一章 三話
(そうか、人がいないんだ)
まるでゴーストタウン、人は誰もいない。さっきまであふれかえるように人がいたのに。今は普段からは考えられないほどに町は静か。
その光景をみて、胸がざわつくのをメルウェルは感じる。気分がとてもよかったのだ。
先ほどの閉塞感など何もないことに気が付いた。
「うごかない?」
メルウェルはそんな自己分析から我に返る。
腕は先ほどから何の反応も示さなかった恐る恐る腕に近寄る、伸びきったゴムのように力ないそれは、それでも今にも動きそうな不気味さを持っていた。
「それにしても……」
メルウェルは警戒を解いて思案する。
(あの声はなんだったんだろう)
見切りをつけたメルウェルはそっとホルスターに銃を戻しきびすを返す、事件の報告をするつもりでポケットの携帯電話を取り出した。
電話先は自分の上司、事後処理班を呼び、ついでに迎えに来てもらうためだ。メルウェルの荷物はとても重い、楽ができるならしようという魂胆だった。
だが、いくら待ってもその上司は電話に出ない。メルウェルは首をかしげる。
「おかしいな」
そう携帯電話のディスプレイに注がれていた視線を上げると。
すぐ目の前に男が立っていた。
「え?」
一瞬壁と見間違えるくらいの大男が、音も気配もなくそこにいた。
接近された驚きとあいまって、メルウェルの思考が一瞬停止する。
(なに? いや、それよりまず距離をとって、出ないと)
普通の人間が人間に気配を消して近づくことはない。
そして、メルウェルはいっぱしの戦闘訓練を受けている、なのにもかかわらず接近を許した。
二つの情報が、メルウェルの警鐘を、ごんごんと鳴り響かせる。
そこでやっと、体が反応した。
バックステップと拳銃を抜く動作を同時に行う、数十センチを一瞬で後退、しかしその人物はぴたりと動きを合わせてきた。
次の瞬間、さっき見たような黒い手が掬い上げるようにメルウェルの顎をつかみ、そうやって強引に持ち上げられた華奢な体は、強大な加速力を伴ってして地面にたたきつけられる。
ゴキンと身をかがめたくなるほど嫌な音がして、メルウェルの視界が白と黒に明滅した。
握っていたはずの拳銃はいつの間にかはじかれて遠くにとび。
開こうとした口からはかすれた咳だけが漏れた。
「……ぁ、がっ。なにを」
「ふん」
その人物に容赦の二文字はなかった。
メルウェルの体は、まるで紙切れのように空中に放り投げられ。
その腹部に全力の拳が叩き込まれた。
鋼にも似た硬さのこぶしは体にめり込み、男はメルウェルを巻き込むように方向修正。またしてもその体を地面に叩きつけた。
何かがひび割れ削れる音がメルウェルの脳に突き刺さる、砕けたのは背骨か、頭蓋骨か。
息がうまくできない、空気を取り入れようとすると、膨らんだ肺に何かが刺さるように強烈に痛むのだ。だから浅い呼吸をひたすら繰り返すしかなかった。
「あうっ……」
男はいつの間にか膝をつきメルウェルの喉を掴んでいた。血が流れるほど食いこんだ指先、あまり嗅ぎなれない甘い匂いが鼻腔をついた。
体が宙に浮く。高く上げられて、せめてつま先でも地面につけばと伸ばしてみても地面につかない、意識ばかりが遠のいていく。
「あんな苦痛を味わったのは久しぶりだったぞ! 娘」
ぎらつく二つの目、野蛮で粗雑な顔のつくり、男の金属質な手が万力のように少女の細い首を締め上げる。
(こんなところで……)
その瞬間、明滅するばかりだった視界に、ひとつの文字列が浮かび上がる。
(死ねないのに……)
それはあまりに無二簡素な数文字、だがそれは本来見えるはずのない文字。
開放 是? 否?
(そんな、無理だ。私は……。いやだ)
選択を渋った結果、時間切れとばかりに文字はぼろぼろと崩れ始める。
「こん……な、もんに。頼んなくたって、あぁぁぁぁぁぁ」
構成物質を選択、鉄、強化プラスチック。タングステン、スチール、黄銅。もはやなんでもいい。それを鋭く研ぎ澄まし。ナイフをイメージした。
メルウェルのこめかみから光が発せられる。
それが、無数の結晶となって周囲に展開されていく。
だがそれは何物にもなれず、重力に引かれ、砕け、転がり、銀糸となって蒸発する。
それを繰り返し、目もいたくなるような銀光の渦の中、少女は抵抗を続ける。
「まだあきらめていないのか、面白い!」
男のあいていた左手が、獣の牙のようなぎらつきをもってメルウェルに向けられる。
「ぁぁぁぁぁぁあぁぁぁっぁああああああああああああああ!」
「助けてやろうか? おじょうさま?」
不思議な感覚だった。
声がしたのだ、小さく、しかしはっきりな音で。
そしてそれは耳元で聞こえたような気もしたし。
脳内から響いたようにも感じられた。
「え?」
次の瞬間、一瞬気絶したのだろう。いつの間にかメルウェルの体は地面に横たえられていた。
やがてメルウェルの焦点が定まり、視界がクリアになる、周囲の状況を感じ取れるようになってきた。
すると見るものがある。
メルウェルに背を向け立つ小さな背中。
ひょっとしたらメルウェルより小さいのではないかと感じられる、少年の背中がそこにあった。
「なにを……っ」
言葉を口にしようとした瞬間。
肺が痙攣する、新鮮な空気を求めるが、うまく空気を運べず半ばパニックに陥ったのだ。
「っが。かはっ…………」
メルウェルはその少年を凝視する。
黒いマントで全身を覆う髪からつま先まで真っ黒の少年は振り返り、そして言った。
「なんだその目……今は取りあえず息だけしてりゃいい、そうすりゃ助かってる。簡単だろ?」
その横顔は幼さを残していて、メルウェルより幼く見える。なのにその両目は鋭さや抜け目なさを感じさせる、そして不思議なことに赤い。
「そんな、こと……認められない」
「あ?」
どすの利いた声だった、それを気にせずメルウェルは立ち上がろうともがく。
「私は天使機関の人間だ、下がって、一般人」
「口のへらねぇ」
そうはき捨てるように言うと少年は男に向き直った。
そう、そうだ。
男がいた、メルウェルに攻撃を仕掛けてきた男は今や虫の息で、膝を立て屈んでいる。
見れば男の右手は肩の辺りからばっさりと斜めに切断されていて。切り落とされた彼の腕、彼の破片は道端に無造作に転がされていた。鮮やかな鮮血が灰色の地面を彩っている。
(何が起きたの?)
メルウェルの目がその惨状に釘付けになる。
「お前! よくも」
男が額に汗を浮かばせながら言った。
「わりぃ。侮った。首から反対の腰までばっさりやるつもりだったんだが。避けるからさ。まぁどっちにしてもその傷じゃ、鬼籍に入るのも近そうだな」
黒衣の男は息を荒げ少年を見ている。
「あなた、いったいどうやって」
「真正面から切っただけだ。上から落ちて、地面をけって、切り捨てた。単純なことだろ」
メルウェルは上を見る。
(上って、天使像の頭頂部から落ちてきたってことなの?)
あたりにクッションになりそうなものは何もない。
百メートルは優に超える高さから何の補助もなく飛び降りたというのだろうか、この少年は。
「あなた何者?」
「気になるか?」
少年は黒い布を脱ぎ捨てる。特徴的な服装だった。
筋肉のラインすら浮き出る薄い布のシャツ、その上に弾丸すら防げそうなほどごついジャケット、それはどちらも黒で。下半身はタイトな半パン、腰布が巻かれ、赤と青のラインが鮮やかな色どりを添えている。
「死神とでも名乗ろうか? 別に間違っちゃいねぇしな」
そう、静かに告げた少年。
「そんな、バカみたいな冗談真に受けるわけないでしょ、あんたは、単なる人殺しだ」
メルウェルが何とか搾り出したその声が少年の意識を向けた。
その言葉が気に入らなかったのか、首だけブリキ人形の関節のようにぎこちなく回し、そして。
冷たい両目でメルウェルを捉えた。
「おめでたいやつだ」
その瞬間、メルウェルの脇に降り立った少年、片ひざをついてまるでメルウェルの頬に口付けするかのような姿勢をとる。
目と目が、目と鼻の先くらいの近さで会う。
血を失い冷たくなったはずの頬が、焼けるような熱を持つのをメルウェルは感じた。
「……ネテロ」
「えっ」
メルウェルはうわづった声を出す。
次の瞬間、するっどい衝撃を腹部に感じた。痛みはない。しかし。
面白いくらいすとんと、メルウェルは意識を失った。
* *