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4月

 海の青と空の青の狭間に腰掛けて、私は朝に交わした約束を待ち構えていました。遥か太平洋を横断して来た成れの果てかもしれない波のうねりが足元のコンクリートをジリジリと削り取る音に耳を傾けながら。吐息を吹けばたちまち消え去りそうな柔らかい春の雲がこんな辺境の地まではるばる訪れては何をするでもなく立ち去る様子をただ眺めながら。


 背中から不機嫌顔の遮断機がカンカンと、それまで聞こえていたかもめが羽ばたく音をわざわざかき消してまで一時間に二度の時報を怒鳴り声で告げてくれました。稲妻のように人の群れが通り過ぎた後、ただ一人残された待ち人だけが溜め息で青の境界線をにじませています。


 六川ぴりか。この間誕生日を迎えたばかりの12歳。身長149cm体重非公開。六年生になった時から今までの人生11年でろくに見向きもしなかったようなこんな場所が私の日常の一つになってしまいました。恋をしたからです。


 私が生まれた賀内町は海沿いの田舎で、そのくせ町内には西と東に小学校が二つあります。そのうちの人が少なくて駅からも遠い東小に通っているけど、クラスメイトは私含めて七人、男子はそのうち三人しかいません。


 もちろんそれまでも恋なんて名前の特別な感情がこの世のどこかに存在するぐらいは知ってたけど、私にはまだ縁遠いものだと思っていました。小学校に入る前から知っている仲だし、そういう対象だとはまるで考えてもみませんでした。


 それがなぜか、今はこんなにも心が苦しく感じられます。お話なんてそれこそ飽きるほどしてきたはずなのに、どうしてこんな大事な気持ちを伝えるのをためらってしまうのか。人の心なんてものはこんなにもあっけなく裏切ってしまうものなんだと学びました。


 旗生一弾、通称カズくん。8月13日生まれの身長154cm体重42kg。幼馴染だから言えるけど、この男は人間として数多くの欠陥を抱えています。馬鹿だし意地っ張りだしぶっきらぼうだし大雑把だし無神経だし空気読まないしファッションセンスは壊滅的だし。


 でも割と近所に住んでるし私のほうも自分で言うのも何だけど男の子っぽいというか活動的なところがあったから、クラスでは一番の友達でした。それで今までは一緒にケイドロしたり釣り竿を抱えて西の海や北東の湖まで自転車で漕ぎ出して釣りをしたり、元気いっぱいに好奇心をドッジボールみたいにぶつけ合ってきました。


 でも今はもうそんな風には向き合えません。釣りはいい加減二人の中でブーム去ったとかそういう話じゃなくて、だってこいつを見つめるだけで胸が締め付けられて、張り裂けそうになるほど切なくなるから。


 一緒に馬鹿やりあえる友達だったはずなのに、なんで急にこんな……!


 膨らみ始めた胸の中でむくむくと芽生えたこの新しい何かの意味は? なぜ、どうしてこいつなの? 何かの間違いじゃなくて? 何度も疑問符を差し挟んではみたけど、なにぶん初めて出会う感情だから答えはよく分かりません。


 でも確かに惹かれてるとしか言いようがないほどに、一人でいる時はカズくん事ばっかりが頭に浮かんできます。あの大雑把な笑顔が、あのやたらと甲高い声が、あのぶっきらぼうな優しさが……!


 思い出してみれば四年生の頃、釣りに行ってた時に私が水筒を忘れて水分が足りずカラカラになってた時、おもむろにそのへんに生えていたイタドリの皮を剥き始めて「ほい、これ」と差し出してきた事がありました。


 その時はそういう問題じゃないだろって思ったけど今となってはあれも優しさのつもりだったんだなとか、私も女の子なのに平気でうねうね動くゴカイを素手でちぎってたのはいくらなんでもははしたなかったなとか、そんな事ばっかり思い出します。


 青春とは疾風怒涛の時代だと看破したのは……、誰だっけ。ゲーテ? とりあえずドイツ人だったと思うけど、まったくもってうまいことを言ったもので、私の心は今にも暴風雨に巻かれて難破しそうな一艘の小舟のように頼りなく揺れ動いています。


 そんな混迷渦巻く心を落ち着かせるために堤防の上に座って何をするでもなく並の声に耳を澄ましながら空を眺める、ただそれだけでポッカリと空いた何かが埋まったように思えてきます。そんなほのぼのした心象風景を、まさに嵐のごとく訪れたメゾソプラノの大声が一瞬にして吹き飛ばしていきました。


「おーい、ぴーちゃん! 来たぞ! 生きてる?」


 空を眺めたまま首だけを声の方向に向けると、無防備な太腿がまるで壁に張り付いて歩いているみたいに近付いてきました。カズくんです。


「見りゃ分かるでしょ!」

「そりゃあ良かった……っと!」


 カズくんは馬鹿だから、両腕を広げてバランスを取りながら堤防の上を歩いてこちらに向かってきています。


 その途中、横切っていたカニを大股で避けようとしたらちょっとバランス崩して上半身をふらつかせつつ、どうにか体勢を戻すとさも何事もなかったかのように不敵に笑いながらポーズを取るのを格好良いと真剣に思ってるのがカズくんです。本当に馬鹿だなって思います。でもそういうカズくんに心を奪われたのが他でもない私です。


「へへっ、おまたせ。生徒会の仕事が結構かかってさ。でかい紙に色々書いたりとかして」

「ふーん、おつかれ。それにしても、あんな嫌だ嫌だって顔してた割にはちゃんと頑張ってんじゃん」

「まあせっかくなったからにはちゃんとこなさないとね。それでどしたん? 急に呼び出して。とうっ!」


 堤防に腰を下ろすだけなのにヒーローにでもなったみたいにいちいち掛け声なんて出して、そんなところは身長が1mない頃から全然変わっていません。それで腰を落ち着けた位置がいささか近すぎたから、私はそっと小さく腰の位置を海に寄せました。傍にいすぎると心を読まれてしまいそうだったから。


「別にどうとかじゃないんだけど、まあ何となく?」

「いやさ、最近ぴーちゃんよくここにいるよね。何やってんの?」

「……海とかをね、見てんの」

「ふうん、女の子みたいだな」


 カズくんは無神経なので、こんなふうにデリカシーのない言葉はお手の物です。でも一応反省は出来る男だから、私のムッとした顔を見ると「ごめんごめん」ぐらいは言ってくれます。


「悪かったね、私が女で」

「いや、悪いとかじゃなくて、どうしたんだろうなって思っただけだよ、純粋に。だって心配じゃん。ケイドロに誘う空気でもないし」

「だから何でもないって。……暇なだけよ」

「そっか。でもそうだよな。野球部も去年限りでついにくたばったしね、そりゃ暇にもなるか」


 去年まで、より正確に言うと今の中一の世代が卒業する今年の三月までは野球部がありました。その名も賀内東リトルロビンス。いや、名前はどうでもいいんだけど、私もそれに入っていました。


 年が離れてて今は大学生だけどお兄ちゃんが一人いて、そのお兄ちゃんが野球部だったから私も小さい頃からキャッチボールを手伝ったりしてて、それで自然に野球部にも入っていました。でも人数不足で潰れました。


 まあむしろリトルロビンスはよく頑張ったと思うけど。だって今の全校生徒がもう五十人とかそこらなんだから。今の中一が十五人だったけど、新一年生は実にたった四人! 入学式はさすがにびっくりしました。少なすぎる。


 野球部員にしても、卒業した六年生が六人も入ってて、それが致命的でした。私の学年の男子三人は全員西小でやってるサッカー部に入ってて部員は結局私だけだったし、それに今の五年生三人と四年生三年生が一人ずつ。去年でも大会に部員が九人集まらず棄権とかあったし、時代の趨勢には抗えません。


「みんながサッカー部じゃなくてこっち入ってくれてたらもうちょっとやれたかも知れなかったけど、まあ今となってはよね」

「うーん、そうだ、だったら逆にぴーちゃんがサッカー部入ればいいんじゃね?」


 カズくんは空気読まないので、こんな意味不明な提案をしてきます。「何で?」と問えば「だって暇なんだろ?」という追撃付きで。


「いやあ、ないわ。今更転向するのもきついし、週一で西小行くのも遠いしね」

「もったいないな。ぴーちゃん運動神経いいし、やろうと思えばすぐレギュラーなれると思うけどな。うちは女の子も入部オッケーだし」

「そういう気分じゃないからいい。せっかくの最上級生だし、今年はやりたいようにやっていくつもり」

「そっか。残念だな。まあしっかりやれよ」


 カズくんもカズくんだけど、私も私です。また意味のない強がりを吐いては会話の中にかもめの鳴き声が割り込まれてしまう。これが今までなら話題が尽きる事なんてなかったのに。


 カズくんは今日もやっぱり私が良く知ってるカズくんで変わらないのに、私だけが勝手にひねくれて一人で寂しくなっていくなんて、馬鹿みたい。そんな脆弱な心を見られたくないので、私は海を眺めるふりをして視線をそらしました。姑息なやり口。


 一方でカズくんは何を言うでもなく、しばらくはゆっくり横切って行くタンカーを一緒に見つめてくれていたけど、情熱が申し訳程度に服をまとっただけの肉体に沈黙はハードルが高すぎたようですぐに「ところでさあ」と声を掛けてきました。


「最近のぴーちゃんってさあ、何か違うよね。おかしいよね」

「何がおかしいって?」

「いや、何がどうって訳じゃないけど、何となく」

「私は、変わらないよ。本当に……」


 最も恥ずべき事は、平気でこんな大嘘を付けるようになってしまった私の心です。ただでさえ嘘の耐性がないくせに今日一日だけでも数多くの罪を重ねているから、私の心はすでに大雨の後のダムように決壊寸前でした。


 もうこれ以上は偽れない。そもそも今日ここにカズくんを呼んだのは海を眺めるためなんかじゃなくて胸に秘めた愛を告白するためでしょう。逃げるな、六川ぴりか。今逃げたら二度と言えなくなるぞ。


 そうだ、今こそその時だ。私はようやく覚悟を決めて、一週間ぐらいかけてずっと考えていた言葉にありったけの勇気を添えて唇から取り出しました。


「ほらね、例えばこの海の姿とか空の色とかさ、多分ずっと変わらずにここまで来ているわけじゃない?」

「ん?」

「えっと、だからね……、お父さんとかお母さんの時代とか、もっと前の時代からここの海はずっとこうやって波立ってて、空にはかもめが飛び回ってて、それはこれからもそうじゃない。私達が大人になってからも、きっと……」

「うーん、言われてみるとそうなんだろうねえ」

「だからこうやってね、ずっと見つめていたいな。海も空もここに映る全てを、カズくんと一緒に、二人で……」

「あっそう」


 あまりにも素っ気ない、普段通りすぎる返事に私の心は砕け散りました。こんなに勇気を出して告げた言葉なのに、カズくんには全然届いていない。これが現実……。私は二の句が告げず、そして堤防は再び波とかもめの声に支配されました。


 何か、どうにかしないと、もうこれ以上は……! どうにかあがいてみても、胸の中が言葉の生まれ損ない達で瞬く間に埋まるばかり。外面に目を移すと、私はさながら犬のように息を吐くばかりでこれがこのまま続いたら過呼吸症候群になっていたところでした。


「本当に大丈夫?」

「大丈夫!」


 あからさまに声が裏返っていたから、カズくんにさえ本当は大丈夫じゃないってあっさり見抜かれました。でも肝心なところで大雑把だから、私が大丈夫じゃない原因は全然分かっていませんでした。


「もしかして体調悪い? 保健室行こっか?」

「だから平気だって!」


 カズくんを安心させるため、笑顔を作ったつもりでいました。なのに、せっかく作った表情を見たカズくんときたら表情を緩ませるどころかまるで虫取りの時、私の頭に降り注いだ毛虫を見つけた時のように顔を引き攣らせています。そして思いもがけぬ言葉を投げかけてきました。


「泣いているの……?」

「何で? 誰が?」

「誰がって……、自分だよ。気づいてないの?」

「馬鹿な、そんな事って……」


 あるはずがない。人前で泣くなんて低学年までしか許されないと昔決めたはず。ほら、涙なんて流れているわけが……、と左手の人差し指で頬をなでたところ、なぜか指先はぐっしょりと湿っていました。


「あ、あれ……。嘘……。どうしたの、かな? おかしいよね、あはは……」


 認めたくはなかったのですが、こうも明確な証拠を出されてはもはや言い逃れは出来ません。感情が嵩張って涙の閾値を超えてしまった結果、私は確かに涙を流しました。


「本当どうしたんだよ。何か嫌な事があったんなら相談に乗るぜ?」

「ち、違う! 違うの! そうじゃない! そうじゃなくって……!」

「よく分かんないけどさ、俺で良ければ力になりたいから。だって友達だろ?」

「違う! 待って、待ってよ。はぁはぁ、ちょっと待ってて……」


 私はもはや言葉をまとめる力すら失って、それでも気持ちだけは示そうと首を激しく上下動させるだけのマリオネットに成り下がっていました。


「ああ、それなら待ってあげるから言いたくなったら言ってくれよ。今日は俺も暇だし、しばらくなら待てるからさ」


 カズくんは海のほうを向いたままぶっきらぼうに言い放ちました。一見適当だけど、本当は私の涙を見ずにいてくれたのかも知れない。だってカズくんは本当は優しい男の子だから。それぐらい知ってるから……!


 私は涙で乱された心を振り払い、氷の中から篝火を探しました。堤防は変わらず波を打ち砕き続け、かもめの鳴き声はいつもより近く響きます。


 そして二度目の警報が去った時、私はカズくんが纏うオリーブ色の上着の袖を小さく強く握りしめました。体中からかき集めたありったけの勇気を全て口元に集結させました。もうためらわないし技巧にも逃げない。最後に残った裸の心だけでぶつかっていく。その結晶がたった二文字の言葉でした。


「……好き」

「んっ? 今何って言った?」


 わざとはぐらかしてるのか、本当に聞こえなかったのか。そんなのはもうどうでもいい事でした。私はほとんど逆切れしたような勢いでもう一度同じ言葉を叫びました。


「好きって……、ええっと、それはあの好きでいいんだよね?」

「他にどの好きがあるのよ! 好きになったの! 愛しるの! カズくんを!」

「あっ、そ、そうなんだ……。気付かなかったなあ」

「馬鹿!」


 言わなかったくせに気付けなんて無理強いにも程がありますが、カズくんとしてもしらばっくれてるわけじゃなくて本気で一切痕跡すら見つけられなかったようで、首を左右に振ったり眉間にしわを寄せたりして私の言葉の意味を理解しようと努めていましたが、ようやく考えがまとまってからの行動はいつも通りに突然でした。


「あっ、そうだ。じゃあ、何だい? ここ最近ぴーちゃんがおかしくなってたのはもしかして俺のせい、みたいな?」

「ふっ、笑いたければ笑えばいいわ。今の私はね、何もしていない時はいっつもカズくんの事ばっかりが頭の中に浮かんでくるの。馬鹿みたいだよね。私みたいな女か男かも分かんないような奴がさ……」

「そんな事ない! ぴーちゃんは綺麗だってずっと思ってたし!」

「えっ」

「あっ」


 光の速さで放たれた火の玉のようにストレートな言葉に私は射抜かれ、涙さえも引き去りました。


 でも言った本人からしても思いがけない言葉だったらしく、褐色気味の頬がにわかにピンクに染まったかと思うとそれを隠すように俯きました。


「と、とにかくさ、ぴーちゃんは俺のせいでそんなにも苦しんでたわけだろ。だったらお詫びぐらいしないと気が収まらないんだよ」


 私が「いや、そんなもの求めてないんだけど」と言う暇もなく、カズくんはその無駄に整った顔を私に近付けてきました。逃げられるものなら逃げたいのに、私はまるでカズくんの純黒の瞳から放たれる光によって金縛りにあったように、まばたきすら出来ないままそれを見つめています。


 近すぎる! そう思った時はもう手遅れでした。なおもズームになり続ける事をやめなかったカズくんの顔は、私のおでこに直撃してようやくその進撃に歯止めがかかりました。骨と骨が軋む音と引き換えに。


「ぐああっ!!」

「痛っ! な、何考えてんのよ!!」


 これは本当に痛かった。山端の招待試合で2試合で5回デッドボール食らった時の7倍ぐらい痛かった。私の怒鳴り声に反応して、さっきまで私と同じく本気で痛がっていたカズくんはころっと舌を出しながら「ごめん。わざとじゃないよ」と肩をすくめました。


「じゃあ何がしたかったの!?」

「でもだってそうだろ? キスの一つぐらい出来なきゃ嘘だって。恋人ならさ」

「恋人!?」


 色気もへったくれもないカズくんの口から飛び出した瑞々しい単語に、さんざんひっくり返っていた私の心がまたくるりと回りました。でももう動揺するだけど心の澱は全部吹き飛んでいたので、かえってナチュラルな心境で言葉を聞けていました。


「あれ、違うの?」

「違わない! で、いるんなら、私はそれで……。でもカズくんは、いいの? 私でいいの?」


 ずっと焦ったり絶望したりの中いきなりの返事だったので、最初に告白した私のほうがしどろもどろになっていました。


「うん! だって俺もぴーちゃんの事好きだからさ。もう腹を括るけど、さっきの言葉だって本当だよ。ぴーちゃん、最近とっても綺麗になったなって、なかなか言えなかったけどずっと思ってたんだ。それでなかなか声、かけづらくなって。ぴーちゃんもそういうのしなくなったし、それに俺ってああいう雑な性格だしもしかすると嫌われたのかもってちょっと不安になったりとか……」

「なーんだ、カズくんもそうだったんだ」


 私は急に体全身の緊張感が緩んで、安堵の笑みが浮かんできました。私のその顔を見て、カズくんもいつもの笑顔を見せる。やっぱりこの男の一番似合う表情はこれだから、それを引き出せて私もまた一層深い笑顔になっていきました。


「しかしまあ、見事なまでに失敗しちゃったよ。唇と唇を合わせるだけのくせに、やってみるとドラマみたいにはいかないもんだなあ」

「本当にねえ。結構本気で痛かったぞ」

「俺もまだジーンとしてるし、ここは引き分けって事で手を打とうぜ」

「まったく。相変わらず勝ち負けにうるさいんだから。それでこれはどうなったら勝ちになるの?」

「最終的には、結婚!」

「えええっ!!」

「いや、未来の話だけどね。うまく口づけを交わすとか、恋人ならクリアしないといけない事はまだ色々あるし今はその第一段階すら駄目だったけど、それを全部クリアしていけば最後は当然そうなるだろ」

「それはそうだけど、そもそもね、キスにしたって最初からうまくやろうってほうがおこがましいのよ。最初なんだから、失敗だってあるわ。要はこれからもっと上手になっていけばいいんだからね」

「そこだよ、そこ。今度は絶対うまくやってやるからな! 負けないぞ!」


 お互いを見つめて笑い合うだけで、それは口づけにも勝る愛の交感でした。そして気付けば空と海の色がすっかりとオレンジに染まっていました。もう夕暮れ時です。


「うわあ、マジかよ! ここ来たの四時ぐらいから、結構いたもんだな。全然気付かなかった」

「私も、こんなあっという間に時間が過ぎるのは初めてだったわ。そろそろ帰ろっか」

「だね! 暗くなる前にしないとね!」


 道中はいい天気だったけど、少しずつ雲も出てきました。二人は途中まで同じ道を違う歩幅でてくてく歩きました。カズくんは上機嫌そうに両手を前へ後ろへと振りかざして、私はそれを後ろから見つめるばかりでした。


 恋人だったら、手をつないでもいいはずなのに。


 分かれ道の前にある神社の境内に咲き誇っていた桜の花びらが一枚ハラハラとこぼれて、二人の間を横切って軟着陸する動きがまるでスローモーションのように見えました。


 こうして私達は恋人になりました。しかしそこにあるのは「好きだ」「恋人」という言葉だけで、口づけも満足にこなせなければ掌を温め合う仕草さえままならない、何も触れられない関係に過ぎません。


 本当にこれで恋人と名乗っていいのか。いや、そもそも恋や愛の意味すらも何も分からないまま、それでも今までの友達とは違う何かに生まれ変わろうとしている事だけは間違いありませんでした。


 まずは言葉ありき。でもそれだけじゃあまりにも寂しすぎる。二人の勇気を試す旅は、こんな頼りない足取りから始まりました。

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