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8/13

11月

 雲ひとつない爽やかな秋晴れとは裏腹に、山々の隙間を縫ってギュンと吹きすさぶ風は遠くから迫り来る冬の姿をおぼろげに映し出しているみたいでした。


「ここかあ。車じゃなくてもちゃんと来られる場所だったのね」


 今日はせっかくの日曜日、私は藤浦駅から北へ三十分ぐらい歩いて指定された目的地に辿り着きました。そこには川沿いのグラウンドがあって、野球部にいた頃は年に一回ぐらい使った記憶もあったけど、その時は監督や保護者の車で来ていたので一人で歩いて行くのは初めてでした。迷わなくて良かった。


 ではなぜ私が今ここにいるかと言うと、それは約束したからです。「次の日曜日、きっと来てください」という言葉だけ、カズくんを介して彼は伝えて来ました。幸い用事もないし、秋空が寒くなりすぎる前にちょっとした散歩もいいだろうとも思ったし、何より約束は守るものだからです。


「あっ、いた」


 正午前、私は堤防の上を右へ左へとうろうろ往復しながら首をきょろきょろと回して今か今かと待ち焦がれているジャージ姿を認めました。そして同時に、彼もまた待ち人の到来に気付き、両手を全開で伸ばして右へ左へと大きく揺らして僕はここにいるよと全身でメッセージを送ってきました。


「ちょっと待ってね! すぐ行くから!」


 待たせていた私のほうから走ってそっちまで行こうとしたら、むしろ彼の方から待ちかねたとばかりにしなやかに広げたストライドでこちらへと駆け寄ってきました。


「お久しぶりです六川さん。本当に来てくれたんですね」

「当たり前じゃない。それにしても夏以来だね。元気してた? 犬山くん」

「はい! おかげさまで……」


 犬山くんは夏休みに一度出会ってそれ以来だから、思えばあれからもう3ヶ月も経ってるのにびっくりします。でもそんなブランクを感じさせないほど、再開した瞬間から自然に空気が馴染んでいました。これも犬山くんのいつもにこにこと朗らかな雰囲気の賜物でしょうか。


「ちょっと大きくなったかな? 顔つきもぐっと締まったみたいだし」

「あ、ありがとうございます。それで、六川さん」

「ぴりかでいいわよ。私の名前、六川ぴりかって言うんだけど、普段あんまり名字で呼ばれないからちょっとくすぐったくなっちゃうのよね」

「分かります。僕もいつもはあんまり名字では呼ばれませんし」

「だよね。そういえばさ、犬山くんの名前は何っていうの? 私も犬山くんの事、名前で呼びたいから」

「はい。僕の名前は、まずですね、武士、サムライの武士って書いて……」

「サムライノブシ……、ああ、武士ね」


 脳内での漢字変換が終わったところで「なるほど、たけしくんか」と早合点しましたが、次に告げられた現実は12年程度しか蓄えていない未熟な叡智をいとも簡単に叩き壊してくれました。


「ますらおって言います」

「えっ、ます……!?」


 想定範囲を余裕で超えた読み方に頭脳のキャパシティが一瞬で飽和してしまいました。それでも「変な名前ですよね」と自嘲する犬山くんにすかさず「そんな事ない! 素敵な名前だね」と言えたのは、自分もまた妙な名前を授けられた経験によるものだと断言出来ます。だってぴりかだよぴりか。なんでいきなりアイヌ語だったのか。両親どっちも北海道とは無関係のくせに。


 それで4年生の夏休み、家族旅行で北海道へ行ったんだけど、北海道って針葉樹林がいっぱい広がってて、これがまさに私達の日常とは異なる北国っぽさを醸し出してて素敵でした。


 私の名前の由来になったらしいエトピリカって鳥も見たけど、ベネチアの仮面舞踏会みたいな派手な見た目でお兄ちゃんから「ぴりかも年頃になりゃこんな着飾るようになるんかね」なんて冷やかされた時「絶対ならないし」と肘鉄砲を返したのも連想ゲームのように思い出します。閑話休題。


 とにかく、私が素早く反応したお陰で「本当ですか?」と言いつつも自尊心をくすぐられたような笑みを見せる犬山くんがいじらしくて、やはり言葉を尽くして良かったと私も微笑みを返しました。


「お互い親から授けられた名前なんだから、恥じるよりも誇りに思って生きなきゃ損よ。人生ポジティブ大事」

「そうですね。僕は益荒男として生きていきます」

「そうそうその意気! それでさ、だから私は君のことを……、んーと、マーくん!」

「えっ」

「ますらお、よね? だからマーくんって呼んでいいかな」

「は、はい! ぜひそう呼んでください!」

「それでさ、マーくん。早速本題に入るけど、私を今日ここに呼んだのはなんで?」

「はい、それはですね……」


 私の問いに対して、マーくんはジャージの右腕の袖からマジシャンのように何かを取り出しました。「これです」と私の目の前に差し出された掌の中心にはブルーのラインが入った白い布地が載せられていて、私はそれに見覚えがありました。しかしそれも当然の話。つい3ヶ月前までは日常の一部になっていたものだったんだから。


「あー、それかあ」

「夏休みの時からずっと、いつか返さなきゃとずっと思い続けていました。どうぞ受け取ってください!」

「うん。ありがとね」


 刺すように鮮烈な石鹸の匂いがツンと漂う、自分の知らない装いをした馴染みのハンカチを両手で受け取ると、シームレスに右のポケットへと流し込みました。


「それで、まさかこれだけのために私をここまで呼んだの?」

「はい。どうしてもそうしたかったんです。……迷惑だったですか?」

「いやいや、そういう事じゃなくてね、本当義理堅いなってびっくりしただけ。別にハンカチの一枚ぐらい貰ってくれても良かったのに」

「駄目ですよ! それじゃ泥棒になっちゃいます! それに、ぴりかさんとまた会いたかったのもありますし……」


 私の話になると、マーくんは急に声が小さくなってうつむきがちになるみたいでした。


「ふーん、嬉しい事言ってくれるじゃない。私も出来れば会いたかったけどね、確か山端小よね。さすがに家から遠いからさ、難しいかなーって思ってたの」

「僕も顔しか知らない、名前もどこ小かも知らない人をどうやって探そうかと途方に暮れていたんですけど、ちょうどこの前大会があって、ちょうど出会ったのが賀内でやった大会だったでしょう? だったら賀内の選手なら何か手がかりがつかめるかもって考えて、とにかく聞いて回ったんです」

「そっか。でもなかなかいなかったでしょ? 私は東小だから西小の子らが知ってるわけないしね」

「はい。それでみんな知らないって言うんですけど最後にようやく見つかったんです。それが旗生さんでした」

「あー、そうよね。私もカズくんからの伝言を受けてここに来てるわけだから」

「旗生さんは素晴らしい人でした。僕なんかとは全然違ってサッカーもうまいですし、人間としても広いし、ぴりかさんの事もそれ以外も色々聞きました」

「へへっ、そっか。やっぱカズくんってサッカー凄いんだね。人間としては知らないけど」

「あんな人は今まで見た事ありません。僕も旗生さんみたいになりたいって思いました」

「そっか、そっかあ。へへっ」


 カズくんが褒められていると、まるで自分の事みたいに照れてしまいます。しかし他のチームの選手目線からしてもこういう評価だから、本当にサッカー選手としては一流なんだな。


「それにしても、よくそこまでして私を探してくれたものね。布切れ一枚の恩義には過ぎた努力じゃない?」

「いいえ、そうは思いません。思い起こせばあの夏の日、ぴりかさんの指先から漂うスミレの花の匂いが僕を成長させてくれました。それを思えば、僕はこれを絶対にやり遂げなきゃいけないんだって誓えました」


 この時はその覚悟の決まりっぷりに何も言えなくなりましたが、同時にそう言えばその頃うちの洗剤はスミレフレーバーだったなとは思い出しました。


 普段はもっと無臭の奴なんだけどお母さんが買い間違えて、でも一応使い倒して夏休みと9月の初めまではスミレの匂いでした。当事者すら忘れていた事さえもずっと心に留めてくれたんだなと思うと、逆にこちらが申し訳なくなるほどでした。


「マーくんって真面目なんだね」

「よく言われます。それで、僕はぴりかさんの事を好きになったんです」

「えっ」


 ノーモーションからいきなり重大な告白されて、私はイエスもノーもなくてただ耳を疑いました。だって私としてはそういう対象だとは全然思ってなかったから。いや、確かにマーくんの事、好きは好きだけど、それは弟を慈しむお姉さんみたいな感情であって、私がカズくんに向ける感情とはまったく別物です。


 でも多分この好きは、私がカズくんに向けてるほうの好きだ。そうに違いない。真剣そのものな目つきがそれを雄弁に語りかけてきました。


 どう反応するべきなんだろうと戸惑いながらも、とりあえず「あはは、またもう上手いんだからー。私もマーくんの事好きよ」と年上のお姉さんぶったら「茶化さないでください」と、ちょっと怒ったように曲がった口先から言われたので思わず「ごめん」となりました。


「ええっと、ねえ。どう言えばいいのか難しいけど、とりあえず一応は確認しておくね。その『好き』ってのはさ、告白だと考えていいのよね?」

「はい。僕はぴりかさんを心から愛しています。優しくて、美しくて、芳しくて……。ぴりかさんは、今まで知ってるどの女の人とも違いました。あの時から、僕の心に浮かぶのはぴりかさんの事ばかりです」


 こんなのカズくんは絶対言わないぞという歯の浮くような台詞をポンポンと投げかけられて、さすが藤浦の子はこっちの田舎と違って進んでるなと感心しました。弟にしか見えない相手でもここまで本気で想われてると知るとやっぱり何かしら心動くものはあったし、でも首を縦に振る事だけはどうしても出来ませんでした。


「そこまで愛されてるなんて知らなかったな。私も、もし出会う時間がもうちょっと違ってたら気持ちに応えられたかもしれない。でもね、よく聞いてほしいんだけど……」

「知ってます。旗生さんと愛し合っているんですよね」

「あれっ、なんで!?」

「それも旗生さんから聞きました」


 なんとまあ。あの日何の気なしに差し出したハンカチ一枚のせいで私が知らないうちに愛が芽生えてから失恋するまでの一大叙事詩が形作られていたなんて、まったく思いもよりませんでした。そもそもハンカチの事なんてその日のうちに忘れてたわけだし。


 初恋は実らないって言うけど自分の場合はやけにすんなりと実ったので、あれは昔の格言なんだと思っていました。でもいざこうやって実例を見せつけられて、しかも自分が絡む話だなんて……。ちょっと切なくなったけど、それはそれです。私だって不実な女にはなれないから。


「そっか……。でもそれなら話が早いわ。うん、つまり私はそういう事であってね……」

「それでも諦められないんです!!」


 意を決したような叫びが高い天を貫き、いつしか白青い空に薄く散りばめられた鰯雲を蹴散らしました。夏の残香を思い出したように、額からジリジリと汗が流れ出すのが分かります。このプレッシャーから、でも逃げ出してはいけない。


 犬山武士という今まで10年ほどの人生を全力で生き抜いてきた男が持ちうる最大限の誠意を前に私が出来るのは、ただそれをまっすぐに、まばたきさえもせずに正面から受け止める事だけでした。


「はっきり言って、今の僕が旗生さんに敵わないのは知っています。そんな素敵な人に想われているぴりかさんは幸いだとも思います。僕はそっと身を引けばいいって、何度もそう決意しました。でも、僕はどうしても旗生さんと戦わねばならないんです!」

「戦うって……、まずは落ち着こうよ」

「これは落ち着いて何度も考えた末の結論だからもう変わりません。……身勝手な奴だと罵倒してくれてもいいです。でも僕も男だから、サムライならば何もせずに逃げるなんて、それだけはしたくないんです!」


 覚悟は極まっていると、それはよく分かるけど……。今眼前に提示されている主張のすべてを掬い取れるだけの懐は私に備わっていないみたいでした。


 それにしてもこんな可愛らしい顔つきに小さく細い体であっても、その心は徹頭徹尾男の子であって女に生まれた私とは違うんだなと、あっぱれでありかつどこか悲しくもありました。


「そこまで言うなら、今更私がどうこう指図する資格もなさそうだしそれはしないでおくわ。で、どうやって戦うつもりなの?」

「もちろんサッカーの試合で勝負を決めます。僕も旗生さんも、そのためにここにいるんですから」

「そっか。まあそうよね。これで殴り合いで決めるとか言い出したらどうしようって考えてたわ」

「僕たちは不良でも格闘家でもなくてサッカー選手です。そこはフェアにやらないと、ぴりかさんだって嫌でしょう?」

「うん。でもさ、サッカーってチームプレーでしょ? 私だってね、別の球技の経験者だからそれぐらいは分かるわ。まさかチームの勝ち負けで個人のそれを決めようなんて腹じゃ」

「それはありえません!! 今日の試合、僕はスタメンで出ますし、旗生さんもそうでしょう。例えば僕達が旗生さんのチームに勝ったとしても、選手として旗生さんのほうが上なら僕は負けを認めますし、そこは僕もアスリートとして公正な目で判断します。そしてそうなったら、それを証明するサインを出します」


 ちょっと何を言ってるのかよく分からなかったけどとりあえずマーくんの必死さだけは痛いほど感じられたので、腰を折るような言葉は自重しました。


「それで、カズくんにはそれもう言ってあるの?」

「いいえ。僕が勝手に決めた事ですから、だから知ってるのは僕とぴりかさんだけです。僕が今まで生きてきた誇りと青春の全てを賭けた、たった一度だけの戦いを全てぴりかさんに捧げます。だから最後まで見守っていてください!」

「青春にはまだ早いでしょ」

「では、そろそろミーティングがあるので。グラウンドでまた!」

「あっ、ちょっと待って!」


 一方的に重たい言葉を私にぶつけまくったくせにこっちが何か言おうとする間もなく、マーくんは持ち前の俊足を活かして疾風のごとく私の目の前から消え去っていきました


「まったくもう、勝手な事ばっかり言ってからに。これだから男ってやつは」


 私は肩をすくめつつ、戻ってきたハンカチでようやく汗を拭いました。本当言うと長く使ってて愛着あったので戻ってきたのは嬉しかった。でもこのハンカチ一枚からこんな因果に巻き込まれるとは、運命の不可思議さをほとほと思い知りました。


 それからしばらくは川べりを散歩とかして時間を潰しつつ、さっきの出来事を頭の中で反芻していました。どうするかなあ。多分マーくんは諦めるために私を呼んだんだろうけど、万一やっぱり諦められないって言い出したら。


「まあ、いっか。その時はお姉さんが鬼になれば」


 とりあえず私も私なりの覚悟を決めつつ、そろそろ試合だなって頃合いを見計らってグラウンドに降りると「また会えたねぴりかちゃん」と若干しわがれた低音が私の体を捕まえました。振り向けば夏の日と同じ、白いチューリップハットを被った四十絡みのおじさんが小さく手を振っていました。


「あっ、スカウトのおじさん! こんにちは」

「ははは、覚えていてくれたんだね。嬉しいな。それで今日はボーイフレンドの応援かな?」

「いえ、えーっと……」


 前回はともかく今回に関してはまた別の動機もあったけど、ここで込み入った事情を話すのも面倒だしとりあえず「はい、そうです」という事にしておきました。


「まあそれで賀内と、向こうの、白色に藤色でYって書かれてるほうの……」

「藤浦ヤングボーイズだね」

「はい。その試合を見ようって事になりまして。それでちょっと聞きますけど、この両チーム、どっちが強いですか?」

「それはもう、はっきりと藤浦だよ。賀内は賀内町単独だけど、こっちは市内の選抜チームだからね。選手層は比較するのがかわいそうなぐらいだ」

「そんなにですか。でも賀内には、えっと、カウボーイじゃなくて……」

「確かに賀内にはフィールドの牧童こと旗生くんがいるけど、藤浦にも柴木くんがいるしね」

「柴木?」

「そう、柴木強剛くん。ほら、あの10番キャプテン」

「ああっ! あのデブコーラ!!」」


 スカウトのおじさんが指をさした先にいたのは、あの時のクソ偉そうなコーラがぶ飲みデブ野郎でした。そのふてぶてしい顔と肉体を見た途端、あの時の屈辱がマグマのようにブワッと盛り返したから思わず叫んでしまい、スカウトのおじさんに不思議そうな目で見られました。


「いや、こっちの話で……。それで、その柴木くんは旗生くんよりも上手いんですか?」

「これがまた難しい質問でね、二人ともチームではゲームメーカーをやってるけど、簡潔に言うと柴木くんはゲームメイクがチーム1うまい。一方で旗生くんはゲームメイクもチーム1うまい。ここが違いだな」

「それはどういう意味です?」

「例えばドリブル、シュート、パス、その他サッカー選手として諸々の能力を数値化した合計なら旗生くんのほうが数字は大きくなるだろう。ただ純粋にゲームメーカーとしての能力だけを抽出すると柴木くんに軍配が上がるんだ。柴木くんは常に視野が広くて冷静だ。旗生くんはテクニックこそ柴木くんに勝るとも劣らないけど、感情が高まると猪突猛進になる傾向が強いからね。その分突破力は凄まじいんだけど、そういう意味では本来フォワード向きなのかなと見ている」


 最初はよく分からなかったけど、そう説明されるとなるほど確かにと思えてきます。特に集中したら猪突猛進になるって話とか、普段でもそうだからやっぱりサッカーでもそうなんだなというとてつもない納得感がありました。


「結局はチーム力の差なんだけどね。ヤングボーイズはパサーもいる、背が高いディフェンダーもいる、点取り屋もいる。賀内はそれを旗生くん一人で賄うしかない。そこが厳しいところだ」

「なるほど……。あっ、そう言えば、あっちの小柄な、えっと、十八番! あの選手はどうなんです?」

「犬山くんだね。四年生なのにヤングボーイズに選ばれてるだけあって、面白い選手だよ。テクニカルなフォワードでね、最初の頃は先輩に遠慮してるのかもう一歩だったけど夏休み頃からかな、先輩にも臆せずボールのコースを要求したり、だんだんといい意味でのエゴが出るようになってきた。やっぱりサッカー選手、遠慮しててもいい事はないからね」

「なるほど。やっぱりそうなのか……」

「んっ、知り合いだったのかい?」

「ええ、ちょっと縁がありまして」

「なるほどね、そういう絆は大切にしないといけないね。ところでぴりかちゃんは、何かスポーツ経験あるのかな?」

「はい。一応、野球とかやってました」

「ほう、野球」

「もう人数不足で潰れちゃいましたけどね。ポジションはサードで、監督からも『サードの女と言えば森下愛子か六川ぴりかか』って褒められた事があるんです」

「ふはっ!」


 おじさんが急に噴き出したのがその時は不思議でした。でも私も森下って人については名前を知ってるだけでどういう人なのか知らなかったので、もしかして知っているのですかとそれを尋ねると「一応観た事もあるしね」との答えでした。


「どんな選手だったんですか?」

「いやはや、その監督さんもなかなかいい趣味してるなあ。とりあえず美しかったとは言っておくよ」

「えっ、うふふ。そうですか。森下さんって、そうなんですね。私も守備はうまいって言われてて、やっぱりそういうタイプだったんですかね?」

「うーん、むしろ攻めすぎと言うかねえ……」


 世代間の格差ゆえにちょっとずれた会話になりましたが、とにかくそんなやりとりをしているうちに整列が終わり、両チームの選手たちが土のグラウンドに散らばっていきました。そしてキックオフ寸前、柴木くんがカズくんに近付いて何やら言い出しました。


「おい、旗生!」

「なんだい柴木くん」

「お前さあ、彼女いるんだってなあ」

「ああ、うん。ちょうど今日は来ててね、ほら、あれ!」


 こらカズくん、いきなりこっち指差すなよと恥ずかしくなったけど、でもその次に発せられた柴木くんの言葉はそんなセンチメンタルな感情を簡単に吹き飛ばすほど非常識極まりない代物でした。


「ふーん。変な趣味してんな」

「はっ?」

「カエルみたいな目つきだし」

「何で? バッチリ二重なだけだろ」

「変な髪型だし」

「どこが? ちょっと髪質が太い程度だろ」

「キャプテン、言い過ぎじゃないですか」

「ポチは黙ってろ!」

「ううっ……」

「返事!」

「は、はい」

「よし。それと性格も腐ってるし。あんなブスよく捕まえたもんだな」

「てめえあんまり舐めてるとぶち殺すぞ!」


 ここに至って審判の人から「私語は慎みなさい」と注意を受けましたが、柴木くんの心に反省という単語が一切存在しないのはその薄笑いを浮かべた表情からも明らかでした。相手エースの心を乱すための安い挑発。しかしカズくんは堂々と受けて立ちました。


「酷い奴だな君は。俺の悪口ならいくらでも言ってくれていいけどね、ぴーちゃんの悪口言うような奴は絶対に許さないぞ!」

「へっ、そいつは悪かったな。せいぜい彼女に恥を晒さないように頑張りなよ!」

「ああ、必ず君を倒す」


 そして試合開始となりましたが、ゲームは序盤からヤングボーイズのペースでした。でもそれも当然で、そもそも根本的に実力が違う。体格もマーくんとか一部除くと平均的に大きいし、パススピードからボール持ってる時の落ち着きからドリブルの質から、何もかもが明確に藤色優勢でした。


 賀内の選手がボール持ってもトラップが大きかったりであっさり奪われまくり。特に今日はスタメン出場してるオーバくん。この前の運動会でも私より足遅かったし運動神経鈍いイメージだったけどやっぱりこの程度だったか。


 とは言えオーバくんが悪いんじゃなくて、そんなオーバくんでさえもスタメンで出られる程度の選手層の薄さこそが我ら賀内の苦しさを如実に表している、そんな一例に過ぎません。


「これは……。ちょっとまずくないですか?」

「うーん、そうだねえ。旗生くんも守備に奔走してるからギリギリで破綻は免れてるけど、そうすると今度は賀内の攻撃がつながらなくなるからねえ」

「他に誰かいないんですか?」

「厳しいねえ。このまま無失点で抑えられたらちょっと奇跡的だなあ」


 優しいおじさんでさえこんなギリギリの言い方になるぐらい力の差があったので、案の定10分たたずに失点を喫してしまいました。


 事の顛末は、まずグラウンドの真ん中あたりで柴木くんがドリブルしてて、でもカズくんのマークによってスピードは緩みました。突破は難しいからバックパスに逃げるかと思いきやいきなり前線にロングボールを蹴りこみ、そこにタイミングよくマーくんがまっすぐ走ってきました。


「うまい!」


 おじさんが叫んだ次の瞬間、一気に間を詰めるキーパーサキちゃんに対してマーくんは左足で急ブレーキをかけたかと思うと、右足のかかとで落ちてくるボールにぽんと合わせました。曲芸みたいな合わせ方は確かにテクニカルだったけど威力はなし。これなら簡単にキャッチ出来るはず!


 なのにサキちゃんは魔法をかけられたみたいに一歩も動けず硬直していました。蛇に睨まれた蛙とはまさにこれか。唯一動かせる首だけがボールを追いかけたところでその進行を止められるはずもなく、みすみすと失点を許してしまいました。


「あーもう、しっかりしろサキちゃん! キーパーなら動け!」

「いやあ、そうは言うけどねえぴりかちゃん、今のを止めるのは相当難しいよ」

「へっ、そうなのですか?」

「そうだとも。今のシュート、キーパーからするとボールもそれを蹴った右足も、犬山くんの体に隠れて見えなかったんだよ。飛び出しの反応は良かったし、普通にトラップしてからのシュートなら防げただろう。しかし想定外の動きでボールの出処が掴めなかった。いや、掴ませなかった」

「ええ、つまりマーくんはサキちゃんを惑わすための動きをあの一瞬のうちに行ったって事ですか。それも偶然じゃなくて全部意図的に」

「うむ。つまりこれは犬山くんのテクニックと柴木くんの正確なパスを褒めるべき場面であって、この世代の選手にあれを見破れと言うのはちょっと酷な注文だよ」

「ふーむ、なるほど。マーくん凄いのね」


 サッカーの奥深さの一端をまたひとつ知りましたが、それにつけても再現のきかないグラウンド上、しかもゴール前において瞬時にここまで計算し尽くす冷徹さを持った相手にオーバくん出すようなチームがかなうはずもありません。ここからもポンポンと失点を喫してあっという間に三点差。うん、まあそうだよね。でもそれで諦めるカズくんではありませんでした。


「……キャプテンちょっと」

「すまん。プラン通りに守りきれなかったけど今日は相手が強すぎる」

「それはいい。ところでキャプテン、サッカーはチームプレーだよな」

「そりゃそうだけど、何だよ今更」

「だから本当はあんまりやりたくはなかったけど、今日はどうしても勝たなきゃいけない相手だから……、封印を解こうと思う」

「おお、やっと決めてくれたかい大将!」

「だから大将はやめろって。とにかくこれからは俺にボールを集めてくれ!」

「よしきた!」


 点差を付けられて意気消沈するどころか、重厚な輝きをより一層増した瞳の奥に揺らめくのは彼が生まれたその瞬間から燃え盛る情熱という名のエネルギーを具象化したかのような炎でした。そして前半終了間際、サキちゃんがコーナーキックをキャッチしてピンチを防いだその瞬間、炎が急激にスパークしました。


「よっしゃ! 後は頼むぜカズくん!」


 サキちゃんが相手陣内めがけて思いっきりボールを蹴り込むと、その落下地点にいたオーバくんがまたボールを前へと送り出ました。そして最前線で待ち構えるカズくんは軽やかに飛翔したかと思うと、柔らかくしならせた左足に全身全霊のパワーを込めて、弧を描き落下してくるターゲットを打ち貫きました。


「カズくん決めちゃえ!」

「任せろ! うおおおお!!」


 まるで矢を射るように放たれたその一撃は炎より鋭い刃となって相手ゴールネットへと突き抜けていきました。鮮やかな反撃の一牙。私も「やった!」と手を打ちながら立ち上がったけど、隣に座っていたおじさんは目を見開き、まるで雷に打たれたかのように打ち震えていました。


「むう、このプレーは……!?」

「どうしたんですかおじさん」

「いや、今から二十年ほど前、日本で一番強かったチームの得意技を思い出したんだよ。完成されたストライカーが前線にいた場合、これを止める術は存在しない。これで賀内に割り切られると後半、もしかするかもしれんな」


 その予言通り、後半は賀内のほぼ全員が守備に専念して奪ったボールは唯一前線に残ったカズくんにお任せというとんでもないゴリ押し戦術を披露して、しかもカズくんがまさしく獅子奮迅の大暴れを見せてついに同点に追い付いてしまいました。


「これだよこれ! 旗生くんのこの集中力! 小学生に止められるはずもない!」


 穏やかだったおじさんの声さえも荒らげさせるほどの驚異的パフォーマンス。凄いスピードで走りながらちゃちゃっと足技を繰り出して、あっという間に相手を置き去りにする姿はカウボーイというよりもはやマジシャンか。どう動いてるのかさっぱり見当もつかないけど、とにかく凄い。これがカズくんの本当の姿なの?


 鬼気迫るカズくんの破壊力に恐れをなしたか、藤浦はオフェンスの主軸であるはずの柴木くんとマーくんをカズくんのマークにつけました。


「監督は焦っているのか? フィジカルのある柴木くんはともかく犬山くんまでディフェンスに回したらいくらヤングボーイズでも攻撃が回るまい」

「そこまでしてカズくんを潰したいんですかね」

「確かにその価値はあるがな。ただここからは多分見ていて面白い展開にはならないぞ。凄惨な試合になりそうだ」


 おじさんの懸念通り、ここからの試合展開は中盤におけるカズくん潰しがメインとなっていきました。カズくんがボールを持つたびに体当たりのようなチャージや強烈なスライディングがガンガン飛んできて、さしもの大将もぐるぐると土の上に倒れ伏すばかりでした。


「うわあ! ファールじゃないの!?」

「いや、確かにボールに行ってはいる。それにしても犬山くんは凄まじい気迫だ。ここまで泥臭く戦える選手だったとは」

「これじゃもう喧嘩だわ」

「確かにこの気迫、ただのスポーツの域をはみ出しつつあるようにも見える。まるで決闘だな」

「マーくん……」


 カズくんとマーくんの肌が、ユニフォームが、瞬く間にグラウンドの土の色に染まっていきます。これ以上進めば、赤い鮮血さえ流れかねない心と心のつばぜり合いが、グラウンドの隅にいる私達の耳元にまでもはっきりと届いてきました。


「はぁはぁ、さすがに旗生さんは強い。でも負けないぞ。最後まで食らいついてやる」

「くっ、やるな! ここまで密着マークされたのは初めてだ。だがこの程度でくたばる俺じゃない! 勝負だ!」

「望むところ!」

「おい落ち着けよポチ。ただでさえフィジカルじゃお前は不利なんだ。ぶつかり合いも程々にしねえと」

「キャプテンは黙っていてください!」

「なっ、何だとてめえ!?」

「叱るなら試合後にどうぞそうしてください。でも今はあの人に、旗生さんにはどうしても負けられないんです!」

「……そうか。ふっ、上等じゃねえか。だったらやりたいようにやれ、マスラオ!」

「はい!」


 あの柴木くんでさえ退かせるほどに荒々しいマーくんの闘志に呼応して、カズくんもまたその情熱を最大限にまで高めて次の血斗が繰り返される。その姿はまるでサッカーが個人競技なんだと錯覚させるほどの激しさでした。


 とにかくふたりとも無事であって。当事者でもある私はただそれだけを願いながら、眼前で繰り広げられる死闘を見つめ続けました。


 ジリジリした潰し合いの中で、試合時間はもはや数秒。賀内も藤浦も攻め手がなくこのまま引き分けかという雰囲気も漂う中、最後の一瞬に賭けるべくカズくんに向けてロングボールが蹴り込まれました。すかさず柴木くんとマーくんが距離を詰めてきたものの、カズくんは躊躇なくその激戦地へと身を躍らせました。


「てめえなんぞに!」

「負けないぞ!」

「俺は勝つ! ぴりかのためにも必ず勝ってみせる!!」


 三つの叫びが轟く空中戦、誰よりも高く羽ばたいたのは水色のユニフォームでした。カズくんは肉体も怨念も秋風も全てを引き連れて、体ごと心ごとボールをゴールネットに叩き込みました。その瞬間、タイムアップを告げるホイッスルが夕暮れに染まった空の上を覆いました。


「まるで嘘みたい……!!」

「ああ、見事な勝利だ」


 私もスカウトのおじさんも、それ以上の言葉は何もありませんでした。ただ息を切らして、眼前で終焉を迎えた争いの顛末を見守るだけでした。


「大丈夫? 立てるか?」

「はい。ありがとうございます」


 すべての視線が集まったグラウンドの右側で、カズくんは自分の右の地面に倒れ伏したマーくんに手を差し伸べました。敗者は勝者の手を握り、しかしその表情はともに笑みを浮かべていました。


 そうか、これこそが試合前にマーくんが言ってたサインなんだなと、私は言われてもないのにはっきりと理解出来ました。そこには怨念の欠片もなく、ただ純粋に相手を称える感情だけが泉から湧き出る水のように溢れていたからです。


「完敗です」

「いや、いい勝負だった。君も立派な男だな」

「……後は頼みます」

「ああ、任せろ」


 汗と埃と太陽と、男と男によってのみ描き出される点描画の優しさ、美しさ、芳しさに、私は少し羨ましさを覚えました。そんな私のほうを振り向いたマーくんは、いつの間にか朱鷺色の薄衣を纏ったオレンジの空の下、満面の笑顔で最後のメッセージを私に送ってくれました。


 マーくんって本気で笑うとえくぼが出来るんだ。そんな事に初めて気付きつつ、私も同じ顔を返しました。いつかまた、きっとまた出会える日のために。

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