10月
修学旅行、秋風に鰯雲たなびくせっかくの古都なのにまるで初雪の犬みたいにはしゃぐ彼らは一体何を学ぶのか。
というわけで、私達のクラスは修学旅行で関西を回っています。昨日の一日目は京都、明日の三日目は大阪で今日二日目はここ、奈良県をあれこれと巡っています。
東大寺では柱の穴をくぐり抜けたけど、うちのクラスにデブは一人もいないので全員がするすると通り抜けてしまい、何となく盛り上がりがないと察したか最後にくぐったオーバくんが「うわー抜けない」と引っかかった演技をしてたけど、正直滑ってました。
そして次は興福寺、だったかな。ちょっと自信ないけど。東大寺じゃないし法隆寺は斑鳩だから別物。この斑鳩って地名は完全に覚えました。修学旅行のくせにそれ以外の学習が覚束ないのは我ながら情けないけど、それも男子どものおふざけばっかりがニューロンを支配してしまったからです。
「見て見てー! せーの、アシュラゾー!」
「なーにやってんだか」
「しょーもな」
「男子はしゃぎすぎ」
「いやいやいや、格好良いだろ! 何ってったって国宝だぜ?」
カナちゃんの、マロンちゃんの、ヒロちゃんの冷徹な視線がビシビシ飛び交う中、私は一人喧騒に加われずにいました。本当なら言いたい事はいっぱいあったんだけど、それも全部噛み殺してメランコリックを気取ってみせました。
というのも、旅に出る前にちょっとカズくんと仲違いしてしまいました。それが元に戻る事なく今回のイベントに突入したから、一番近くあるべき人を一番遠い人のように見つめるしかなくなってしまったんです。
事のあらましは以下の通り。まず前の日曜日、例によって例のごとくカズくんとデートに行っていました。ただ9月の件もあるので親には「カナちゃんたちと修学旅行で着るための服買いに行く」って事で了承を得ていました。だからせめて一着ぐらいは服を買う必要がありました。
「でさ、こういうのはどうかな?」
「あー、いーんじゃないの?」
「それともこっち?」
「じゃあそれでいいんじゃないの?」
私は真剣に考えました。時間をかけてじっくりと考えました。それも全ては愛する人のためだと思えば集中力は全然途切れませんでした。それが独り善がりじゃないかと思える余裕があればこうはならなかったものを。
「じゃあ、これなんか、可愛くない?」
「ぷっ」
カズくんの唇の先から少しだけ吹き出した風が、私のエンジンに火を着けました。カズくんもまずいと思ったか、取ってつけたようなわざとらしい咳払いで誤魔化そうとしてももはや時は元に戻りません。むしろそんな白々しい演技がガソリンとなって、一度点火した怒りの炎をかき回すばかりでした。
「あのさあカズくんねえ、真面目にやってよね! さっきから相槌が雑なのは見て見ぬふりをしてあげてたけどさ、いくらなんでも笑われる筋合いはないわ!」
「いや、だってさ……、ふふっ。そんなハートマークビンビンの服とかさ。それじゃまるで、女の子みたいだから」
「また笑った! 女の子が女の子みたいな服着て何が悪いのよ!」
「だったら普段からもっとそういう服着てればいいだろカナちゃんみたいにさ。普段全然男だか女だか分かんないような服ばっかり着てるくせにこんな時だけそんなの選んでも全然似合ってねーんだよ!!」
「だからこういう服買いに来てるんでしょ! 大体カズくんせっかくのデートだってのにそんないつもと変わらないださい服着てさ、もっとこの時を大事に思ってたら絶対そうはならないよね!」
「ださいだと! ふざけんなよ! そもそもせっかくのデートで延々荷物持ちやらされる身にもなれよ!!」
売り言葉に買い言葉でお互いだんだんと口調が荒くなっていき、ついにはバカだのアホだののレベルまで落ちていきました。もはや人の目があるなんて考えつきもしないほど、怒りが二人の心の中を蝕んでいました。
「分かった。そっちがそうならこっちだって考えがあるぞ」
「考え? カズくんって考えられたんだ?」
「ええい、彼女だからって好きにさせてりゃいい気になりやがって。分かった。じゃあもう二度と口聞いてあげないんだからな!」
「勝手にすれば! そんなの私の方から願い下げよ!」
「ふん!!」
「ふん!!」
「じゃあ俺もう帰るから」
「あっそ。じゃあせいぜいお気をつけて!」
「ぴーちゃんのバーカ! ぴーちゃんなんてもう恋人でも何でもないからな! 一生後悔すればいいんだ!!」
つまらない捨て台詞を残して、カズくんは走り去って行きました。何が一生後悔よ。誰がするもんか! その瞬間だけはそう思っていましたが、試着していた服を脱ぐために入ったフィッティングルームの鏡で自分の浅ましい顔を三面から眺めた時、己の愚かさを呪わんばかりに後悔する心が芽生えました。早すぎる。
ああそうだ、どうせ電車は一時間一本だし、今から駅に走れば間に合うはず。そうは思いつつもまだ一着も服を買ってなかったのでまずは何か買ってからにしようと、なぜかそっちのばかり気を取られて足を鈍らせました。
冷静に考えれば愚かな判断。でも今さっき冷静さを欠いて喧嘩したばかりなのに即座に落ち着くのは無理な話で、結局「それより服だ。どれにしようか」なんて無駄に時間を掛けた挙句、結局可愛くもないし色気もない黄色いシャツでお茶を濁してしまいました。そこから特にあせらず駅に向かいましたが、ホームには誰もいませんでした。
「つまらない奴。どっちが大事なんてすぐに分かるのに、なんでこっち選んだかなあ。馬鹿だな」
ヒュルリと吹き抜ける秋風がうなじに触れた時、泣きたくなるほど情けない気持ちでいっぱいになりました。早く謝らなきゃ。でも時が経つにつれて、また別の考えがむくむくと頭をもたげてきました。
「で、でも原因はあっちだし。それにカズくんのほうから一生なんて言葉を口にした以上は、そんなあっさりと翻すはずもないし、すぐ負けを認めるのも癪だし……」
フィジカルとかメンタルとか色々原因はあったけど、とにかくその日の私はいつもよりずっと頑なでした。結局「この件については、確かに私も悪いけどカズくんのほうがもっと悪いんだから、カズくんが謝ったら私もすぐ謝ろう」というところに自分の中では落ち着きました。
みっともない責任転嫁だけど、この程度の原因もしょうもない喧嘩だしすぐにでも、最低でも修学旅行までには余裕で解決すると思っていました。でもカズくんも負けず劣らず頑固なので全然謝る空気が醸成されず、それで未だに冷戦が続いているわけです。世界情勢よりトロ臭い恋愛情勢なんて。
そしてもちろんこの冷えた空気を友達に察知されないはずもなく、ずっと突かれています。
もちろん昨日も色々言われました。金閣寺、清水寺、耳塚とかいう意味不明すぎて逆に頭に残ったモニュメントなどを巡った後に辿り着いた旅館には大きなお風呂がありました。
あっち行って今度はこっちというタイトな日程から開放されて身も心も温かいお湯に程よく溶けた頃合いを見計らって、私という被告に対する弾劾裁判が幕を開けました。
「単刀直入に言うとね、カズくんとはどこまでやったのって話よ」
「べ、別にさあ、どこまでって……。言わなきゃ駄目?」
「うん駄目。春からあの手この手の策を授けて二人の関係の発展を手助けしてきたんだから、それぐらい知る権利はあるでしょ。ちなみに個人的には夏休みにはいっぱいチャンスもあったし、早ければもう行き着くところまで行っててもおかしくないと見てるけど」
「行き着くところって……」
「そりゃもう、セックスに決まってるでしょ」
誰もがうっすらと頭に浮かべつつもあまりにも破廉恥なので口には出来なかったその言葉をあまりもストレートに言い放つ姿はかえって潔ささえ感じさせるほどでした。ヒロちゃんもマロンちゃんも「おおーっ」と歓声を上げて大いなる期待を持った瞳でこっちを見つめてくるのは、どうやら逃げ場はないと悟らせるには十分でした。
「で、やったの?」
「さ、さすがにそんな不埒な事まではやってないって」
「なるほどねー。じゃあそこまで不埒じゃないところまではやってたと」
「むう……」
「例えば初体験はまだだけどキスぐらいはとっくにクリア済みと?」
「ええっと、ど、どうだったかなー。は、ははっ」
「正直に答えなよぴーちゃん」
「そーよねー。この学年で恋人いるのぴーちゃんだけなんだからさー。これも勉強の一貫よねー」
「だなあ。後学のためにもさ、素直に言っちゃいなよ」
「マロンちゃんもヒロちゃんも他人事だからってよくもまあ……。はい」
「おおお、ぴーちゃんやるじゃん!」
「凄いなー。いつやったの? どこで?」
「だ、だからさ……!」
ただでさえ嘘ではぐらかすのは下手なのにこの一対三の完全アウェー状態では、私としても腹をくくるしかありませんでした。
「えっとね、夏休みにね……」
「おおーっ!」
「西小にサッカー見に行った時」
「おおーっ!!」
「試合が終わって帰ろうかって時にいきなりね、向こうがね」
「おおーっ!!!」
「いや、一言ずつに囃し立ててくれなくてもいいから。喋り辛くなるし」
「ごめん無理。だって気になるじゃん。ねえヒロちゃん」
「ねえマロンちゃんねえ」
悪意ない邪気に攻められて、私は少し顔をしかめました。別に隠すつもりはない恋心だけど、可能ならもうちょっとそっとしておいてほしいなって思う時はたびたびあります。ましてや今みたいに喧嘩の真っ最中なんて。それで延々と私だけが被告席につくのも疲れたので、どうにか話をそらそうとしました。
「そういえばさ、カナちゃんって大阪から来たんだよね?」
「とりあえずはね。本当に生まれたのはまた別のところだけど大阪行って、それでこっち来たのよ」
「へー、そうだったんだー」
「じゃあ元々どこにいたんだ?」
「それはね、マロンちゃん。……やっぱ言っても分かんないからいっか」
「いやいや良くないって。それ言うなら船月市だって死ぬほどマイナーだからさ。言ってよ。ねえ」
私に対してはやたらと厳しく追求するのに自分の話だと逃げるのは筋が通るまいと、別にそんな知りたくて知りたくて仕方ないって話でもないのにちょっとしつこく追求すると案外素直に白状してくれました。
「じゃあ言うけどね、まず生まれたのは八潮市」
「やしおし?」
「何県か分かる?」
「えっ、えっと……」
「分からないよね。当然よね。そこから大阪に行ったわけだけど、松原市って知ってる?」
「あー……。マロンちゃん、どう?」
「ごめん。あたしもあんまり……」
「ヒロちゃんも?」
「うーん。そこって何か名産とかある?」
「ねっ、そういう事よ。わざわざ本当の事を言って謎をばらまくよりざっくり大阪って事にしたほうがみんな幸せになれるでしょ? そこはうちだってちゃんと考えてるんだから」
後から調べたけど、内陸県のくせに海っぽい名前を付けるセンスはなかなかのものだなと感心しました。ただ松原市ともども、何が売りなのかとかはよく分かりませんでした。まあうちの田舎と比べると何でもあるんだろうけど、ただ旅行なんかで行くような場所ではないのはなって感想は持ちました。
とにかくそうやって宴もたけなわになったところで壁の向こう側からの使者が不意に訪れました。
『おーい女子聞こえるー!?』
カズくんの頭すっからかんな高音が鏡やタイルに乱反射して私達の耳に届いたけどちょっとうるさすぎたので、みんなの代表者としてマロンちゃんが「よーく聞こえてるからもうちょっとボリューム下げてもいいよー!」と返すほどでした。
『分かった! じゃあこれぐらいの音量にするけどさー。えっとねー、いっ、いっぱいのいをおに変えて言ってみてー!』
はあ、しょーもな。私は全身が脱力する感覚に襲われました。
誰が答えるかアイコンタクトの末、じゃあ私がとうなずいたカナちゃんが明朗な声で「おっぱお!」と答えたところ、壁の向こうから落胆のため息が漏れ聞こえてきました。今どきこんな手に引っかかる小学生がいてたまるか。
でもそれで一件落着となれば良かったのに、カナちゃんときたら調子に乗っていきなり必要のない個人情報をベラベラと喋り始めたので、私は慌てて湯船から飛び跳ねました。
「そういえば今ざっと見たところうちらで一番おっぱい大きいのはぴーちゃんよ! ブラなんかこないだまでAカップだったのにいつの間にかBカップになってたしねー。それでこっちからも問題出すけど、今日のぴーちゃんのパンツの色は何色だったでしょう! 1.白! 2.ピンク! 3.実はノーパンだった! さあどれだ!」
『分かった! 3番のノーパンで!』
「ふざけんなよサキちゃん! それとカナちゃんもやめて!」
「惜しい! 答えはねー、んぐっ! な、何よ!」
『おっ、今の話でカズくんぼ、ぎゃああっ!!』
オーバくんの声はここまでで途切れ、代わりにバシャーンと水に質量が叩きつけられる音が響きました。温泉の熱気が心のネジを緩めたか、あっちでもこっちでも修羅場が繰り広げられているみたいでした。
「何考えてんのよカナちゃん。時々カナちゃんの事が分からなくなるわ」
「いやーごめんごめん。単なる布の色でそんなに焦るとは思わなかったからさ」
「いやいや焦るわ! それにしてもあっちも何か用があるのかと思ったらつまらない事言ってるし。なんであんなのと付き合ったんだろうな」
「ふっ、相変わらず贅沢な物言いよねえ。とっくに分かりきった答えをいつまでも探すふりはそこまでにしときなさい」
カナちゃんの言葉はまったくもって寸鉄人を刺すもので、私は何も言えなくなりました。
「そう言えばさ、さっきうちが男子にした質問だけどさ、当然カズくんはもう答えを知ってるんだよね?」
「はっ? し、知ってるわけないでしょ! 多分。……見せた事とかないし」
「本当に? 絶対に偽りないって誓える?」
「もちろん誓えるわ。ってか何言わせたいのよ」
「だからぴーちゃんも心を偽って意地を張らずにさっさと仲直りしなよって話よ。変にこだわって傷口を広げるんじゃなくてさ、まずは認めようよ」
「いや、認めるって言うかさ……。いやでも、だって、原因は向こうだし……」
「そこよそこ。ここまで来るともう相手がどうとかじゃないでしょ。仮に本当に原因がカズくんだとしてもね、それを許さないのは女の罪って昔の人が言ってたわ」
「あたしもカナちゃんの言う通りだと思うな。ここは女の側が優しさを見せようぜ」
「いや、そうは言うけどさあ。カナちゃんもマロンちゃんも事を簡単に考えすぎてるわ。平たく言うとね、どう言えばいいか分からないの」
「でも日を開けるほどもっと言いにくくなるでしょ。気持ちが変わってないなら言い方なんて問題じゃない。そんな些細なところにこだわって今勇気を出せなきゃ、それこそ手が付けられなくなるわ」
「この間生徒会の仕事で残ってた時に藁科先生も言ってたぞ。『ぴーちゃんとカズくん、心配よね』って」
「えっ本当に! 先生も?」
「いやいや、クラスの人間関係把握してない担任なんていないって」
「しかも七人だもんね。そりゃ筒抜けよね」
「そっかぁ。知らないうちに二人だけの問題で済まなくなってたわけか。となると、本格的にどうにかしなきゃいけないわけね……」
「でもまあ大丈夫でしょ。ぴーちゃんの肉体にはカズくんを立ち上がらせる力があるんだから、いざとなったらそっち使って」
「だからそういうのやめろって!! ……ごめん」
「言う相手が違うでしょ。それ、早く言ってやりなよ。難しい言葉じゃないでしょ」
「うん。そうだけどさ……」
こんなしょうもない争いがすでに大人までも巻き込むところまで進んでいるとは、さながら現代のゴーストップ事件か。もうバツが悪いなんてもんじゃありません。修学旅行を本格的に楽しむためにも明日こそ、あるいは今日こそ仲直りしようと心に決めた夜でした。
そして今日に至るけど、やっぱりなかなか言い出せずにいます。それで奈良と斑鳩は寒いまま終わって、今日の最終日程となる明日香村に到着しました。
ちょうど穂先の金色が風に揺れる周辺を彼岸花の毒々しいまでの赤が囲む季節で、まさに日本の美しい原風景が広がっているみたいでした。
「はい、じゃあここからフリーになるんで、各自お散歩でもしましょうね」
担任の藁科先生のアバウトな指示も、まさか私達のために便宜を図ったなんて事は、ないでもないような気がするのがちょっと恐縮です。
それでとりあえずクラス全員で散策を初めたけど偶然か必然か「じゃああたしらはこっち行くから」「ちょっと前のところまた見に行くわ」とかみんなが次第に散り散りになって、気付いたらカズくんと私だけが同じ道を歩いていました。
(ぴーちゃんついてくんなよ)
(そっちが勝手に私と同じところ歩いてるだけでしょ? 嫌ならあっち行けば?)
(誰が! そっちこそあっち行けよ)
(なんであんたなんかに指図されなきゃならないの! 私は私の道を行くだけよ!)
(だったら俺の道をパクるなよ!)
(それはこっちの台詞!)
口を利かないと言ったからには実際に喋ってるわけじゃないから、実際に明日香の棚田に響いていたのは足音と風が穂を揺らす音ばかり。私達は目線で喧嘩をしながら同じ場所を同じスピードで歩いて行き、やがて同じ場所で立ち止まりました。
チャンスだ。今こそ言える気がする。いや、言わないと。言わなきゃ。でもどう言えばいいんだろう。牽制するようにカズくんの横顔に臆病な目線をチラチラと数回ぶつけてみても、カズくんの視線は目の前に広がる金色の草原を凝視して、まるでブレる事はありませんでした。
「……綺麗だね」
そんな折、突如カズくんが口を開きました。やはり正面を向いたままに。
「な、何よ! 一言も口を利いてやらないんじゃなかった!?」
未だにつまらない強がりを演じ続ける私の心の中を見透かすように「独り言だよ」と節を付けてはぐらかすカズくんに、私はそうか、その手があったかと手を打ちました。
「な、なんだ……! 独り言なら仕方ないわね……」
そう、独り言だから、偶然近くにいる奴に聞かれたところでそれは会話にはならないし……。心の中でそんな言い訳をしながら、私も「独り言」を少し大きな声でつぶやきはじめました。
「せっかくの修学旅行なのに、なんでここまではあんまり面白くないんだろうって考えると結局自分なんだよね。もっと素直になれば良かったのにって。散々言われたわ。昨日もカナちゃんとかみんなから。それと先生も心配してるんだって。独り言だけど」
「馬鹿だよ、本当に。俺だって分かってるよ。どうすればいいのかなんて。とっくに見え透いた答えを一言で終わるのにつまらない意地を張ってここまでダラダラと長引かせて。しかもせっかく日本の原風景なんて言われてる場所でだよ。独り言だけど」
「日本人ならだいたいみんなこの金色の草原に抱かれて生きてきたんだよね。大事にしないといけないものってあるよね。独り言だけど」
「もうちょっとしたら刈り入れ時でお米になって、それを食べてここまで大きくなったんだって思うと、そんな場所まで来てつまらない諍いしてる場合じゃないよ。独り言だけど」
「……これも全部私の責任よ。あの時、自分の事ばっかり考えて、カズくんがどう思ってるとか気付かなかった。そのくせつまらない事で意地を張って、それが巡り巡ってクラスのみんなにも迷惑をかけるんだから。独り言だけど」
「それは違うよ。あれは俺が悪い。あの時帰るって言ったからすぐ帰ったけど、駅に着く前からもう後悔してた。引き返そうと何度も考えたけど、それが出来なかった。無駄に意地を張るから……、つまらない奴だよ。独り言だけど」
「私もすぐ追いかければ多分間に合ったと思うけど、ずっともたもたしてて。どうしてあの時そうしなかったんだろうってずっと悔やんでた。独り言だけど」
もうとっくに独り言で済ませられる段階を超えていたけど、それでもなお目線は棚田に向けたまま、体裁だけは取り繕って「独り言」を続けていました。お互い強情だからなかなか引かない。喧嘩も長引くわけです。
「あの時の服、本当は可愛かった。とても似合ってた。ただああいうの見慣れてなかったから、ちょっとびっくりしただけで……。今更言ってももう遅いか。……独り言だけど」
「本当今更よね。でも嬉しいな。本当の心を聞けたから。これも独り言だけど」
「いざ言ってみれば大した事ないのに、この程度の言葉を口にするのに時間をかけすぎた。昔ならもっとすんなり言えたはずなのに、さっきまではなんだか変に体が硬直して、なかなか上手くやれなかったんだ。俺ともあろうものが、おかしいよな。もちろん独り言だけど」
「私達がもっと大人だったらそもそもこんなつまらない争いは起きなかっただろうし、私達がもっと子供なら争ってもまたすぐ仲直りしてたんだろうな。でも今の私達はどっちでもない、中途半端なところをフラフラしてるからこんなにも長引いちゃって……。当然のごとく独り言だけど」
「今から子供には戻れないんだから、俺達もっと大人にならなきゃな……。言うまでもなく独り言だけど」
とっくに会話として成立してくせに最後に「独り言だけど」って言えばこれは会話じゃないよという無理なエクスキューズの応酬。でも二人ともとっくに気付いていました。お互いの気持ちが伝わった以上、こんな偽りはそう長く続かないと。そしてこの茶番を終わらせるためには早くあの言葉を、自分のほうから口にすればいいと。
だから最後の言葉はどちらが先ともなく、目と目を合わせてまったく同時に同じ三文字の単語を繰り出しました。そのタイミングがびっくりするほどシンクロしていたので、一瞬ポカンとした後にお互いがお互いの顔を見合わせて、声を上げて高い空へ笑い声を投げ合いました。
「はい意地の張り合いはこれにて終了! 無駄に長かったわ!」
「あー肩凝った。何と言うか、お互い様だよね。頭の中身が鏡写しだから一回こじらせるとありえないほど長くなる」
「本当に無駄な時間だったわね。でもお陰であんまり聞けないような言葉も聞けたし、きっと私達にとっては必要な時間でもあったはずよ。ふわあ、安心すると眠たくなってきたわ。昨日ほとんど寝てないしね」
「だよね。色々聞かれたよ。それでさっさと仲直りしろって怒られちゃった」
「やっぱり同じ事やってんのね」
「ずっと一緒にいたのはクラス全員がそうだし、以心伝心、兄弟みたいなもんだよ。でもその中から俺とぴーちゃんがこういう形だろ? 今でも時々不思議に思うよ。俺とぴーちゃん、どうして出会えたんだろうなって。この星のこの島国のこの時間を分け合えるなんて、そう出来るもんじゃないよ」
この小さな国の源となる大地に立った時、時が紡ぎ上げた数千年のほんの一滴の中で選びあった運命の壮大さを思わずにはいられませんでした。つまらない傷をつけた日々があっても、それでも今ここに生まれて良かったと心から言えるようでした。
「本当にね……。私も……、幸せだって……」
でも言おうとするとかつてない眠気が襲いかかって、ついには肉体の平衡感覚さえも狂わせるほどでした。言いたい事も言えず、私はカズくんの肩へと倒れかかりました。
「本当に大丈夫か?」
「うう駄目っぽい。相当眠たい……。無理しすぎた……」
「むう……。ああ、そうだ。眠気にはいい気付け薬があるよ」
そう言うとカズくんは胸のポケットからおもむろに、赤いラインのヘッドホンを差し出しました。これの右耳は私に、左耳はカズくんに入れると前の映画の主題歌が流れてきました。なるほど確かにこれはよく聞きました。
激しいギターサウンドが脳細胞にクリティカルヒットして活性化したついでに、私は胸ポケットの中から十字架が彫られた銀のロケットを取り出しました。昨日、新京極通で買っておいたものです。
「ああ、そうだ。これ」
「うああ何これ? いつ買ったの?」
「昨日。似合うと思ったから。カズくんこういうの好きだよね」
「いや、確かに格好良いけどさ。そんなのあったんなら俺も何かしないといけないな」
「いいのよ。これは今のお薬のお返しだから」
「そっか。じゃあ素直に受け取るとしようか。ありがとう」
素敵な事をされたならば素直に喜び悪い事をしたら素直に謝る。これが人間のあり方だなと、カズくんのまっすぐな視線を直接頭脳に受けながらしみじみと感じました。修学旅行で一番学んだのは結局そこかも知れません。
「あっ、それとね、昨日のお風呂のあれだけどね、罰ゲームだから。あんまり気にしないで」
「どうせそんな事だろうと思ったから最初から気にしてないわ。まあわざと間違えてあげても良かったんだけどね」
「ははっ、バスに戻ったらゆっくり眠ろうな」
「うん」
肩と肩を寄せあい、二人は音と体温を貪るように分け合いながらバスへと戻りました。そこからにわかに記憶は途切れたけど、三日目の大阪は珍しい博物館とか遊園地でいっぱい遊んでいっぱい楽しい思い出を作れました。