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足跡

作者: 藍乃和義

 春だというのに、その日はやけに冷え込んだ。寒い日は終日机と向かい合い、日が落ちるまで筆を執る。それが私の趣味であり、また仕事でもあった。私は窓の水滴を拭き取り、吹きすさぶ庭を見た。天気がよければ外へ散歩にでも行くが、なにしろ季節はずれの北風に町は震えている。窓の中には、安寧がだらしもなく横臥している。

 いつの間にか筆を持つ手は止まり、視線は宙を泳いでいた。引き寄せられるように右へ左へ波打つうちに、てんとう虫が所在無げに虚空を舞っていることに気が付いた。壁に飛びついてはまた羽を広げ、柱をつらまえては、再び羽ばたいていく。

 それを三遍ほど繰り返したところで、私はひょいと筆を立ててみた。てんとう虫は、頼りなく聳える毛筆を見取ると、迷わず筆の根本にしがみついた。

 さてはてんとう虫、筆を昇る気だな。

 私がそう思い切るより先に、赤い背中は竹作りの柄を昇りはじめた。せわしなく脚を動かし、脇目も振らずてんとう虫は昇っていく。

 立てた筆から墨の雫が垂れて、惚けていた私は慌てて硯を下に受けた。筆を見遣ると、墨を吸った黒い毛の頂に、真っ赤なてんとう虫が佇んでいる。その毅然とした姿に私が息をのむと、赤い羽を勇猛に広げ、虚空を睨みつけた。一つ羽ばたく。その体は宙へ舞い上がり、筆からは細かく飛沫がたった。美しい曲線を描きながら、てんとう虫は一度こちらへ振り返ったかと思うと、一直線に窓を目指し、張り付いた。私は立ち上がり、窓にとまるてんとう虫を覗き込んだ。彼はただ窓に取り付いているのではない。窓を通り抜け、吹き荒れる外を臨んでいる。私は居住まいをただし、窓をゆっくりと開けた。途端に彼は隙間を縫って外へ飛び出し、その赤い背中はすぐに見えなくなった。

 窓を見ると、てんとう虫の足跡が黒く残っている。細く華奢な脚だった。私は窓の隙間を少し空けたまま、もう一度筆を執った。

 窓の足跡は、今も消えていない。

てんとう虫の、高いところへ登る習性は力強さを感じます。

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