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7月

 日光は一切差し込まないくせに湿気と熱気には全方位された更衣室の中は確かに蒸し暑かったけど、その中で私は微かに震えていました。寒気を感じたとかそういう物理的なものじゃなくて、心がギリギリと音を立てながら軋んでいたからです。


「ねえカナちゃん、あの時こう言ったよね。今どきの小学生ならこれぐらい当然だって」

「ええ、間違いなく言ったわ」

「一緒に買った水着をね、うちも着るから大丈夫って」

「それも言った」

「で、今カナちゃんが身体に纏ってるその緑色のものは何?」


「あれ知らない? こういうのパレオって言ってね、南の島の民族衣装から発展したファッションよ。普通はもうちょっと短くて腰に巻き付けるスタイルが多いんだけどこういう全身を隠すパターンもあって……」

「そういう話じゃない!」

「じゃあどういう話?」

「いや、ずるくない?」

「はて何の事かしら?」

「とぼけないでよ。だってさあ、私にはこんなのをそのまんま着せておいてさあ、自分だけそんな肌を隠すような布を隠し持ってたってのはねえ」

「うちは見せる人がいないからいいの。でもぴーちゃんは見せる人がいる。立場が違うわ。当たり前のお話じゃない」

「ぐう……。で、でもさ、だって、カナちゃんも一緒にチャレンジしてみるって言うから私だってやっと勇気を出せたって言うのに……。これじゃ前提が違うじゃない」

「あーやっと言いたい事が分かったわ。つまりさ、ぴーちゃんびびってんだ?」


 白々しい言葉の上にまた被せてくる安っぽい挑発。でもこんな露骨な手口に反発すら出来ないまでに、私は弱気になっていました。今自分が行おうとしている所業を前に怖気づいていました。


 昨日の夜、バッグにこれを入れる時も腕を震わせながら、何度か入れては引っ込めながら足がしびれるまで時間をかけて、ようやく入れたまま忘れたふりをしてベッドに潜り込んで誤魔化したぐらいだったのに、この土壇場になってもいざ実物を見るとやっぱり怖い。だって単なる細い布の線にしか見えないから。


「……正直怖いわ。だって、こんなのそれこそ裸みたいなもんだし。本当の事言うとね、今日ここに二着の水着を持ってきててね、一つはこの間のだけど、それと普通の奴も持ってきてるんだけどさ……」

「正気!? まさか今になってそんなものを着ようなんて思ってないでしょうね?」

「だって……」

「誰のための四千円よ! ねえ、ぴーちゃん言ったよね? 今年の夏は特別なものにしたいって。だから私だって忙しい中時間を割いてね、ぴーちゃんを応援するために色々考えたのよ。それを今ぴーちゃんのちょっとした個人的感情で全部無駄にするつもり? 分かってるの? もう自分一人のぴーちゃんじゃないんだって」

「ううううう、そうなんだけどおおおおお!!」

「じゃあうちが着せてあげるから鍵を開けて。あっヒロちゃんもうちょっと待ってねー。ほら、もう時間ないんだから! みんなぴーちゃんの生まれ変わった姿を期待してるわ! 後は自分がやるかどうかでしょ! 女は度胸!」

「うう、分かった! 分かったからさ! あんまり騒がないでよ」


 雨雲が去って夏休みに突入したので、その直前あたりから私達は海へ泳ぎに行こうぜとあれこれ計画を練りました。


 実行日は七月最後の土曜日。しかも海と言っても学校の裏みたいな近場じゃなくて賀内と藤浦の間、電車で二駅の美砂駅から徒歩十分の、海の家とか子供用のプールまで完備されているような本物のビーチです。


 最初は賀内の西隣にあるちょっと大きい街、船月のもっと小さい海水浴場にしようかって話で決まりそうでした。でも今年の夏は何かが起こるといいなって思いを胸に秘めつつ私が美砂へ行こうと提案したところ、カズくんもみんなもその手があったかという顔で「それいいね。暑いし」「小学生としては最後だし、ずっと電車から見るだけだった美砂も一回は行ってみたかったんだよな」と賛同意見がポンポン出てきてすんなり通りました。


 せっかくよその市の本物のビーチに行くからには、あんまり安っぽい水着を着てもいられまいそれに恋人と過ごす初めての夏。お互い水着姿なんて水泳の授業でも見たい放題だったけど、それで目の肥えたカズくんをあっと言わせるような備えでもっと近づきたいな。そんな下心もあって先週の土曜日、ナビゲーターのカナちゃんと一緒に水着を買いに行きました。


 水泳で使うような水着は商店街で買うものだと相場は決まっていたけど、「あんなのじゃカズくんを振り向かせられないわよ」とかカナちゃんが言うから、藤浦の国道沿いにある水着専門店へ、生まれて初めて赴きました。


「藤浦にもこんな店があったんだね」

「私も最近知ったから。でもなかなかいい水着が揃ってたからね」


 東南アジアのコテージみたいなトロピカルな店構えが周囲から浮いてたので入る前にも一度大きく息を吐き出す程度の勇気を必要としましたが、その中身も私が知ってる水着売り場とはまったく違っていました。


「うわ……」


 それはさながら熱帯雨林にたわわに実る妖しげな果実の群れで、こんな原色に塗れた破廉恥な世界が私達が生きてる地続きにあったんだと、脳髄に弾丸を撃ち込まれたようなショックを受けました。


 三百六十度に展開される色とりどりの極楽鳥は、全てが男を誘惑するためだけにその生を授かった大胆不敵なウェアの数々。駄目だ。場の圧が強すぎる。一体どっちを見ていればいいのか分からず、ただ立ちすくんでいた私を横目にカナちゃんが色々お膳立てしてくれました。


「こういうの似合うんじゃない?」

「ええ、嘘でしょ!? こんなん完全に変態……」

「どこがよ。確かにこの辺じゃあんまり見ないくらい大胆で可愛いデザインだけど、都会じゃ今どきこれぐらい普通よ、普通。それに普段は色気のかけらもないぴーちゃんだからこそせっかくのシーサイド、バシッと変化したらもう効果覿面よ。カズくんだってそういう姿を見たいと望んでる」

「本当に? カズくんってそういうのに興味持つ事あるの?」

「当然ありまくりよ。ほら、例えば最近ぴーちゃん胸また大きくなってるでしょ」

「あんまりジロジロ見ないでよ」

「見てるのは私じゃないわ。気付いてる? カズくんの視線もここ最近変わってきた事」

「あー、うん。それ相談しようと思ってたんだ。なんか私と目が合ったのに逸らされたりしてて、避けられてるみたい」

「浅いわね。確かにカズくんは意識的に見ないようにしてるけどそれは気になって仕方ないからで、本心では見たい気持ちでいっぱいだし口じゃ言えないあれやこれやだって想像してるのは確実。そして夜な夜な火照る心を持て余してはぴーちゃんの顔を浮かべつつ一人で慰めてるわけよ。ああ、なんて健気な光景!」

「カ、カズくんはそんな事しないし!!」

「じゃあぴーちゃんはしてないの?」

「うっ、ぐう……」

「ねっ、そういう事よ。まあ学校でこれ着たらカズくんの理性がオーバーヒートして事件が起こるかもね。でも夏休みならどう? ビーチなら肌を見せるのは普通でしょう?」

「ま、まあそりゃあねえ」

「ほらね。夏の海、少しぐらい大胆になってもそれは罪じゃない。むしろ大胆にならないほうが夏の神様に失礼でしょう。世界はそういう風に出来てるんだから、ぴーちゃんがこのビッグウェーブに乗らずしてどうするの! さあ後は決断よ。このまま子供の殻に閉じこもるか、大人の階段を登るか。でもこうやって悩んでいる今にも時の砂はハラハラこぼれている事実だけは忘れないでね」


 カナちゃんの営業トークに押し負けてうっかり有り金をはたいてこんなものを買ってしまったのですが、家に帰ってから改めて戦利品をしげしげと見つめて、これに自分の肉体を押し込む瞬間を想像すると、血が引けました。


 カナちゃんの後押しがあったとはいえ、最後に「じゃあこれにする」と決断したのは他ならぬ自分自身。私は何が正気で何が狂気なのか判断がつかなくなってしまいそうでした。沈黙と熱気の中、心のノイズを一つずつ引き算してみて、最後に残ったのは「カズくんがそれを望むなら……」という決意の言葉でした。意を決して真新しい布地に掴みかかると、後は勢いのまま目を瞑って一気に変身しました。


「お、おまたせ……!」


 もうどうにでもなってしまえと鍵を開けたところ、待ち構えていた三方から溜め息が漏れました。


「うわあ、ぴーちゃん大胆」

「凄い。ビールの広告みたいだな!」

「うんうん、うちの見込んだ通り、よく似合ってるわぁ……」


 貶されるのも嫌だけど、ポジティブな意味合いの言葉すらまともに受け付けられないぐらいに頭の中が飽和していたので出来るなら「放っておいて」と叫びたい気分でした。今年の夏は異常に暑いらしいけど、そんな異常気象の熱線が露出過多の皮膚に突き刺さりまくって早くも熱中症寸前の千鳥足でした。


「と、とにかくさっ、せっかくの海だしさっさと泳ぎに行きましょ」

「ああ、そうだな」

「男子ももう待ってるだろうしね」

「男子が……。そ、そうよね」


 その男子の一人のために向けた水着なのに、いざその事実を提示されるとまた心が弱って塩を振りかけられた青菜みたいな顔つきになりました。見かねたカナちゃんが「もっと堂々としてなきゃその水着も浮かばれないわよ」なんて激励してくれました。


 理屈としてはまったくもってその通り。だから私も頑張って普通の姿をしているような顔を取り繕うと努力したけど、喉のあたりに力が入りすぎているから多分紙を貼り付けたような表情になっているはずです。


「おまたせー!」


 マロンちゃんの言葉の向こうにはとっくに準備運動を終えた男子陣が待っていましたが、オーバくんはこっちに指を向けて目を丸くしてるし、サキちゃんは「うわあ何だよそれ」とお腹を抱えて笑っています。こいつらは後でぶん殴ろうか。そして、カズくんは……。


「ぴ、ぴーちゃん、それ……」

「あーうん、ちょっとね、新しく買ってみたんだけど。どう、かな……?」

「え、ええと……」 


 最初から俯いていたけど、加えて視線を横に逸してよく聞き取れない何かをぼそぼそした声でつぶやいていました。顔は真っ赤になってて、それを見る私の顔も熱くなってきました。


「と、とにかく! せっかく海に来たんだからめいいっぱい遊ぼうぜ!」


 色々な感情を振り払うように、カズくんは大声でこう叫ぶと脱兎海の方へと駆けて行きました。えっ、これはどうなのと慌ててカナちゃんのほうに視線を向けると、計画大成功とばかりにウインクしながら親指を立ててきました。どこがよ、と思いつつも、正直私もこのままだとバツが悪いので自分の格好を気にせず海での活動に専念する事にしました。


「待ってよカズくん!」

「待たないよ!」

「だったら追いかけてやるわ! それっ!」


 砂浜の熱気ももはや気にせず、二人は不規則な弧を描きながらやがて青に染まりました。息を弾ませていれば自分の姿を気にする余裕もなくなる。カズくんもまた私の格好を程よく忘れて、いつもみたいに側にいてくれるようになりました。


 それから私はマロンちゃんの持ってきた大きな浮き輪に入って空を見ていると、カズくんがシンクロと称して海に潜り、足だけだしてクルクル回ったりしていました。


 プールでもよくやってるだけあってさすがに上手いなとのんきに思ってたら、いきなり海面がぶくぶくと泡立ったかと思うと、次は鉄砲のような勢いでカズくんの顔が水面を切り裂いて飛び出てきました。「うわあ、どうしたの!」と問えばゴウゴウという咳が返ってきました。


「水飲んだの? 大丈夫?」

「駄目だあっ! それは良くない!!」

「なっ!?」


 カズくんはもう一度海に潜ったかと思うと、今度はスルリと浮き輪の中に割り込んできました。大きい浮き輪だから意外とすんなり二人分の胴体を受け入れてくれていました。


 身体と身体がこんなに接近して、しかも輪の中から抜け出す事も簡単じゃない。でもそんなシチュエーションにドキドキする間もなく、カズくんはありったけの脚力で海岸側へと漕ぎだしていきました。


「どうしたの?」

「とにかく来い! どこか人のいないところ! どこか!」


 陸に上がってからも腰の部分まで浮き輪を持ち上げつつ、カズくんは辺りを見回しつつ右へ左へとさまよい、駐車場への道をちょっと外れた広場でようやく立ち止まりました。ここでもまたきょろきょろと首を二三回振って、人がいないのを改めて確認するとようやく浮き輪を手放しました。地面に落ちる空気の軽い音と松の木の枝を揺らす南風の音が同じ大きさでした。


「はあはあ、ここなら大丈夫だろうな」

「何なの急にバタバタし始めたかと思ったらこんな辺鄙なところに」

「振り向くな!」


 ずっと大声だったのにさらにボルテージの上がった大声で、犬みたいに叫んできたのでさすがにひるみました。


「あー悪い。でもとにかく! そのままあっち向いてて!」

「……うん」


 異様な剣幕に押されっぱなしのまま、私はカズくんの指示に従い背中と背中を向け合って、私は海側を見つめていました。小石が足に食い込んでちょっと痛かったけど、すぐにそんな小事を忘れされる信じがたいイベントに出くわしました。


「まずね、その水着だけどさ、とってもいいと思う。みんなの前じゃ言えなかったけど……。最初はびっくりしたけどよく似合って……、可愛いし、それに……。もしかすると今まで見てきた中で一番良いかもしれない」


 背中越しの告白を聞いて、私はそれまで漂っていた緊張感が解けてホッと顔を緩めました。なんだ、あんな顔しててもやっぱりカズくんは良く思ってくれてたんだ。カナちゃんの言う通りだ。


 しかしその一時的な安堵は次の言葉の絶望を深めるためのスパイスでしかありませんでした。


「それで今から俺、人間の所業とは思えないぐらい酷い事言うけどお願い、理性を保ってね」

「何その持って回ったような言い方は。大体カズくんさっきからさあ、いちいちおかしい」

「透けてる」


 食い気味に発されたたった四文字の日本語が私の脳天を撃ち貫き、ついでに「下の方」という追い打ちが心臓をえぐりました。


 その言葉が夢であるように願いながら私は頭を垂れて思い当たる部分を目視してみました。果たしてカズくんの言う通りの黒々としたおぞましい光景が、そこには広がっていました。


「あ……」


 体内から血液が渦を巻いて引いていきました。指先が、唇が、瞬く間に冷たくなっていき、唯一まぶただけが活発に収縮を繰り返しています。


 確かに今回の水着、色がやたらと薄くてどうなんだろうって疑問はないでもなかったけど、お店で売ってるものだしカナちゃんが選んだものだし、まさかそんな欠陥品みたいな事にはなるまいと高をくくっているところはありました。


 認識の甘さを今更憂いてもまさしく後の祭り。まさか親にも見せてこなかった紋章を……! 不特定多数に……!!


 後ろから殴られたみたいに頭がふらついて、風の音さえも聞こえません。右へも左へも動けず、ボルテージを上げ続ける心臓の鼓動だけがこの世界を絶望に塗り替えながら傅いていました。


「……死にたい」

「駄目。生きて」

「でも、こんなの見られたと思うと生きていけない……」

「た、多分大丈夫だよ! ほら、水に濡れて初めてこうなったわけだから、一回海に入ってから上がってなかっただろ? それに関係ない人達だってあえて見ようと思わなきゃ見れるもんじゃないし、浮き輪に入ってたしね。だから理論上見たのは俺ぐらいだからセーフだよセーフ!」


 むしろ一番アウトな相手が自分だとは気付いていないみたいでした。どうしようかな。首吊りかな、飛び降りかな。それとも道路に踊り出る? いや、最後のは運転手さんに迷惑かかるからやめとこう。ああ、せっかくの海だからいっそ入水自殺しようか。


 更に早まっていく鼓動の中、脳裏に浮かぶのはそんな言葉ばかりでした。でもいずれも実行には至りませんでした。だって動こうにも肉体が硬直して右にも左にも行けなかったから。じゃあいっそ後ろに崩れ落ちようかとも思いましたが、カズくんの筋肉質な背中が邪魔して直立不動の姿勢を保たされました。


 悲しいとか辛いとかはありませんでした。ここまでどうしようもない気持ちになると、人間逆に笑いたくなるみたいです。目元には熱い液体が溜まっているけど、耐えてるわけじゃないのになぜか決壊せずこらえています。いっそ泣けたらそれが正解なんだろうけどね。泣きたい時に泣ける女優には程遠いみたいです。


 それでまた鬱々とした発想に支配されそうになっていたけど、しばらくすると「ああ、そうだ!」と背中越しに手を叩く音が響き、そしてこれに続いて聞こえてきた提案のお陰で私は正気を取り戻しました。その内容があまりにも狂っていたからです。


「じゃあこうしよう。俺のも見せるよ!」

「はあ?」

「だってそうだろ? ぴーちゃんだけ恥ずかしい思いするぐらいなら俺も同じぐらい恥ずかしくなって、そしたら平等になる」

「カズくん正気に戻ってよ」

「俺はいつでも正気だよ! だってさ、恥を承知でこんな事言うけどさ、今俺のアレもアレなってるし。もちろんぴーちゃんのそれのせいでさ……。だから背中向けてるわけだし……」


 まさかのありえない告白をしてきたけど、さすがにこれはカズくんとしても許容範囲を外れるレベルで恥ずかしかったみたいで、だんだん声に勢いがなくなってしおしおになっていました。でもこうやってカズくんがおかしな事を言えば言うほど私の理性は回復していきました。


「で、お互い恥ずかしい思いしたところで俺は死ぬ気ないからぴーちゃんも生きる。それなら!」

「馬鹿!」


 カズくんはいつでも真面目だから、これも本気の提案だって分かってます。でもカズくんは根本的なところで馬鹿だから、そんな馬鹿が真面目に考えたところで出てくるのは濃縮された大馬鹿以外にありえません。


 あまりにも馬鹿げているので、瞳をうっすらと飾っていた涙が一瞬にして全部蒸発してしまうほどでした。


「うーん、いいアイデアだと思ったのに。どうしても死んじゃう?」

「はあ? 今更そこ?」

「だって死にたいって言ってたから」

「死ぬわけないでしょ。享年十二はちょっと若すぎるわ。それにまだまだやりたい事いっぱいあるしね」

「そっか、良かった! ぴーちゃん死んじゃったら俺も生きていけないからさ、どうしようって思ってたんだよ。でもそれはそれとして、その水着の事はどうにかしないと……。濡れないように砂浜に座ってるだけじゃぴーちゃんの今日の楽しみが死んじゃうし」

「微妙に凝った言い回ししないでよ」

「うーん、ああ、そうだ! カナちゃんのあれ借りればいいんだ! あの緑の、上に着てるやつ」

「ああ、あれねえ。でも貸してくれるかな?」

「大丈夫だよ! 多分。非常時だし、しっかり説明すれば」

「……どうだか。でも、一応交渉してくるわ」


 私は浮き輪を腰まで引き上げてから、砂浜のほうへと早歩きで向かいました。一回カズくんが引っかかったのでしゃがんで輪っかから出てもらい、ついでにしばらく待機してもらいながら。それで海にいたカナちゃんに手招きし、砂浜に腰掛けたところでわがままなお願いを切り出しました。


「ねえカナちゃん、これは一生のお願いなんだけどね、凄く厚かましい事言うから断られても仕方ないと思うんだけど……」

「ああ、パレオ貸して欲しいんでしょ? いいわよ、はい」


 存外あっさり承諾してくれたので逆に拍子抜けしてしまいました。土下座ぐらいは覚悟していたのに。


「あ、ありがとう。恩に着るわ。でも何でこれだって分かったの?」

「そりゃあ分かるわよ。だってその色よ? 生地も薄いしインナーもなしじゃあね」

「インナー?」

「そういう薄い色の水着着る時は普通インナーを水着の下に着て透けなくするものよ」

「へえ、そうなんだ。ってかカナちゃん酷いな。知ってるんなら買う時言ってくれればよかったのに」

「でもスリリングな思い出になったでしょ?」


 この言い方に、私は少し引っかかるものを感じました。そもそもこの水着を提案したのはカナちゃんで、いわば共犯者なのにあまりにも悪びれなさすぎる。まるでこうなる事を分かっていながらあえてそうさせたような、恥を晒してほしかったような……。


 それを問い詰めると、ぺろりと舌を出しつついきなり話を変えてきました。


「ねえ、覚えてる? うちがこっちに転校した時の事」

「もちろん覚えてるよ。三年の秋だったよね」

「そう。それでタチの悪い六年生いたじゃない。うちに絡んできてさ」

「あー、そんなのあったね……」


 カナちゃんの言葉に乗って私もその時の記憶が少しずつ鮮明に蘇ってきたのですが、ついでにまずい記憶も蘇ってきたので笑みに若干の苦味が加わりました。しかもそれを見透かされたように、カナちゃんはピンポイントでそれについて執拗に攻め立ててきたのです。


「それでぴーちゃんさ、あの六年生をバシッと殴ってくれたじゃない」

「あー、うん。まあ、あれは若気の至りと言うかね……。今となっては恥ずかしいなって」

「そんな事ない! あの時、本当に嬉しかった。その時からずっと私の気持ちは変わってないの。カズくんとの事も真剣に応援してる。それだけは信じてね」

「信じるとして、何が言いたいの?」

「つまりね、うちはぴーちゃんの笑った顔が好き。でも怒った顔や困った顔だって嫌いじゃないの。それだってぴーちゃんの一部なんだから」

「へえ、じゃあ何? まさかわざと私を怒らせたり困らせたりしたわけじゃないよね?」

「ふっ、正解よ。一緒に水着買いに行った前の夜にちょっと悪いニュースがあってね……、それでぴーちゃんにいじわるしたくなったの。まっ、一時の気の迷いだと思ってくれれば」

「思ってくれれば、じゃないでしょ。黙って聞いてりゃカナちゃんさあ、随分身勝手じゃない?」

「あっ、今怒ってる? 怒ってるでしょ? んんー?」


 それまでは別にそこまで怒ってたわけじゃないけど、微妙に舐めたような口調にはちょっとイラッとしてきました。しかもカナちゃんと来たらそれを見透かしたかのように「でしょうね。だってイラッとさせてるもん」と来るからまさに確信犯です。誤用のほうの。


「まあ悪いと言えば私も悪いんだし、何ならぶってくれてもいいのよ?」


 わざとらしい軽薄な口調に乗せて左の頬を突き出すカナちゃんの挑発に、昔の私ならそれにまんまと乗っていたでしょう。でも恋人のいる身分でいつまでもそんなドンパチはやっていられません。私だってもう子供じゃないんだから。ターゲットをギラリと睨みつけつつも理性を最大限に働かせてどうにか踏み止まりました。


 歯を食いしばり、怒りに燃えても最後の一線だけは超えない。超えさせない。頭の中でロゴスの三文字を無限大に反復させて、発作的な炎を収めました。


「……返答次第よ」

「返答? 何を?」

「これはイエスかノーかで答えられる簡単な確認だからそれで答えてね」

「了解」

「私の事、嫌いなの?」

「ノー」

「じゃあ好きなの?」

「イエス」


 私の問いに対して、カナちゃんはいささかのためらいもなく答えました。つまり本心だと思えました。それだけで私の心は決まりました。


「そっか。じゃあ許す」

「……それだけ?」

「うん。簡単な質問だって言ったでしょ」

「いやでもそれはさすがに……。うちの言葉、信じられるの? わざとあんな事した人間の言葉を?」


 正直な話カナちゃんの気持ちとか言いたい事を全部理解していたわけではありません。それでも信じたいという心のほうが恨みよりも勝っていたので、それなら私は私の心に忠実であろうと努力しました。


「信じてるよ。だから許すの。私だって、好きだって気持ちを人に上手く伝えられてるわけじゃないし。それでも好きって気持ちは本物なら、それでいいと思う」

「ぴーちゃん……。ごめん」


 カナちゃんの目は潤んで、そよ風が目に触れただけでも零れ落ちそうなほどに涙が貯まっていました。まるで狩人を前にした小動物のようにおびえる体を、私は目を細め聖母にでもなったつもりで抱き寄せました。


「いいよ、気にしない。だって私達、友達でしょ」

「友達……。ねえ、一時の気の迷いでうちは絶交されても仕方ない事をしたけど、それでも友達でいてくれる?」

「当たり前よ。どんなに悪く考えてもカナちゃんの事、やっぱり好きだもん」

「ありがとう、ぴーちゃん。その言葉だけでうちは……。ごめん。ごめん……!」


 そしてカナちゃんは絡みつくようにもたれかかると、声を上げながら大粒の涙を私の胸にこすりつけてきました。私は何も言わず、その激情が静まるまでただ受け止めるだけでした。カナちゃんが私のために泣いてくれるなら、私はカナちゃんのために笑いかけてあげたいと心から願いました。


「はい、これにて一件落着ね! 辛気臭い話はここでおしまい。後は遊ぼうよ! せっかくの海なんだから!」

「……そうね。そうしよっ!」

「じゃあ……、ってその前にカズくん拾ってこなきゃ! すぐ戻る!」

「うん、待ってる!」


 パレオを翻し砂浜を蹴り上げて、私は急いでカズくんのもとへと馳せて行きました。途中で「もしかして勝手に戻ってたりしないかな」なんてノイズが頭をよぎりましたが、さすがにそこまで気ままじゃなかったみたいで元いた松林の中で迷子の子犬みたいに俯きながらウロウロしていました。


「カズくん!」

「うわああっ!!」


 何その絶叫は。まるで不意打ちを食らった鳩みたいな声で私を迎えてくれました。こっちとしたら多少元気良かったにせよ、特になんでもないトーンの声だったのに。


「い、いやねえ。なかなか来なかったところに大声だからちょっとうわってなっただけ。全然違うから!」


 目線も横へ下へと逸れがちで、こんな焦って気弱なカズくんの表情を見たのはもしかすると初めてかも知れませんでした。何でそんなと訝しみながらも、ただ珍しい表情を見られたのはちょっと嬉しくて、ああ、カナちゃんが言ってたのはこういう事なのかなと少しだけ理解した気がしました。


「それより、ちゃんと借りられたんだな、それ」

「うん。どうにかね。まあ色々あったけど、これからが夏本番よ! 無駄に悩んだ分は今日のうちに取り返さなきゃ!」

「お、おう、そうしようぜ!」


 そこからはもうホウセンカのように弾けて、イルカのボートに乗ったりビーチバレーやったりして海を散々楽しみました。

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