8月
小学生の行動範囲なんてたかが知れているもので、今までの人生において私用で駅より西まで行った事はほとんどありませんでした。そっち側は西小の校区だし、あえて立ち寄る理由もなかったから。でも今は違います。だって今年の夏は特別だから。
けだるい夏休みの午後だけど、結局けだるくなるのはこんな白くて小さくて四角形した部屋の中から外を眺めているからであってそんなに退屈なら自分が窓の外の景色になればいい。そう思い立った次の瞬間、私は自転車のスタンドを跳ね上げていました。
「行ってきまーす」
「あれ、ぴりかどこ行くの?」
「ちょっとその辺うろうろしてくる!」
「そう。遅くならんようにね」
「はーい!」
自転車のスタンドを蹴飛ばして国道沿いを走ると、ものの5分で駅の駐輪場が見えてきます。いつもならここで止まるけど今日はそういう日じゃないから一瞥もくれず通り過ぎると、途端に見慣れない景色が180度のパノラマで広がってきました。いや、景色じゃなくて香りまでもが変わってきました。
「うわあ、へえ。これはいいわね」
みかんの花の匂いが海風と混じって、ペダルを踏み込む両足に心地良い活力を与えてくれます。こんな爽やかな気持ちになれる空間がこの街にあるなんて、今まで生きてきたのに知らなかった。それだけでも何だか逆立ちしたくなるほどの元気が胸いっぱいに湧いてきました。
芳しい果物工場を通り過ぎてから細い路地を右へ左へ折り曲がると、大きな門が口を開けて待ち構えていました。これが目的地の賀内西小学校です。
「ふう、いつもと違うルートだったけどちゃんと辿り着けるものね。しかしまあ、相変わらず古い外観よね、西小って」
西小自体には野球の招待試合では毎年行ってたし、東小と西小とそのまた西隣の町にある宮浜小の三校が参加する水泳の記録会も西小で開催されるから全然馴染みがないわけではありません。でも建物としては東小より古いから、昔は白かったであろう壁のあちこちに黒いシミの畝がこびりついています。体育館なんて木造だし。
そのくせ児童数は東小の三倍ぐらい多くて、クラスも一学年二つもあります。生まれてこの方クラス替えって経験した事のない私だけど、あれってどうやって決まるんだろう。それに仲のいい友達とクラス離れたりしたらちゃんと友達としていられるんだろうか。
今は他人事だけど中学は東小と西小が一緒になるから、そうなると必然的に私達東小の人間にもこの災厄は否応なしに降り掛かってきます。しかもその未来は決して遠くもないわけで、制服でスカート強制も合わせて心の奥底にぼんやりとした不安を煽り立てる要因となっています。
とは言えまだそんな未来は遠くないけど近くもないわけで、今はそんな事は忘れようと思えば忘れられる程度の不安でしかありません。それで今回も私は忘れる権利を行使して、改めて今この建物の向こう側で繰り広げられている熱戦に思いを馳せました。
つまり今日はここで少年サッカーの大会が開催されていて、カズくんの所属する賀内サッカークラブも参加します。というか主催です。「だから会えないね」って昨日カズくんは言ってたけど、別に行っちゃいけない法律があるわけでもないし、それでカズくんには何も言わないままここまで来ました。
ついさっきまではカズくんがサッカーしてるのを見たいとかそういうのはまったく考えた事もなかったけど、思いついちゃったんだからそれを止める理由はありません。
「しかしさすがに今年の夏は暑いわね。風を受けていられる時は大丈夫だったのに、体が止まると熱気がブワッと襲ってくるみたい」
レンガの庭にある小さな池の辺りに自転車を置いて額に浮かんだ水玉を人差し指で払うと、何やら右へ左へと迷走飛行を続けているグリーンのジャージを身に纏った少年が目に飛び込んできました。
「どこだ……。どっか、一番近いのは……」
こんな暑苦しいのにそれを助長するかのようにバタバタ走りながらキョロキョロと校門の外を見回して、酷く焦りながら何かを探しているみたいに見えました。何か困ってる事があるんだな。事情を考えるより先に反射神経が喉を触って声を出させました。
「ねえ君! 何か探してるの?」
「えっ、はっ! はい! ええと、この辺りに自動販売機ありますか? コーラ売ってる」
「あー、コーラはー……、あっ、あるある! 酒屋の前にあったわ!」
「本当ですか! それで、それはどこにありますか?」
「ええっとね……、ちょっと待ってね」
私はコーラに限らず甘すぎるジュース全般が苦手なので普段は見向きもしなかったはずだったのに、今日に限っては普段と違うルートを通っていたので逆に「へえ、こんなところに酒屋があるんだ。しかも自動販売機も」なんて形で記憶に留めていたのが幸いしました。
とは言え私もこの彼ほどじゃないにしてもこの辺の土地勘はあんまりないので「ここをこう行ってこう」みたいな筋道立てた説明は出来ず、結局「こっちあるからついてきて」なんて非効率的なやり方で導きました。
いささか頼りないナビゲーターだけど、今のこの子にとって命綱は他ならぬこの私だけ。うろ覚えのままきょろきょろしつつ歩く私の後ろをペットのようについてくるのがなんだか可愛らしくて、もし弟がいたらこんな感じなのかなとか思ったりしました。
「それにしてもそんな必死に探すなんて、君そんなコーラ好きなの?」
「いいえ。これはキャプテンの指示なので。僕は、そもそも炭酸は弱いので」
「そっか。私も炭酸苦手なんだよね。骨が溶けるとか親に脅されてさ」
「それ僕のお母さんも言ってました」
「ははっ、やっぱり言われるんだ。どこがネタ元なんだろうね。絶対嘘だと思うんだけどね、一回そういうものって刷り込まれるとどうしてもねえ」
「そうですね」
「それで君はどういう飲み物が好きなの? スポーツドリンクとか?」
「うーん、お茶とか」
「へえ、渋いねえ!」
「いやそれほどでも……」
礼儀正しい、あるいはよそよそしい、若干の緊張感を隠さないきっちりとした喋り方がまたいじらしくて、話すごとに私の心が広く柔らかくなっていく気がしました。それにしてもこの子、「そんなに緊張しなくてもいいよ」って言うと「いえ、失礼ですし」なんて返すし、随分しっかり教育されているみたいでした。
でもその口調の礼儀正しさとは裏腹に、顔は汗まみれ泥まみれでドロドロです。多分試合が終わった後なんでしょう。にも関わらず休む間もなく傲慢な先輩の無茶ぶりで雑務にこき使われて、土地勘がまったくないのにどこにあるとも知れぬ自販機を探してくるように命じられて……。いかにも体育会系らしい話です。
かく言う私も体育会系の権化たる野球部に入っていたけど、全員合わせてギリギリ組める程度の部員しかいなかったチームにそんなガチガチの上下関係が存在するはずもなく、その手の理不尽に遭遇した経験はありませんでした。
だから「今どきあんなの漫画でしかないと思ってたけど、やってる奴らが本当にいたんだな」という呆れと興味と憐憫の情が同時に湧いてきました。何とかしてあげられないかなと考えながら無意識にポケットに手を入れた時、指先が一つのひらめきに思い当たりました。
「あっそうだ。ねえ、はい、これ!」
「えっ?」
「これで流れる汗を拭きなさい」
「そんな、いいんですか? せっかく綺麗なハンカチなのに汚れちゃうといけないですし」
「男の子が遠慮しない」
「は、はい! では、お言葉に甘えて……」
文楽の人形遣いみたいにガクガク震える手つきで、少しずつではありましたが汗を拭ってくれました。長い前髪に阻まれて瞳の表情は見えませんでしたが、えくぼがくっきりと浮き出た口元だけでその感情は余すところなく伝わってきました。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。この恩は一生忘れません!」
「そんな大した事じゃないって。えっと、確かこっちを右で……。あっ、あった! ここだ!」
「ああ……! やっと見つかった!」
彼はまるで冒険の果てに財宝を見つけ出したかのような安堵の声を出したかと思うと、ポケットの中から取り出したコインを次々と投入して目当ての赤い缶のスイッチを連打しました。ガタンとアルミが落ちる音は合計七回響きました。そんないっぱい買うのか。これは先輩全員分かなとその時は考えました。
「随分あるねえ。何本か持とっか?」
「大丈夫です! 一人でやれますから!」
頬を真っ赤に染めながら、やたらと大声で拒否してきました。そこまで言うならとしばらくは放っておきましたが、そこからしばらくはずらり並んだ赤い缶の前で悪戦苦闘していました。最初は缶を地面に並べて三節棍みたいにして持とうとしていましたが長すぎたみたいで断念し、今度は縦に四本と三本に分けてから片手ずつでそれを持ち上げました。
「本当に大丈夫? フラフラしてるけど」
「大丈夫です。慣れてますから」
「いやいや、こんなの慣れるものじゃないでしょ。危ないし。本当持つよ?」
「駄目です! そんなところキャプテンに見られたら叱られますから」
「……悪いキャプテンもいたものね」
「キャプテンは厳しいですけど、僕がよくやれていないからなんです」
「それ騙されてるよ多分。我慢は美徳ではあるけど、言うべき時は言わなきゃ」
「いいんです。それに僕のためにこれ以上迷惑はかけられませんし」
こちらが呆れるくらいに生真面目なので私としてもこれ以上は何も言えず、本当にまずそうな時はフォローしようと心に決めつつ横に並んで帰路を歩きました。それにしてもこんなにいっぱい買うと知ってたら自転車で行ってカゴ使うのが最適解だったかなと、ちょっと後悔しながら。
「そう言えば君さ、どこの子?」
「はい! 藤浦市の山端小です」
「ああ、結構奥のほうなんだ。じゃあこの辺とかあんまり来た事ないでしょ?」
「はい。チームに入ったのが今年からなので」
「そっか。何年生?」
「4年生です」
「じゃあ二つ下か。えっ、その歳でもう試合に出てるんだ!」
「でも先輩のレベルに合わせるのが精一杯で、さっきの試合も全然駄目で……」
「いやいや出られてるだけでも凄い事じゃない! お疲れ様」
「いえ、そんな……」
見る見るうちに頬が赤く染まって、目が隠れていても感情が手に取るように分かりました。そうこうしつつ校門まで着くと、そこには縦も横も大柄な男が腕を組みまぶたをピクピクさせつつねずみ花火みたいにウロウロしていました。男はこちらを睨みつけて同じジャージの色合いを確認すると、立ち止まるより先にまず怒鳴り散らしました。
「こらぁおせえぞポチ! いつまで遊んでたんだ!」
「すみませんキャプテン! コーラ七缶ありました!」
「おう! さっさと持ってこいや!」
「はい!」
小走りで寄って行った後輩の右手から一番上の缶を引き抜いて即座にぐびぐびと飲み干してから咳のようなゲップを吐き散らかしました。なるほどいかにもパワハラしてそうな態度悪いデブで、やっぱりああいう事やるのはこういう奴なんだなという説得力の塊でした。
で、このデブと来たら喉が潤んだ途端に私のほうを指さして「おいポチ、あの女は何だ?」みたいな事を聞いていました。ちょっと遠くにいたのでそれにどう答えたかは分からないけど、ともかく二三の問答を終えたところで舌で上唇をべろりと舐めたと思うと、おもむろにこちらへと近付いてきました。
「おい女! ポチが世話になったそうじゃねえか。名前は?」
高身長高カロリーなその肉体が薄ら笑いで放ったあまりにも不躾な言葉に、私はカチンと来ました。確かに私も田舎の暮らしなので正しい敬語は使えていないと思います。だからあんまり礼儀がどうとか言うつもりはないけど、さすがにこの男の態度は無礼すぎる。
それで売り言葉に買い言葉で、向こうが傲慢を振りかざすのと比例するように私の態度も刺々しくなってあっという間に一触即発の空気が醸成されてしまいました。もう12歳だししょうもない争いはやめようと誓っていたけど言うべき時は言わなきゃって諭した舌はまだ乾いていないし、何よりこの無礼を前に何も感じずにいられるほど年老いてはいないからです。
「おい、聞いてんのか女!」
「見ず知らずの人を女と呼ぶような奴に名乗る名前はないわ」
「んだと!? 女は女だろうが! それともこの俺に喧嘩売ってんのか?」
「先に挑発したのはそっちでしょう。後輩をポチとか言ってこき使うろくでなしの暴君。それでよくもまあキャプテン面出来るわね」
「ああ? ポチをポチと呼んで何が悪い。なあポチ?」
怒気を含んだ視線を右に反らすと、その先にいる「ポチ」は笑顔を作って「はい!」と、相変わらずやたらといい声で返事をしました。こういう真面目な子がこのリアルジャイアンに向かって「いいえ、僕が嫌な思いしてるから呼ばないでください」なんて言うはずがありません。そんな見え透いたやり口を押し通す姿に、また私の怒りのボルテージは高まっていきました。
「ほらな、あいつも自分がポチだって認めてるんだ」
「どうせ押し付けただけでしょ?」
「部外者が知ったような口を叩いてんじゃねえよ。大体こいつの苗字、知ってんのか?」
「何で苗字の話を?」
「知らないだろ? おいポチ、言ってみろよ!」
「はい! 犬山って言います」
「犬山……、あっ」
不覚にも、極めて不覚にも「ああなるほど、だからポチか」と納得してしまう自分がそこには存在していました。そしてその瞬間、私は敵の策に嵌ったのを悟りました。確かにこの子は飼い犬のような従順さがあるし、しかも名字に犬とか入ってたらなおさらで……。
「い、いや、でもさあ……」
まずい。犬山くんのためにも否定しないといけないのにろくな否定の言葉が思い浮かばない。次に出てきそうな言葉は「気持ちは分かるけど」だったけど、気持ちが分かった時点でこいつの暴言を肯定したも同じになってしまう。だから言えない。何も言えない。
そんな私の内心を見透かされたかのように、あのデブは下卑な笑みを浮かべながら勝ち誇ったようにこう言い放ちました。
「なっ、そういう事だよ。とりあえずコーラの礼は言ってやるが、その糞みたいな性格直さなねーと一生恋人出来んぜ。じゃあな!」
貴様が言えた事かこのデブコーラ! 全身骨まで溶けて死んでしまえ! 大体私にだってとっくに恋人の一人ぐらいいるわ!
私がもうちょっと若かったら叫んでいたところでしたが、ギリギリ歯を食いしばって耐え抜きました。言わなきゃ負けたみたいで癪だけど、言えばあいつと同類に成り下がる。でも畜生同士で争うよりも、たとえ負けたと見られても私は理性ある人間でありたい。でも、でもやっぱり……!
そうやって煩悶している間にあのデブと犬山くんは霞のように消え去っていました。とっても嫌な形だったけど、ともかくこの話は終わり。謎の敗北感を噛み締める奥歯の隙間から蒸気機関車のように息を吐きだしてクールダウンさせると、悪い事なんてすぐに忘れてやるんだと片意地を張りながら大股でズケズケと、ようやく思い出した本来の目的のため校舎と体育館の隙間を潜り抜けてグラウンドへと向かいました。
「しかももう試合始まってるし。さすがに時間かけすぎたかな」
グラウンド全体が一つの視界に入った時、そこに広がっていたのは水色と黄色がランダムに散らばって、一つのボールを追いかけて夏の大地を駆け巡る光景でした。両者のうち水色のユニフォームが賀内サッカークラブで、カズくんどこかなと探してみたところ、明らかにクオリティの高い動きをしてる背番号7が最初に目につきました。
あっ、間違いなくこれだ。背中を向けたままであってもテレパシーを使ったみたいに、なぜかあっさり理解出来ました。
「大将こっちだ!」
「おう! 頼むぞキャプテン!」
カズくんが鋭いパスを出したかと思うと、キャプテンと呼ばれた仲間がすっかり抜け出していて相手キーパーと1対1になったけどシュートはゴールポストの右をすり抜けてフェンスを鳴らしました。もったいないな。せっかくのチャンスが。
「すまん大将、力入りすぎた!」
「いいって事よ! さあディフェンスしっかりやろうぜ! 切り替え大事!」
カズくんじゃない呼び方で呼ばれてるカズくんの姿は、強い日差しのおかげもあるのか同じ笑顔のはずがやけにたくましく見えました。しかし大将って。キャプテンは別にいるのに、チーム内のパワーバランスどうなってるんだろうと余計な心配をしたくなりました。
それで今度はその辺を注意して観てみると、どうやらキャプテンより大将のほうが主に指示を出していました。つまり賀内は完全にカズくんが中心に回ってるチームだと、初見の私でもすぐ結論付けられる程に背番号7は前へ後ろへ顔を出しまくりでとにかく目立っていました。ちなみにサキちゃんはキーパーでオーバくんはベンチ。頑張れオーバくん!
その後も私の目は大将のプレーに釘付けでした。大地と陽光に馴染んだ黒い肌が炎のようにゆらゆらと燃えながら叫びプレーする姿はまさしく情熱が少年の姿を借りて結実したみたいで、恋人だからとかを抜きにしても目が離せない、強烈な重力に引かれっぱなしでした。
思えばカズくんがサッカーやってるとは昔から知ってたけど、ユニフォーム着てプレーする姿を見るのは今日が初めてです。普段の練習はこっちの西小だし、試合もそう。グラウンドで遊んだり授業のサッカーは見た事があってもキーパーやってたり本気とは程遠いし。
そうか、サッカーしてる時はこんな目をするんだ。こういう声を出すんだ。カズくんの知らなかった姿、でも知ってる人からするとそれが当然の姿。たったひとりの恋人さえも、こんなに知らなかった事ばかり。抜けるような夏空の下、私は思わず目を細めました。
「上手いもんだろう、彼」
「うわあっ!?」
そんな事をぼんやり考えていた時、いきなり後ろから声を掛けられたので私は思わず変な声を上げてしまいました。振り向くと、白いチューリップハットを被った見たことのないおじさんが柔和な表情を浮かべていました。
「ごめんごめん、驚かせちゃったね」
「い、いえ、私の方こそ大袈裟になっちゃって……。ところでおじさん誰ですか?」
「そんな事よりお嬢ちゃん、君も賀内の7番、旗生君のプレーをずっと見ていたよね」
「な、何でそれを!?」
「目線がずっと彼に添っていたからね。旗生……、名前は何だったかな?」
「一弾」
「そうそうカズタダ! どうしてもイチダンってなっちゃうんだよなあ。それで旗生君だがね、彼は素晴らしい選手だよ」
「そうなのですか? 私もこういうの見るのは初めてなのでよく分からないんですけど。で、あの、その……、カズくん、じゃなくて旗生君は私の同級生でして……」
「ほう、同級生。それで君と付き合ってたりするわけだ?」
「うええ! あ、あのですね、今はそういう話は……。はい」
思いっきり図星だったのでしどろもどろになりながら、それでも嘘をつくのは下手だし苦手なので、あっさり諦めて首を縦に振ってしまいました。
「そうか。青春っていいもんだねえ。それでお嬢ちゃん、君は旗生君のどういうところを好きになったんだい?」
「ええ、まあ、どう言えばいいのか……。優しいところ? いや、全然普段は優しくないんですけどね! たまに、こう、いつも格好付けてるくせにたまにそういう時もあるかな、みたいな……。もしかすると本当は何も考えてないだけなのかも知れませんけど、案外計算してたとしたらそれは優しさになるのかなってのが時々あったり……」
これは酷い。説明が下手すぎる。いきなりとは言え、自分が好きなものを説明するのにどうしてこんなに意味不明になってしまうのか。この説明を聞かされてカズくんの良さが伝わるわけないと、私は自分で言いながら自分に呆れ返ってしまいそうでした。
でもおじさんはニコニコしながら「なるほどねえ。良い奴なわけだ」なんて大人の包容力を見せてくれました。そんなチャンスに対しても相変わらず「いや、そうじゃなくて……」とか言ってしまうのが情けないけど、それでも「カズくんは素敵な人だ」という趣旨だけは一応伝わっていたみたいでした。
「はははっ、なるほどねえ。それで君はそんな旗生君にすっかり首ったけなわけだ」
「……はい」
そう言えば私って、何がよくってカズくんを好きになったんだろう。でもそれを言葉に出来なくても、だからってカズくんが好きじゃないかってなると絶対的にノーだし。深く考えてこなかったところに触れられると、人間こうもあっさりとガタガタになるものだなと思い知らされました。
でも一方的に責め立てられるだけじゃしんどいので、私のほうからも問いを投げかけてみました。「それで、おじさんはスカウトか何かなんですか?」と。これに対しておじさんは「はっはっは、バレたかあ」と、歌舞伎の見得をさらにデフォルメしたような大袈裟な口調で答えました。
「えっ、本当に!?」
「いや、厳密に言うと違うんだがね、この世代のサッカー選手を二十年以上見続けている者だよ。今まで何人もの素晴らしいサッカー選手に巡り合って来たが、旗生君はその中でもピカイチだからね。同業者も色めき立ってるよ。こっちの業界じゃフィールドの牧童と呼ばれているんだ」
「ぼくどう?」
「カウボーイだよ」
「へえ、カウボーイ……!」
「そう、カウボーイ。フィールドを支配する存在感とちょっとやんちゃなプレースタイル。ほら、これだよ!」
おじさんに促されてしばらく目を離していたフィールド上に改めてフォーカスを絞ると、ちょうどカズくんがドリブルしていました。仲間の水色が右へ左へと散らばって相手はそのマークに奔走していましたが、これを見てカズくんは企みの通りと言わんばかりにいたずらっぽく白い歯を見せました。
何か仕掛けてくる! サッカーに詳しくない私でも強烈な予感だけははっきりと感じ取れました。
そしてその刹那、カズくんはその場からためらいなく右足を振り抜きました。ゴールから三十メートルの距離があるにも関わらず、ロングシュートで直接ゴールを狙ったのです。しかもその一撃は高い弧を描いてキーパーの伸ばした手とポストの狭間を撃ち貫き、ゴールネットを力強く唸らせました。
「おお……!」
「上手いもんだろう? 今のは一見まさかあそこで撃ってくるとはという意外性のある豪快なゴール。でも実際は緻密な計算に基づく必然的な一撃なんだよ」
「えっ、そうなのですか?」
「そうだとも。つまり旗生君はこの試合ここまで自分で仕掛けられた場面でもパスを選択してきた。相手もそれに対応した守備を敷いていた。それでさっき、今度もどうせパスだろうと旗生君へのマークが甘くなったし、キーパーもまさかシュートはあるまいと油断していた。全ては旗生君の意のままだったわけだ」
「なるほど。でも本当にそこまで全部考えてたんですか? まぐれじゃなくて?」
「間違いなく考えていたよ。旗生君はそういうプレーヤーだからね」
自分よりずっとサッカーに詳しいおじさんにそう言われても、まだ半信半疑でした。カズくんがそんな繊細な頭脳してるものなのかと。でも思えば確かに普段から強気一辺倒に見えて意外と気配りの出来る男だったりするわけで、そんなものなんだろうと次第に納得するようになりました。
試合は結局この一点を守り切って、賀内が勝利しました。おじさんは「普段の賀内はもっと守備が弱いんだけどね、今日は珍しく旗生君以外もよく頑張ってたよ」なんて総評を述べました。へえ、うちらもなかなかやるもんじゃないかとなぜか上から目線になりつつも、やっぱり贔屓チームが負ける姿よりも勝つ姿を見たほうが楽しいものだし、私も嬉しくなりました。
「今日は色々教えていただきありがとうございました」
「いやいや、お礼を言いたいのはこちらのほうだよ。ありがとう。楽しいお話を聞けたし、またきっと会いたいものだね」
「そうですね。それじゃ、私はもう帰りますので」
「ああ、元気でね。彼氏によろしく!」
「だーかーら! ……はい」
人間経験豊富な人はこうやってからかってくるから苦手です。でもこういう場合、私のほうももっと堂々と受けて立つべきなのでしょうか。実際彼氏ではあるわけだし、別に秘密にしてるわけでもないんだし。でも隠してるわけじゃなくてもあえて言い触らすものでもないし、今日の今さっきまで見ず知らずだった人にあっさりバレたのも何となく無様だし。
そんな事を思いつつおじさんの姿も影も見えなくなった頃にはすっかり日が傾いていたのでさっさと帰らねば。自転車を取りに校舎の周りを歩いていると、やっと聞き覚えのある声が私の名を呼んでくれました。カズくんの声です。
「あっ、やっぱり本物だよこのぴーちゃん」
「何? 最近は偽物も出回ってるの?」
「いやいやそういうわけじゃないけどね。びっくりしたよ。まさか西小まで来てるとは思わなかったから。遠かったろ? 来るんなら先に言ってくれりゃ良かったのに」
カズくんは軽く笑いかけつつも、目尻の曲線が「なんでいるの?」という内心の疑問符を表していました。実際昨日までは、いや、今日の午前までは私がここにいるなんて私自身からして思いもよらなかったんだから、当然カズくんからしても不意打ちになったのは間違いない。
「思いついちゃったから仕方ないでしょ。でも来てよかったわ。知らなかったカズくんの事、色々見られたし。ねえ大将?」
「あー、それやめろって言ってんだけどねえ、西小の奴らがさあ」
カズくんはカズくん以外ないと思ってたのに別の色々な呼び名がそこに存在していたのがまず面白かったのですが、その事を話すとカズくんは恥ずかしそうに苦笑いしていたのが可愛らしく見えました。
「まあいいじゃない。私もサッカーは詳しくなかったけど横に詳しいおじさんがいてね、なんかカズくん本当に上手いらしいってさ。カウボーイって言われてるんだって」
「誰が? 俺?」
「この状況で他の人の可能性ないでしょ」
「いや、そうだけど。カウボーイ、ねえ。ところでぴーちゃんここまで自転車?」
「うん、ほらそこ」
私が指をさした向こうにはオレンジに変色にした愛車が頭を垂れてたたずんでいました。南を見ると随分太陽が水平線に近付いています。あんまりもたもたしてると家に着く頃には暗くなっているかも知れないって程度の地理感覚はカズくんも理解しています。
「もう帰るよね?」
「うん。いい時間だしね。あっ、それとね、誕生日おめでとう」
一番言いたかった言葉のくせに前触れもなく放り投げたから、受け取る側も最初はきょとんとした表情を浮かべていました。でも何が起こったか理解するにつれて、口の中に嬉しさが貯まって横へと膨らみ、そしてついに容量の限界を超えて口の中から笑みがポロポロとこぼれていきました。
「ははっ、何だ知ってたんだ。ずっとそういう話しなかったから知らないのかと思った」
「いや、私達一応付き合ってるわけだからさ、そこははさすがにねえ。常識でしょ常識」
「あー、そうだねえ。ははは……」
空笑いとともにカズくんの視線がギュンギュンと宙に浮きまくっていましたが、別にいじわるしたいわけじゃないので「じゃあ私の誕生日がいつか覚えてる?」とかは聞かずにおきました。
「ところでまさかだけど、それ言うためにここまで来たの?」
「まっ、そんなところ。いや、別に昨日まではそういう気なかったんだけどね。なんかせっかくだから誕生日ぐらいは祝ってあげなきゃね」
「そっかそっか。そりゃあありがたいもんだねえ」
その一瞬、細く開けられていたカズくんの瞳が試合中の仕様に戻った気がしました。その兆しに私が気付いた時、すでに私の前に出て行く手を塞ぎ、そして倒れ込むように背を伸ばしたかと思うと唇で私の吐息を封じ込めました。夕日が映し出した燃える山の黒く長いシルエットが、たった一つの重なりとなって水面に揺らめいています。
「こんな事しか出来ないけど、へへっ、今日は来てくれてありがとう」
「あっ……」
「じゃっ、俺はこれからまだ片付けあるし、また明日!」
カズくんが走り去った後も、しばらくは心がしびれて動けないでいました。完璧なコースに放たれた不意の一撃に、為す術なくあっさりとゴールを決められてしまった夏の盛りの私でした。