天使は僕を指さして笑った
本日、床屋へ行ってきた。
この一年間。僕は、毎月のように美容室へ通い続けた。身の丈に合わない美容室代によって、小遣いは羽を生やして僕の元から飛んでいった。その対価として、僕はイケてる高校生を気取ろうとしてきたのである。
だが、本日は美容室ではなく床屋に行くと決めていた。というのも、美容室に行けども行けども僕が切望する「イケてるヘアースタイル」にならないのだ。
ちなみに「イケてるヘアースタイル」の定義は、自分でもよくわかっていない。イケているというからには、本人に合った髪型が前提だろう。しかし、僕は十代のアイドルがしているようなツンツン頭が自分に似合うと思えない。そもそも僕には、ワックスを使ってまで髪型をセットしたいという熱意もない。
その旨を美容師に伝えた結果、提供されたのが現在の髪型である。
しかしながら、僕は自分の髪型がイケていると思ったことが一度もない。似合っていないのだ。
鏡を見ると、そこにはいつでもマッシュルームキノコがある。寝ぼけているときに洗面所に向かうと、朝食と間違えてあわや食べてしまいそうになる。
世間では、僕の髪形をマッシュルームカットと呼ぶらしい。聞こえはいいが、和訳をすればなんてことはない。キノコ頭である。
一年も通い続けた結果がキノコでは、毎回支払われる四人の野口英夫も浮かばれない。美容師に代金を手渡す時。心なしか、お札に描かれた彼らの瞳が物悲しそうな雰囲気を帯びていたような気さえした。
もしかすると、美容師というのは仮の姿であり、その実態は悪質なキノコ生産農家なのではないだろうか。彼らの目的は、キノコの販促効果である。マッシュルームカットの若者を増やすことで、今晩の献立を考える主婦の深層心理にキノコを植えつけるのだ。僕は、悪徳美容師によってキノコ市場を活性化させる肥料として利用されているに過ぎない。毎月犠牲になってゆく野口秀夫は、その真実を僕に伝えようとしているのだ。
人間不信に陥りかかった。
どうせイケていない髪型にされるのなら、普通の床屋に行ったところで差なんてないだろう。むしろ、回転がはやくて経験人数が実質的に多い床屋店員の方が、僕を際立たせるような髪型を提供してくれるに違いない。
――という結論に達したのは、つい先日のことであった。
僕は、いくら努力をしようにも愛しの人に振り向いてもらえない。愛しの人はおろか、これまで一度たりとも告白をされたこともない。なぜ自分には恋人ができないのか。原因の探求に三日三晩を費やして、ひとつの結論に達した。
見栄えが悪いのだ。
デートに着ていくような小洒落た洋服はひとつもない。毎日、朝になったら母親が買ってきた真っ白なポロシャツと青々しいジーパンを自動的に着ているだけだ。ガリガリの体型にサイズの合わないポロシャツを着ている姿は、ガイコツが服を着ているようで不気味と評判である。さらに、不規則な夜型生活がたたって目元にはいつでもクマをたずさえている。クマを取りはらったところで顔立ちがよくなることはない。こけた頬が飢餓に苦しむ捨て犬をたくみに演出する。
そんな僕を際立たせるような髪型が世の中に存在するのかは疑問だ。だが、このさい関係ない。
目指せ、脱キノコなのだ。
イケてるヘアースタイルになれば見栄えはよくなり、彼女はできて、カレンダーは友達との予定で埋め尽くされることだろう。
僕が人生を謳歌できないすべての原因は、キノコに帰結する。
ということで向かった先が千円カットの床屋さん。なんと、年始割引で六九○円セールとのことであった。意気揚々と入った店内には、四人の客、若くて素朴なお姉さん店員、そしてかっぽう着を着せたらさぞ似合うであろうオバチャン店員がいた。
――お姉さんに切ってもらいたいなあ。お姉さんがいいなあ。
などと念じながら、日焼けした漫画を読むこと一時間。
ようやく僕の順番が回ってくる。相手はオバチャンだ。少し残念である。だが、ネガティブにはなるまい。こういう所では年のいった人間こそ、散髪の技術を磨いているかもしれないではないか。
そう考えてしまえば足取りも軽くなる。僕は軽やかなステップでロッカーへ行き、他の客の冷ややかな視線を一身に浴びた。
席へ座るとオバチャンが「今日はどうされますかね?」と尋ねてきた。鏡に写るオバチャンの顔は目と口で緩やかな曲線を描いており、笑いじわができていた。こんな優しい顔をできる人の手腕が悪いはずがない。きっと僕の理想を見透かすくらいの気づかいはできるだろう。
僕は、勝利を確信した。
そして、僕はあらかじめ用意しておいたセリフを吐く。
「前はオデコが半分みえるくらい。あとは横と後ろは二センチくらい切ってください」
「耳にはかかる程度で?」
「すこしかかるくらいがちょうどいいです」
「襟足はどういたしましょうか?」
「すこし長いくらいが理想です」
「あとは、全体的にすいてしまってもよろしいでしょうか?」
「はい。お任せします」
今回の脱キノコ作戦のポイントは、前髪を短めにするところにある。横と後ろは一センチも切ってくれれば十分なのだが、貧乏性なのでつい多めに言ってしまった。
「たいへん立派な髪型ですね。ちょっと大胆に切ってしまってよろしいのですか?」
「ええ、問題ありません」
それが目的である。
オバチャンは、ベテラン床屋の名に恥じぬ手際の良さで散髪の準備を始めた。僕は、オバチャンの技術に敬意を示すべく、あうんの呼吸でもってそれに応えた。メガネを預け、首からエプロンをかけられ、かくしてオバチャンの元気な返事の後には、すぐに散髪が始まった。
ところが、僕は髪を切り始めてわずか十秒で異変に気がついた。
――何やら、様子がおかしい。
目を閉じているのでハッキリとは分からないが、これは明らかに切り過ぎではないか。 さっきから耳の辺りがスースーするし、ハサミの入れ方もすいぶんと思い切りがいい。おばちゃんがハサミを入れるたびに、ぼたんの首が落ちたような不吉な音がする。こうなると、髪を切られる方としては気が気でない。
――大丈夫かな。気のせいかな。耳元が涼しいな。
頭の中は不安でいっぱいだが、そのことにオバチャンが気付く様子はない。
十分後。
オバチャンの合図にまぶたを開けてみる。 するとそこにはカッパらしき生命体がこちらを伺っていた。
僕は視力が悪いもので、それがカッパなのか人間なのか判別つかない。とはいえ、まさか閑静な住宅街の床屋に妖怪がいるわけがないではないか。
真相を確かめるべく、僕はオバチャンにメガネを要求する。オバチャンは思い出したように手を打って、僕が預けていたメガネを差し出した。ボヤけた視界が鮮明に映る。
そこには、見間違うことなくカッパがいた。
両側面の髪は、ほぼそがれている。その割には頭頂部に手を加えられておらず、まるで頭に皿が載せられているようだ。黒々しい光沢を放つ髪は、さながら丹念にみがかれたうるしの皿である。
もしかするとこれは夢ではないか。頬をつねろうと腕を動かすとエプロンに身動きを阻まれた。髪の残骸がエプロンからボロボロと零れ落ちている光景を認めて、僕はこれが現実であるとさとった。
キノコからカッパへの進化を遂げてしまったようだ。
これでは妖怪である。いつになったら人間になれるのだろう。
湧いて出たのは、オバチャンに対する怒りではなく、自分へのふがいなさであった。違和感は最初からあった。なぜもっと早い段階で気づかなかったのだろうか。そうすれば、このような事態は防ぐことができたではないか。
泣きそうな顔をして、合わせ鏡を持つオバチャンを見る。すると、キラキラした瞳で「いかがでしょう」と感想を催促してきた。オバチャンは、僕が歓喜の悲鳴をあげることを信じて疑いもしていない。なんて純粋な顔をするのだろうか。
そんな顔をされては、文句なんて言えるワケもない。僕は震える声で「いいですねえ」と笑ってみせる。するとオバチャンは「そうでしょう、そうでしょう」と鏡をしまって、再びハサミを取り出した。まだ終わりではないらしい。
後は、されるがままである。
オバチャンは、僕の感想に気分を良くしたのか、さらに軽快なハサミさばきを繰りだしている。もはや、最初の注文なんて、オバチャンの頭の中には残っていなかった。
床屋は暖房が効いており、生暖かい風が僕の頭皮をときおりヌルリとなでた。その度に、僕の心中は虚しさに駆りたたされた。
かくして僕は、自分の犯した過ちにようやく気がついた。
キノコカットは、僕にとって最適の髪型だったのだ。
目つきの悪さを覆い隠し、なおかつ細い骨格に横幅を作ることでバランスを保つ。思えば、なんて合理的な髪型なのだろうか。美容師の判断を一度でも疑った自分のなんと浅はかなことか。あやまちの代償は大きかった。
散髪の代金を支払って、外に出ると冷気が僕の頭皮を容赦なく襲った。これまでさんざ邪魔だとばかり思っていた髪だったが、いざ失ってみると愛おしさすら覚えた。店の床に横たわる髪の残骸からは、僕との死別を悔やむすすり泣きが聞こえるようであった。僕は、狩られてしまった髪を一本ずつ拾い集めに戻りたい衝動を必死におさえた。
今や床屋のレジに収められた野口秀夫は、僕を指さして笑っているかに思われた。