6月
目が覚めた時、すでに演奏会は始まっていました。
差し込む光もない窓に視線を向けたところでビリジアンのカーテンが畝をなしているだけの無味無臭な光景しか見えないけれど、それでもザンザンバラバラピンピンチョンチョンと終わりのないドラミングを奏でる雨音の姿が絶え間なく響いてくるから、布切れ一枚の向こう側にあるくすんだ風景は半開きのまぶたの中にはっきりと浮かんできます。
体を反転させて時計を眺めると、短針はすっかり8の数字を通り過ぎていました。カーテンの色がどんよりしてるからあんまり実感ないけど、予想より進んでいたのでほんのちょっとだけ焦りました。でも今日は焦る必要なんかない日なんだと思い出したところで、私はグッと左腕を伸ばして眠気を体内から追い出しました。あまり心地良くない梅雨の朝です。
つまんないな。せっかくの日曜日なのにこんなまどろっこしい天気で、やりたい事もやれなくなりそうで。家の中にいてもゲームやったりとか宿題終わらせたりとかやれる事はいくらでもあるんだけど、今はそれよりも会いたい人がいる。でもこの天気じゃきっと会えないからつまらないんです。
カズくん、今頃はとっくに起きてるんだろうな。休みの日は早く起きてサッカーの練習するって言ってたから。「雨の日も?」って聞いたら間髪入れずに「当然」と胸を張ったぐらいだし。
カズくんと恋人になったのが4月で、そこから今までいくつかのステップをくぐり抜けながらどうにか愛を保ち続けています。とは言っても未だに口づけすら満足にこなせずにいるし本当に少しずつしか動いていないような気はするけど、それでも2ヶ月前の私達にはもう戻れないぐらいには確実に前進しています。
人は変わらずには生きていけないものであって、それは今までの12年も同じだったはずだったんだけど、今ほど変化を自覚するタイミングに事欠かない日々を過ごした事はありませんでした。
たった数日のうちにでも、私は私の知らなかった私が勝手に生まれていくのを知っていられるんだから。
例えば不安に押し潰されそうになってなかなか夜に眠れない自分とか、朝起きてもこんな事をうだうだと考えてしまう自分とか。
カズくんと会えない一日なんて特別な事じゃなかったのに、今まで11年間はそれで何も不都合なんてなかったのに、今はどうしてこんなにも心乱れてしまうのか。私が知らないうちにそんなにも弱くなったのか、それとも愛って思ったより甘いだけのものじゃなかったのか。
昨日の夜、カズくんに会えない明日の不安を掻き消すため、闇夜にカズくんのしなやかに走る姿を浮かべながら眠りました。そうでもしないと切なさで倒れてしまいそうだから、疲れ果ててしまいそうになるのを分かっていながらも想わずにはいられない。その中で生まれた新しい私の姿も……。
「ぴりかー、起きてるー!?」
朝もやに浸された脳味噌が繰り出すうだうだした一人想いを一撃で吹き飛ばしたのは、ドア越しに響くお母さんの声でした。私は「今起きた!」と、眠気の漂わないはっきりした声で返事しました。
「じゃあお母さん今から行くからね。朝ごはんはテーブルの上にあるし、昼のラーメンも置いてるから。具は冷蔵庫の中だから好きに使ってね。帰りは四時ぐらいになる予定」
「はーい、いってらっしゃーい!」
お父さんは休日が本番の仕事だからもう家を出てるし、お母さんも同じようなものです。3月まではお兄ちゃんもいたけど今じゃ大学生。遠いところに下宿してるから今この家にある生命体は私一人きりです。
小学校も今まで5年間耐え抜いただけあって上級生がいないし家でもこの開放感、本当に楽しく過ごせています。
じゃあこれから何をして自由を満喫しようかなといきたいんだけどあいにくの雨模様。どうせ家から出ないとしてもやっぱり日差しがあったほうが心も輝くもので、そういう天気の日なら即座に上半身を跳ね上げて着替えるんだけど、こういう天気だとどうにもやる気も萎れてしまいます。
どうしようかなどうしようかな。考えているとお腹の中に重力が働いて胃が存在感を主張してきました。そうだ。何をするにしても、まずは朝ごはんを食べなくちゃ。それが今の答えなんだと納得したところで、身体をぐっと伸ばしてから右肘に体重を乗せて上半身を起こしました。
時計を見るとすでに8時半。目を開けてからもうだうだと20分ぐらい過ごしてきたから、一度動くと決めたら後はシャキシャキと身体はついてきてくれます。
カーテンをゆっくり引っ張ってみると予想通りの光景が広がっていて心も空と同じ鉛色に染まりました。窓ガラスに映る退屈そうに細めた目つきが私を無気力に眺めています。
「ふー、やっぱり雨の日はつまんないな」
自分で自分につぶやくと、私はリコーダーを演奏するような柔らかい手付きでパジャマのボタンをスルスルと外しましたが、着替えるのは別に今すぐじゃなくてもいいしそれより喫緊の課題である空腹をどうにかしようと思い直して、その姿のままダイニングルームまで歩きました。廊下冷たい。スリッパどこだ。
食卓に並んだ朝ごはんは食パンとスクランブルエッグ、それにリンゴ二切れと牛乳。何度も見てきたいつもの味なので食べるほうとしてもいつもと同じに、トーストしたパンを折り曲げて卵を挟んだ簡易版サンドイッチにして頬張りました。
「ぬるい……。レンジ使えば良かったかな」
牛乳も卵も部屋の空気に感染してなんとも言えないねっとりとした感触を口の中に残してから去って行きました。それにつけても、咳をしても一人の食卓は侘しいのでテレビのリモコンを押してみましたが、もうニュースも終わっている時間なのでつまらない顔ばっかりが偉そうに画面を占拠していました。
今の時間のテレビに自分の居場所はないな。でも音のない食卓なんて味気なさすぎるから、仕方なく教育テレビにチャンネル合わせてBGMにしながらもさもさとパンを口の中へと送り込みました。これじゃもう食事と言うより体内にエネルギーを注入するための作業です。
新聞もあるけど、昨日は12点も取られて負けたからあんまり積極的に読む気がしません。政治の話もちょっと今はゴタゴタしすぎでいい大人が何やってんのってなるし経済も悪いらしいし、どうなっちゃうんだろうなこの世界。そういうよくわからない魑魅魍魎がわらわらと蠢いているのは、古い時代がそろそろ終わるからなのかな。
そして新しい時代を迎えて私達が大人になる頃、この国には一体どんな希望が残っているんだろう。こうやってつまらない話や不安を煽る話ばかりが世間を覆っているから、やっぱりカズくんに会いたい。
そんな事を考えていると手に取るべき食べ物が掴めなくなっていたのに気付きました。無意識のうちに食べ終えていたみたいです。ごちそうさまと手を合わせてからお皿を流し台に持っていき、スポンジで軽くなでてから自分の部屋に戻りました。
何はともあれ、まずは着替えようか。いつまでもこんなずぼらな格好でうろついてると知られたらさすがのカズくんだって幻滅するだろうから。
それで服の入っているタンスを開けようとしたら、引き出しにもたれかかっていた水色の小さな傘が倒れて床を鳴らしました。
「あっ、そっか。明日にはこれも返さなくちゃね」
それはもう昨日の話、朝はいい天気だったから空を信じて手ぶらで登校したのに急に裏切られて、帰る頃にはすっかりザンザン降りになっていました。
「やられた……! まったく、降水確率40%が聞いて呆れるわ。家帰ったら気象台訴えてやろうかな」
意味のないイライラを空や偉い人にぶつけたところで空が晴れるわけでもないし、現実的には雨の中であってもどうにかして家まで帰らないといけません。とは言え傘も合羽も何もないわけで、やはり走るしかないかと覚悟を決めようとした時「あれれーぴーちゃんまだいたの?」とわざとらしい高音がピロティに響きました。
「あれ、カズくんまだいたんだ」
「まあ色々あってね。ってかぴーちゃんこそとっくに帰ってたと思ってたんだけど」
「出来るならそれで良かったけど、何分天気がね……」
「あれ、傘持ってないのか」
「だって40%って言ってたし……。信じてたのに」
「不用心だなあ」
まったくもってその通りで本来は返す言葉もないんだけど、なんだか負けっぱなしなのも悔しいから「でもカズくんも行きの時に傘持ってなかったよね」なんて言ったところ「これあるから」と、傘立てに残っていた古くて小さい傘を一本抜き取りました。
それは六年生の傘立てにずっと刺さっていたけど明らかにボロボロだし、それに誰のものかも分からなくてもしかすると卒業していった前の六年生のものなのかなとか思ってて手を出さなかったやつです。
「それカズくんのだったんだ」
「知らなかったの? こんな事もあろうかとね、一年の頃から使ってた古い傘を予備として学校にずっと置いてるんだよ」
私は「それはまた用意周到な事で」なんてちょっと嫌味っぽく言いましたが、カズくんがこんな傘を持ってたって記憶はまるでありません。
「天気予報なんてあてにならないからね。それにこのデザインだから盗まれる心配もない」
開かれた傘の一面には顔面がリンゴの変なキャラクターが描かれていて、カズくんが豪語した通り気が確かなら小六にもなって手に取りたくないデザインだけど雨を弾いてくれる力は変わりません。
「で、どうすんの、ぴーちゃん。何なら入れてあげてもいいけど?」
「それを私の口から言わせるつもり?」
「いや、俺は別にどっちでもいいんだからさ、ぴーちゃんの言葉で聞きたいんだよ」
「生意気な。カズくんの思惑にはめられるのは癪だけど……。お願い入れて」
「そう来なくっちゃ」
かくして私はカズくんの傘下に入ったけど、これがまた普通の体格の六年生二人が入るにはいささか頼りないサイズだったので少し不安になり「これちょっと小さくない?」と思わず尋ねました。
「大丈夫だって。多分、もうちょっと密着すれば。……ちょっときついかな? 大丈夫? 痛くない?」
「私は別に大丈夫だけど」
「良かった。それなら行こっか」
六年生が使うにはいささか小さな水色のシェルターだから、濡れたシャツ越しに心臓の鼓動が聞こえてくるほど近づいたままでゆっくりと雨の中を歩み出しました。
「それにしてもぴーちゃんも甘いね。梅雨だよ? そりゃあ雨だって降るよ」
「そりゃそうだけどね、もし降らなかったら傘なんて邪魔になるだけだし」
「いらないものがある面倒といるものがない面倒、どっちがましかって話だよ。でもまあ、俺が恋人で良かっただろ? じゃなきゃ今頃ずぶ濡れで帰ってたところなんだから」
「それは、うん……。と言うかさ、カズくん結構濡れてない?」
「いや全然。こんな雨ごときに負ける俺じゃないよ」
「いや、勝つとか負けるとかそういう事じゃなくってね」
「気にするな!」
ぱっと見だと私の体は6割ぐらい守られていたけど、カズくんの体は3割ぐらいしか傘下に入っていませんでした。それで長袖も肌も髪の毛もランドセルもビショビショなくせに、それを聞かれると平気な顔でこんな答えだからさすがの神経です。
「やっぱり小さすぎたんじゃないの?」
「でもこれがなかったら全身ずぶ濡れだし、それよりはましだよ」
「そろそろ半分ぐらいだし、今度は私が持とっか?」
「いいって。俺の傘なんだから俺が持つんだよ」
「だけどさあ」
「気にするな!」
カズくんは意地っ張りで格好つけだから優しさを優しさと口にせず、でもそれを間違いなく行使している時はこのワンパターンなフレーズで誤魔化そうとします。とんでもない強がりだけど、そういうカズくんが私は好きです。だからここからはあんまりうるさく言わず、このぶっきらぼうな優しさにただ身と心を委ねました。
それでいつもの倍ぐらい時間をかけて帰り道が分かれる神社のあたりに辿り着いたところで「じゃ、月曜には持ってきてね!」と言って、傘をこちらに手渡したかと思うと一目散に走り出しました。
さっき「俺の傘は俺が持つ」とか言ってたのはどうしたんだ、と突っ込む暇も与えないよう持ち前の俊足を活かして、あっという間にその身体は灰色に煙る水の壁の向こう側へと消えていきました。私の周囲には背中を撫でるぬるい風の感触と持ち手に引っ掛けていた給食袋だけが残されていました。
「ふっ、格好付けちゃってもこれだからね。やっぱりカズくんはカズくんよね」
忘れ物の給食袋は一緒に洗ってもらって、今頃は室内に引っ掛けた物干し竿の上にぶら下がっているところだけど、傘のほうは玄関前の傘立てに入れてたら月曜日にはうっかり忘れてしまいそうなのであえて違和感のある配置、室内に立てかけていました。
そんな傘を広げてみると、昨日貯めておいた水滴が飛び散ってタンスやカーペットの表面に小さなシミを作りました。
こうやって改めて見てもやっぱりこのキャラクターは変なデザインだし、しかも相合傘でこんなのを晒しながら十数分も過ごしていたんだと思うとぼうっと顔が熱くなり、インフルエンザにかかった時みたいに頭がクラクラしてきました。
人に見られてないといいけど、でもこいつのお陰で陰惨な帰り道にならずにすんだんだから、もっと感謝しなきゃいけないなと思い直しました。ありがとう、名前も知らないマスコット君。
それからにわかに身体中の力が抜ける感覚がしたので、私は重力に従いベッドにまっすぐ倒れ込みました。眠りならもう十分なのに。早く着替えなきゃという意志の力は宇宙の織り成す法則の前ではあまりにも微弱で、それよりもぐるぐる回って火照った頭を鎮めるため、右の手のひらを心臓に近づけて奏でる鼓動に耳を澄ましました。
指先から心臓までの距離もここ最近になって遠ざかる一方です。四月頃から胸に現れた小さなしこりが時を経て少しずつ大きくなり、重石となってきたから。なんで女に生まれてきたってだけでこんな煩わしいイベントばっかりが立て続けに起こるのか。これを定めた神様みたいなものは多分人生においていらないものを押し付けられた経験がないんでしょう。
野球部の頃も「女の子とは思わなかった」とか言われて、実際女の子らしい趣味もろくになくてそれこそ野球の話とかカズくんと釣りに行ったりとかそんなのばっかり。唯一の例外は外国のうさぎのキャラクターをかわいいなって思ったぐらいか。
二年生の頃に買ってもらったそのキャラクターのポスターは未だに壁に張り付けられてるけど、いい加減端っことかボロボロになってるしいつか外そうかなって思いつつも、何となく大事な何かを捨て去ってしまう気がするので既のところで思いとどまるというワンパターンを四年生頃から何度か繰り返しています。
そんな感じで今までの人生、女の子らしさをろくに発揮してこなかった私が、ちょっと成長したからっていきなり「お前は女として生まれたのだから女らしく生きていくべき」と言われたところではいそうですかとすんなり切り替えられるはずがありません。
別に女として生きていくのが嫌とかそういう話じゃなくて、ただ自分の事のくせについていけないようなスピードで勝手に成長していくのが気に食わないだけで。
私の望むと望まざるとに関係なく、まるで世界の法則にはまったかのようにそういうふうに身も心も塗り替えられて、細くてしなやかな風の子供から別の何かに進化していくそのまっただ中にありながら、心の底からそれを歓迎しているわけじゃないのもまた本当のところです。
いられるならもうちょっと子供のままでいたかった。でも一度動き出したらもう後には戻れないのも知っている。
変わっていく事はただそれだけで怖いものです。現状に安穏としていられないんだから。変わった先に何があるかなんて分からなくて、それでも霧の向こう側に進んでいかなければならないのが人生だとしたら、その旅路はいつだって恐怖との戦いの連続になるんだろうか。
子供の頃は脆い吊り橋だって平気な顔して進めたはずなのに、今の私はとても臆病になってしまいました。だから、何かを確かめずには歩いていけない。今もこうやって、指先の柔らかいところで寂しさを撫でながら震える心を慰めています。
「カズくん、早く会いたいよ……!」
一度声に出してしまえば、そこからはあっという間でした。そしてその時、確かに私の目の前にカズくんの姿が現れました。それが幻想だとは分かっていても、その真っ直ぐな眼差しに射抜かれると私の心は乱れ狂い、上気した皮膚感覚はそよ風に触れただけでも弾けて飛んでしまうと自覚するほど鋭く高まっていました。
激しさと平静のラインを行ったり来たりでさまよいながら、結局同じところをぐるぐる回っているだけみたい。
その先になにもないなんてとっくに気付いてる。だったらこんな事、いい加減やめればいいのにそれも出来ない。私の意志の力は自分で思うより弱かったから、右と左にある五本ずつの指先は未だに何かを求めて虚空の中を探り続けています。
虚空。まさしくこの単語こそが今の私に最もふさわしいものです。何が本当で何が嘘か、どれが真実でどれが偽りか。まるで分からないまま、それでも感情の赴くまま貪り食う獣のように、姿形のない愛なんてものに触れるべくあがかずにはいられない。そこに何かがあるはずと思って手を伸ばして抱きしめても、指先は空を切るばかり。
心ごと、体ごと、全てを捧げて愛を誓いたい。今はまだ言えなくてもそんな気持ちを4月からずっと心の奥底には持ち続けていて、さすがに毎日とは言いませんが時々こうやって爆発的なまでの発作に襲われては指先で押さえつけてどうにか鎮めています。昨日の夜だって、そうやって心を平静に保ってからでないと眠りにつけなかったから。
そしてカズくんの幻が目の前から失せた時には体内に宿る熱気もようやく冷めて、再び瓦やコンクリートやアスファルト、そして木々の葉に打ち付ける水の音だけが室内の音を支配していきました。
「何やってんだろうな。とにかく、まずは着替えなきゃ」
伸ばした左手の指の隙間から白い光を放つリング上のライトを見つめて、私はまばたきを四度繰り返してから立ち上がり、改めて生きるための服をまといました。
今までは誰かの傘に守られていたけど、これからはもっと雨に打たれながらも駆けていけるような強さを持たなきゃいけないかな。屋根に守られているくせにしっとりと濡れた心を抱えながら、私は宿題を片付けるべく机に向かいました。