1月
にわかのクリスチャンから今度は神道の信徒に早変わり。歳末の慌ただしさここに極まるという無節操さを発揮しながら年が明けて、師走の余韻か元日も足早に去っていきました。
おめでたい正月気分もそろそろ薄れてきて、だらだらとこたつをバリケードにしつつ何かないかなとテレビを灯けてもろくな番組がないから、とりあえず駅伝をぼんやりと眺めていました。今日はお父さんとお母さんは近所の会合か何かがあるらしいので朝っぱらから出て行ったっきり、夕方までは戻らないそうです。
「おーいぴりかー、暇だよなあ!」
「わあっ!!」
背中越しの声に、私はまるで石をひっくり返された時のダンゴムシのような反応で振り向きました。
「あっ、なんだお兄ちゃんか」
「なんだはねーだろーよ。言われなくても明日には帰るんだからさ、今日ぐらいは家に馴染ませてくれよー」
「いや、分かってるよ。ただのんびりしてた時にいきなりだったからちょっとびっくりしただけ」
「おーわりーわりー。で、暇だよな?」
「見ての通りよ」
お正月だから、大学に通ってるお兄ちゃんもお盆以来久々に居座っています。三十日に帰ってきて近況とか色々語り合って、元日はサッカー見てトランプやって、今日の午前は部屋に籠もって漫画とか読んでたけどもう読み終わったみたいでした。
それとお兄ちゃんはずっと野球やってました。背は高くないし上手くもないんだけどなぜかいい場面でタイムリーポテンヒット打ったりする奇跡の男で、私もそんなお兄ちゃんの影響で小さい頃からキャッチボールの相手したりしてて、だから野球を始めたのも。お兄ちゃんがきっかけでした。夏に帰ってきた時、人数不足で潰れたって話をしたところ「やっぱ駄目だったか」と肩を落としていました。
「神社行こうぜ! 餅まきそろそろだろ?」
そういうお兄ちゃんだから、いないならいないで案外慣れたし快適だけどいたところで別に嫌いじゃありません。むしろ今ぐらいの頻度なら面倒臭い部分に程よく触れない程度で済む分もっと好きでいられるかも知れないし。
「ちょっと待っててね。すぐ準備するから」
それで私は垂直方向に上半身を起こしておもむろに立ち上がると小走りするようなスピードで自分の部屋に戻り、木製のハンガーに垂らしてあるコートを引き抜きました。
「服は……、まあ、いっか。どうせすぐ戻るし」
今着てる服は部屋着用の適当な奴だけど、まあいいかと上からコートで覆うだけで妥協してからさっさと部屋を出ました。それから二人で「行ってきます」と、中に誰もいない扉に声をかけてから門松を横切り、アスファルトを踏みしめました。
「それにしてもお兄ちゃん変わったよね。高校時代ずっと坊主だったくせにお洒落ぶってさ」
「ははっ、格好良いだろ?」
「目が腐るわ」
「言うねえ。でも俺よりぴりかのほうこそ変わったろ。見ないうちに随分大きくなってからに」
「そう? まあ成長期だしね」
「それだけじゃないだろ?」
「んっ?」
「んっ? じゃないよ。体だけじゃなくて心のほうだよ。いるんだろ? これ」
馬鹿にしちゃって。小指を立ててニヤつくお兄ちゃんの脇腹を、私はおちょくってんじゃねえぞとばかりに肘で軽く小突きました。
「いってて。いきなり暴力かよ。まさか彼にもこんなペースでボカスカ手を出してんじゃないだろうな?」
「お兄ちゃんには関係ないでしょ?」
「いやいや。だってぴりかは俺のかわいいかわいい妹だぜ。やっぱり幸せになってもらいたいじゃん。俺といた頃は妹だか弟だか分かんなかったし、ちゃんと女の子やれるか心配だったんだよ。取越苦労に終わって良かった良かった。何よりぴりかを受け入れてくれる器の大きな男が近場にいてくれたのが」
「うっさいわね。また突くよ」
「おーこわ」
どうせ車なんてろくに来てないけど一応新年の厳粛な気分がまだ抜けきってないから一分で切り替わる信号機の前で律儀に立ち止まって、色が切り替わったらまた歩き出しました。
「それにしても、なんでもっと早く言ってくれなかったかなあ。夏に戻った時にはもうとっくに付き合ってたらしいじゃねえか」
「いや、だってさ、兄妹でそういうのは別枠でしょ。私だってお兄ちゃんが誰と付き合って何をどうしたとか別に聞きたくもないし」
「えー、そうか?」
「そうよ。ほら、お兄ちゃん高校生の時から付き合ってた先輩いたけどそれが今どうなってるとか全然どうでもいいし」
「その割にはちゃんと覚えてんだなあ。本当にどうでもいいと思ってんのか?」
もろに藪蛇だったので私は口と足を止めました。実際お兄ちゃんが付き合い始めた頃は心底どうでも良かったけど、今となっては貴重な先例としてもうちょっと事情とか聞いておきたかったなんて思わないでもないです。
「まあそれはともかく、何なら今からでも相談してたら真面目に答える準備はあるぜ?」
「いや、いいよ。桜の葉もすっかり落ちてるねえ」
とは言ってもやっぱりお兄ちゃんに恋愛相談するのは相当恥ずかしいので、他の話題でもしようかと思ったけどろくに思い浮かばなかったので道の脇を見て誤魔化したけど特に効果はありませんでした。
「しかも何だ? 聞いた話じゃ射止めたのは旗生さん家の一弾くんだそうじゃないか」
「あっ、そこまで知ってるんだ?」
「昨日聞いたんだよ。いやあ、よくやったなあぴりか! 海老で鯛を釣るなんてもんじゃないぞ! あそこん家はみんないい人ばっかりだ」
「本当にね。それでカズくんはね……、やっぱりいい人なんだよ。これからも、出来ればずっと、今のままでいられたらいいんだけどね……」
そう言えばお兄ちゃんはカズくんがこの町からいなくなる事も知っているんだろうか。その未来を頭に浮かべただけでも切なさが胸を締め付けてうまく喋れなくなったから、まぶたを半分閉じてうつむきました。
「……本当、人間って変わり続ける生き物だよなあ」
「えっ?」
「いやさ、今の目だよ。俺の知ってたぴりかはそんな寂しげな目はしなかった。いや、悪い意味じゃなくてな、すっかり女の子だなあ。もう一緒にキャッチボールも釣りもやれんかね」
「……別にやりたいんなら、今だってやれると思うけど」
「いやいや、今は俺より一弾くんを大事にしてやりなよ。とにかく俺から言えるのは今を本気で生きろって事だ。さすれば、例え結果がどうであれそれは間違いじゃなかったと思える時がいつか来るもんだから」
「言ってくれるじゃない、お兄ちゃんのくせにさ……。ありがとう」
「いいって事よ。おっと、噂をすればなんとやら。フィアンセのご到着だぜ」
境内の鳥居の付近にはすでに色とりどりのコートが集っていたけど、その中でも一等浮き出て見える五つの山の一番前にいる、一番小さいカズくんが「おーい、ぴーちゃんこっちだよー」とばかりに腕をブンブンと振り回していました。
「六川さん家のしょーちゃんとぴりかちゃんだね。あけましておめでとう」
トレンチコートの長い裾をひらひらとなびかせながら会釈するのはカズくん家の一番上のお兄さん、末広くんです。去年大学を卒業して今は東京にあるお薬の会社で働いています。中学に入ってからのカズくんはこの末広くんと暮らすって聞きました。
「ぴりかちゃん久しぶり! おっきくなったなあ! お兄ちゃんもびっくりだよ!」
グリーンのコートに包まれた次男の次直くんは今大学生で、お兄ちゃんより一つ学年が上です。お兄ちゃんもいきなり髪型変えて何これってなったけど、次直くんは茶髪に染めててすっかり都会に馴染んだ様子です。でも髪の色と同様の明るい性格は昔からで、よく女の人にももてていました。
「六川先輩ご無沙汰してます。ぴりかちゃんも、新年おめでとう」
お兄ちゃんに礼儀正しく頭を下げたのは三男の礼央斗くん。小学生の頃からずっと野球一筋で、お兄ちゃんとは部の先輩後輩だったからこういう挨拶もしっかりしています。人口の少ない町だし、学年とか関係なくこの辺の子供は全員が全員の友達みたいな感覚で敬語とかろくに使えなかったりするけど高校野球は別腹なのかな。当のお兄ちゃんは「そういう堅苦しいの抜きで」とヘラヘラしてるけど。
「あっ、カズの彼女かー」
眠たそうな声の挨拶はいかにもお座なりで、眼鏡の奥に光る視線の大半はこちらじゃなくて手元のおみくじに注がれているのが四男の樹楽斗くん。本当はもっとよく喋るタイプで、年齢も近いから中学生になるまではよく一緒に遊んでくれました。4月からは直接的に先輩後輩の関係になるけど旗生先輩ってうまく言えるか不安です。それと名前はちょっと難しいけどこれで「じゅらと」って読みます。
前にカズくんから聞いたけど、カズくんのお父さんとお母さんが結婚した時に「男の子ならお父さんが、女の子ならお母さんが名前を付ける」と決めて、それでまず1人目が男の子だったのでお父さんが命名、2人目も男の子だったのでまたお父さんが名付けました。でもこれだと数的に不平等なので3人目は男でも女でもお母さんが命名しようってなったそうです。
そして3人目も男の子だったけどお母さんが命名。4人目も男の子だったけどこれまたお母さんが名付け、そして平等な条件に戻った上で産まれた5人目のカズくんもやっぱり男の子だったので、今度はお父さんが付けたらしいです。
結果として長男の末広くん、次男の次直くん、五男の一弾くんがお父さん命名、三男の礼央斗くんと四男の樹楽斗くんはお母さん命名だそうです。あからさまにセンスが二分されているから分かりやすいけど。
それとこの5人兄弟はそれぞれの年齢が適度に離れているのもあって、親は延々と各年代の学校のPTAに居座り続け、地域の盟主の座を確たるものとしています。カズくんを産んだのが結構年齢的にもギリギリかなってところだったのでここで打ち止めとなったけど、その分色々な愛情が注がれてすくすくと育ったのがカズくんです。閑話休題。
「いやあ、勢揃いだなあ。となるとそっちも目当てはお餅ですか?」
「もちろん! なあレオ」
「はい! 今日のおやつだから最低五袋、目標十袋っす!」
「元気だねえ。でもあんまり取り過ぎるなよ。ちゃんと俺らにも回せよ!」
「大丈夫っす。先輩が一個も取れなかったら一つぐらいは分けてあげますから」
「おーい、そろそろだぜ。だべってないで配置に付けよ」
「うっす次兄! じゃあ、そういう事で、また!」
青いハッピを着た餅まきの人達が出てきたので、同じ髪型をした5人兄弟は散会して四方へと散らばりました。私のお兄ちゃんも同級生見つけたらしくそっちに行ったので、私はとりあえずカズくんと合流しました。でもカズくんは臨戦態勢バリバリで、その異様な緊張感はまるで決闘でした。
「ねえカズくん」
「話なら後で。餅まきは戦場だからね」
サッカーでも一度ゴールを決めるとなったら他には目もくれずそれだけに一直線になるカズくんだけど、あの視野狭窄モードを餅まきなんかで発動させるとは。いや、確かに楽しいけどなんでそこまで本気になれる、などと賢人ぶってたのも始まる前まで。いざ始まると「こっちだ! もっとこっち投げろ!」と、私も蜘蛛の糸に群がる亡者の一人に成り下がりました。
「もらった!」
目の前に投げられてまさに今と両手を伸ばしたその前にぐいと伸びてきたのはブルーのコートの袖でした。カズくんは、キーパーやっても一流になれそうな超反応を見せて私の目の前からお餅を奪ったのです。まさに戦場。ここではもはや敵も味方もありません。
「いやー、獲れた獲れた! 三袋ゲットォ!!」
「あーはいはい良かったわね」
「上手いもんだろ? じゃあ、これ末兄に渡してくるからちょっと待っててね」
そう言うと勝手に走り出しました。相変わらず何もかも勝手に突っ走っていくんだから。新年になっても人間がいきなり変わるものじゃないとは言え、こうも変わらないものか。口の中に貯めた白い息を吐き出すと、すぐに戻ってきました。
「早かったわね。それで何個取れてた?」
「末兄が二つ、次兄が二つ、レオ兄が三つ、ジュラ兄が一つ」
「だから、十一個か」
「いや十個」
「あれ、でもカズくん三つ取ってたよね。だったら」
「それはこっち」
そう言うとカズくんはポケットの中からおもむろに紅白餅の入った袋を取り出して私の前に掲げました。
「何よそれ」
「兄ちゃんには二袋だけ渡したから。これはぴーちゃんのもの。受け取ってよ」
「あっ、ありがと……」
それまで全然気配のないところから唐突に優しさを取り出す、こういうところはやっぱり今年に入っても変わりないカズくんでした。相変わらずあの手この手で私を驚かせてくれる人。私は小さく肩をすくめながらも、さっと受け取ってポケットの中にしまい込みました。
「それとね、今日はもう自由だから、せっかくだしどっか散歩でもしよっか」
「ああ、そうだね……」
この瞬間、私の心の中にまるでブラックホールが突如発生したかのように激烈な重力が渦巻きました。そして思いもよらなかった言葉を、いや、それは嘘です。最低でもイブの夜からずっと「いつかきっと……」と想い続けていた言葉だから。でもそれを今使うとは予想だにしていませんでした。でも今はそれ以外の答えは考えられません。
だから一切のためらいもなく……、いや、これも嘘。それを言った先に何があるかも知っていたから、その意味の大きさにちょっとたじろぎつつも、それでも最後は胸を張って、明確な自分の決意をもってその言葉を口から紡ぎました。
「……それならうちに来てくれる?」
「なんで?」
「……カズくんにあげたいものがあるから」
「そんな、お返しとかそんなのいらないぜ」
「そうじゃないんだけどね。でも、お返しって思うならそれでもいいし。とにかく、ねっ」
未だに疑問符込みなカズくんの右手を掴み、動きを封じてから引っ張り込むような勢いでカズくんを私の家、親もお兄ちゃんも出っ張らってて誰もいない家まで一直線に駆け込みました。
「ただいま。ってか今は中に誰もいないからね。まあとりあえず上がって」
「うん。お邪魔しまーす!」
カズくんはいつも通りの元気な声を出した後に靴の向きを揃えて脱ぐと、そのままくるりと180度ターンした流れのままスルリと玄関をまたぎました。私はその背中の青いコートを見つめながら、カチャリと小さな金属の塊を下へと押し込みました。それは「もう引き返せない」と、心に鍵をかける音でもありました。
「じゃあ、オレンジジュースぐらいしかないけど、いいかな?」
「うん、ありがとう」
とりあえずリビングに案内して、冷蔵庫から飲み物を出してカズくんを釘付けにしました。そもそも始まりが衝動だったので色々準備が整ってない動き。その中でも最大の問題が今着てる服です。要は適当な部屋着で、他人に見せるものではありません。だからまずこれを排除する事にしました。
「じゃあちょっとコートとか置いてくるから、ゆっくりしててね」
「ああ、分かった。しかし美味しいねこのジュース」
「だろうね……」
自分に気を取られるあまり相槌が適当になったけど今はそれを悔やむ時間じゃない。今の服を脱いで畳んでタンスに入れて、その姿で一度大きく息を吐きだしました。
「さあここからが本番よ。しっかりやれよ六川ぴりか」
鏡の前の私に向ける眼差しは緊張感から鋭くなりすぎていました。そんな自分を笑って表情をマイルドに整えると、今度は部屋に居残る寒さが襲ってきたから慌ててエアコンのスイッチを押しました。
「冬だしね。早くまともな服に着替えないと……」
今の震えは単に寒いからであって何かを恐れているわけじゃないと、自分に言い聞かせるようにつぶやきました。
今両手で握っている服がこれからどのような運命をたどるか、それを私は最初から知っています。そもそもこの一瞬のためだけに懐を痛めて招いたものだから。
とは言え心を決めるのは簡単じゃない。イブの夜から、あんなに時間を掛けて決めたはずなのに今になってまたも「もっと時間がほしい」なんて弱音が顔をのぞかせるなんて。
でも私達に残された時間は決して長くありません。たったの3ヶ月、ためらっていたら瞬く間にリミットを迎える時間。今は一秒すら惜しいのに、ちょっとした怖がりがそれを邪魔するとしたらこれほどもったいない使い方もないでしょう。
カズくんをここに招いたのは誰か? それは言うまでもなく自分だ。玄関の鍵を閉めた。これも自分が決めてやった事。ならばもう、後は一直線に走り出すしかない。私は目を閉じたまま、被るようにして薄い布を纏いました。
「おまたせ」
「あっ、やっと戻ってきたか。それでお返しって何?」
「それはね……。ジュース飲んだ?」
「うん。凄い美味しかったよ」
「そう、良かった。ところで今日が何日か知ってる?」
「何で? 1月2日だろ?」
「そう。1月2日。だから新しい事を始めるにはちょうどいいでしょ。こっち来て」
「うん」
ここからは言葉なく、階段を黙々と上がりきりました。さっきまでのんきに笑ってたカズくんにも私の緊張感が感染したのか、何も言わず私の背中を追いかけるだけでした。
そして私は二階の廊下を右に回って突き当りの部屋の前で立ち止まりました。ここが私の部屋だとはカズくんも知っていました。幼馴染だし、小さい頃は普通にお互い部屋にも入れてたけど今の関係になってからは自分の部屋に入れないようにしていました。全ては今日を迎えるために。
「そう言えばぴーちゃんの部屋に入るの久しぶりだな。いつ以来だっけ」
「さあね……。それで椅子とかないし、ちょっとそこ、腰掛けてていいから」
「まあ他にないか」
ここを前にしても何も感じていないかのように振る舞うカズくんを、私はベッドの上に座るよう誘導しました。そしてカズくんが背中を見せた隙に、私はさりげなく扉の前にちょっと大きなサボテンの鉢をずらして置きました。この部屋に鍵はないのでこれがその代わりとなると、その意味をまだカズくんは知りません。
もはや用意は終わった。後は……。それを悟られないよう無表情を作って、私はカズくんの隣に腰を下ろしました。
「この壁の写真、林間学校の時のだよね」
「うん。そう言えば隣同士だったなって思い出したから。でね、この下の写真は3年生の時、甲子園に行った時の奴」
「ああ、そっか。確かにあの頃こんな服持ってたっけ。それとこのうさぎのポスター、まだ貼ってるんだな」
「なかなか捨てられなくてね。でももうボロボロだし、そのうち外そうと思ってるんだけどね」
「ふーん、それはそれでもったいないなあ」
「それはそうだけど、やっぱりずっと子供のままじゃいられないから……」
そう、いつまでも同じ場所じゃいられない。だから逃げない。今の本当の気持ちを伝えるまでは。
「ところでさ、これはお母さんから聞いた話なんだけど、女の子の一番大事なものって何か分かる?」
「一番大事なもの?」
「そう、一番大事なもの」
いきなり何でそんな事を、とばかりに怪訝な顔を私に向けたカズくんだけど、気を取り直すと隣にいる私の髪の毛の先から足指の先まで首を傾けて二度三度と眺めて、真剣な眼差しを崩さぬまま真面目腐った顔で「……髪の毛?」なんてほざいたので思わず吹き出しました。
「あれ、違った?」
「まあそれも大事だけどね。真心、なんだって」
「へえ、真心かあ。なるほどなあ」
クイズ番組じゃないんだから真面目に感心されても困るんだけど、もはや関係ありません。すでにトリガーは上がっているから。私はカズくんの手を柔らかく、そして強く握ってから最後の引き金を引きました。
「どうしたの?」
「逃げないでよく聞いてね。今からカズくんに、私の真心をあげる」
「でも真心って……、どうやって?」
「こうやってよ」
「!!」
掴んだ手を私の心臓の鼓動が伝わるところに触れさせれば、さすがのカズくんでもその意味を悟ったみたいでした。
「ずっと考えてたんだ。イブの夜、行ってしまうって話を聞いたその時からずっと、今の私に何が出来るだろうって。……答えは簡単に決まったわ。私が今までの人生の全てをかけて育んできた、世界でたった一つしかない宝物なんだから、しっかり受け取ってよね」
「……俺でいいのか?」
「世界中探してもカズくん以外に考えられないよ」
「どうなっても知らないぞ」
「私だってどうなるか知らないけど、でも怖くない。私もカズくんも心からそれを望んでるのなら、それはきっと間違いじゃないから。それに私も見たいな、カズくんの本当の気持ちを。全部抱きしめてあげるから」
「……ぴりか!!」
「あっ」
最後の鎖を振り解く勇気を、口移しでカズくんに捧げました。そこから後は激情の流れるままに、二人は桃色に染まったシーツの中へと倒れ込みました。
「俺、もっと近づきたい。ぴりかの事、見つめていたい!」
吐息が風になって肌をくすぐるほど近くにいてもなお求めずにはいられない。カズくんは野獣のように震える手つきで私を包むレースを振りほどいていきました。暗闇の迷宮を手探りで光の在り処を求めるように、じれったいほどにゆっくりとしたスピードで、しかし確かに歩み寄ってきた二人がついに手と手を取り合えるまでに接近しました。
近づきたいと彼は言う。私も寸分違わず同じ想いを抱いていたから、薄い唇が自然と朱色に染まっていきました。嬉しいな。心を一つに重ね合うのがこんなにも気持ちいいなんて知らなかった。これに気付いた瞬間、私は昔の私から確実に生まれ変わりました。そしてそれを誰よりも先に知らせたい人は今ここにいます。
「私もカズくんの事をもっと全部知りたいよ」
熱を分かち合う口づけのたびに、二人は心に纏う虚飾を外していきました。自然とこぼれ落ちる涙も、もう何も恥ずかしくなんてありません。偽りのない今の感情をそのまま見せられた証だから。
「ごめん。少し強く抱きしめすぎた?」
「違う、そうじゃなくて……。もう隠すものなんて何もないね、二人とも」
「ああ、そうだな。今更だけど、こうやってまじまじと見つめ合うのは、初めてだな。……海とかで見るのとは大違いだ」
ありのままの姿でありのままの姿を見つめ合う。幼い頃ならそれは当たり前だったけど、当たり前だと気付いた時にはもう当たり前じゃなくなっていました。
一度知ったからには知らないままではいられない。アダムとイブが禁断の果実をかじった時に芽生えたものが私達の目を心を曇らせて、これまで随分と遠回りしてきました。
それでも今は目を逸らす事なく、眼前にそびえ立つ風景を澄み渡った瞳で眺められるなら、心の中に湧き上がるのはただ純粋な喜びだけなんだと私は今はっきりと悟りました。
「そうね。でもやっとここまで来たんだって思うと嬉しいよね。二人がこうやって過ごしてきて、知らないうちにいらないものをいっぱい着込んでたじゃない。プライドとか責任感とか年相応のなんとかとか」
「そりゃあ、俺らだってもう12歳だからな。それぐらい生きてたら色々あるよ」
「そうよね。私達、いつまでも子供のままじゃいられないもんね。でも大人になるって子供だった事を捨て去るだけだとしたら、悲しいじゃない。ねえ、カズくん。これから私達、大人になっていくけどね、今日の日を忘れないのと同じように子供でいられた今までの日々も忘れないで生きていこうね」
「ぴりか……、そうだな。俺もそうありたい」
そして焼けつくような細い褐色の腕が私の背中を捕まえると、震える声で何度も確かめるように「愛してる」とつぶやいてくれたけど、私はその一言ごとに小さく顔をしかめました。痛いとか苦しいとかじゃなくて、強いていうとジリジリとした重みを感じたからでした。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。愛って単なる言葉じゃないって気付いただけ。だからもっと、私を見つめていて……!」
「分かった。穴が空くぐらい見つめてあげる。……ぴりか、綺麗だよ」
「くっ……! カズくん!!」
この瑞々しい手応えこそが愛なんだ。それが物理学的に正しいかなんてのはどうでも良くて今二人の間に漂う限りない信頼、この絶対的関係の名を愛と呼ぶのなら、愛に刺されて殺されても構わないと心から叫べます。
小さな吐息は互いに触発されるように大きく燃え上がり、やがて叫びとなって二人を焼き尽くしました。不死鳥が灰の中から蘇るように、二人が生まれ変わるための炎は無限大となって大きく燃え上がっていきました。
「愛してるよ、ぴりか」
「私も愛してる」
カズくんの暖かくて不器用な指先によって、私の宝物はついに受け渡されました。唇から溢れる愛の歌は小さくかすれていて、それは二人にしか生み出せないうねりとなってやがて部屋の中を唇と同じ色に染めていきました。
同じままではいられない二人だから、お互い変わり続ける姿をもっと知ってほしい。そんな願いを言葉にまとめると、つまりは「愛してる」という月並みな言葉に行き着くだけでした。
「俺、行きたくないよ! ずっとこのままでいたいよ! ぴりか! ぴりか!! ぴりか!!!」
永遠なんてないと分かっているからこそ、それを求めずにはいられない。最後は聞き取れないほどの声とともに、カズくんの心はその名の通り一段高く弾けました。激情が迸らせた熱い涙は千もの言葉よりも強い刻みとして私の胸の中にこぼれて、四散した水滴が私の体中を潤していきます。
きっと私はカズくんがもっと遠くへ飛ぶための翼でありたい。心の最後の余白までただ一つの色に染められゆく中でそんな言葉を考えながらふと天井を見つめてみると、いつもと変わらないライトが煌々と光を照らし続けていました。
ドアに付いた小さな傷。壁のポスターと写真。机の上に置かれたガラス細工の馬。ニポポ。シーサーのお守り。銀色のオルゴール。緑のカーテン。隅に片付けられたランドセル。サボテン。今までの人生の中で積み重ねてきた思い出たちが、きょとんとした無邪気な顔で生まれ変わりつつある私を見つめています。そして窓の外からはカンカンと、羽子板の乾いた響きが聞こえてきました。
「ふふっ、ついに言ったねカズくん。本当の気持ち、私の前で言っちゃったんだね」
「ああ言ったよ。……そんなはしゃぐ事でもないだろうけど」
猫のように丸くなって幸せを噛みしめる私と裏腹に、カズくんはちょっとふくれっ面をしながらぶっきらぼうに背中を向けました。
「どうしたの?」
「いや、俺は今更ちょっと恥ずかしい」
「本当に今更よね。お互い曝け出すものは全て曝け出したんだから、この期に及んで恥ずかしがる事なんて何もないでしょ」
「そりゃあそうだけどさ、まだこういうの慣れてないから……。ごめん、こんな時なのにやっぱり上手くやれないや」
「別に上手くやれてなかったとは思わなかったけどな。それより、私はどうだった? ちゃんとカズくんの事、受け止められてた?」
「ああ、それはもう完璧に。でも俺の本当の気持ちなんて無茶苦茶で粗っぽいもんだっただろ? 嫌じゃなかった?」
「全然平気だよ。4月ぐらいからずっと準備してきたわけだしね」
「ははっ、そっか。ぴりかは強いな」
「そうでもないって。でも今はカズくんの温もりが体の中を駆け巡って一つになっていられるから幸せなんだよ。それに、カズくんのあんな切ない顔とか、正面向いて涙も流してくれたのも嬉しいな。いい顔だったよ」
「言うなよ。大体俺は今でもね、男は人前で涙を流しちゃいけないってのは変わってないし。今日のは特別だぞ、特別」
「ふふっ、それでもやっぱりカズくんはカズくんだから安心したわ。……ねえ、こうしていると心臓の鼓動も体温も一緒になってるみたいだね」
これにカズくんは何も言わず、腰に回した手を少し強く抱きしめて返事の代わりにしました。二人で同じ景色を眺めたまま、砂浜でキラキラ光る貝殻を集めるように愛の輪郭を探し求める旅は終わりじゃなくて、これからが始まりです。
「どうせならずっとこのままでいたいけど、俺も男だからね。北風に打たるのは定めなんだよ」
「そうね。そろそろお兄ちゃんとか親も帰ってくるかも知れないし、あんまり遅いと暗くなるもんね」
「身も蓋もない言い方してからに。それで明日も会える?」
「明日はお兄ちゃん帰るし、それで見送りついでに藤浦でお昼食べると思うし……。午後からなら」
「そっか。じゃあまた明日ね」
「うん、また明日」
燃え盛る炎のように温かい心をコートで覆い隠し、笑顔だけを残しながら暖かい部屋を出て寒空に踏み出したカズくんを、私は窓の外まで手を振りながら見送りました。もうしばらくするとお兄ちゃんが帰ってきたから、ささっと元のダボッとした服に着替え直してから迎えました。
「お兄ちゃんお餅取れた?」
「いやーさっぱり。投げる量少なくねえ?」
「野球部のくせになんとまあ不甲斐ない」
「昔からフライ取るの下手だったからなあ。それでぴりかはどうだった? 上手くやったか?」
「まあね。これ、一袋だけどね」
「おっ、よくやったな! おめでとう。これで俺も心置きなく戻れるよ。明日からお兄ちゃんがいなくなって寂しくなるだろうけど、しっかりやれよ」
「はいはい、ありがとね」
お兄ちゃんと他愛のない会話をするのはかつては日常でした。今は一年のうちの決められた数日にか出来ない、いわば非日常に押し込められています。でもだからといって私とお兄ちゃんの関係が悪くなったわけじゃなくて、何ヶ月合わなくても一度顔を合わせれば前と変わらない調子でいられます。
そしてそれはカズくんでもきっと同じだと思えた時、私の心は急に軽くなりました。今日の出来事は昨日までの非日常だったけど、明日からは明日の昨日が新たな日常として繰り返されていくだろう。そして時間が二人を引き裂いても今度はそれが新しい愛の形になっていくだろう。
形あるものは全て砕ける。でも心は形のないものだから砕けない。そう、この愛はどんな時代が来ても、例え大地が割れても偽物の神様が暴れ回っても変わりはしないと言える、どんな宝物よりも輝かしい永遠の真実として二人の心に刻み込まれたのでした。




