3月
春が過ぎれば夏が来て、夏の次には秋が訪れます。秋が去って冬を経て、この地球は再び私達と春の日を巡り合わせてくれました。窓の外を仰ぎ見れば嫋やかな陽光が私の目を笑顔に似せてくれます。
こんな穏やかな一日だから新しい服に身を包んで「行ってきます」と履き慣れた靴のつま先を地面に三度叩きつけました。ふわりとつむじを巻いた東からの風が足元の素肌をくすぐると、暖かさで弛緩した気持ちが急に引き締まります。
「ふふっ、まだ少し冬が残ってるのかな。ゾクゾクする。でもいい加減慣れなきゃね。これからはこのスカートって奴とも付き合っていかなきゃ駄目なんだから」
思えば小学生として人生最後の日は、私がスカートを纏う人生最初の日でもありました。男子は紺色の詰襟で女子は水色のセーラー服。こんな何十年も昔から決められたままの古めかしい服を着せられて、私達は新たなる人生の門出を迎えました。ただ一人を除いて。
チャコールグレイのブレザーに身を包んだカズくんが「一人だけ持ってくる服間違えたみたいだ」と笑わせながらも、隠しきれなかった切なさがはみ出たように語尾がかすれたのが涙を誘いました。泣かないけど。
そして式本番、卒業証書授与で四番目に「旗生一弾くん」と名前が呼ばれた時、カズくんは六年間の中で一番輝かしい、透き通るような高音を響かせて返事をしたのには目を瞠りました。
もうこんな声を出すのは辛くなってきたって、卒業式の練習でも苦しそうだったのに一体どこにこんな声帯を隠し持っていたのか。
でもこれはつまり今まさに雄飛せんとする少年がこの場所で過ごしてきた6年間、いや、それだけじゃなくて今までこの賀内という小さな町で生きてきた12年間の総決算として、ここまでの人生で集めた輝きの全てをあの瞬間で放出したんだと思えました。ただ一言のためだけに。
その覚悟を悟った時、私が今何をなすべきかも自然と定まりました。見つめていたい。これからどれだけ遠く離れようと心だけはいつまでも寄り添っていたいから、そのためにもこの輝きを永遠に閉じ込めていたい。私は瞬きする暇すら惜しんで、その姿を瞳に焼き付けました。
その作業に勤しむあまりいざ自分が呼ばれる番でちょっと反応遅れて変な声になったところで、私にとってはもうどうでもいい話でした。
そこからもわざわざ演劇みたいに役を割り振っての答辞とか歌を歌ったりとか、一連の作業を練習通りにこなしながらも私の視線の先にあったのは過去じゃなくて未来でもなくて、今ここにいるカズくんだけでした。
年中日に焼けたような健康的な褐色。きちんと横分けされたつややかな黒髪。きりりとした眉はさすがに今日という日の意味に押され気味ですこし勢いがなかったけど、その下に潜む瞳は黒耀石のような輝きを忘れてはいない。
そんなカズくんの姿なんてこれまでずっと見慣れていたはずなのに、区切りの瞬間が迫っていると思うと何もかもがいつもより新しく思えました。
これまでの人生が全部そうだったわけじゃないし、これからもそれが続くとは限らない。でも今の私にとってカズくんは全てだと心から誓える。その気持ちにだけは嘘を付きたくなかったから。
式次第に書かれた全部のイベントを消化して、最後の仕上げとして退場する時は「ああ、カズくんと一緒にやれる学校行事はもうないんだな」と淋しくなりました。泣かなかったけど。
「そう言えば、カズくんが長ズボン履いてるの見たのもあれが生まれて初めてだったな。見慣れない割には案外似合ってたな」
信号が青だったので軽く走って間に合わせてると、心だけはそのスピードのままカズくんのいる家まで急がせました。
「ごめんください」
「はーい。どなたですかー」
抑揚のない返事に続いて開かれた扉の奥から、四男の樹楽斗くんがのっそりと顔を出しました。
「あっ、樹楽斗くん」
「ぴりかちゃんかあ。おおう、可愛らしい服だこと! よく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます。へへ」
カズくんに似た顔でカズくんがあんまり言わない事を言われると、まるでカズくんが言ったみたいに脳内変換されて思わずにやけてしまいました。
「それと一弾だろ? あいつならさっきどっか行ったよ。てっきりぴりかちゃんの家かと思ったけど」
「いえ、こっちには来てないです」
「ふーん。じゃあどこだろうな? ちょっと分かんねーな。あっ、そうだぴりかちゃん、なんなら上がって待つかい? 外はまだ寒かろう」
「大丈夫です。心当たりありますから、まずはそっち行ってみます」
それで私が踵を返そうとしたところ、急にしっかりした口調になって「ああ、ちょっと」と私を引き止めました。
「どうしたの樹楽斗くん」
「いや、ぴりかちゃんありがとな」
感謝されるような事はしていないつもりだったので、急にこんな事を真顔で言われても困惑が先立ちました。
「ええ、何がどういう?」
「一弾の事だよ。あんな馬鹿をちゃんと受け入れてくれるんだから、兄としても本当に感謝しているんだ」
「あははっ、何を言い出すかと思えばまたそんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないさ。まずうちは男兄弟ばっかりだろ。しかもあいつは一番下で、俺らの変な影響もいっぱい受けて育ったからな。美意識とか。冬でも延々半ズボンだったのも小一の時、本当は長ズボンも買ってたのに次兄が冬でも半ズボンのほうが男らしいぜって言ったのを今の今までずっと引っ張り続けてたんだ。俺ら兄弟の誰一人やってなかったし普通はどこかで止めるだろうにさ……。馬鹿だぜ、あれは。ぴりかちゃんもそう思った時はいっぱいあっただろ?」
「いえ、そんな事は……」
面と向かってそう言われるとどうにか否定したかったけど、実際思い当たる節はかなりあったから嘘はつけません。それでうまく返せずに苦笑いなんかしちゃったから「だよなあ」なんて頷かれました。
「そのくせ運動神経は半端なくあるからな。ようやくいい人が出来たと思ったら今度は中学からは東京だ。まあすげえ話だけどなあ、取り残されたほうは侘しいもんだよなあ」
そう言うと樹楽斗くんは小さく俯いて淋しく微笑みを浮かべました。思えば長男の末広くんと次男の次直くんはすでに家を出て、三男の礼央斗くんも今年から大学進学です。そして五男のカズくんまでがここを旅立つから残るは四男のみ。
そうか。この街に残されるのは私だけじゃないんだ。そう思うとかえって心が楽になりました。
「でもいいんです。別にもう二度と会えなくなるわけじゃないし、心さえ繋がっていれば」
「うああ、やっぱりいい子だなあぴりかちゃんは。それで結局一弾はぴりかちゃんの優しさに甘えっぱなし迷惑かけっぱなしなんだよなあ」
「迷惑だなんて……。私だってカズくんを傷つける事はいっぱいあって、その時は優しさに救われたりもしましたし。確かにカズくんはバ……、ちょっと抜けてたりよく分からなかったりするところもありますけど、それでも一本筋が通ってるから」
忌憚なき意見を述べたところ、「はっはっはっ、そりゃあ言えてる!」と手を叩きながら大笑いされました。
「お兄ちゃんから見てもやっぱりそうなんですね、カズくんって」
「ああもう、そこに関してはもうお墨付きだ。とにかくとてつもない頑固者!」
「それ! 本当そうですよね!」
「なあ。だからあいつは一回愛してるってなればそれをずっと愛し続ける奴だ。だからぴりかちゃん、いつまでも大事にしてあげなよ。あんな奴だけどさ」
私は頬をこれから開花する花と似た色に染めながら、卒業式の時よりも元気に返事しました。そして「一弾はいなくなるけどたまにゃうちにも寄りなよ、将来のお嫁さん」なんて冷やかしを背に受けつつ、カズくんを探すべく早歩きで南へと向かいました。
ここをまっすぐ進んだらT字路があるからそれを左へ。古い商店が二三軒並んでいる路地を抜けた頃には潮騒も耳に馴染んできます。海風を頬に受けながら港の西から東へ視線を動かせば、予想通り空の色とも海の色とも違う水色のシャツが目に飛び込んできました。
「やっぱりここか。カズくん!!」
堤防の上に浮かんだ紺色のキャスケットのつばが南から東を経て北で止まりました。「すぐそっち行くから待ってて」とピースサインを突き出したらカズくんは両手をバサバサと上下させて返事をくれたので、私はかもめの横を小走りで通り抜けてカズくんの隣に滑り込みました。
「ぴりかもここに来たんだ。奇遇だねえ」
「奇遇だねえじゃなくてさ、カズくんを探しに来たんだよ。家にいなかったからさ」
「あっ、マジで。じゃあよくここだって分かったな」
「そんな気がしただけ。まっ、以心伝心よね。隣いい?」
「ああ。とりあえず座ろっか」
「うん……、あれっ」
カズくんが軽く飛び降りるように腰を下ろしたから私もそれに続こうとしたけど、その瞬間にある疑念が頭の中で渦巻いて私の動きを妨げました。
「どうした?」
「あっ、いやね、スカートの場合綺麗に座るにはどうしたらいいかなってちょっと考えてた」
「そっか。ふははっ」
「もう、あんまり笑わないでよ。ちょっと慣れてないだけなんだから」
「ごめんごめん。いやあ、女の子って辛いよね」
「今までがお気楽すぎただけかも知れないけどね」
とは言いながらも足を折り曲げて堤防の上に落ち着くとそれから二人、何をするでもなくただ波の音だけを聞いて過ごしました。いや、本当は波の音すら必要ありませんでした。二人がただそこにいて同じ時を分け合う、それだけで心が満ちていくんだととっくに気付いていたから。
でもそれすらも今日を限りに叶えられなくなるなんて。目を背けようにも一度それを思い浮かべるともう最後、この波のように無限に押し寄せてくるからきりがありません。
「……いよいよ明日よね」
「そうだな……」
横顔のまま答えたカズくんの返事もいつもよりずっと小さな声でした。細めたまぶたの隙間からほのかに見えるダイヤモンドよりも透き通った瞳が海面を乱反射した太陽の光を受け止めてキラキラと輝いて見えます。
「多分色々忙しいと思うから、明日は来ないつもり」
「そっか。じゃあ、今日でひとまずお別れって事になるんだな」
「それは、そうなるけど……。私だってね、恋人の門出をそういう顔で見送りたくないからね。ほら、明日会ったら泣いちゃいそうじゃない。そういう湿っぽいのは、嫌だから……」
そんな事を言いつつも、瞳の奥はとっくに湿っぽくなっていました。おかしいな。明日になったら無理でも今日のうちならまだうまくやれるはずだと思ってたのに、いざ会ってみると当然のように涙が溜まって胸が張り裂けそうです。
それでも湿っぽいのは嫌だと言ったからには、私の手でこのムードをどうにか断ち切る義務があるはず。だから無理にでももう少し話を続けました。
「あ、それとね、死なないでね」
「ん? 後90年は生きる予定の俺に向かっていきなり何だい?」
「だって、最近のニュースとか見てたらさ……。怖いじゃない。都会は人が多いから」
「ああそういう事か。そりゃあ東京のほうじゃとんでもない騒ぎみたいだけどね、大丈夫だよ。もし巻き込まれても俺は生き抜くよ。だって俺はぴりかより4ヶ月も若いんだぜ。先に死ねるものかよ」
握った拳を突き出すほど力を入れて熱弁するカズくんの無根拠で無責任な理屈が、しんみりとしたムードに慣れすぎた胸にすっと入り込んできて一段と涙腺が緩みました。
ああ、これは泣いちゃいそうかも。でも泣かない。ここで泣いたらせっかく明日会わずにおく意味がなくなるから、どうにか我慢しようと努めました。しかしそれも無駄な努力でした。
「それで、ぴりか」
口元は小さく緩みつつもその目はまっすぐに私を射抜く強さのまま、カズくんは右手首を大きく回しながら被っていた紺色のキャスケットを脱ぎ去りました。私が「どうしたの」と問えば、かすれ気味の声が耳元で小さく囁きました。
「帰ってくるよ」
それから間髪入れず私の肩に絡みついて、そして唇を唇で塞ぎました。
この温もりも言葉も、今までは求めれば簡単に手に入っていたもの。でも明日からはこの街のどこを探しても見つけられなくなるんだ。
潮の香りも波の音もかもめの鳴き声も何も変わらないのに、カズくんだけがいなくなる街で私はどうして生きていけるだろうか。それを思うと、ああ、無残にも私の瞳は決壊してしまいました。
「ごめんよ。ちょっと強く抱きすぎたかな?」
「うっううっ、ち、違う! 違うから……! ひぐっ」
「……やっぱり駄目だな。もっとうまくやれるはずだったのに、ぴりかにはまた悲しい思いさせちゃったんだな」
「だからそうじゃなくってね。おかしすぎて逆に泣いちゃっただけだから! 悲しくなんて、ないんだから……!」
我ながら無茶苦茶な強がりで、さすがのカズくんも「それはさすがに……」とばかりにちょっと苦笑していました。
「でも、だってそうじゃない? 行く前から帰る話なんて……」
「……俺は明日から遠く離れていくけど、世界中どこにいてもぴりかの事を永遠に想い続けるって誓うよ。手紙とかも書くし」
「そう……。でも別にいいよ、手紙とかは。どうせ続かないし無理しなくても」
感情が昂りすぎたのを鎮めようとして、反動で異常に冷たい言い方になるあたりまだまだ未熟だなと反省しきりだけど、とりあえず涙は止まってくれました。
「言ってくれるじゃない」
「だってカズくん筆まめなタイプじゃないでしょ。年賀状とかさ、4年生の時送ってこなかったよね」
「うっ、そ、それは……、過去の話だから!」
「どうだか」
「俺はやると言ったら絶対にやり遂げる男だからさ。それに今ぴりかが無理してるぐらいには俺にも無理させてよ。恋人なんだから」
私が意地悪を仕掛けたせいでちょっと困った表情のまま、それでも両手をちょこちょこと動かしながら誓うカズくんの心に偽りはないと知っています。だから許すとか許さないじゃなくて、ただ永遠って距離感があまりにも遠すぎて信じるのが難しくなっただけで。
「まあ、カズくんがそうしたいならそれでいいよ。来る分には返事も書くし。いつまで続くかは知らないけど」
「まあ見てなって。とにかく俺は絶対にぴりかの事を忘れない。でもぴりかは俺を忘れてくれても構わないよ。もっといい奴がいたらその時は遠慮なく俺を捨ててくれたらいいし」
「ふふっ、馬鹿ね」
お互い心穏やかな微笑みに包まれたところで、また何も言わずただ海を眺めながら同じ時間を刻み込んでいきました。もしも永遠という言葉がこの世に存在するのなら、このまま運命を止めて風景に混ざり合いたいと願いました。
それが叶わぬ夢だと知っているからこそ願うのは私の欲深さなのか人の性なのか。ともあれこうして1年間、情熱を持って過ごした日々はいつか色褪せる時が来てもきっと忘れないでいる自分でありたいとだけは心から強く願いました。
「そう言えば、あの頃ぴりかが海を見てた意味が今ならちょっと分かる気がするんだ」
海を見つめてどれだけ経ったかもうまったく分からなくなった時の狭間で、カズくんはそうつぶやきました。
「へえ、じゃあ何で?」
「うーん、何だろ。上手く言えないけど、今そこに広がってる海も空も色で言うと青で同じはずなのに、本当は違う青だろう? そしてその二つの青は水平線で分け隔てられて混ざり合う事はない。……いっそ同じ青だったら、こんな切なくはならなかったんだろうな」
「そうね……。しかしさすがのカズくんもこんな時はセンチメンタルになってくれるんだね」
「泣かないけどな!」
妙にはっとさせるような言葉を口にするようになっても最後の最後で余計な強がり。ああ、やっぱりこのリズムこそカズくんだ。私は嬉しくなりました。そしてそれをわざわざ強調するって事はやっぱり泣きたいんだなって本心丸見えなところも含めて。
「別にいいじゃない。センチメンタルなカズくんも素敵よ」
「むう、ぴりかがそう言うなら……。いや、やっぱ素敵じゃない! 男が泣いて絵になるものかよ!」
「でもスポーツで勝った時に泣いたりするでしょ? 男だって泣いていいと思うな。ましてやこんな時なんだし、二人きりだしね」
「それは、まあ……。で、でも、俺は違う! こんな時だからこそ俺は……!」
なおも無理な強がりを続けるカズくんに、私は唇で引導を渡しました。口の中が次第に塩の味に染まっていったから、すぐにそっと離れるとカズくんは恨めしそうに私を睨んでいました。
「うう……、それはずるいって!」
「ふふっ、やっと素直になってくれたね。これで今日のところはおあいこかな?」
「そりゃあそうだけどさ……。そう言えば最初の頃はこんな口づけもろくに出来てなかったんだよなあ。それもちょうどここだったけど」
「そうね。あれは酷かった」
「……ごめん」
「いや、お互い様よ。本当に成長したよね、私達」
そしてお互いの瞳を見つめ合っては微笑みを返しました。改めてこの1年、まるで別人のように成長したけどそれは胸の膨らみとか恋の手管だけじゃありません。
「なんだかこの1年こんな事ばっかり考えてたんだけどね、さっきカズくんが言ってたみたいに海の青と空の青は確かに違う色で、ずっと似た者同士だと思ってた私は女でカズくんは男。やっぱり別々の存在なのよね。それが最初は切なかったけど、今は案外そうでもないんじゃないかって思えるようになったの」
「へえ! それはどうして?」
「そうね。例えば海だって想い高く舞い上がれば雲になって空と一つになれる。私達だって男と女、別々の存在だからこそ一つになれた。だからこれから遠く離れ離れになっても、私達はずっと繋がっていられるんだよ。そこに愛があれば……!」
「ぴりか……!」
雲間から日差しが顔を覗かせるように、カズくんの表情が一気に和らぎました。もはや今の二人に涙は必要ないから小学校に置いていこうか。そう笑いながらカズくんは帽子を深々と被り直すと、おもむろに立ち上がりました。
「太平洋ってね、向こうに島影もなにもないらしいから怖いよね。……ちょっと歩こうか」
「うん。どこへ?」
「どこへでも」
それから私達は行くあてもなく、とりあえず今までお世話になった場所をあちこち回りました。校舎裏のぶどう畑とかゲーム機が置かれた駄菓子屋さんとか集会所とか。
二人が通っていた幼稚園とその裏にあるつくしがよく生える土手なんてここ6年間まるで見向きもしなかったけど、久々に訪れてみると相変わらずつくしがにょきにょきと生え揃っていたので二人見合ってクスクスと無邪気な笑顔を風に吹かせました。
そうやって思いつく場所をあらかた訪ねたところで、最後に取っておいた場所に向かいました。通学路の途中にあって、ここからもう少し歩くと二人の家を分かつ道に至る場所にある神社です。
針で突けば弾けそうなほどに赤がたまった桜のつぼみが風にその中身を晒すタイミングを秒読みで測っているようです。階段を登って欄干にもたれかかりながら北側の山を眺めると、その中腹に屹立するクリーム色の人工物が否が応でも目に飛び込んできます。あれがこの4月から私の母校となる建物です。
この神社でかくれんぼしたり小さいおもちゃやカードを交換したり色々便利に利用してきたけど、中学校は山側にあるから通学路とも外れるし、縁が遠くなるんだろうなとは薄々感づいています。
「ねえ、しよっか」
「いいけど、ここじゃ目立たないか?」
「だからよ。ねっ、お願い」
「分かった」
そっと目を閉じた瞬間、カンカンと踏切の音が響きました。明日にはカズくんを攫っていく轟音が通り過ぎる間、二人は重ねた唇の間に世界を閉じ込めて、身動きもせずに音も色も重力もない空間に身を委ねていました。
机にイニシャルを彫るのと違って永遠を心に刻み込むのは簡単じゃありません。だから私は、私達は何にも縛られない形で愛を確かめてきました。呆れるくらいに同じ言葉を口にし続けました。
それでもこれが当分最後の口づけだと思うと、一度は振り払ったはずのやっかいな水滴がまたぞろ瞳の裏に集まる感覚が目を圧迫しつつありました。
「ねえ、ぴりか。こっち向いて」
万年風邪気味のような声に従うと、声の主はおもむろに顔を近づけて、そのままコツンとおでことおでこを重ね合わせました。
「うっ、な、何やってんのよ」
「初めてのキスを再現をしてみたんだよ。どうだ? 涙が引っ込んだだろ?」
「なんだ。すっかり見透かされてるわけね」
「恋人だからね」
ニヤリといたずらっぽく口元を歪めるカズくんに連れられて、鏡写しのように私も目の前にある顔と同じ表情を浮かべました。
「ふふっ、でも再現にしては随分ソフトなタッチだったじゃない。あの時はもっとえげつないスピードで正面衝突してたわ」
「はははっ、そうだっけね」
「そうよ。本当痛かったんだから。骨と骨がゴツンと当たる感じで。あっ、夕焼け小焼け」
町中にノスタルジックなメロディが鳴り響く時、そろそろ頃合だなと悟りました。今お別れしたら夜には切なくなるって分かります。もっと他愛のないお話だって夜明けまで語り合いたいけど、欲望のためだけに生きてもきりがないから。
「帰ろうか」
「そうだな」
太陽が傾いて空の色を塗り替える作業の最中、重なった二つの影がカズくんの家路をゆっくりと歩いていきました。
駐車場を横切り、ミラーのあるところを右折して奥から二軒目。今まで何度も見てきた、今日の午後にも拝んだいつもの玄関なのに、心なしかいつもより暗く大きくそして重たく感じられました。
これからこの扉がカズくんを吸い込んで、そしてしばしのさよならが訪れる。悲しいけれど、それでも最後の表情はこれだと自分で決めた事だからそれは守りたいと心を決めました。
「……でもこれでお別れじゃなくて、次はとりあえずゴールデンウィークには帰る予定だからな」
「そっか、後1ヶ月ぐらいならまだなんとかなるね……。じゃあね、カズくん。愛してる」
愛する人に別れの言葉を投げかける時は偽りのない表情でありたいけれど、出来ればとびきりの笑顔でありたい。去年の暮れの誓いを今こそ果たす時です。私は何らかの表情を作る事なく、ありのままをカズくんに向けました。
その顔を自分で確認は出来ないけれど、カズくんの表情を見てどうやら無事に達成されたと確信しました。
「俺もぴりかを愛してる。またな」
それから二人はその姿が豆粒より小さくなって見えなくなるまで手を振りながら別れました。
情熱を燃やして生きたこの1年間に何の悔いもない。だから闇が世界を支配する時間になっても、陽光の下にいるのと同じ顔でいられる。清々しさの中で暮れていく12歳の春でした。
そして時は流れ今は2019年4月、一つの時代が終焉を迎える瞬間が刻一刻と迫りつつあります。




