第一章 荀彧
俺の名は曹操、字は孟徳。
漢帝国の丞相にして、魏王だ。
いや正確には「だった」と言うべきだろう、それは前世の、それも千三百年も前の話だ。
今生に於いて、俺は織田信長と呼ばれている。
かって我々、中華の民が東夷、倭などと呼んでいた辺境の地の、一城主に過ぎない。
もちろん、生まれ変わりなどと言う事が突拍子もない話である事は承知している。
それがたとえ転生輪廻を前提とする仏教を信奉するこの国に於いても、だ。
万人の前で「俺は曹操の生まれ変わりだ!」などと主張すれば気が触れたと思われるのがオチだろう。
他ならぬ俺自身もつい最近まで誰かがそんな事を主張したら信じなかったであろう。
だが、今は違う。
ある事件が契機となり、俺の前世の記憶が呼び覚まされたのだ。
正直、俺は幼少の頃からどこか居心地の悪さを感じていた。
自分の居場所がここではない感覚。
もしかしたらそれは、戦乱に明け暮れた前世からの無意識の自己逃避だったのかも知れない。
皮肉な事に俺が再びこの世に生を受けたこの地は、またしても激しい戦乱の時代にあった。
この地における俺の父、信秀はその乱世を利用して勢力を拡大していった新興勢力であった。
元々の身分は高くはなかったが、上位である守護代を傀儡として権勢を誇った。
それはこの時代の、下克上と言う新たな価値観の体現者とも言えた。
しかし、晩年にはその拡大策は行き詰まりが見え始めていた。
当然俺には更なる勢力の拡大が期待されるであろう。
周囲の期待は俺に重くのしかかっていた。
俺はその重圧から逃れるように荒れた。
領地や家臣のことは放ったらかし、取り巻きの家臣の子息たちも巻き込んで放埓に騒いだ。
山野を駆け巡って、時には田楽に割り込んで歌舞に興じた。
そして華美な衣装や化粧を施して、傾奇者ぶって世間を騒がせた。
小姓の前田利家、又左衛門などは俺よりも堂に入った傾奇ぶりで、若い女どもを騒がせたもんだったが、所詮は気晴らしに過ぎなかった。
いや、本当のところ気晴らしとも言えなかったかも知れない。
だが、人々は影ではうつけ者などと俺の事を罵っても、曲がりなりにも領主の息子であり、城主でもある俺を諌める者はなかった。
一人を除いては。
それは俺の教育係であり、家老の平手政秀だ。
平手の爺は、幼くして那古野城主となった俺を補佐し、と言うよりうつけた俺に成り代わって全てを取り仕切ってくれていた男だ。
戦の時は俺を助け、妻である濃との縁談も纏めてくれた。
それだけに俺の放埓な行動には再三諫言を弄してくれた。
離れていた父よりも実質的に父と言える存在だった。
そしてその平手の爺の死が、俺の前世の記憶を呼び覚ます鍵であったのである。
父、信秀の死により17で家督を継いだ俺は益々混乱していた。
多くの家臣や家族を引き連れ、先頭に立ってこの乱世に立ち向かわなければならない。
ただ俺には全てに於いて器量不足に思えた。
それを考えれば考える程嫌になり、俺は荒れに荒れていた。
家臣達からは俺の後継ぎとしての資質を問う声があがり始め、お家問題に発展しようとすらしていた。
そんな中、時を構わず歌舞や酒色に耽る俺の元に平手の爺が出仕してきた。
俺は酔って呂律の回らない口調で横柄に対応した。
「何じゃ、爺!また説教か?うんざりじゃ!」
俺は酒器を投げつけた。
が、いつもは激怒する爺の様子が今日は違う。
顔色は青ざめ、身体は震え気味で膝をつき崩れそうに見える。
と、一瞬崩れそうになった平手の爺を支えるべく俺は手を差し伸べ、体を支えた。
「爺、どうした具合でも悪いか?」
途端にぬるりとした感触で手にべっとりと付いた血に気がついた。
「爺、お前陰腹を・・・」
俺は絶句した。
陰腹とはあらかじめ腹を切って、正に命を懸けて諫言をする行為である。
自分の主張が通ろうが、通るまいが既に命を絶った上で、私心ないことを自ら証明する為と言える。
おれは雷に撃たれたような衝撃を感じた。
が、それはもう一つの理由があった。
自身の頭の中で衝撃的な事が起こっていたのだ。
まるで早駆けの馬に乗って林の中を疾走していく時、木洩れ日が目の眩むような早さで次々と視線を突き刺すように。
俺の頭の中に次々と記憶の断片と情景がなだれ込んできた。
ほんの瞬きをする程の瞬間に過ぎなかったが、閃光のように俺の前世の記憶が蘇ってきた。
断片的で、はっきりした部分とはっきりしない部分が混じり合っているが、間違いなく自分の体験として。
記憶と共にそれに伴う感情さえもほとばしるように湧いてきた。
ほんの一瞬の出来事であったが俺は眩暈を感じて身体をすくませた。
と、前世の記憶を取り戻した俺には懐かしい、あの中原の言葉が耳に入ってきた。
『丞相、なんと皮肉な巡り合わせでしょう・・・』
そして、不思議な事につい一瞬前には知らなかったその言葉の意味がわかると共に、その弱々しい声の主、平手の爺の前世も俺には目に浮かぶようにわかったのである。
『荀彧、お前か・・・』
荀彧、字を文若、前世で俺の最も古い軍師の一人であり、重臣、友であった。
数々の策を俺に提案し、戦場においても、政治においてもおれの腹心として常に第一線にいた男である。
まだ群雄割拠の中で頭一つ抜け出す事が出来ずに喘いでいた俺を一気に天下取りの中心へと導いたのは荀彧の献策あっての事であった。
あの頃、黄巾を始めとする賊の反乱を鎮めながら脆弱な地盤をやっと固めつつあった俺は、行き詰まっていた。
その分水嶺となった策が天子の奉戴であった。
忘れもしない、呂布と言う強敵との戦いをなんとか収束させ、戦いに明け暮れて疲れ果てていた時だ。
俺や俺についてきた部下達は今後の自分達の方向性を見出せず、一種の閉塞感を感じていた。
そんな時、荀彧がふらりと俺の所に来た。
そしてニヤリと笑って竿を出した。
『曹操殿、釣りでも如何ですかな?』
気晴らしも兼ね、人の良い笑顔につられて断りきれずに近くの池に出かけたものの、中々いい獲物に恵まれない。
挙げ句に『引いてますぞ、曹操殿。』と、声を掛けられたが、応じるのが面倒になってきた。
『この引きは小物だ、釣っても腹の足しにもならん!』
俺は不機嫌な声で応えた。
が、すぐに拗ねたような物言いが少し恥ずかしくなって付け足した。
『まあ、俺自身もこの乱世に於いては腹の足しにもならん小魚に過ぎんがな』と。
すると荀彧は笑いながら応えた。
『あなたが小魚ならあそこな岩陰で様子を伺っている大物はさしずめ袁紹ですか。そばで様子を伺う小魚は劉備、その更に向こうのは袁術、公孫瓚、あの跳ねたのは呂布か』
さらに続けて『この池が群雄割拠する乱世ならさしずめ小魚などは一飲みにされてしまうでしょう。』
なるほど、ここに誘ったのは気晴らしの為だけではない。
天下の情勢を語り、そして恐らくは策を講じる為であろう。
俺はじっと目は水面に置き続けながら話を聞いた。
『あなたは確かに強く、兵法に通じています。
しかし今この群雄たち全てを相手にして勝つ事が出来るでしょうか?』
それは俺も考えていた。
『有力な者と盟を結べばそれは防げるのではないか?』
もちろんその考えも予測してはいるであろう。
『盟は絶対ではありません。乱世なのです。永遠に約束が守られると思ってはいけません。最初は盟に従っているふりをしていても、あなたが隙を見せれば掌を返してあなたを討ちに来ると思ってください。』
そのとおりだ。
乱世で人を信じて負けても誰も同情などしない。
愚か者だと思われるだけだ。
『この乱世を生き延びる場所は魚同士が争い合う池の中にはありません。空です。』おもむろに荀彧は空を指さした。
何を言いだすのだ?
『龍は空を飛翔すると言います。あなたは龍の背に乗って空を飛べばいいのです。』
『龍?ふざけてるのか?龍なぞどこにもおらんぞ』
荀彧は笑って応えた。
『落ちぶれたとは言え漢帝国の玉座は龍です。しかしその天を飛翔する龍は、幼く、弱い。しかしそれでも龍に取って替われるものなどおりません。』
なるほど!
漢帝国の皇帝、劉協を保護して迎え入れろと言うことか。
確かに俺が劉協を保護すれば群雄達も皇帝の保護者である俺には手を出し難いであろう。
ほとんど権威を失ったとは言え形式上はみな漢帝国の臣下だ。
皇帝には弓を引く者はいない。
だが、不安もある。
董卓のように皇帝を傀儡として利用していると見做さらて逆に天下の非難を浴びるのではないか?
『ご懸念はわかります。
その為には天下には二心なき事を示さねばなりません。
董卓は大師と称して皇帝の父に等しいとさえ嘯き、権力を独占しました。
あなたはあくまで臣下であると言うことを示すのです。
更にあなた以外の群雄を要職につけるのです。
例えば袁紹をあなたより高い地位に任命するとか。』
なるほどそれならば曲がりなりにも向こうの顔も立つ。
すくなくともこちらの体制が整うまで大戦さにはならないだろう。
かくして俺は荀彧の献策を受け入れ、流浪の身同然であった皇帝、劉協を保護し、説得させて自分の勢力圏である許に移して都を構えた。
若くひ弱だとは言えまぎれもない龍を手中にした俺は臣下の礼をとりつつも詔勅を操り天下に見せかけの均衡を生み出した。
俺は常設の役職としては最高位の三公の一つである司空の位に就き、最大勢力であった袁紹には常設の役職ではないものの三公の上位である大将軍の位を与えた。
見栄っ張りの袁紹はそれで当面はおとなしくなった。
更に他の群雄達にも様々な官位を与え、それが生み出した一時的な均衡の下、内政に力を注ぎ国力をつけたのである。
そして数年後には群雄達を平らげ、最大勢力である袁紹をも破り、中原の覇者となったのであった。
そしてその頃が俺と荀彧との蜜月であった。
三公の役職を一人で担う丞相の位に就いた俺は名実共に朝廷の支配者となった。
その頃から荀彧と考えにすれ違いが生じてきた。
荀彧は俺への忠誠心と同時に漢帝国の朝廷に対しても忠誠心を保ち続けていた。
荀彧は皇帝を助ける俺を補佐する事で、漢帝国の復権を目指すことが出来ると考えていたのだ。
もちろん俺の中でも漢の復権は望ましい事ではあった。
漢が力を取り戻す事により、民が安寧に暮らす事ができる、そう信じていた。
しかし、漢が衰退して世が乱れたのは、朝廷内部の腐敗、皇帝自らが官職を金で売り、周囲を無能の輩で固めてしまった事が原因なのだ。
にもかかわらず、俺が丞相に就き、漢の威光が戻り始めると、朝廷を腐敗させた無能な人材達が幅を利かせ始めた。
皇帝が危険な状態で流浪の身であった頃には何も出来なかった連中が口を出し始めたのだ。
中でも孔融は愚にもつかない人物であった。
孔融は儒教の祖、孔子の子孫として朝廷内に多くの支持者を抱えていた。
荀彧もその一人であった。
俺は孔子の掲げる徳治主義には疑問を抱いていた。
徳をもって政治を行なうとするが、実際のところ徳とは非常に曖昧な概念だ。
その人間が本当に徳を以って善行を行なっているのか、それとも周りの人間の目を気にして偽善を行なっているのかは客観的に判断するのは不可能だ。
実際、ある人間に徳があるか、ないかを判断するにはその部分を主観によって判断せざるを得ず、結果白黒はっきりしない灰色の部分が残るのである。
そして、そこは結局、人脈、縁故による人材の登用や派閥の都合、最悪の場合賄賂が蔓延る隙が生じるのである。
従って俺はあたらしい国家運営は法治主義に則って行おうとしていた。
人間ではなく、法が判断するのである。
人は法に従って能力により登用され、実績を作ればよし、実績を作れなければ罷免される。
白黒ははっきりしている。
孔融にはこの俺の考えを、徳を軽んじる事だと非難し始めた。
しばしば俺と対立し、挙げ句の果てに俺は孔融を処刑した。
この状況を荀彧は複雑な思いで見ていた事だろう。
荀彧も儒教の徳治主義の信奉者であり、また故に漢朝の復興を何よりも願う者であったからだ。
荀彧の皇帝・劉協を保護するという策は俺が群雄の中から頭一つ抜け出す為の策であったのは事実だが、同時に荀彧にとっては滅びゆく漢朝の復興のための策でもあった。
しかし孔融の処刑の頃から俺の考えは変わり始めていた。
俺が願ったのは乱世の終結と天下の安寧だ。
平安の世が訪れると言うのならそれが漢の皇帝の下である必要はなかった。
皇帝・劉協はともかく、俺が中原を平定したあとで勝ち馬に乗って再結集してきた奴らは能無しばかりであった。
この無能の連中が旧体制を改めもせずに朝廷を牛耳れば、遠からず天下は乱れるであろう。
俺は新体制を作るべく、動き始めた。
俺は漢帝国の丞相の地位はそのままに新しい国を作る事にした。
そこで腐敗した漢の旧臣達のしがらみに囚われずに新しい体制を模索する事が出来るはずだ。
しかし、この新国家の建国は荀彧からは理解されるものではなかった。
荀彧は俺の作る新しい国がいずれ漢に成り代わって中華の全土を支配して漢を乗っ取ってしまうのではないか?
そう訝しんだわけだ。
まあ俺にもそのつもりが全くなかったわけではなかった。
結果的に俺の国が漢を吸収してしまう事はありえるだろう。
だがそれは結果的に、と言う条件付きだ。
俺が打ち立てる新しい法治国家の体制が全土に行き渡って平和と秩序が回復するのであれば、漢の行く末などはどうでもよかった。
逆に漢の国家体制を維持したままで改革が可能なら存続しても構わないと思っていた。
名よりも実を取るのが俺の考えだからだ。
だが、荀彧は結局俺の建国に皇位簒奪の疑惑を拭う事がとうとう出来なかった。
俺は暗に荀彧に自害をほのめかした。
賢明な荀彧は罪人として死ぬよりも一族の今後を考え、俺の追求が荀彧の甥である荀攸や息子達に及ばない事を密かに伝えて自害したのであった。
その荀彧が一千年以上の時を経て、今目の前で息絶えようとしていた。
外見も年齢も全く違う。
しかし俺には今俺の前で血を流して倒れ込んでいるこの老人が荀彧である事がなぜか疑いもなくわかる。
その証拠にこの老人は千三百年前と同じように中原の言葉で話しかけてきたのであった。
『前世であなたに自害を命じららた私が、今度は自らの意思で命を絶つ。皮肉な事ですが、これはこの年寄りのせめてもの罪滅ぼしとお許しください。』
『罪滅ぼし?何を言う。』
荀彧、平手の爺は苦しげに言葉を続けた。
『本当です。私は転生して故あって前世を思い出すことが出来ました。そしてその後、私や丞相が死んだ後あの大陸で何があったかを知ったのです。』
その後の中原の歴史の事は俺も知っている。
『私が命を賭して守ろうとした漢は丞相の死後滅びました。そしてその後を継いだ丞相の国、魏も晋に簒奪されほろびました。』
不本意ながらそれは事実だ。
『そして晋が天下を統一したのですが、平和は長くは続きませんでした。中原の長い戦乱の間に力をつけた異民族が反乱を起こし中原には十を越える様々な小国が乱立した新たな戦乱の時代となったのです。』
五胡十六国と呼ばれる時代の事である。
『更に天下は定まらずそこから300年近くも諸国が分立したままになったのです。戦乱が続き民は苦しみました。私はその責任を感じました。』
『責任だと?』
『そうです。こうして今の時代から俯瞰してみるとあの時既に漢の命脈は尽きていました。私はそれに気づかずにあなたと対立して自分の為すべきことを投げ出してしまった。』
『為すべきことか・・・』
『そうです。あなたを助け、天下を統一し、民に安寧を与える事。それ以上に重要な事はありません。なのに漢の簒奪などと大仰にあなたを非難し、命を絶ってしまった。』
『ならば何故また命を絶つ?荀彧、生きて俺を補佐しろ!』
『あなたは若い肉体と稀代の戦略家としての経験があります。最早こんな老いぼれの出る幕では有りません。ならば過去の非礼を詫び、せめてもの手向けとしてあなたの覇業にこの命を捧げるだけです。』
そして平手の爺は血を吐いた。
『もう時間が無いようです。大事な事をお伝えします。二十年以上前の事です。私は秘術により前世の記憶を持つと言う僧に出会いました。』
ゆっくりと話を続けた。
『僧は小刀で手を切り、私に触れました。その途端に私も前世の記憶を取り戻したのです。
つまり前世の記憶を取り戻す力は血によって他人に伝染するのです。』
なるほど、それで俺にも伝染したのか。
『同時に他人の血に触れることにより他人の前世を知ることも出来ます。私があなたの前世を知ったのは昔あなたが傷を負った時に血に触れた時でした。』
それからずっと俺のことを見守ってきたのか。
『ただ、気をつけていただきたいのは自分の前世にしろ他人の前世にしろ知る為には、血を触れた相手が前世で関わりのあった場合です。そうでなければ何も思い出す事はありません。』
『わかった。爺、辛いだろう。もう話さなくてもいい』
『いえ。もう早かれ遅かれこの命は尽きます。それならばあなたが今、ここにいる意味、天意をお伝えするのみです。』
天意だと?
『あなたが再び土地は違えども乱世に生を受けた意味です。仏の教えでは、前世で戦いに明け暮れた者は修羅の道に落ちます。自らの業により再び戦いに明け暮れる定めなのです。』
俺にも今生で多少は仏教の事は聞き知っている。
人は何度も生まれ変わり、前世の業により、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻すると言う。
ここはその修羅界と言うのか?
『修羅とは戦いによって生まれる人の心の有り様とも言えるでしょう。修羅の心が乱世を生み、また乱世に修羅の魂が集まる、それが今のこの国の状態です。そして奇妙な事にその縁がこの国にかっての中華の群雄たちの魂を引き寄せています。』
『何?と言うと。』
『丞相や私だけではないのです。あの時代の中華の修羅達は今この国に続々と生まれ変わったいるのです。私は過去に幾人かと接触しました。』
『なんと。では戦いに惹かれた修羅の魂が再びこの国で激しい戦いを繰り広げる定めだというのか?それが天意とやらなのか?』
『そうかも知れません・・・ただ・・・私は自分の前世を知り、あなたの前世を知った時、もう一つの天意があるのではないかと思い至りました。』
『もう一つの天意?』
『そうです。前世で天下統一目前で果てたあなたが、今度こそ天下を統一し、平安の世を作り出すと言う天意です。であればこそ天は私に前世を知らしめ、私をしてあなたに前世を知らしめたのです。』
なるほど、もし前世の業とやらでこの地に転生したきた群雄と戦うとしたら私にとっては以前戦って来た相手だ。
知った相手なら取り組みやすいであろう。
『今やあなたは他人の血に触れればその人間の前世がわかるはずです。もし・・・味方であればその人間があなたの血に触れれば向こうも前世を思い出してくれます。きっとあなたの天下統一に手を貸すでしょう。』
『もし・・・敵だった場合は?』
『決してあなたの血に触れさせてはなりません。前世を知った者の血に触れなければ相手は自分が何者か思い出す事はありません。もし相手があなたの天下統一を妨げるのなら相手の弱点を突いて殺すのです。』
なるほど、相手の血に触れるのは容易ではないかも知れん。
しかし兵法にも『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』と言う。
前世より兵法の天才と言われた俺が敵の性格や弱点を押されていれば負けることはないだろう。
『その際・・・相手が敵になるか味方になるかはあなた自身で判断なさる必要があります。前世で敵であっても今生で利用出来る者もあるでしょう。あなたは敵である劉備や孫権ですら味方につけた経験があります。天下統一に利用出来れば・・・手段は選ばず最短で天下を併呑するのです。』
実際、劉備は俺の幕下にあったこともあり、孫権とは盟を結んで敵を討った事もある。
太平の世を招くためには手段を選ぶなということか。
『ただ、一人絶対に見つけたら殺すべき相手がいます。この者だけは・・・味方につけたり・・・懐柔出来ると思ってはなりません。これだけは心にお留めください・・・』
『わかった。そうしよう。それは誰だ?』
『諸葛亮・・・字は孔明、もし・・・奴がこの時代に転生していたなら確実に消すのです。』
『諸葛亮・・・』
前世の事とは言え、確かにその名は俺の耳に苦々しく響いた。
諸葛亮は劉備の参謀として様々な軍事、外交、政治にまで手を広げて補佐をした男だ。
この男が劉備を補佐しなければ、天下は俺の手にあった、と言っても過言ではなかった。
諸葛亮が参謀になる前の劉備は、正直俺にとっては敵と言うほどの存在ではなかった。
小物だった。
俺の隙をついて徐州を奪い、呂布に奪われ、俺の傘下に入って再び裏切り、また敗走する。
人望はあり、勇猛な部下もいたが一国ならともかく天下を争う程の知略はなかった。
結局俺の中原の掌握に伴い、逃げるように荊州に行くしかなかった。
建安13年(208年)、中原を制した俺は南下して劉備のいる荊州へ兵を進めた。
荊州牧、劉表の客将であった劉備は、再び俺と対峙する事となった。
その頃劉備の陣営に新たに参謀として加わったのが諸葛亮であった。
荊州において諸葛亮は在野において有望視されている人材であり、「臥竜」の異名で呼ばれるほどであった。
荊州制圧後には俺の臣下に、と思っていたのだが逆の結果になってしまったのが悔やまれた。
だが、この時点では俺の覇業において、これほどの障害になるとは思いもしなかった。
気取った小賢しい若造。
それが諸葛亮の第一印象であった。
俺は撤退する劉備を追撃していた。
しかし劉備の部下の張飛の思わぬ奮闘に阻まれ、長坂橋を落されてしまった。
俺はすぐさま斥候を放って情報を収集し、川が浅くなる地点を探して追撃しようとした。
そして軍を集結させた対岸に、僅かな護衛を引き連れて現れたのが諸葛亮だったのだ。
俺は川を渡るべく待機した兵の足を止めて、目を細めて対岸を見渡した。
十数名を引き連れ、中央に背の高い、しかし細く肌は生っ白い場違いとしか思えない男がいる。
とても武人とは思えない。
訝しんで兵に待機を命じた俺に、体躯の割にはよく通る声で男が呼びかけてきた。
『曹丞相、お初にお目にかかります。私は劉玄徳の臣下、諸葛亮、字を孔明と申します。お見知りおきを。』
人を食った物言いだ。
こちらも同様に応じよう。
『おお、かの臥竜公か!今朝廷からの使いを向かわせていた所だ。皇帝陛下より新たな荊州の為に力を尽くすように承っておる。』
すると諸葛亮はおどける様に手にした扇を振って応えた。
『流石は丞相、冗談も格別でございますね。然れども私は劉玄徳殿に忠誠を誓っております。従ってここを通らせるわけには参りません。』
なるほど。
やはりここで我が軍を防ごうと言うのか。
しかし手勢は十数名、それとも伏兵でもいるのか?
俺はあらためて対岸を見渡した。
確かに孔明の近くに伏兵を配置しやすそうな林がある。
『気に入ったぞ。忠義の士というわけか。だが、それだけの手勢で何とする?』
と、カマをかけつつ俺は対岸の様子を伺った。
林にうまく配すれば数百の伏兵は隠せようか。
ただ、それだけの兵を配すれば気配は隠しようがない。
しかし対岸からはその気配はしてこないのである。
おまけに対岸の水鳥たちもすぐそばの林に大軍がいるとは思えない程に、平穏に佇んでいるではないか。
諸葛亮はこちらが様子を伺っているのを感じて嘯く。
『丞相殿、こちらは手勢は少なくとも主君への忠義は厚いのです。何故ならば我らが主君、劉備殿は遠くとも漢の皇室の血を継く身です。あなたも漢の臣下であれば無体な事はなさるまい、と信じているからです。』
つまらぬ!
荊州に名を轟かせた諸葛亮とはこの程度の男か。
策もなく、忠義を持って盾になり、情に訴えるしか出来ない無能な輩でしかなかったか。
俺の傍らで許褚、俺の護衛を兼ねる勇猛の士が痺れを切らせ始めていた。
『丞相、つまらぬハッタリです!対岸に伏兵などおりません。あの生っ白い小倅を叩き潰して劉備を追いましょう。』
確かにここでこれ以上時間稼ぎにつきあう道理はない。
『よかろう!川を渡って追撃を続けよ。ただし、あの小僧は生かして捉えよ!』
『御意!』
許褚は解き放たれた矢のように馬を駆って川を横切り追撃の軍勢も次々と渡り始めた。
と、対岸の諸葛亮が扇を翻して林の方に何やら合図らしきものを送った、その刹那であった。
林の方角から何百という矢が雨あられと降り注ぎ川を渡る兵達をなぎ倒したのである。
許褚も馬に矢を受けて川へ転落した。
バカな!
あの矢の数から察するに三百、いや五百は林に潜んでいるはずだ。
先程までそんな気配は微塵もなかった、にもかかわらずである。
怯んだ我が軍に対して諸葛亮が追い打ちをかける。
『丞相殿、先程も申し上げたように私は争うつもりも御座いません。ただ、理の在りどころを申し上げたまでです。しかし、これでもまだご理解頂けないのであれば・・・止むをありません。』
更に扇を林の方に振ると第二射が降り注いだ。
川が味方の兵の血で染まっていく。
たとえあの林に何百人も潜んでいようが、数の上ではこちらが圧倒的な有利だ。
だが、川の上では動きがとれない上に無防備だ。
このままでは川を渡るにあたって膨大な犠牲を伴いかねない。
『引け!兵を引かせろ!許褚もすぐ戻るように伝えろ。』
俺は命じて尚腑に落ちなかった。
諸葛亮はどうやってあの伏兵の気配を消したのか?
ともかくここは諦め、更に斥候を出して他の場所から川を渡るしかない。
場合によっては劉備を逃がすことになるかも知れないが。
それを見て諸葛亮は穏やかに言った。
『それでこそ丞相殿です。無駄な血を流すのはお互いにとって賢明とは言えません。また、お会いしましょう。』と、声を掛けて俺を見送った。
俺には苦虫を噛み潰したような表情で撤退していくしかなかった。
ともあれ、これが俺と諸葛亮の出会いであった。
後に思い起こすと、この時は諸葛亮の所業は妖術としか思えなかった。
だが、今俺は転生して様々な知識を得てわかったことがある。
後の時代、宋代に中華では火車という兵器が作られた。
それはいまこの国でも最新兵器として知られる種子島、鉄砲の技術、火薬を使った連射式の矢の発射装置である。
四角い筒の中に何十もの矢を仕掛けて導火線により一気に点火して矢を発射する機械である。
これと全く同じではないと思うが、諸葛亮はこの仕組みをいち早く考案して実用化していたのかも知れない。
で、あれば林の中に十数人程度の伏兵がいさえすれば、何百もの矢を同時に発射することも出来るし、その程度の人数ならば気配を殺していれば察知されることもないだろう。
ただ、その装置は何十もの矢を設置する手間がかかるため連射には向かない。
そこで諸葛亮はあのもったいぶった物言いで我々の注意を引きつけ、次に矢を放つための時間稼ぎをしていたのであろう。
だが、それも後の祭り、その時は結局劉備を取り逃がす結果となってしまった。
おれが思い起こす間にも荀彧、平手の爺の顔色はどんどん血色を失い、明らかに死が迫っていた。
『諸葛亮とは・・・あなたの対極の存在です。あなたの・・・知識や知恵、戦略を用いるなら・・・劉備や孫権なら利用する事も出来るかも知れません。だが諸葛亮だけはそうはいきません。』
『だから用いろうなどとは・・・決して思ったはなりません。速やかに・・・抹殺するのです。・・・それほど恐ろしい男です。』
『わかった。荀彧。心に留めよう。』
『安心・・・しました。これであなたは・・・今度こそ天下を取れるでしょう。それが・・・私の、罪滅ぼしです。』
『丞相ならば、きっと・・・この国に平安をもたらすことが・・・出来ます。そして・・・更に・・・中華にさえ・・・平安をもたらす事が・・・』
『俺が・・・中華を・・・』
『きっと・・・出来ます・・・海を渡って中華をも・・・この爺の魂も・・・そこへ・・・』
俺は荀彧、いや平手の爺の手を握った。
『ああ!きっと連れて行く!』
しかし爺はもう力強く握り返すことも出来なくなっていた。
『信長さま・・・そして、天下にあなたを・・・知らしめるのです。・・・武王の・・・名を・・・』
『武王・・・だと?』
『はい、それがあなたの・・・前世での・・諡です・・・あなたは、死後・・・武王と呼ばれた・・・その名を・・・今度は・・・生きているうちに・・・天下に・・・あなたの名を・・・天下・・・布武・・・』
平手の爺は事切れた。
俺は冷たくなっていく爺の手を握ったままその最後の言葉を噛み締めていた。
「天下布武・・・」