一章 四話
目覚めると、高い天井が見えた。ふかふかのソファーがメルウェルをいたわるように抱いている。
「ここは?」
記憶の混濁、というよりは、頭が痛くて回らない。そう、頭が割れそうに痛かった。
「いったい」
その問いかけに答えてくれるものは誰もいない。物音ひとつしないこの部屋は無人のように思えた。
「私は……。あの時」
思い出す、手繰り寄せるように。
黒い、黒い少年を見た。黒い男も見た。灰色の町の中で。不釣合いなほど鮮やかな血と。
その血を浴びた少年。
「私は意識を失ったあとに、一度目覚めている?」
にんまりと笑う少年に名前を尋ねたのを覚えていた。そして彼がそれに対して短く答えたのも覚えている。
「リアライズ……」
反射的にメルウェルは思う、それは偽名か冗談で口にした名前だったのだろうと、だってそうでなければおかしいから。それはおおよそ人の名前として使える言葉ではないから。
「おきた? メルウェル」
ぱたりと、重たい扉が閉まった音を聞く。ソファーから身を半分起こし背もたれから少し顔を出すようにその人物を確認する。
「ソロア……」
ソロア・アヴァナーはいつものように好奇心踊る目でメルウェルを見つめていた。
「調子はどう?」
すらりと背の高い女だった。細い足を露出し、太ももまでしか覆わないパンツを身に着けている。上は男物の警官服を羽織るだけで。中には職務に似つかわしくない胸元の避けたシャツを着ていた。長くウエーブのかかった髪を揺らして。ソロアはメルウェルに近寄る。
前かがみになって、メルウェルの顔色を伺う。
「調子は悪くない。けど。ソロア、聞かせて、私が気を失った後の話、そしてあれは何だったのか」
「あれって?」
「あの、黒い男と、黒い少年の戦闘、あれだけの騒ぎがあったんだ。現場の手は足りてるのかな、私も状況の説明に行かないと」
そうメルウェルは体を起こす。けだるい感覚が全身を支配していた。後頭部も鈍く痛む、触れてみるとおおきな傷があるはずだ、そうやって手で触れてみる。
「あ……れ」
「行くってどこに? 私、あなたが街中で倒れてるって知り合いから電話が来たから拾いにいっただけよ。そこで何かがあったなんて話聞いてないわ」
「え……」
メルウェルは言葉を失った。
「そんなわけない、だって皆悲鳴を上げて逃げて。怪我をした人もいたはずなのに」
「ああ、それは天使像の破片が落下した事故でしょう? 幸いそんな大事には至らなかったわよ」
「天使……像?」
確かに破片は降ってきた、だが。
「事件はあったはず、だって地面から手が伸びてきて。それで男が、私の後頭部をがんがんって」
だが、傷はない、不思議なほどに綺麗さっぱり傷が消えていた。
「悪い夢でも見ていたんじゃない、その、大男と、少年の夢?」
「そう、私は乱暴されて、何度も何度も体を強く打ちつけられたわ。生暖かい血が顔を濡らすのを覚えているもの。そして私は、気を失って、でも一度目覚めた時には、少年が」
もう何が何だかわからなかった、混乱して、全ての出来事が一本の線でつながらない、時系列がバラバラだ。
「なにそれ、さてはエッチな夢とかじゃないの?」
「は?」
メルウェルの真剣な表情が一瞬にして崩れた。
「だからソロア。そういうことさらっと言うの、やめてくれない? だいたい、私はまじめな話をしてるの、わからない?」
仕事で疲れているのだろうか。ソロアのギャグセンスまで狂い始めた。
そうメルウェルは思った。
「じゃあいいよ、聞いてあげる、話してみて。思えばメルウェルから男の子の話が聞けるなんて初めてじゃない?」
ソロアはメルウェルの隣に腰を下ろし、完全に聞く体制になる。
(本当に何も起こってないの?)
あれは、あの一連の奇怪な現象全ては。メルウェルの見た幻だったのだろうか。あのくすんだ町に似つかわしくない鮮やかな鮮血や。あの奇抜な少年は夢だったのか。
「大きな男は、なんか人間って風貌じゃなかった。よく覚えてないけど、がたいのいいおじさんで、腕は金属質だった、なんか表面を金属で覆っている状態。そして、私が見たときには肩からばっさり切られてたから、たぶんもう死んでると思う」
「なぁにそれ、メルウェルの夢は血なまぐさいわ。それでも女?」
「………………。それから、少年のほうは。私より年下めで。また、全身真っ黒な衣装、そして両目が赤。」
「なにその奇抜な人たち、夢にしては面白すぎない?」
「だから、夢じゃなくて本当なの! あそこにいたんだってば!」
そこで、ソロアが吹き出して笑い始めた。
「なんか、こんなに疲れたメルウェル初めて見た」
「疲れた?」
何を言っているのかわからない、そうメルウェルは首をひねった
「夢と現実の区別がつかなくなったと思ってる?」
「ねぼけるメルかわいい」
「こんの……」
メルウェルはソロアの太ももをぴしゃりと叩く。するとソロアはぴたりと笑うのをやめた。
「ふうん、他は?」
「少年の名前はリアライズって言うの」
ソロアは少し、思案したあと、苦笑いのような表情をうかべた。
「それはそんなに面白くないかな」
「本当に本人が言ったの。コードネームか通り名って可能性もあるけど」
「それにしてもリアライズって、人につけるような名前じゃない、私たちが使う専門用語だ」
リアライズとはある技術の名前だ。
近代になって取り入れられた魔記技術、万能物質技術の一つの運用方法。自身の頭の中にある情報をもとに、万能物質『魔記』に性質と形を与え。さまざまな物体を瞬時に作り出すことを言う。
メルウェルたちの様な訓練を積んだ人間は、脳内に移植されたデバイスを使い、それをなすことができる。
メルウェルが戦闘時に、自由に武器を作り出して見せたのはこの技術を使ったからだった。
「ねぇ。本当になかったの? 血のあととか、妙に長い腕とか、たくさんの人が見ていたはずよ」
「……逆に訊くけど、本当にあったといえる? それ。私に『迎えにこい』って言った時間から、私が到着するまで、十分ちょっとしか時間がたってない。そんな異常があったら私気がつくはずよ、これでも一応私天使機関の人間ですから」
そうだ、メルウェルもソロアも厳しい訓練を乗り越えてきた世界の治安を任された天使機関の人間だ。何か起きていればその場の空気で気付けるのだ。そもそも、そんな短時間で血痕を消し、長々しい腕と、地面に散らばった男の肉片を処理することはできても、人間の記憶は消せない。
そう、メルウェルが戦闘を始めた時周囲にはたくさんの人間がいたはずだ、なのにその目撃証言もないなら、そんな大勢の記憶なんてどうやって消せるというのか、メルウェルには分からなかった。
「私、そんな。どうしたんだろう」
メルウェルはポツリとつぶやく。
「わからない、疲れてるんじゃない?」
そうなのかもしれないと、メルウェルは額を押さえる。
だって、いままで夢を現実と言い張ってしまうことなんてなかったから。
「だいたい、ホウドウもホウドウよ、こんな仕事ひとつにライフル、ランチャー、軽機関銃。その他各種、メルウェルの秘蔵銃器コレクションを持ってこさせるなんて手間かけさせてさ。どうせ使わないのに」
「秘蔵、とか、面白い風に言わないで」
メルウェルは振り返って机のほうを見る。するとメルウェルが家から持ち出したトランクが、テーブルの上に堂々と乗っていた。
「重くて持ってくるの苦労した」
「というか、あなた一人じゃ、これ持てないでしょ、私より重いんだから。誰が持ってきてくれたの?」
「まぁ、隊長よね、持ち上がりもしなかったもの。きつかったわ、隊長は電話で呼び出したの。途中山道だし、無理なのは目に見えていたから」
「絶対訓練生時代から見て、筋力落ちてるよね、ソロア」
メルウェルはソロアの足を見る。しなやかでつややかなとても女性らしい足がそこにあった。
ソロアはメルウェルより女であることに気を使っている。だからなのか、彼女はメルウェルの目から見ても美しかった。
けれど悲しきかな、メルウェル自身はこれほどまで美しい女性らしい足をしていない。
百メートルも重装備で13秒で駆け抜けるメルウェルの足は、我ながら可愛くないと思っていた。
「たまには、運動したら?」
皮肉というか、イヤミというか、なんとなくいじわるがしたくなってメルウェルはそう声をかけた。
「私は、体よりも脳だから」
「私は……」
そうメルウェルはソファーから跳ね起きる、体のどこにも異常はなかった。ただ少しだるいだけ。たぶん寝すぎたんだろう。
「運動してくるかな」
「もう少し大人しくしてればいいのに」
ソロアがメルウェルの袖を引く。
「そんなわけにはいかない、でしょ?」
メルウェルは周囲を見渡す。ここは応接室のようだった。テーブルにソファーに、家具は一通りあるが装飾品は多いが生活感がない。そして部屋の隅には用途不明の機材が多く置いてある。
「私たちは今仕事中なんだ。私だけが寝ているわけにはいかない」
そう言うとメルウェルは足をそろえ、右腕を肩の高さですぅっと伸ばし、そして素早く胸の前まで引き戻した。
天使機関なりの敬意の表し方だった。
「メルウェル、現時刻を持って原隊復帰します」
それにソロアは呆れた反応を返す。
「いや、べつに休暇から戻ってきただけだけどね」
そう言うとメルウェルに向けて微笑んだ。
「おかえり、メル」
* *