1.死にたがり
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生まれながらに人は、罪を背負って暮らしていると誰かが言っていた。俺たちの遠いご先祖様だと一部で信じられている男女が、楽園とかいうところにあった知識の実を食ってしまった罪が、今も俺たちの背中にのしかかっているらしい。生まれた時点でマイナスの俺たちは、その罪をあがない続け、神様どうかと願いながら生きていく。
俺が生まれながらに背負っていた罪。それは、時代の風雲児たるIT企業「イブミ」の社長の一人息子として生まれてきてしまったことだった。物心つかないうちから複数の使用人に世話をされ、ガキの頃から裕福で何不自由ない暮らし。勉強も運動も最高の指導者をあてがわれ、順風満帆な人生を送っていた。
否、送らされていた。
俺の人生には俺の意思が存在しない。そう気が付いたのは、ごく最近のことだった。俺は学年トップの成績で中学を卒業し、県内一番の進学校に入学した。俺を特別扱いするクラスメイト達と当たり障りのない半年を過ごし、世間知らずだった俺は奴らとの温度差に気が付いた。
奴らは自分たちの選択で、人生を突き進んでいる。俺なんかよりずっと頭が悪くて、運動も出来ないような奴だって、人生の舵は自分で取っているのだ。社会不安の波に煽られ、不景気の突風に吹かれるボロ船でも、自分の舵は自分持ちだ。
対して、俺は?
イブミの次期代表にふさわしい大人になること。ただそれだけが俺の存在理由で、ただそれだけが俺の生きていく意味だった。あるべき自分が定められ、行くべきレールが示される。進むのに邪魔な障害は全て取り去られ、終着駅に向かって超特急で進んでいく。このまま大人になり、社員になり、役員になり、代表取締役になる。
つまんねぇ人生だな。
そう思った。
それでも俺には、親父と喧嘩でもして人生のレールを外れて生きるという選択ができない。「イブミのご子息」の肩書が取れれば、俺はちょっと頭がよくて運動ができるだけの高校一年生だ。勘当でもされて真冬の寒空の下に放り出されれば、自由な人生を生きていくことなんかできやしない。
レールから外れずに生きるのはもう嫌だ。でも、外れて生きることなんか出来やしない。それならば、こんなレールは自ら脱線してしまうしかない。つまり、外れて死んでしまえばいいのだ。
親父から厳命されている「レールから外れるな」という教えに背き、俺は今日レールから外れる。さながら、食べるなと厳命されていた知識の実を食べた、俺たちの遠いご先祖のように。楽園から追放された彼らのように、俺はこの世界から追放される。
シャープペンシルを放り出し、俺は大きなため息をついた。ルーズリーフにしたためた辞世の句を読み直し、吹き出しそうになる。なんなんだ、この自己陶酔にひたりきった文章は。宗教なんか信じたこともないくせに、原罪だの、知識の実だの、アダムとイブだの。人生最後だっていうのに、俺は文学作品でも生み出そうってのか。
俺は帰りのHRが終わってから約一時間を要して書き上げた文章を、ルーズリーフごとぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱へと叩き込んだ。死んだあととはいえ、あんな文章が衆目にさらされるのは、ちょっと恥ずかしい。
俺は机の中からもう一枚ルーズリーフを取り出して、放り出したシャーペンを握った。これから死ぬ人間が、ああでもないこうでもないとかくのは美しくない。たった一言、世間様に伝わればいいのだ。そう決心した俺は、「死にます。よろしく」とだけ書いて、ルーズリーフを机の中に仕舞い込んだ。
さて、これで死ぬ準備は整った。俺は緩んだネクタイを締め直して、席を立つ。向かうはこの学校で一番高く、天国に近い場所。屋上である。
屋上へ向かう階段は、俺の教室を出てすぐ左側にある。埃が積もった階段を一階分昇れば「生徒立ち入り禁止」と書かれた板が下げられているドアが現れる。言うまでもなく、これが屋上へと続くドアだ。本来であれば施錠されているはずのこのドアだが、最近生徒の内の何かに破壊され、今では誰でも通れるようになっている。三年前に直したばかりなのに、と担任の教師が怒っていたことがなんとなく思い出された。
邪魔な板を取り外し、誰かさんが壊したドアを開ければ、そこには既視感さえ覚える屋上が広がっていた。学校の屋上とはこうあるべしという俺の想像から、一片も外れないこの空間を今は俺だけが独り占めだ。
俺は転落防止用のフェンスに近づいて縁を掴んでみた。それは俺の胸ほどの高さまでしかなく、乗り越えようと思えば容易に乗り越えられそうだ。冬の外気に冷却されたフェンスが、俺の手のひらを急速に冷やしていく。なんだか、体温と一緒に生気まで吸い取られてしまっているような気がした。
よっこいしょと足を掛け、フェンスを乗り越えて屋上のふちに立つ。西の空に沈んでいく夕日の赤が目に痛い。鮮血みたいに真っ赤な世界は、これから俺の身に起こることを暗示しているような気がした。
死の淵に立っているというのにいやに冷めた頭で、眼下に広がる世界を眺める。陸上部がランニングをしている。野球部がキャッチボールをしている。明かりのつき始めた民家が見える。そして、高々とそびえたつイブミの本社ビルが見える。あんなものさえなかったら、俺は今頃ランニングやキャッチボールで汗を流し、今晩の夕食のことなんかを考えていたかもしれないのに。俺は自然と表情がこわばるのを感じた。
忌々しいビルから視線を逸らすべく、俺は顔を横に向けた。横に向けて、信じられないものを見た。
俺の隣に、いつの間にか女の子が出現していた。女の子は俺と同じように後ろ手でフェンスを掴み、憎々しげな視線を眼下の世界に送っている。この子は、一体何をしているんだろう。自分がしようとしていることも忘れて、俺はしばしこの女の子に見入ってしまった。