粋にそう信じられたのは朝食を食べ終えて部屋へ戻るまででした。不穏の最初はもうちょっと時間あるなと何気なく窓を眺めた時、流れ落ちた結露によって切り裂かれたカズくんの似顔絵が目に飛び込んできた事でした。
「あらまあ、これは酷い。まるで泣いてるみたい」
こぼれる水滴を涙と見た時、心の裏側に隙間風が吹いたような薄ら寒い感覚に襲われたけど気にしない事にして家を出ました。だってカズくんが泣いてるの見たことないし。
「じゃあいってきまーす。おお寒っ」
赤いコートを羽織り、自転車で寒風を切り裂きつつ駅まで向かいました。駐輪場まで着いた時には指先がすっかり凍えそうになってたから吐息で暖めつつ駅舎まで走りました。
「おはよー、カズくん! 待った?」
「あっ、おはよ、ぴーちゃん……」
駅舎内にはすでにふかふかの青いコートをまとった少し色黒の太い脚二本が椅子に腰掛けていました。学校でもよく見た冬のカズくんのいつもの姿に安心して元気よく声を掛けたけど、想像以上に弱々しい反応が戻ってきたので拍子抜けしました。
「どうしたの?」
「いや、ねえ。いきなりごめん、今日カラオケはなしにしない?」
「ええっ、何で?」
「声がね……、変になった。よく出ないんだよ」
平静を装いつつも全然装えてない表情でボソボソと切り出される声そのものは、異様に抑揚がないのを除くといつもと同じにしか聞こえませんでした。でも本人からすると「普通に喋る分はまだいいんだよ。でも高い声張り上げようとすると駄目なんだよ」とのことでした。
「明らかにおかしいんだよ。風邪引いたわけでもないのに」
「まあそりゃあね、カズくんが風邪引けるわけないもんね」
「だろ? 俺は生まれてこの方ずっと健康体で骨折すらもした事ないわけだしね」
ここで会話は一度途切れてしばらく電車を待ってたけど、数分後に「あれ、もしかしてさっき俺の事馬鹿にしてた?」と、ようやく反応してきました。
「あっ、バレた?」
「さすがに気付くよ」
「それにしては随分のろかったじゃない。ふふっ」
「あんま笑うなよ。怒りにくくなるだろ」
「ごめんごめん。ってか、マジで言うと声変わりでしょ、それ」
「あー、そっか! そうかも……、多分そうだな」
なんで男の生理現象を女の私に指摘されるまで気付かないのかという点ともかく、私の説にはカズくんからしても否定する要素はなく、一応それで納得してくれたみたいでした。ちょっと口を膨らませながら。
「何その不満げな顔は」
「嫌なもんだよ声変わりなんて。女みたいに来なきゃいいのに」
「そうかな? 格好良いじゃない」
「いや、だってさ、要は高い声出せなくなるって事だろ? 今やれてる事がやれなくなるんだぜ。最悪だよ。カラオケのレパートリーも全滅だし」
「別にカラオケなんて、また新しい歌探せばいいでしょ。高音だけが歌じゃないんだし」
「それはそうだけどさ、そんなのは理屈だよ。俺は好きな曲を歌いたいんだよ」
「気持ちは分かるけどね、でもやっぱりそこは認めないと。変わらない人なんていない。私だってそうだし、大体今こうやってね、ふたりだけで一緒にいる事自体がそれまでからすると途方もない変化なわけだしね。そりゃカズくんだって変わるわよ」
「俺は知らないけどぴーちゃんは……、本当に変わったよね」
カズくんは目線を私の顔より少し下に向けながら頷きました。いや、もっとメンタル的な部分の変化あっただろと思いつつ「どこ見てんのよ」と半笑いで文句をつけたけど、目に見える部分で一番変化したのがここの突出なのは否定しません。
最初は嫌でした。大きくなってる最中は感覚が敏感になっててちょっと布がこすれるだけでもジリジリと痛かったし。他の部分も含めてなんで女だけがこんな痛みに耐えなきゃいけないのか、理不尽としか思えなかったから。
思えば小さい頃からずっと、男に生まれたかったって思っていました。でも今は、自分が女に生まれたという事実をしっかりと受け止めるのも私に課せられた責務なのかなと考える事にしています。
もしも私が男の子なら、カズくんとはずっと変わらず友達でいられたはず。でも私が女の子として生を受けたからこそ今の二人の関係がある。それも全ては天命だとしたら、私は自分の運命から逃げたくない。
「とにかく、私達まだまだ12歳なんだからさ、これからも色んなところがもっともっと変わっていくはずよ。今のうちから嫌だなんて言ってたら耐えられなくなるぞ」
「……ぴーちゃんは大人だな。女の子のほうがそういうの発達するの早いって授業でやってたけど本当だね。俺はそんな上手く割り切れそうにないよ」
「ふふっ、まあ、慣れよ」
「慣れか。あんま慣れたくないけど、俺もね……。あっ、電車!」
「もう来た? じゃあそろそろ改札行こうか」
「うん」
縦になって改札を通り抜けた後で、私達は手を握り合いました。かすかに振動が伝わってくるのは寒さのせいかも知れないと勝手に納得しながら、電車に乗り込みました。
そして到着した藤浦では、カラオケが駄目ならって事でボウリングに行ったけど思ったより盛り上がらずに終わりました。カズくんはガターを繰り返すし、それを軽く茶化したところで何か言い返すでもなくやたらと真面目くさってしょぼくれた顔をするからどう反応すべきか分からず、ただ切なくなりました。
それからも街を歩いてても会話が続かなかったり、昼食のスパゲティは美味しかったけどそれぐらいのもので、グリーンのツリーにレッドのりボンがいたるところに飾られた街はクリスマス一色なのに、どうしてなのか、二人だけその浮ついた空気に馴染みきれないままでいました。
おかしい。もうちょっとこう、せっかくのクリスマスなのになんでこんな倦怠期の風を撒き散らしているのか。楽しげな鈴の音も『荒野の果てに』の美しいメロディも二人の間をただ通り抜けていくだけで、情緒を楽しむゆとりを与えてくれません。そのうち空色がタイムアップを告げるべくオレンジに変色していきました。
「もうこんな時間かあ。今日はうちで美味しいチキン用意してるってお母さん言ってたしそろそろ帰らなきゃねえ」
「んっ、ぴーちゃん何か言った?」
寄り添って歩いてたのにカズくんときたら、まるで上の空といった感じで気の抜けたような返事しかよこしてくれませんでした。
「だからもういい時間だから帰ろうって言ったの」
「なんだ、そっか。ちょっとボーっとしてた」
「まったくもう、しっかりしなよ」
「あー、うん。そっか、もう帰ろっか」
カズくんは終始この調子で、話しかけても暖簾に腕押し、糠に釘とはまさにこれというふにゃふにゃした態度を取り続けていました。もちろん会話も盛り上がるはずもなく、電車内でも何となく海を眺めるだけでろくに言葉もありませんでした。
言葉なく揺られるだけで辿り着いた賀内駅。他の客は外の寒さから一刻も早く逃れようと足早に駅舎へと吸い込まれる中、カズくんがいきなり「ちょっと待って」なんて私の肩を掴んでからベンチに腰掛けました。
「どうしたの急に」
「今日はごめん。せっかくのクリスマスだったのに俺のせいであんまり楽しくなかったと思う」
いつになくしんなりした態度。何がどうなってるのかは分からないけど、とにかく今日のカズくんは普通じゃない。声変わりとかそういうレベルじゃなくて、もっと大きな何かを抱えているようにしか思えませんでした。
確かに今日は思ってたよりあっさり終わりそうで拍子抜けだったけど、でもそれは偶然そうなったわけじゃなくて、その何らかの問題を解決しない限り多分ずっとこの調子に違いない。そう確信したからこそ私は「そんな事なかったよ」とか適当にお茶を濁したりせず、まっすぐぶつかる事にしました。
「そうね。正直期待外れだったわ。最初は私が期待しすぎたのがいけなかったのかなって思ったりしたけど、その態度を見るにそれだけじゃなかったみたいね」
「本当はね、もっと色々用意してたんだ。やりたい事とか言いたい事とか。でも、駄目だった。もっと上手くやれるつもりだったんだけどな……」
「それはいいの。もう過ぎた事だから。それよりもどうすればこれから良くなっていくかを考えなきゃ。それでカズくん、何を隠してるの?」
「べ、別に隠し事なんて……」
「嘘。私の目を節穴か何かだと思ってるの? ねえカズくん、私だって恋人になってもう9ヶ月、その前からだと12年も付き合ってるんだよ。カズくんがそうやって小さい声で喋ってる時は嘘ついてる時だってとっくに見え透いてるんだから。本当の事を話してよ」
「……本当の事だから話せないんだよ」
目を逸らしたまま、そよ風を前にしてもあっさりと消し飛んでしまいそうなほどか細い声で、しかし確実につぶやかれた言葉はとても悲しい響きに満ちていました。
せっかくの恋人なのに、それなのに言えない事があるなんて、それじゃあもう恋人でいる意味なんてないようにさえ思えました。
「……そっか。そんなに嫌なら今は別に言ってくれなくてもいいよ。でも、そのうちきっと」
「待って!」
このままじゃ埒が明かなさそうなので今日のところは退散しようかと立ち上がったら袖を握られました。
「今から絶対言うから、だから言えるようになるまでもうちょっと待っててよ」
「どういう言い分よ」
「半端言ってるのは分かるけど、でもお願いだから……!」
「……むう」
言えるかと聞けば言えないと返し、じゃあもういいかと席を立てば弱々しい声で哀願し始める始末。こんなカズくんの姿を見るのは初めてだけど、ここまで言われてもなお立ち去れるほど私も強くはなれません。
どうやらしばらくはこのプラットフォームから動けそうもないなと、私も覚悟を決めました。カズくんが自分の力で心の鍵を開くまではとことんまで付き合ってあげましょうと。どうせ次の電車は一時間後で人も来ないし、多少この席を独占するぐらいなら公共の迷惑にもならないはず。
オレンジを通り越してパープルに近付きつつある冬空の下、点灯したライトに照らされる二つの影は微動だにせず時を凍らせるばかりでした。永遠にも思える沈黙を抜けた後、ついにカズくんは立ち上がったかと思うと意を決したかのように大きく息を吐き出しました。
「ぴーちゃん、向こう向いてて」
カズくんは言いにくい事を言う時、こういう構えになります。それぐらい大事な話なら本当は目を向けて話してほしいんだけど、今こだわるべきはそこじゃないので素直にカズくんの指示に従いました。
すぐにコート同士が密着して、でもそれ以上近寄れない距離のまま、カズくんは背中越しにぽつりぽつりと抑揚のない音を発し始めました。
「……どう言えばいいか色々考えたけど、まずはね、俺らが付き合い始めたのが4月だったよね」
「うん。堤防でね」
「その時の気持ちを言うとね、最初は単純に嬉しかった。嫌われるより好かれたほうが良いって程度で。でも後から不安になった。あまりにも簡単に決めすぎたんじゃないかって、本当に俺でいいのかって。ほら、ぴーちゃんの話聞いてると俺なんかよりずっと高級な考え方してるから」
「高級な考えって、どんな言い方よ」
「いや、本当に。俺はずっと変わってないくせに、ずっと一緒にいたはずがぴーちゃんが知らないうちにすっかり大人になってるみたいだったから。このままじゃあっという間に置いて行かれるんじゃないかって怖かった。だからその時、誓いを立てたんだ」
「誓い?」
「そう。今まではサッカーをしっかりやってプロになって世界中を飛び回るって、それだけだった。でもあの日からはもう一つ、ぴーちゃんを愛し続けるって俺は自分に誓ったんだ。本当だよ。信じられないかも知れないけど」
「信じるわ。だってずっと私はカズくんの愛を感じてここまで来られたんだから」
「そう? それなら、まず良かったんだけど……」
さっきまで分厚いコートの布地の感触しかしなかったはずの背中に、今暖かな柔肌が触れた気がしました。四方が冬の冷たい大気で覆われているなんて思えないほどに優しい世界に入り込んだ気がしました。しかしそれは一瞬の幻でした。
「それでね、もう10月の話だけど、トレセンの時にJリーグのチームのスカウトの偉い人にプロの下部組織、ジュニアユースって言うんだけどそっちに行ったほうがいいんじゃないかみたいに言われた。それでこないだテスト受けた」
カズくんはサッカーはかなり上手いっぽいのは何度か見たので分かってたけど、プロがどうとかテストとか見たことも聞いたこともない新事実がボロボロと出てきたのにはさすがにびっくりしました。
いや、確かに何か隠し事してるっぽいなとは思ってたけど、ここまで大きな話だったとは。それでもあたかも最初から知ってて動揺なんて全然ないよという体を装いながら会話を続けました。
「へー。それは凄いじゃない。それで結果は?」
「……受かった」
「わっ、おめでとう!」
「めでたかないよ。だって、チームあるところ結構遠いんだぜ」
「遠いって、どの辺? 通える?」
「絶対無理」
一瞬のためらいもなく断言したカズくんの勢いに押されて、私は言葉を失いました。
「だってさ、本拠地神奈川県だぜ」
「うええ、神奈川!?」
まずい、本当に遠すぎる。しかも大都会。そんな動揺が私に思わず変な声を出させてしまい、その音を拾ったカズくんから一段としょぼくれた声で「なっ、遠いだろ」と返されました。
「い、いや確かにちょっと遠いわね……」
「だろ? だから俺達、もう会わないほうが良いみたい。今日を限りにさよならだよ」
こんな重要な言葉さえもまるで声を荒らげずにボソリと繰り出された上に言ってる内容も無茶苦茶だったので、最初は冗談かと耳を疑いました。でも背中が強い震えを感じて、その覚悟のほどを垣間見ました。
「……何で?」
「でも、そうなるしかないだろう?」
「いやいやならないって。確かに離れ離れになると大変だろうけどさ、別に遠距離恋愛なんてよくある事だし、なんでいきなり別れようってなるわけ? ロジックを一から説明しなさい」
「だって今度ばかりはさ……。俺はぴーちゃんよりサッカーを選んだ。つまり俺は自分の意志で誓いを破ったんだ。そんな奴が俺はぴーちゃんの恋人ですと、偉そうに言える資格なんてないんだよ。酷いやつだよね、本当に……」
その後も長々と説明のようなものを続けていくうちにカズくんの声が元来の透き通った声から喉に水が詰まっていき、いかにも苦しそうなかすれ声へと変調していきました。
「だからね、俺みたいな奴は嫌われなきゃいけないんだよ。それでぴーちゃん、今なら引っ叩いてくれてもいいし、何ならもっと」
「そんな事よりカズくん、泣いているの?」
「はあっ!? な、泣かないよ!! 泣く訳がない! 男だからね……」
いかにも図星といった裏返った声でなおもこんな強がりを叫ぶカズくんに対して、私の心は悲しみと同時に怒りまでもが無性にこみ上げてきました。
「ふーん、そっか。まあそうだよね、カズくんが泣くはずがないもんね」
「そ、そうなの、俺はね……。ふふっ、今日はやけに冷えるな」
それでも今のままならギリギリなかった事にしてあげられるかなってところでカズくんがまた、ツンと鼻をすすっておきながら「いや違う。これは泣いてるんじゃなくてちょっと寒かっただけ」と言わんばかりの小賢しい猿芝居を演じたものだからついに怒りが沸点を超越しました。
「茶番もいい加減にしろ!」
私は青いコートの肩と肩をがっしりと掴んで、カズくんにしがみついて動けないようにした後で正面に回りました。案の定、カズくんの瞳から溢れた水の筋はくっきりと頬を伝っていました。
「うああっ! ひ、卑怯者!!」
「どっちがよ! やっぱり泣いてたじゃない! 見え透いた嘘つかないでよね」
進退窮まって唸るカズくんを無視して、私は叫ぶように思いついた言葉をそのまま連ねていきました。
「ねえカズくん、今の私は怒ってるけどそれはカズくんがどこか遠くに行ってしまうからじゃないの。朝にも言ったけど社会でさえ変革を続けるこの時代、私だって毎日変わり続けてる。だったらカズくんも変わらないはずがないわ。だからそれはいいの。悲しいのはね、そんな事で私がカズくんを嫌うに違いないなんて思われてた事よ」
向こう側からは返事もなく、ただ鼻をすする音だけが聞こえてきました。私は構わず続けました。
「……私ね、その気になればもう赤ちゃんだって産める身体になってるんだよ。そんなもの今はいらないのにね、私の望みなんてお構いなしに体が勝手に変わっていったんだ。……最初は怖かった。女の子として生まれたのと女の子になる時は違うなんてね。だから、一人じゃ不安に押しつぶされそうだったから、誰かにいてほしかったんだと思う。例えばその一人じゃいられない、自分とは違う誰かとともにありたいと乞い求め願う心を愛と呼ぶのならカズくんはずっと私の愛を受け入れてくれたし、私を愛してくれたよね。ありがとう」
「ぴーちゃん……、ごめん」
「違うでしょ。そこは胸を張ってよ。だからね、今度は私にも支えさせてよ。泣いちゃうぐらい辛い事ならさ、それなら私と分け合えばいいじゃない。だって私達、恋人なんだから」
言葉にするのが下手だからうまく言えなかった、でも心の中ではずっと思い続けていた感情を半分涙目になりながらもようやく形に出来ました。
しばらくはしんと音も動きもない空間が二人を取り囲んでいたけど、次第にカズくんの体がゾクゾクと震えて、そしてついに目を見開いたかと思うと私の手を握って振り回しながら叫びました。
「……そうか。そうだ。そうだよ! そうなんだ!!」
時とともに確信を深め、段々と力強くなっていくカズくんの高音。そしてついに心の暗雲を完全に振り払い、笑顔という本当の素顔を取り戻しました。
「ぴーちゃんありがとう! お陰で完全に分かったぞ! 俺、馬鹿だった!」
街灯の光を反射させてキラキラ輝く瞳と大きく丸く開いた口で、とっくの昔から判明していた事実をさもたった今発見したかのように叫ぶ姿には思わずちょっと吹き出してしまいました。
「何かおかしかった?」
「あっ、ごめん。やっと気付いてくれたんだなって」
「うん! いや、最初から分かってたつもりだったけどさ、俺って自分の想像以上に馬鹿だったわ。柄にもなく悩んじゃうからこうなるんだ。さっさと打ち明けてりゃ良かったのに」
「本当にね。大体ねえ、そのズボンよ」
「ズボン?」
「冬なのにその馬鹿みたいに足丸出しな半ズボン穿いてるような男が俺やっぱり馬鹿だったって言われてもそりゃそうだとしか返しようがないでしょ。ってか寒くないの?」
「寒いよ」
「えっ、寒いの?」
「いや寒いに決まってるでしょ。冬だし」
「だったら長ズボン穿けばいいじゃない。一年の頃からずっと穿いたの見た事ないし、もう太腿あたりは寒さを感じる細胞が死滅してるのかと思ってたわ」
「まっさか! でも俺は将来プロサッカー選手になる男。つまりは一生半ズボンでいるわけだ。だったらこの歳で寒さなんかに負けてられないよ!」
あまりにも堂々とした態度で澱みなくこう断言するものだからつい私も納得しかけたけど、間もなく「いや、それはおかしい。サッカー選手だって私服じゃ普通に長ズボンでしょ」と正気に戻れました。ともあれ明らかに妙な理屈を勢いで押しまくるカズくん理論が戻ってきたからにはもう一安心です。
「それに大体中学に入ったら制服で長ズボン強制だろ。さすがにそうなったら観念するし、それなら今のうちに半ズボン履き倒しとかないと損だろ?」
「損得の問題なの? というか親から強制されてたわけじゃなかったのね」
「お母さんからもいい加減長ズボンにしろって言われたけどね、自分の意志で決めてなきゃこんな服やってられないって。それでさ、これ見ろよ!」
するとカズくんはコートの前を勢いよくはだけて股間のあたりをグイと押し付けてきました。冷静に考えると単なる露出狂のポーズだけど、私の方もそろそろ脳が寒さでやられたか何のためらいもなくコートの合間に顔を近づけていきました。
「こいつは冬用の温い素材で出来てんだぜ! こういう素材を……、あれ、何だっけ?」
「えっと、コール天?」
「違う。もっとしゃらくさい、ヨーロッパっぽい言い方だったはず」
「ヨーロッパっぽいって何よ」
「いや、だからヨーロッパの貴族っぽいなあって感じの響きの、フランスっぽい言い方あったろ。何だっけ。最初聞いた時うへえって思った奴」
そんな要領を得ない説明されて混乱するばっかりだったけど、後で調べたらコーデュロイって言うらしいです。確かにちょっとしゃらくさい。それとコール天、一切のためらいなく即答で否定されたけど、やっぱりそれでも合ってるみたいでした。
「まあよく分かんないけど、そう言えばさ、カズくんはいつまでこっちいるの?」
「ああ、うん。一応卒業まではずっとこっちだし、4月からは向こうって感じになると思う」
「なんだ。じゃあこの冬はまるままこっちにいるわけだ」
「少しは安心した?」
「少しどころかよっぽど安心したわ。それだけあれば何でもやれるからね。ねえカズくん、こうなったからにはこの3ヶ月でいろんな思い出作ろうね。いや、別に3ヶ月後に恋人じゃなくなるわけじゃないにしてもさ、今のうちにしか出来ない事ってのもあるわけだからね」
「そうだな。俺もぴーちゃんとこうしてすぐに会える日常が終わっても悔いのないように生きていかなきゃな」
先の事を考えると少し不安になるけど、ともあれカズくんが本来の元気を取り戻したなら、それは私にとっても良い事だから……。そうやって強がりの仮面を被りつつ、ようやく改札を出て駐輪場まで影を一つにして歩きました。
「正直言うと今日が来るのがずっと怖かった。いつか言わなきゃいけないのになかなか言えずに、でももうこれ以上は引き延ばせなかったから。でも終わってみると今日が来てくれて本当に良かったって思ってる。ぴーちゃんありがとう」
スタンドを蹴ってサドルにまたがりながら、カズくんは私に何度も何度もありがとうと言ってくれました。カズくんにとって今日はずっと抱えていた問題が解決された清々しい一日になったみたいでした。
しばらくは国道沿いを縦になってペダルを漕いでいたけど、ついに家の分かれ道となる横断歩道まで差し掛かったところで一旦自転車から降りました。
「とりあえず今日はここまでね。……それじゃ、また」
「うん、またね。ぴーちゃん、好きだよ」
「私も……!」
口づけの後に力いっぱいペダルを踏みしめて、風のように走り去るカズくんの姿が豆粒にも見えなくなったところで、急にコートが重たく感じられました。おかしいな。冬用で厚みはあるにしても所詮は布地に過ぎないのに。それより早く帰らなきゃ。すっかり暗くなっちゃったから。
どうせすぐに着くからと自転車を押しながら一歩足を進めるごとに心臓がズキズキ痛む感覚がして、ついにはハンドルを持ち続ける力すら失せて足が完全に止まりました。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ」
なぜ! どうして! やっとここまで近づけたのに、こんな悲しみあるものか!
おもむろに襲いかかってきた慟哭に、私はただ身を委ねて打ちひしがれる以外の手段は残されていませんでした。
私は今まで涙というものは、今日のカズくんがそうだったみたいに頬を伝ってこぼれ落ちるものだと思い込んでいました。でもそれは本当の悲しみを知らなかったからなんだと今は言えます。
今の涙は地面と平行に、噴水のようにバクバクと吐き出されています。ああ、人間ってこんな勢いで泣けるものなんだ。それにしても故郷が田舎で良かったね。こんな顔を晒しても誰か人に見られる危険はないから。
体も心もひたすら涙に染まる中でなぜか異様に客観的な自分もそこにいて、自分がボロボロ涙を流す様を他人事のように見つめていました。
「はあ、はあ、はあ……。少しは落ち着いたかな。駄目だな。こんな顔じゃお家に帰れないわ」
大昔の歌を思い出して夜空に顔を向けたら、オリオンの三つ星がいつもよりくっきりと輝いて見えました。瞳から溢れる水がレンズを磨いてくれたみたいです。この星の光が生み出す夜風に誘われて、私は宇宙と一つになった気がしました。
私がこんなにも大きな苦しみに遭った夜なのに、星はいつもと同じように瞬いている。でもそれは残酷な悲劇じゃなくて、例えば私が幸せに包まれながら眠った夜にも誰かが泣いてただろうし、今日は私が涙する役を仰せつかっただけに過ぎないと思えば、そんな日も悪くないとさえ感じられるようになっていきました。
私達はどうやら離れ離れになるらしい。もしもそれが避けられない運命だとしても、もう逃げない。ワイヤーのように細くて頼りない手足でもどうにか踏ん張って大地に立ち、そして吹きすさぶ風の冷たさも痛みも全部受け止めよう。
溢れた涙をようやく拭った時、広がっていたのは暗闇の中に茫洋と輝く窓の明かりでした。
「そうよね。それが定めなら、私も本当の意味で覚悟を決めなきゃね……!」
この瞬間、私は自分がなぜこの世界に生まれてきたのか、その天命を悟った気がしました。その決意は、それでも今は口にせず固く胸に秘めたまま、いつもと同じ調子で「ただいま」と玄関を開けて六川家の長女に戻りました。




