それでも世界を信頼していられない僕の弱さ
レムとかディックとかに影響されて書き殴ったもの。
小説として未熟なのは自覚しているが、その未熟さが何らかの前衛性と結びつけば、と考えた。
おもしろければ、もっけの幸い。
「異者は超越者であったり、おぞましい(アブジェクトな)ものであったりする。一方、他者はむしろありふれた存在である。たしかに、他者も異者も、私にとって異質な存在である。異者と他者の違いは他者が単独性において見られているのに対して、異者が一般性(類型)において見られていることである。怪物、鬼畜、でぶ、ちび、奇形、外人、毛唐――。異形なるもの、異様なるものが、そういわれるのと逆に奇妙なまでに類型的であることに注意すべきである。たとえば、サイエンス・フィクションでE・Tとかエイリアンとか呼ばれるものは、所詮爬虫類や昆虫の変様でしかない。ところが他者はその単独性においてそれぞれユニークであり、多様である。E・Tであろうと、その者を他者として知るときは、その類型(一般)的外見は消えてしまう。同時に、その者は何によっても取り替えられない単独性として外在する。逆に言えば、異者の「異質性」は他者の他者性を消す機能をはたすのである。すなわち、この異質性は他者の異質性(外在性)を消すのだ。」
(柄谷行人『探究Ⅱ』より)
一、
何度目だろう、「あの時が律子との最初の出会い(ファースト・コンタクト)だった」と僕が記憶を辿り、述懐しはじめると、必ず僕の横で律子が「それは違うわ」と口を挟み始める。
「私達は何度も繰り返し、出会っているのよ。あなたの過去にだって、私は偏在してきたわ。」
「しかし、それは君との最初の出会いから、遡行して作られた歴史なのだから、結局は時間は真直ぐ進んでいるし、それも偽史に過ぎないんだろう。」と、僕は律子に再び確認する。
「あなた達の考える直線的な時間とは結局、意識の流れなのよ。本来の時間そのものではないわ。」
最初僕にとってはとんちんかんだった律子の答えも何度目か以降になると、僕もようやく理解しはじめる。人は全ての状況、情報を完全に意識して、記憶して、時間を生きる事はできない。意識や時間には地の部分と浮き上がってきている部分がある。例えば、写真と人間の視覚の違い。両者は同じあるいは似姿だと思われている。しかし、実際は写真の登場以降に、人間の視覚が写真のようなものだと考えられたに過ぎない。事実として人間の視野は写真ほど、くっきり隅々まで視覚を映し出さない。むしろ人間のそれは印象派の絵画の様態に近い。それ故、むしろ写真は明瞭でありすぎると言う点で一つの異常な視野なのである。そして、何より写真はまったくの一瞬の静止態なのである。そこには人間の移りゆく、ぎこちない、一定しない視覚は存在していない。そう考えると、人間は散漫な意識と曖昧な記憶を頼りに、実は断片的な生を生きている事が分かる。そもそも記憶とは何だろうか? その大部分は普段は無意識に沈み、思い出そうとしてその記憶を辿る時に遡行的に再構成される、非常に曖昧なものだ。むしろそれは忘却を本質とする。全ての過去は今、把持されている今現在に再構成された過去である。それらは意識され、そして反復される。そうすると、直線的な矢印で示される時間は意識によってなめされ、均質にされた、近代的産物に他ならない。あるのは、ただ、一瞬一瞬の現在だけなのだ。直線的な矢印をずっと拡大していくと、一つ一つのインクの点になるように。実は直線的な矢印の時間は一瞬の点を抑圧する事で成り立つのである。律子が言いたいのは要は以上のような事なのだろう。
「もしも、そうだとすると、直線の矢印のような時間は存在しなくなるわ。向きが無ければ、従来の時間は通用しないのだから。だから、あなた方の言う、科学の進歩なんてものは私達にはもはや理解不能になった概念に過ぎない。私達とあなた達は随分違ってしまっている。それでも私とあなたの関係は成り立つのかしらね。」
僕は答えない。律子に律子の時間性があるように、僕にも僕の時間性があり、それに応じた倫理性があるのだ。律子がどうして地球に飛来したのかはわからない。何故飛来したのかすらわからない。いつ飛来したのかすらわからない。
しかし、これはきっと僕と律子が出会い、別れ、そして再び出会っていくための物語だ。僕が律子の呪縛から逃れ自由になるためのものであり、そして同時に律子を肯定し、愛し続けるための物語なのだ。
これが物語というからには、そこには何らかの時間性が存在する。物語にははじまりがあり、終わりがある。それは僕の意識、僕の時空だ。それらは時に壊乱し、今にもあちこち野放図に飛びまわってしまう。はたまた、ある種の時制に拘束されざるを得ず、むしろ無時間的になってしまう。
困難の中で僕は懸命に語るつもりだ。僕に唯一できる事はアナクロと呼ばれようと、古い倫理性の中から、新しい世代をある種の憐れみをもって眺める事だけだ。倫理的でありたいと願う態度こそが倫理的だと僕は考えない。外部の格率に従う事だけが倫理的なのだ。しかし、それでも。僕にはわからない。
とにかく、僕は語りはじめる。語りはじめれば、それは最後だ。そこから出来事は再び観測され、再構成される。もう二度と、生の記憶には会えない。それでも、僕は繰り返し、思い起こし、語り続ける。真実の記憶から離れ続けざるを得ないとしても、僕は語るのをやめない。僕と律子の出会いの、そして再会の物語を。結局、勇気をもってその物語を反復し続ける事が僕の倫理、と言う事になるのかもしれない。しかし、それは語り終わるまではわからない事なのだろう。
二、
きっと、あれが律子との最初の出会い、と言う事になるのだろうと思う。――何しろ、この頃の僕の記憶の時制は随分混乱してしまっているので。これは僕の直感に過ぎない。しかし、きっと、正しいだろう。律子に侵されていない、まだ古い記憶の一つであるからだ。僕は書店で文庫の『悲劇の誕生』を買い、しかし、お釣りを受け取る際、ぶっきらぼうに手を出して、小銭を落としたのだ。それは今思い出しても、みっともない仕草だった。なにしろ僕はまだ高校生だったし。その頃の僕はと言えば、学ランの袖はほつれているし、髪は面倒がって手入れしないのでぼさぼさだった。僕は当時あまり自意識にかまけないのが男らしいと考えていて、しかしそのくせ鏡をこっそり一人でよく見ている類の男だった。それでも、その頃の僕を律子が思い起こすたび、「とってもそれらしかった」と言うのを思い出す。律子は僕がまるで青臭くって、誠実であろうとするが故に、誰もを遠ざけ、生き急いでいるように見えたのだそうだ。要は僕はまだ若かったのだ。それだけの事だ。それ以外の価値判断は冗長なだけだ。そう言う風に、誰かから、特に律子のような人から当時のみっともない僕を肯定されると、僕としても当時には悪い思い出しかないけれど、なんだか過去の自分が救われたような気はする。また、異星人とは言え、当時23歳だった律子が僕にセクシャルな魅力を感じたと言うのも、僕の高校時代の自惚れの一つになっていると言うのも事実だ。
とにかく僕は、十八円ほどの小銭をちゃりちゃり言わして落とし、まだ書店のレジに並んでいた数人から顰蹙を買った。こういう時間は気まずいものである。何しろ、一円玉を拾うのは薄くて面倒だし、かと言って拾わないのが豪気と言うわけでもないだろう。一円拾うのに一円以上のエネルギーを消費すると言うのは有名な話である。とにかく早くしなければ、レジに並んでいる人に迷惑をかける。その迷惑がわかるから高校生の僕の柔らかな絹のように繊細な自意識は泡立ち、手はすべる。結果、僕は転がる一円玉を追って、しばらくおろおろしていたのである。
その時、転がる一円玉をはっしととめ、まるでそのもののの価値やそれに付随する自意識など全く関係ないみたいに、しゃがんで丁寧にそれを拾い、僕の手のひらの上にまるでそれが何かのつまみみたいに、それでいて優雅な仕草で、ちょこんとのせてくれたのが、律子だった。その時の律子はぴったりとしたスーツの上に冬らしく上着を着こみ、えんじのマフラーを巻いて、いかにも帰宅途中のOLといった恰好だった。律子はそつなくそれらを着こなしており、かと言ってお高くとまっておらず、つまり僕なんかは手も足もでない有様だった。
僕は綺麗な人だなと見とれると同時に、素直にこの人の親切に感謝した。律子はおろおろする僕を笑わなかった。親切に、まるで一円玉の価値なんて知らないみたいに、律子は振舞ってくれたのだ。そこには一種の諦観があるような気がした。
「ありがとうございます。」
「いえ。」
僕らの会話はそこで終わった。僕はいそいそと買った本を持って、レジを去った。レジの列はようやっと動きはじめた。律子はどうも僕より先にレジを済ませていた客らしかった。律子は用がすむとさっさと本屋を出て行こうとした。しかし、僕はここで律子とこのまま一度きりでそのまま別れるのは残念でならなかった。かと言って、声をかける勇気は無い。何しろ僕はまだ高校生だったのだ。恋愛沙汰には平均以上に億手だった。
そこでどうしたかと言うと、本屋を出る律子を僕はつけたのだ。尾行するなんて、子供っぽい所作だと思うかもしれないが、当時の僕としてはそれは精一杯の努力だった。それほど、僕はこの時律子に何やら抵抗し難い魅力を感じ、引き込まれはじめていた。律子は有りていに言って美人だった。すっと、眼鼻すじがとおっていて、やわらかい唇はグロスに塗られ、僕を誘うように「いえ」と動いた。それだけの仕草が僕の中に忘れ難いものとして残った。律子の一円玉をそっとのせた時の手のひらに残る、柔らかい指の先の感触は、高校生の僕をして必要最低限以上の接触によるエロティシズム――何より、律子がそれをさほどのためらいもなしにやってのけた事による親近感――を感じるに十分だった。何よりそれが一円ではあるが金銭であると言う事実が僕を興奮させた。金銭は人間社会の中である種の価値の可能な様態であろう。そこにはある種の円環が宿っている。それらは人間の間で共有され、占有され、ともに蕩尽される。それ故、それらは円環を形どっているのだ。僕は金銭の価値にあまりフェティッシュを感じる性質では無かったが、それが上品に扱われた事に興奮していた。それらは余りに上品にそれでいて生々しく、僕の前に立ち現れたのだ。
律子は本屋を出て、そのまま駅前のバス停に向い、僕が尾行しているのも全く気付かない様子でブザーを鳴らして停車したバスに乗った。僕も慌ててそのバスに飛び乗り、息せき切って、律子の視線をさけて、右斜め後ろの空いた席におさまった。僕は律子の前を一度横切る事になったわけだが、律子はそれでも全く気付かない様子だった。律子はどんどん町の中心部から離れていった。律子はバスに乗っておかまいなしに長距離を進んでいった。言い訳させてもらえば、それはぼくの帰る方向と一緒だったのだ。それに僕にはきちんと御礼を言うという理由があった。そうやって僕はともすれば逃げ腰になりがちな自分を納得させる。とにかくどこかで僕と彼女は方向が分かれるだろう、そこまでは追いかけてみようと僕は思った。僕が住んでいる町は典型的な西日本の一中小都市と言った様子で、ほとんど都会部の発展からは取り残されていたが、しかしそれでもそれなりに開けており、郊外にもベッドタウンを形成していた。この町は近くに海上自衛隊の基地がある元軍港である事以外は何の変哲もなかった。駅前にはちゃんと大型書店とショッピングモールが並び、自己完結したホメオスタシスを形成していた。そこで人々は塵埃にまみれながら、つまらない一般化された価値観を追いかけながら、死んでいくように僕には見えた。はっきり言えば僕はこの町が嫌いでならなかったのだ、当時。今はさほどではないけれど、それはノスタルジックに糊塗された記憶なのだろう。僕は事象を憎む事にかけても青年期特有の没入をしていたのだった。僕は当時、その町の周辺部にあるベッドタウンに住んでいた。交通手段はバスしかなく、山間に築かれた町だったが、ここには人が住んでいる以外何もなかった。それはほとんど殺伐とした場所であった。僕はいつもここがいっそ田んぼしかないド田舎だったら、封建制度なり何なりとの対決と都会部へ出ると言う立身出世が絡んでわかりやすいのにと考えていた。我が故郷は鵺のように、高校生の矮小な僕をがんじがらめにしていた。
バスはやがてその中央部からベッドタウンのあたりに差し掛かっていった。律子は窓の外のつまらない景色を所在無げに眺めていた。次のバス停で律子は降りた。僕はどうするか迷った挙句、やはり律子を追って追いかけていった。ベットタウンにしても、更に開けていない場所に律子はどんどん入り込んでいった。あたりは低い高度の雲がたれこみはじめ、うす暗くなりはじめていた。それは辺りを必要以上に暗くし、夕闇がほどなく訪れようとしていた。ほとんど山すそと言って良いほど高度の少し開けた原っぱに出た時、律子ははた、と立ちどまった。僕は横道の草むらに必死で隠れた。自分がこの年にもなって何故こんな事をしているのか不思議でならなかった。それでも僕はその行為を抵抗し難く感じ、そしてそれに従っていた。僕は何となくだが、この時既に自分がそう言うものに遭遇する未来を予知していたのかもしれなかった。それほど、ある種の事実が符合しはじめていた。人間の言うある種の運命とは過去未来の事象が特殊な意味論関係で結ばれている事を指す。本来事象は無意味であるが、人間が見出す事において、意味を与えられる。そして、この際、律子と言う事象の意味は僕の中で特権的なものに変わって行ったのである。そう、僕は出会って数十分にして律子に惚れはじめていたのだ。そうして、律子は周りを見まわして、誰もいない事を確認しているようだった。僕はいよいよつけてきた事がばれたのだろうかと考えた。
しかし、律子自身は一向に僕に気づかない様子で、なにやらペンライトのようなものを空に向って振りはじめた。それはまるで何か空から来るものに交信しているようだった。それは頭のおかしい人間のする所作のように見えた事だろう。事実、そうであるから、律子は人目を気にしてそれを行っているのだ。しかし、その一心不乱な様子は高校生の僕を説得するのに十分であり、僕は律子の行為に没入した表情にくぎ付けになった。何なら、何かしらその行為を手伝ってやりたいくらいだった。暫くして彼女はほおうっと深いため息をついて、ペンライトを空に向って振るのをやめた。辺りは徐々に暗くなっていき、街灯がちらほらと付きはじめた。十分ほど経っただろうか、再び律子はその行為に取りかかりはじめる。律子は何かの到来を熱心に待望していた。それはやがて僕の願望にもなりはじめた。ある種の異常の到来。自分の存在や努力を意味づける、超越的なものの到来。僕は律子と僕は明かに特別であり、出会うべくして出会ったと考えはじめた。相手はそれをもう忘れているかもしれないのに。何故だか、それがわかっていたような気がする。僕は草むらの中で蚊にあちこち喰われながら、その到来を待った。
事象は起こるべくして起こった。それを始め僕は飛行機だと思った。そのかちかちと明滅する信号の光を送る物体が西の山すそから飛来するのを認めたのは、僕と律子ほとんど同時だったと思う。二人とも肌を上気させていた。律子にしても、不安になったり疑念を抱いたりする数刻だったのだろう。しかし、それは今やはっきりと証明された。それはどんどん近付いてきた。僕がそれは飛行機ではないと認識を改めるまで、時間はかからなかった。それはごおっと言う大きな音と共に目の前まで近づいて来、ある種の上昇気流のようなものを僕は感じた。そして、眼の前に大きな、人類のものではない飛行機械がゆっくり、周りの草木を捻じ曲げながら、着陸しているのを僕は見とめた。
途端に僕は物影から既に立ち上がっていた。物凄い音と光が僕を包んでいる。圧倒されないようにするのが精一杯だ。律子はその瞬間、振り返り、僕の存在に気付いた。それは律子にとっても想定外の事だったのだろう。驚愕の表情で、何か口早に叫ぶ律子が僕の肩をつかんだ。しかし、僕はもうそんな事など気にしていなかった。これを見るべくして、これに感応すべくして、僕はここにいるのだった。律子が僕の目の前に顔を突き合わせた。やっと彼女の声が聞きとれるまでの距離になった。
「何故、ついて来たの!」
そこで記憶はぷっつり途絶えている。
三、
「成程。しかし、その記憶ははっきりと、確実なものと言えるのかね?」
精神分析科医・伊藤泰海氏は僕にそう尋ねた。彼は眼鏡をかけた、色黒の洗練された、四十半ばの比較的ハンサムと言える医師であり、大体常識人であると言えた。彼はその長身痩躯を丁寧に折り曲げて、上品に構成された病室の黒椅子に収まっていた。彼の意見は現実的でなおかつ革新的であり、その所作は精神の健康の混乱に陥ったものに、冷静にかつ迅速に対応している名医であるように思えた。
突如としてUFO体験を語りはじめた、僕に対しても、彼の反応は常識の範囲を出る物ではなかったし、しかし同時に決して患者を馬鹿にするような事もなかったのである。
「さて、どうなんでしょう? 僕は今ここにおいては、自分の事を正気だと思っているし、意識もはっきりしているつもりですが、過去においてそうであるかは正直自信は無い。僕の精神はもう、自分で言うのもなんですが、大分参ってしまってますからね。これだけの多重の偽記憶を経験した後では、おおよそ、自分の記憶に自信なんて持っていられないものなのです。何かとんでもない事を忘れていて、それでそんな事に全く良心の呵責も感じずに、自分が平気な顔で毎日送っているような気がしてくるんです。果たして現実と虚妄の区別をそんなにはっきりつけられるものなのでしょうか?」
伊藤氏は僕に随分同情を寄せているように見えた。職務規定上、侵すべからず領域を侵しても、伊藤氏は僕に親近感を覚えているようだった。事実、僕にさえ伊藤泰海と僕は似ている様な気がしていた。それは精神分析科医として危険な事であるはずだった。伊藤氏は僕にまるで自分の秘密を打ち明けるようにして、ゆっくり背もたれを離れて語りはじめた。それは以下のような事であった。
「現実の再吟味と言う概念がある。この、今の、私が本当かどうかを確かめるために、以前確実だった事を反復するんだ。例えば数学法則。どんな私であっても、数学法則は普遍的な事実だろう? それが反復可能であれば、私は正気。間違ったり、あり得ない結果を示したりすれば、それは現実が見失われている証なのだ。つまり、現実とは、ある種の再現前可能性であり、同一性の事なのだろう。それが保たれている限りは、そこには現実性があるのだ。もしも、過去の記憶が曖昧になるのであれば、こうやって、自分が現実を吟味したと言う事実を埋め込んでおくのだ。それを後から確認してみれば、それが事実か分かる。君の見たUFO飛来が事実かどうかだって? 残念ながら、それを確認する術は私には無いね。私は存外、科学的立証可能性がある限り、あらゆる可能性を否定しないのが、科学の正しい在り方だと思っている男でね。」
伊藤氏はそう言って、僕に数学の証明の一つである、ゲーデルの不完全性定理を教えてくれた。困った時にはこれを再び、証明しようとしてみれば良いのだ。これで自分が正気かどうか判別できる。彼は「これは少し難しいかもしれないが、とても面白い定理なのだ。ぎりぎり高校生にも理解できるレベルなので、覚えておくといい。」と言って、笑った。僕はせいぜい不得意な科目である数学の法則を不機嫌になりながら、暗記しようと努力した。
伊藤氏は僕に精一杯の好意を示してくれたように思う。しかしそれでも、僕はこのコンタクトにいつも不満であった。僕はいつの事からか分からないが、徐々に、あの出来事から、精神を乱しはじめていた。僕は静かに一人で狂っていっていた。僕は高校生にして、ある種の神経症的な過敏さと静けさを持った人間に成りはじめていた。ある人はそれは僕が家族を失ってしまっているからであると言って、同情の目で見てくれた。そして、それは僕にとってもある種正確な事実と言って良いように思えた。しかし、あの律子との出来事が僕の脳裏にどうしてもひっかかってしまっていた。何かが起ころうとしているような気がしていた。そして、僕は何か大事な事を忘れてしまっているような気がしていた。
僕はほとんど闇雲に自身の精神不安と戦った。最初、それを僕は鬱か何かだと勘違いしていた。しかし、それは決定的に違っていた。僕はろくに自分の症状を説明できなかった。そうして、時に自閉症的になり、人を疑い、恨んだ。相変わらず僕は自分の精神不安にさいなまれ、ほとんど居てもたってもいられない様子になっているのに、伊藤氏は冷静だった。そして、僕は彼の態度にいらだった。しかし、甲斐の無い問答を繰り返してもしょうがなかった。僕は僕のそのいら立ちが伊藤氏の医者としてのミスなのか、それとも僕の精神不安定のおかげなのかよく分からなかった。僕はやがて、彼の執務室を出た。
待合室には何やら一般的に人は落ち着くのだろう、ちょろちょろという水の音の入り混じったBGMが流れていた。しかし、それは僕をむしろいらだたせた。僕としては何としてもこんな一般療法にかかって、おざなりに治ってやるかというやけっぱちな感情に支配されていた。しかし、そんな感情に支配されているのも、今だけだった。この律子に関する記憶が確実に僕の病状に関わっているのは確実だった。それでも僕は手がかりを掴んでいいたのだった。
心療科の出口を出た後、突如として僕はフラッシュバックのように、その出来事のそれからの記憶の一部を思い出し始めたのである。
それは律子との再会の約束だった。彼女は僕にあの出来事を黙っているように言い(しかし、もう僕はUFO目撃を伊藤氏に喋ってしまっていたが)、そして、また会う必要があると彼女は言って、場所と時間を指定したのだった。「Y山公園、○月×日△時……」、律子はそう囁いた。そして、それは丁度今日だった。またしても、不思議に符合していたのである。しかし、僕はまだ忘れている様な気がしていた。何か重要な事を。僕は自分の記憶を疑う事をやめられそうになかった。記憶は全て甦ったわけではなかった。とにかく、失われた記憶を確かめに、回収するために、僕は律子と会う必要があるように思えた。
Y山公園に来ると、律子はもう来ていた。律子は全く僕の思い出した通りであった。律子は例のごとく、暖かそうな恰好をして、ブランコに座っていたのである。
「遅いよ。」と律子は言った。
僕は息せき切って、叫んだ。
「あなたは一体、何なんです? あのUFOは一体なんなのです?」
律子はほうっとため息をついた。ここまで来ては仕方ないと言う風だった。
「あなたには知る義務と理由があるようね。説明しましょう。私達はお察しの通り、あなた方の言う地球外生命体です。この銀河とは隣りの銀河から来ました。いえ、正確に言えば、この女性――あなたが律子と呼んでいるこの女性は地球の人ですが、私達自体は、この方の脳に緻密に入りこんでいる存在です。我々はこの地球の生命体である、あなた方の脳に取りつき、徐々に入れ替わる寄生生物なのです。」
「じゃあ、これは人類とのファースト・コンタクトと言う事になるのですか?」
「私達はそもそもあなた達と全く異なる時間概念を持っているので、正確にファーストコンタクトとは言えないかもしれない。」
「どういう事です?」
「例えば、あなた方は往々にして、第一に異星人を地球への侵略者だと捉えがちです。それはさほど間違いと言うわけでもない。(確かに侵略と帝国主義は生物ならば通底している基本事項です。他者をそのような敵対物として扱うのはあながち間違いではない。)しかし、ともかく、我々の目的はあなた方の考える様な侵略ではない。そして、第二にあなた方は異星人を超越者として、神や宇宙の意志として理解する。これほど、滑稽な誤解もないでしょう。他者はそのような大いなる他者ではなく、ただの個人の、主体の入れ代わりとしての、等価の他者に過ぎないのだから。あなた方の想定する、このような異星人はいつも説教をするわけ。冷戦の回避、戦争の中断、はたまた、地球環境保護……。彼らは超越者として、地球人を空から見守り、その〈パラダイム・シフト〉を見届ける存在だとか解釈する。彼らはともすれば、人類の文化だけは、彼らにはあり得ない文明の可能性であるとして称揚さえするのです。ここまで来ると、人類の他者への理解の無さは滑稽を通り過ぎて、哀れね。」
「あなたは何が目的でここに現れたんですか?」
「あなた方の想定する、あらゆる目的と違うものでしょう。とにかく、これはあなた方の想定する、あらゆる形のファースト・コンタクトと違うの。あなた方は我々に想定できる、あらゆる他者以上のものよ。」
「個体と言う概念はあるのですか?」
「個と言う概念は存在します。ただ、主体を構成する時間概念が決定的に違うだけ。」
「時間概念が決定的に違うって、一体どう違うのですか?」
「例えば、あなたは今、これをファース・コンタクトと考えたわけだけど、私達の時間概念と根本的に異なっている以上、これが初めてのものではないと言える。そして、あなた方は我々とのコンタクトを人類全体の成長へと解釈したわけだけど、――例えば『幼年期の終わり』と言う言説――、それは果たして時間概念が異なる以上は、成熟や進歩と言った概念が通用するのかしら? 例えば、思い出してみて、私と本屋以前に会ったような気がしない? そう、以前にも私達は会っているのよ。それは出会いから遡行して作りだされた歴史なの。つまり一度出会ってしまった以上、もうそれははじめて出会った事にはならない。そして、繰り返し、出会い続けるのよ。」
全く僕には眉つばの話だった。まだ、僕には律子が異星人と言う事さえ、信用ならなかった。僕が見たUFOなどは、悪い冗談か、何かの撮影のような気がしはじめていた。しかし、眼の前にいる律子は紛れもなく現実の存在だった。律子は何か冗談を言っている風でもなかった。全く真剣な顔をして、異星人だの、時間概念だのの話をしているのだった。
「協力してほしい事があるの。」と、律子は言った。
「なんです?」
それは僕には抗いがたい要求に感じた。否応なしに、好むと好まざるとに関わらず、僕はこの件に巻き込まれ始めていた。
「匿ってほしいの、あなたの家に。私達は今、あらゆる組織に追われているのよ。だから、地球人の協力者を必要としているのよ。」
「狙われているって、一体誰にですか?」
「この国のスパイ組織・内閣情報調査室、それにCIAに。今も彼らは私達を監視している。それに私達の存在を解明するために、一般に秘匿し、監禁しようとしているのよ。」
それは全く病人の誇大妄想のような事態だった。エイリアンとCIAに内閣情報調査室。普通の神経なら僕はそれを歯牙にもかけなかっただろう。しかし、その時、僕は病人だった。もしくは、全ては僕の病気から来る虚妄に過ぎないのかも知れなかった。
律子はそっと僕の近くに寄って来、公園の脇の黒い車を示した。それは確かに何らかの組織の車のように見えた。しかし、いくらなんでもそんなスパイ映画のような事態は近くに自衛隊の基地のあるこの町でも、いかにも信用のおけないものであった。
「私達の仲間は一度、この町の自衛隊に捕縛されていたの。彼らは秘かに私達を実験しようとしているのよ。」
そう言って、律子は僕の手をとって走りはじめた。彼女は「追手をまくのよ」と言って、タクシーを呼びとめた。走りはじめたタクシーの中でシートに身を沈めながら、これは一体何の茶番だろうと僕は考えていた。本当に彼女が言っている事は事実なのだろうか? それとも二人の神経症者が騒いで、周囲に迷惑をかけているだけなのだろうか。車は律子の指示で何度も右折左折を繰り返していた。ブラフをまいているのだろう。僕の家から遠ざかったり近付いたりした。僕は大人しく彼女の言われるままになっていた。
何より僕は気分が物凄く悪かったのだ。またしても僕は神経症的な落ち込みの中に絡め取られようとしていた。僕の神経は高ぶり、僕の時間は急速にその体感時間を早めた。神経症に更に車酔いも相まって、僕はほとんど吐きそうになっていた。しかし、律子にとっては車で移動するにはこの町はいい所だった。何より、対向車が少ないし、人も録に歩いていないからだ。僕にとってのこの何の変哲もなく、ほとんど意味論的に不毛なこの世界は、徐々に意味深な沈黙へ姿を変えつつあった。僕は自分の興奮と抑鬱が進むにつれ、段々自分が律子の話を信用しつつある事に気付いた。UFOに異星人! CIAに内閣調査室、自衛隊! この町もなかなかに楽しいではないか、解釈次第では。それでいて、僕は事態をアイロニカルに見る事も忘れなかった。全ては狂人の妄想かもしれないのだ。真実が分からないにしろ、僕は全てを知っている風な顔つきで、自分の考えを相対化し続けていた。僕は異常な興奮と悪寒の中で下半身に異様なだるさを覚えながら、シートの中で小刻みに身を揺らしていたのだ。
律子は「やっと巻いたようね」と意味深に言い、そして、ようやっと、素直に僕の家へ向いはじめた。僕は母と姉の死後、一人で一軒屋に住んでいた。それで不自由も無かった。僕は自分の世話は最低限自分でできたのだ。
「本当に僕の家に来るつもりなんですか?」
「いけない? これは私達にとっても重要なコンタクトなのよ。私はあなたの事をもっと詳しく知りたいの。」
そう言って、律子はにっこりと笑った。僕としては最初から律子に惚れていた以上、嫌なはずがなかった。そこにはある種のコンタクトが既に生じはじめていた。この他者理解が恋愛関係に反転していくとすれば、実にそれは僕に都合の良い性的妄想に酷似していた。しかし、同時に僕は彼女が異星人であり、我々の理屈で動いてくれるはずのない事も理解していた。律子は危険な存在だった。あり得ないほど魅力的であると同時に、彼女が色仕掛けで僕を利用している可能性も考えざるを得なかった。
しかし、その心配は結局、無用だったのだ。タクシーがゆっくり僕の家の方角へすべりはじめたのを僕が感じた次の瞬間、僕はすごい力で自分の体が前の席のシートに叩きつけられるのを感じた。追突されたのだ。どうやら、律子は何者かの尾行をまくのに失敗したらしい。そして次の瞬間、今度はよこから別の黒い車が横付けに車にぶつかってきた。タクシーはひどい具合に揺れ、運転手は悲鳴を挙げた。窓ガラスが叩き割られ、僕は必死で伏せ、ガラス片をよけるので精一杯だった。なんとか僕は律子をかばった。僕ははっきりとこの女性を好きになりはじめていたのだった。僕は律子に叫んだ。
「車を出て、徒歩で逃げましょう。」
しかし、その考えはすぐにどうにもならない事が僕に分かった。無理矢理停止させられた僕達のタクシーは完全に包囲されていた。どう考えてもプロの腕にはかなわず、瞬間的に僕らは銃を突きつけられ、ホールドアップされていた。僕達は車から引きずりだされた。完全に中古車と化したタクシーの周りには、黒いスーツを着た男たちが囲んでおり、あからさまにこの郊外にそぐわない風景だった。考えてみれば、僕と律子の二次的な接触は彼らにとって危険で目立つ行為であり、とっくに発見されていたのだった。僕は即座に律子から引き離された。高校生の僕には全く抗いがたい力と技術で、彼らは僕に強制した。彼女が何やら多数の黒いスーツを着た男たちに拘束されるのが見えた。彼女は拘束される一瞬、僕に「助けて」と叫んだようだった。彼女にとっては異国の地から来て、ここは僕以外、頼る人のいないはずだった。それは僕に憐れを感じさせるのに十分だった。僕は彼女を助けにいかなくてはならないのかもしれなかった。しかし、次の瞬間、僕も隊員に腹を殴られ、意識主体が混迷の中に消えゆくのを理解した。
僕はまたしてもこれが現実かどうか、判断がつかなかった。気付けば僕だけ、自分の家に転がされていたのだった。どうも僕達を襲った隊員たちは全ての証拠を抹消していったらしい。僕が目を覚ました時、僕のじわりと痛む腹以外は何ら、確かな証拠の無い気がした。もしもあのカーチェイスが本当であったならば、僕はそれを虚妄と疑ってしまっている、取り返しのつかない男と言う事になる。しかし、そんな冒険活劇、宇宙人との接触などと言うSF的事実は容易には信じがたかった。とりあえず、僕はゲーデルの不完全性定理の証明を試みる事にした。証明はよく理解できた。むしろ新しい発見すらあるようだった。美しい証明だった。表象は再現前化に成功した。とにかく、今ここにおいての正気は確立できたわけだ。しかし、過去においての、正気は相変わらず僕にとって証明できないものだった。そうして、またしても僕は思い出した。確かに律子と会ったのは初めてでは無かった。僕は以前に律子と会っていたのだった。
四、
母の話と姉の話をしようと思う。僕は母についてはほとんど記憶にない。ふた親とも僕が生まれてすぐに死んでしまっているからだ。ある種のノスタルジーとして、凡庸な、しかし温かみのある母親の原イメージのようなものが僕の中にはある。母は僕を抱いて、あやしてくれているのだ。何かネグリジェのようなものを着ているのが分かる。そうして、母は僕に優しく、しかしせき立てるように言うのだ。
「はやく迎えに来てね。」
しかし、僕をここまで育ててくれたのは結局、姉だったように思う。姉は親戚の助けを借りてとは言え、まだ年も浅いながら、僕を懸命に育てた。彼女は今思えば、自分の力量以上に大人ぶっていたのだった。しかし、それは言わば、僕を育てるために、絶対的に必要とされる行為だったのだ。
いつだったか、姉と天体観測した日の事を思い出す。彼女は別段、星空を見上げるのが好きだったわけでもなかったのに、そうした。彼女にとって、それは僕の成長期の過程で必要な出来事だったのだろう。それは彼女にとって義務だったのだろう。姉は僕が健全に成長していく事を強く望んだ。であるならば、必要とされる出来事が義務的に果たされなければならなかったのだ。姉は興味無さげに望遠鏡をのぞいて、方角と位置を調整していた。しかし、それでもそれは僕の中で数少ない、姉と僕の楽しい思い出として残っているのだ。
「アルファケンタウリよ。」と姉は言った。位置の調整が終ったらしかった。
僕がレンズの中を覗きこむと、丁度星空が見えたところだった。僕は成程と考えた。確かにそれは綺麗なように思えた。しかし、同時にそれがどうしたとも感じた。僕にはそれが何がすごいかよく分からなかった。それは本や何かで見るのと、全く同じ代物に見えたのだ。しかし、その瞬間、何か白い光る点が僕の覗いているレンズの中をゆっくり横切るのが見えた。それはゆっくり数十秒かけて、僕の中を横切って行ったのだ。それは僕に鮮烈な印象を残した。僕はすぐ姉にそれを知らせた。
「お姉ちゃん、何か見えたよ。何かがレンズの中を横切って行ったよ。」
僕がそう言うと、望遠鏡に飛びついたのは姉の方だった。姉は何かを必死で、待望しているように見えた。姉は僕よりよっぽど生き急いでいた。だから、ぼくより大人だったし、同時に若くも見えた。姉もまた、この不毛な世界に退屈し切っていながら、しかし同時に自分を狂人にしてしまうほど、幸せな人間でもなかったのだ。
どうやら姉にはそれは確認できなかったらしかった。僕は奇跡的に何かを目撃した、貴重な家族の中の一人になった。姉はぶっきらぼうに、興味が失せたように、言った。
「人工衛星でしょう。星空なんてゴミで充ちているもの。」
そう言われると、僕にもそれは何でもないものだと考えられた。UFOでも何でもない、ただの宇宙のチリ。何の神秘性もない科学的、日常的事実。あれが何であったのかは未だに僕にはわからない。姉は僕が中学生の時に交通事故で死んだ。それでも、僕は孤独になったとも全く感じなかった。何故なら僕達、家族は永遠にそれぞれ惑星のように、すれ違い続けているからだ。お互いの重力を干渉させあいながら、お互いに引き合いながら、それでも釣り合っている関係。僕の家族が高校時代まで生き延びていても、僕はこの町同様に家族にも息苦しさを感じたはずだった。僕ははっきり言えば、この姉も母も狂おしいほど好きでありながら、どうしてこうも不人情でありえるのか、考える事があった。僕は時々、彼女たちの言葉の意味がどこかに迷い出、どちらを意味しているのか決定不能になるのを感じる事があった。それは僕を拘束し、そして、新たな意味を永遠に生みだして行っていた。天体観測の出来事だって、僕が姉が実は宇宙に非常に執着していたのだと言う解釈を思い出し、思い至ったのも、姉が死んでから随分たった後からだった。姉が死んでしまった今、姉の内面感情は僕にとって永遠に確かめようのないものになり、僕の感情を拘束した。生きていたとしても、その時の姉はもう以前の姉とは変わってしまい、嘘やその場限りのごまかしを言うのかも知れなかった。
母はその名前を律子と言った。姉もまた律子と言った。彼女たちは異星人だったのだろう。彼女たちもまた、律子のように地球外生命体に脳に取りつかれていたのだろう。
僕が自分の主治医である、伊藤泰海氏を再び訪ね、方策を尋ねる事に決めたのはしばらく経った後だった。あれほどの襲撃がありながら、僕の周辺はあれ以降、静まり返っていた。全ては僕の思い過ごしの様に考えられはじめていた。それでも僕は律子の到来を、律子と言う奇跡の非日常の存在を信じているつもりだった。彼女は確かに存在したはずだった。そうでなければ僕がこんなに苦しんでいるのは合点がいかないではないか。もう後戻りはできない、僕はこんなにも滅茶苦茶にされてしまったのだからと言うのが僕の論法だった。何もないにも関わらず、僕がこれほどまでに騒いでいるとすれば、僕はみっともないにもほどがあった。
そして、明らかに、僕の時間感覚にも変化が生じはじめていた。僕は自分の記憶をうまく整理できないでいた。記憶が整理できないと言う事は今度はいつどのように考えているか時制が整理できないと言う事でもある。僕はやはり、確実にあった事を忘れ、そして、また無かった事を思い出しはじめていた。それは僕の倫理性にとって、耐えられる事ではなかった。何故、僕はいくつもの思い出を忘れる事しかできず、この世界をいつまでも信頼していられないのか。僕は猜疑心に囚われた自分を恥じた。僕にとってそれは最大の苦悩だった。そして、僕はきっと自分は何か忘れてしまっていて、知らず知らずのうちに誰かに迷惑をかけているのだと考えた。それは堪えがたい事実だった。昨日行った後悔すべき事を忘れて、明日のうのうと生きるのならば、そんな人間は不道徳だからだ。
そして、僕はいかに誰かに救われ、誰かに癒されたとしても、そんな事を一時期のおためごかしに過ぎず、やがてはあの神経症的空間に絡め取られていくのだった。周りの人間は口々に聞いた。
「何がそんなに気に入らないの? 何がそんなに苦悩すべきなの?」
全てがあのトラウマ体験に起因している事は明かだった。律子との出会いが、僕の過去未来を決定的に変えてしまったのだ。明らかに過去の母と姉に関する記憶は虚偽のものが入り混じりはじめていた。母は律子などと言う名前ではないはずだった。姉も律子と言う名前でもないはずだった。そもそも律子とは誰なのか? 彼女の存在が差し挟まれた途端、僕の過去は形を変えはじめ、もう元の記憶には辿りつけないのだった。偏在する彼女に追いつけず、僕はひたすら疲労していった。僕は今、確実に一つのものに成りはじめていた。それはもはや人間の近代的主体を持ったものではなかった。僕にはとっては律子以降(果たしてこの以降というのも成立するか怪しかったが、直観的にあれを律子の最初のコンタクトに設置するとして。)、過去はこれからやって来るものになり、未来は既に経験されたものになった。記憶はねじ曲がり、姿を変え、僕に永遠に倫理的なコミットを要求してくるように思えた。何故、僕は律子を助けに自衛隊基地に乗り込まないのか。或は警察権力に相談してもいい。僕はすべき事をすべきだった。律子は最後、僕に助けを求めたはずだった。それにも拘らず、僕がその事を偽記憶と考え、忘れようとするなら、それは如何に考えても、不道徳としか考えられなかった。そして、あらゆる不安が僕を襲おうとしていたのである。何かがやって来ようとしている、何かが近付いていくると言うのは僕にとってもはや確実な事実に成りはじめていた。それは僕のあらゆる記憶の中で予言され、予期されている、ある種の特権的な何かと触れ合う瞬間だった。僕は何としても事態を二重に解決する必要にかられはじめた。あらゆる不可解な事実を近代主体の名の下に解釈し直し、整然と時間の順序に従って並べるのである。合理的な理解に基づき、意味論的に整理して並べ直すべきなのである。それが他人にとってどれだけ歪んだ形でも、今の神経過敏になった僕にはそれが重要だった。何はともあれ、僕は健康でありたいと願うし、健康であるべきなのだ。僕が唯一今、マイナスである事は不健康である事だけなのだ。客観的に見れば。その事をゆっくり理解し始めた僕が必要としたのが、伊藤泰海氏と言う、歪んだ主体の姿だったとしても、それは致し方なかったろう。
僕は以上に至るまでの律子に対する体験を全て話した。そして、伊藤氏に率直な疑問をぶつけた。
「先生、一体僕の体に何が起きているのでしょう? この時系列のめちゃくちゃになる、ずっとあらゆるパラレルな記憶が想起される事態は一体何なのでしょう?」
伊藤氏は実際、落ち着き払った様子であった。僕の荒唐無稽な話を聞いても、ある点では信じているように見えたし、ある点では常識の一線を守っているようにも見えた。またしてもそれは僕にとって決定不能な事象だった。彼が僕を信用するかどうかすらも、僕の解釈に委ねられているのだ。しかし、後から考えれば彼は事態に関わってさえいたように思うのである。
「ある種の環世界と言うものがあると言う生物学者がいる。ユクスキュルなどが提唱した概念だ。もう随分、古びた題材になっているのだが。生物にはそれぞれ、固有の時間があり、空間があると言う説だ。例えば、ダニはダニの環世界を持ち、世界を彼らなりの記号論的世界で解釈して生きている。彼らのある種類は繁みに隠れて、産卵のための最後の栄養である獲物をずっと待ち続けるが、その間産卵の準備をしたままで全く平気なのだ。ある個体は十八年間変化のない環境におかれても平気で生きつづけた。これはそのダニがある種の仮死状態にあるからと言われている。つまり人間の時間にしてみれば、十八年は長い歳月だが、仮死状態のダニの環世界の時間ではほとんど一瞬なのだ。体感時間としての時間が全く違うので、そのような事が可能になる。我々生物は外部世界の刺戟を記号論的に解釈して、世界を構築し、その差異によって時間性を構築しているのだろう。時間とは直線的なものではなく、本来は一瞬のつらなりで示されるものだ。人間の一瞬は映画の一コマにあたる十八分の一秒とユクスキュルは唱えている。これが人間の時間の分割された、最小単位だ。これらが何枚も一瞬一瞬重ねられる事で、人間は映像のような、均質で直線的な時間を意識する事ができる。例えばカタツムリなどは人間よりはるかにゆっくりとした一瞬を持っている。彼らにとっては人間は素早い目にも止まらぬ速さで動いている事になる。その証左に、あまりに早くカタツムリを棒でつつくと、彼らは反応できない。彼らの一瞬以下の早さの事象は彼らにとって存在しない、静止しているも、同じなのだ。逆に魚などは人間より、細かい一瞬を生きている。彼らにとっては人間の動作こそ、恐ろしく緩慢なものなのだろう。挿絵などがあって、生物に親しめる、面白いパンフレットなので、これは君にあげよう。」
「面白いお話ですが、それと僕の現状に何の関係が?」
差し出された『生物から見た世界』と言う薄い岩波文庫を受け取りながら、僕はそう尋ね返した。
「分からないのかね? 地球上の同じ生物であってもこの有様なのだ。その、律子と言う個体は銀河の外から来たと主張しているんだろう? 彼らを構成している時間もまた、全く違うのだ。彼らの時間が決定的に異なるなら、生物の根幹の環世界もまた異なる。意識の様態も主体の様態も異なる。これは予想だが、彼らの惑星の重力場は地球のような様態と異なっているのではないかね? 重力場が異なるなら、時間の様態も異なる。いや、単純に彼らの惑星では公転周期みたいなものが狂っているのかもしれない。君は二連星の太陽を持つ、惑星に生命が生じた場合、どのような時空概念を持つか思考実験してみた事があるかね?」
「難しすぎて、僕には分かりません。僕はただ、自分の、この、症状を何とかして欲しいだけなんです。」
「ある種の自閉症患者、統合失調症患者は、我々とは違う環世界、違う時間軸を生きていると主張する学者もいる。いや、そもそも時間は世界にあるべき姿と言う物があって、我々はそれを実質的に都合よく解釈して、生きやすい世界を生きているに過ぎず、むしろ自閉症者や神経症者こそが、世界の真実の時間に触れて生きているのかもしれない。君は恐らく、何らかの異星人との接触を経て、彼らの環世界の時間を共有するようになってしまったのだろう。それ故、主体にほころびが生じ、神経症的な症状が出ているのではないだろうか。これはあくまで僕の仮説だがね。しかし、全く見事に意味論的に構成された、世界の説明だとは思わないかね?」
「一体、僕にどうしろとおっしゃるんです?」
「別に僕はどうしろとも言わない。僕に可能なのは処方箋を示す事だけだよ。ただし、付け加えておくとだね。何も、君の律子だけじゃないんだよ。外宇宙からの寄生生命体にとりつかれているのは。」
「どういう事です?」
「今、この小さな町の、心療内科には人が押し掛けている。僕はそう言う事には敏感でね。何しろ、こういう職業柄だ。そして、その原因も分かっている。彼らは一様に、UFOを目撃した事、その船員たちと何らかの接触を持った過去を告白し始めた。彼らの中には、それがトラウマになってしまった人達もいる。私みたいな職業の人間から見るとね、自衛隊が何かを隠しているのは明かな事実だ。彼らは宇宙人とある種の同盟を結んだらしい。しかし、それと同時に自衛隊は彼らを捕え、彼らに内緒で実験も行っている。水面下の政治闘争というわけだ。彼らの保護、水と食料の供給。宿主(これは人間の事だ)の確保。見返りに彼らの技術が提供される。軍事転用すれば、たちまちそれは素晴らしい効力を発揮するだろう。それをあらゆる組織がやっきになって、取り合っているのが、今のこの何の変哲もない地方都市の政治情勢だよ。気をつけるべきなのは、これらの自衛隊員の中にも多くの、寄生宇宙人の宿主がいる事だ。どう言う事か? 彼らは乗っ取られているのだよ。無論、民間人にも寄生宇宙人の宿主はいる。彼らは秘かに我々、地球人の側に侵略に成功したんだ。そうして、人間の脳と徐々に入れ替わる。本人すら気付かないレベルでそれをやってのけるのだ。寄生宇宙人の宿主には有識者、権力者もいる。あっという間に、世界は彼らの手に落ちるだろう。今、自衛隊はそのような二重スパイの摘発にやっきになっているんだよ。恐らく、君の律子と言う女性もその中の一人だったのだろう。」
それが伊藤泰海氏の推理の概要だった。全く、今日は春の陽気がそろそろ感じられはじめるほどの季節だった。暖かかった。医者の不養生と言うか、紺屋の白袴と言うか。精神科医すら気が狂いだすほどの暖かさだった。しかし、僕はもはや精神の混迷の中に絡め取られはじめていた。患者が精神科医の正気を疑う等と言う事態がシュールなギャグでしかない以上、それは僕にとって真実と言えた。少なくとも僕はそれを信じた演技をする事にした。それを信じた演技をすると言う事は僕にとってそれが真実であるのと同義であるはずだった。しかし、僕が伊藤泰海氏を信用しきれなかった理由は他にある。何しろ、彼もまた彼の言う寄生宇宙人の宿主ではないだろうか、と考えはじめたからだ。母と姉まで宇宙人であった僕の周辺はにわかに怪しくなりはじめた。律子らの侵略は我々の周辺で、もう既にかなり進行しているものと見て良かった。伊藤氏など怪しいものの最たるものである。彼の言う事は半信半疑で聞かねばなるまい。であるとすれば、彼の渡す薬も、素直に飲んでいるのはまずい。何か混入される可能性は十分ある。また、きつい薬を渡して、僕を廃人に追い込むなど彼にとっては造作もない事なのだ。そう言えば、僕はこの年にしてだが、薬を飲みはじめてから、勃起不全を感じるようになった。どうやら、僕の飲んでいる薬はそのような副作用が出るものであるらしいのだ。伊藤氏はそれを僕に大量に投与して、僕を断種しようとしているのではないだろうか。僕の年にして、これは明かに異常であった。僕がこのような不幸な目に会うのは明かにおかしい。しかし、宇宙人である伊藤氏にしてみれば、それは母星に利する行為なのだろう。そうなれば、あらゆる事に説明がつきはじめた。彼の今までの行為もそうする事で納得がいく。僕がこれからすべきなのは、あらゆる事象を疑ってかかり、律子の寄生宇宙人の側にも、CIAや自衛隊の側にも立たず、彼らの権謀術策にひっかからず、巻き込まれず、上手く切り抜けていく事だ。それ以外に生き残る術は無かった。しかし、伊藤氏はなおもある事実を告げるかどうか迷っているように見えた。最早、彼我の考え方の違いは明かになった。伊藤氏がどれだけ僕に同情を示し、感情移入しようと、それは僕にとってはわざとらしい関係に過ぎなかった。一刻も早く、僕はこの宇宙人まみれの気違い病院を出なくてはならなかった。伊藤氏は言った。
「君は私の診療を疑っておいででしょう。」
「そんな事はないですよ。」僕は曖昧な含み笑いで答えた。もはや伊藤氏と僕がある種の相似形であると言う事態さえも、何らかの恐怖的な暗示であるように僕には思えはじめた。
「君に私は告げておかなくてはならない事実があります。きっと、あなたはもうこの病院に来ないだろうと思うから。」
困惑する僕に伊藤氏は更に続けた。
「しかし、これはまだ君には早いのだ。残念ながら、君に今これを知らせるわけにはいかない。最早君がどうにもならないと思ったら、君が真実と向き合う決意ができたら、これを告げようと思う。」
そう言った伊藤氏の表情は真剣そのもので、深刻さすら見てとれた。しかし、僕としてはどうあっても、これ以上伊藤氏と向き合っているのはごめんだった。この人間に何をされるか知れたものではないからだ。僕は彼とはできるだけ他人行儀ですませ、逃げなくてはならなかった。そのため、我々のわかれはそっけないものになった。僕は挨拶もせずに、診療室を出たのだ。明らかに同類にも関わらず。
その日から僕は処方される薬を飲むのをやめた。
五、
宇宙人に寄生された二重スパイたちの手は刻一刻と僕を追い詰めはじめていた。様々な事実の符合が彼らの存在を裏付けていた。彼らはまず、感情と言う人類の概念を理解しようとしなかった。彼らは根本的に他者に問いかけると言う態度がかけているのだ。人類に全く同情せず、人類をただ利用する事しかしない、狡猾な宇宙人の存在。自衛隊はやっきになって、その収拾にかかっているようだったが、どうしようもなかった。そして、僕にもできる事も何も無かった。ただ時間が過ぎ去るのをじっと待ち(そもそももう僕の時間は過ぎ去りもしなかったが)、僕は事態の行く末を見守りながら、ゆっくり気が狂って行っていた。
僕が海上自衛隊基地の周辺を調査する事を決意したのは、事態がいい加減打開にも破局にも向って行かなかったからだった。町は宇宙人に寄生された人々に溢れているはずなのに、全く平穏そのもので、日常の枠を守っていた。僕は徐々に学校にも行かなくなり、家に引きこもっていたし、事実として精神衛生上、学校に行ける状況ではなかった。要は僕は狂気に退屈していたのだった。狂気はその性質において、平凡であった。
しかし、無論自衛隊基地は容易に潜入が可能な場所では無かった。僕は自然、基地近くをうろうろする事になる。海上自衛隊基地は比較的開放的で、フレンドリーであり、それはあくまで比較的相対的と言う事ではあったが、それでも何か陰謀の匂いをかぎとろうとする僕の努力は頓挫する事が多かった。僕は港町のあたりをずんずんと歩いた。田舎の港町は平穏で安穏としているように見えた。春の訪れを感じさせる西日が僕の右頬を撫でていた。明らかに挙動不審な僕に対して、声をかけてきたのは、僕より少し上の年齢の青年であった。
「あなたも潜水艦ですか?」
「ええ、まあ、そのようなものです。」僕は一向に要領を得ない質問に曖昧に答えた。
「僕は所謂、軍事オタクというやつでして、こういった軍港には目が無いんですよ。」
彼は興奮して喋った。彼は僕も軍事オタクとして基地周辺を見学しているものと考えているらしかった。嗚呼、彼に世界は今、陰謀の渦中にあり、異星人からの侵略を受けつつあると言う世界の真実を理解させる事はできるだろうか! 恐らくできまい。彼らのような一般的な価値観に安住している人々はせいぜいその安らかな幸せを今のうちに味わっておくがいいのだ。どだいなんだ、軍事オタク。実に平和な事ではないか。彼の軍事機械に対するフェティッシュは理解できないわけでもない。それが平和裏に、趣味に終わっていくなら、実に社会に対して無害な事ではないか。何を目くじらたてる必要があると言うのだろう。
とにかく、僕はそうやって、高校生にありがちな、高踏的な態度で、彼を見下し、適当に相手をしていたのだが、やがてある廃ビルに強烈に惹きつけられていった。そこに行けば、何か事態が転回する事は僕には分っていたような気がする。僕の妄想の恐ろしいとことはそれが事実と不思議に符合していると言う点なのである。もしも全く検討外れであれば、僕はそれを歯牙にもかけず、黙殺すれば良い。そうではなかった。世界は不吉に、僕の都合の悪い方向へ転がりはじめているのである。僕は最初からそれを知っていたのではないか? 何故なら、今の僕にはその理由が良く分かる。事実として、それは僕がやった事だからだろう。やるべき運命であるからだろう。
「一体どうしたって言うんです、そんな血相変えて?」
朴訥とした軍事オタクの青年は廃ビルに急ぐ僕にそう声をかけた。彼は僕に何かしらの同好の士への親近感のようなものを感じているらしかった。が、それは今の僕にとっては無理解でしかなかった。僕は息せき切って、廃ビルへ脚を早めながら、ああそうか、こいつも宇宙人に寄生されているに違いないと考えはじめた。彼はそうやって無理解な一般人を装いつつ、僕に接近し、僕の行動を監視しようとしているのだった。つまり、彼は裏の裏をかいたのだ。その、いかにも、全く何も知らない、幸福な一市民ですと言う顔こそ、偽りであって、彼もまた、二重スパイであったのだ。
しかし、この際、彼は仕方なかった。むしろ彼と同席する事は僕の無実が証明されて、僕には都合のいいはずだった。僕は古びて、鉄さびだらけになった、トタン板の門をくぐり、廃ビルの中へ入っていった。そういう状況に対する理解は僕はできているつもりだった。瞬間、血なまぐさい匂いが僕の鼻腔を支配した。僕はある種の酸鼻と嗚咽を抑え切れなかった。隣りで軍事オタクの青年が「ひっ」と声をあげるのが分かった。僕は早くも現実を吟味するため、ゲーデルの不完全性定理を再現前化させようと頭の中で努力していた。廃ビルの鉄格子の階段に寄りかかるようにして、律子は完全に死んでいた。青白いナイフが彼女の小ぶりな胸に突きたてられ、屹立しているのが見てとれた。それはほとんどエロティシズムの恍惚すら感じ得るような光景だった。彼女は階段にしなだれかかり、美しかったその顔を青ざめ、血だまりの中に横たわっていた。その身体からは全く力が抜け、完全に無力な存在になっているのが理解できた。
「どういう事なんでしょう? 死んでいるんでしょうか?」
「警察を呼びましょう。もう助からないでしょうから。」
僕が冷静にそう言った時、軍事オタクの青年は一瞬笑っているのが分かった。非常事態に慣れない彼の表情筋は彼の倫理性通りに動く事を欲しなかったのだ。しかし、そんな彼を僕は許した。こう言う事態を予想でき、倫理的に行動できていると言う事自体が倫理性が無いのかも知れなかった。少しぐらい動揺している位が普通であり、むしろ上手く対処できている僕がそれが上手すぎるが故にかえってその倫理性に不審を持たれると言う事があるかもしれなかった。
僕達は警察にすぐさま連絡した。しかし、僕が考える事によると、この警察はほとんど寄生宇宙人たちの宿主で溢れかえっていた。僕ですら、この事態には驚きを隠せなかった。彼らは全く事務的に僕達を扱い、疑う事すらしなかったのだ。事実として、僕が一番、その行動から疑われるべきであるのにも関わらず。恐らく、僕達の行動や心理は奴らに筒抜けなのだろう。我々は泳がされていると見るべきなのだ。恐ろしい事態が起りはじめていた。
一日ほど拘束された後、僕達は「災難でしたね」とねぎらいの声さえかけられ、警察署を後にした。僕がすべき事は分かり切っていた。一刻も早く、警察よりも早く、犯人を見つける事だ。僕にはその答えは分かり切っているはずだった。
僕は数カ月ぶりに伊藤泰海氏の心療内科を訪ねていた。彼の心療内科は民家の合間にあり、それ自体も民家を改造したような、こじんまりとした作りになっていた。しかし、休日の午後ともなれば、この心療科はほとんど人で一杯になり、予約待ちしなければ、先生の顔すら見れない事態だった。それだけ多くの人間がこの町において、自分の精神の健康を乱していると考えると、僕にはこの町がどれだけ多くの人を絶望の淵に駆り立てているのかと親近感より、社会の慌ただしい恐怖のようなものを覚えるのだった。
僕は診察名簿に自分の名前を、はっきり、「伊藤泰海」と、書いた。そう、精神分析科医・伊藤泰海は僕の未来の姿なのだ。三十年後の僕はまたこの町に帰って、開業医をやっている。時制が混乱すれば、異時間の同一人物が同時に存在すると言う事態も起こり得る。これもまた、律子が巻き起こした事態だった。
「あなたなんでしょう、律子を殺したのは?」診察室に入るなり、僕は言った。
「そうだよ。」伊藤氏は慌てるでもなく、取り乱すでもなく、はっきりと答えた。
「つまりは未来の僕は、律子を刺し殺す事になる。」
「そうなるね。そして、君、つまり過去の僕がここへ訪ねてくる事も僕には予期できていたよ。なにしろ、三十年前に僕自身が突きとめた事なんだからね。」
「あなたは何て事をしてくれたんだ! おかげで僕は殺人を犯す事になってしまった! 僕は彼女を愛しているのに! 何故、彼女を殺したんです?」
「仕方がなかったんだよ。」
そう言って、伊藤氏は悲しそうに横を向いた。彼は心底悲しんでいるように見えた。彼にはもう、僕の様な熱意も失望も持っていなかった。しかし、その代わり、事象を距離をとって眺め、諦観を持って、人生をやりすごしていく詐術にたけているように見えた。僕に言わせれば、未来の僕は自衛隊の側に、或は律子たち異星人の側に寝返ってしまっていた。
その瞬間、まるで別世界から声が聞こえてきたような気がした。突然、世界の混迷した状況がひらけ、何の心配もいらないような気がした。
「大丈夫ですか? 処方されたお薬をちゃんと飲んでいますか、あなたは?」
伊藤氏はその時だけ、現実に冷静に還った声でそう言ったような気がする。もしやそれだけが現実の声で、後は全部虚妄なのではないかと言う恐ろしい考えが僕をまた支配しはじめた。僕は伊藤泰海ではなく、同時に伊藤氏も僕の未来の姿等と言う事はなく、全ては僕の神経症的妄想なのかもしれなかった。恐ろしい事態だった。しかし、これも全部が全部、偽記憶なのかもしれない。結局、こんな経験僕はしていないのかもしれない。全部は遡行的に思い出した記憶だからだ。
「ぼ、僕の正気を疑うんですか!」
そう叫んだ僕を見る伊藤氏はもう例の悪魔的な、殺人鬼の伊藤泰海に戻っていた。僕はこの狂気の世界に安住し、安心しはじめている自分自身を理解した。そう、もはや全てが嘘であってもらっては困るのだ。僕の精神のために。
「あなたは何故、宇宙人に自分の魂を売ったのです? 何故、律子を殺したのです?」
僕は気違いじみた目で彼に詰問した。
「僕はね、人間に感情移入などと言う事ははなから不可能だと思うのだ。例えば痛みはどうだろう? 人は人の痛みを共有できるか? 人は赤と言う色を見て、赤と呼ぶが、しかしそれを頭の中では青と見て、もう一人の人は黄と見て、それでも両者は赤と呼んで、理解しあってるつもりになっているのかもしれないじゃないか。この事実が示すのは、こういう事だ。人間は人間の言葉の意味を決定できない。そもそも人間の言葉に共有された意味などあるのか、と言う事なのだよ。」
伊藤泰海氏はとんでもない藪医者であると言えた。精神科医のくせに神経症的になっているのだ。まるで僕の病気がうつったみたいだった。
「僕はそれでも、他者に対する問いかけを続ける事が、理解不能な他者に対して、向き合い続け、反復を続ける事が倫理性だと考えます。」
「そんな事はおためごかしの古い考えだね。事実として、その想定されている他者は君の想定した他者に過ぎないのだから。君が理解しやすく、君の都合で、君の現実で生きている他者しか想定していないのだよ。じゃあ、君は感情を介さない、人間とは別の時間を生きている彼らを肯定できるのか。事実として、私は律子を理解できなかった。だから、殺さざるを得なかった。君もまた、その決断を受け入れると思うね、私は。」
「僕はあなたとは違う。」
水掛け論だった。僕達は同一人物でありながら、圧倒的に違う人間だった。それはそうだろう。誰だって時間がたてば自分の同一性を保っていられなくなるのだ。この時の過去の出来事をもう、今の僕が全く正確に思い出す自信がないのと同じように。それがどちらが正しいと言うわけでもなかった。どちらかと言えば、伊藤氏が正しかった。しかし、それでも今の僕には納得できなかった。唐突に伊藤氏は聞いた。
「ドストエフスキーが『白痴』において、自分の処刑寸前の体験を語っている事を知っているかい? いや、何、時間性と倫理性についての一例なんだがね。彼はこう言うんだね。自分の処刑が近付いてくるにつれ、死刑囚は自分の残された時間を計算しはじめる。そして、その残された時間を分割して、もしも自由であれば、何に使うか彼は考える。例えば大切な友人と会って、最後の別れをして、あと何分は神にお祈りをして、と言う風に。そして、処刑される直前になって、彼は思う。嗚呼、これが処刑されるんでなかったら! 僕は無限に近い時間を手に入れるのに! 多くの人生の時間を手に入れ、そして、いくらだって、友人に会え、いくらでも祈れるのに、と。彼はもし自由になったら、この処刑直前の一瞬一瞬を大事にして生きていく生き方を実践できるのに、と考える。結局、彼には恩赦がくだるのだが、しかし、彼がその処刑直前の生き方のように、一瞬一瞬を大切に倫理的にそれから生きていけるかと言うとやっぱりそうではないんだよ。」
「何が言いたいのです? 人間は怠惰であると言う話ですか?」
「違うね、これが証明しているのは、倫理性は人間の主体性に依存しているし、その主体性は時間性によって構成されていると言う真理だよ。であれば、人間は時間性なしに、倫理的に生きる事など不可能なのではないか? 僕はそう思っていた。彼ら、異星人たちと出会う前までは。しかし、それは逆だったのだ。今までの倫理性こそ虚偽のものだった。近代的、ヨーロッパ的主体に基づく限り、むしろ真に倫理的に生きていく事は不可能なのだ。ドストエフスキーは書いている。その主体が解体し、これまでの時間性が壊乱していく、その時、つまり〈白痴〉になるその時、それが薬物や酒によるものでない以上、その陶酔と恍惚は、忘我の瞬間であり、絶対精神と触れる、〈永遠と化した今〉なのだそうだ。彼は狂気を肯定するのだよ。その瞬間、人間は今まで反復を抑圧しながら行ってきた、〈進歩〉をやめる。人間は時間性から自由になって、それはそれとして、新しい倫理性に基づいた、意味ある生を歩み始める。私はね、彼ら異星人との接触と、彼らに侵略される事に、人間の新しい倫理の可能性を見出しはじめたのだよ。その真理を理解したのだ。私は君なんかより、よっぽど彼らを理解している! しかし、それでも私は彼らの時間を生きる事に耐えられなかった。反復にはもう耐えられなかった。だから、殺した。再び私の時間に戻るために。」
僕はもう我慢している事はできなかった。完全に転向した、自分自身を見出すのはこれ以上耐えられなかった。殺す、と思った。自分自身であろうと、これ以上の愚弄は耐えられない。
「僕は自分自身以外の誰の奴隷にもならないつもりです! あなたは何故、宇宙人を自らの脳に寄生させる側の道を選んだんです!?」
そう叫んだ僕に対しても伊藤氏はまだ、冷静だった。まだ彼には隠し玉があるらしかった。彼は静かに言った。
「君はまだ勘違いをしているらしいね。僕が人間を見限って、宇宙人を脳に寄生させただって。完全な勘違いだよ、それは。それに、君はずっと色々な人間を寄生宇宙人と見なして、疑ってかかっているらしいが、全くそれは神経症的な所作としか言いようがないね。そんなあちこちに宇宙人がいるわけないじゃないか。」
「どういう事です?」
「何よりもまず、君自身が、最初っから宇宙人に寄生されていたのさ。伊藤泰海は君より未来に宇宙人に脳を乗っ取られたわけではない。もう、君の脳内は完全に彼らの個体に乗っ取られ、彼らの時間で思考しているのだ。最初に、君が律子と接触したあの後、君はアブダクションされ、脳に彼らの胞子を移植されたのだよ。何よりもまず、君が、根本的に近代的自我とは別の様態を取る、寄生宇宙人だったのだ。」
その瞬間、僕は診察室の景色が歪曲し、自分の体が血の気と力を失い、横倒しに倒れるのを理解した。がしゃんと診察室の細かな道具が、血色を失った僕に崩されるのが、感覚的に分かる。僕の三半規管はもはやどうにもならないぐらいに狂っており、どちらが上下かもはや分からなかった。目を開けていられない程の立ちくらみを感じた。伊藤泰海氏の歪んだ笑みが更に歪んで、三重写しくらいにばあっと大きくなって、消えた。僕はもはや疲れ切っていた。僕自身が寄生宇宙人だった事実! 僕自身が本当に倫理性を持ち得ないと言う悲しい事実! 僕は生まれつき自閉症者ではないから、このような倫理性に悩むのだ、後天的に悲しんでいられるのだとも考えた。もしくはそれは差別的な考えで、自己中心的な考えで、実際自閉症者もそのように悩むのかもしれなかった。それとも正しいのかもしれなかった。とにかくもう考えてはいられない。意識は混迷の闇の中に引き込まれ、それ以降思い出せる事は何もない。
六、
大学生になって関西の大学に出てきた僕がある日見た夢があった。それは以下のようなものだ。
昔僕が住んでいた家。僕は洋椅子に座って、律子は僕にアカアシクワガタを見せる。それは左の歯がかけているが、まだ元気そうだ。律子は僕に「アカアシクワガタよ、立派でしょう。あなた好きでしょう?」と問う。僕は小学生の一時期、昆虫を飼っていた事があり、姉に昆虫の糞尿とハエで迷惑をかけた。クワガタはフェティッシュな男根の象徴だろうと誰でも分かる。君は僕の口の中にアカアシクワガタを歯の方からつっこむ。
「ホラ、これがあなたのやった事よ。痛いでしょう?」
僕の頬の裏にアカアシクワガタの折れた歯のとがった部分が刺さって痛い。僕は抵抗するが、やめてもらえない。なんだかこれには性的な含意と倒錯がありそうだ。ある種のレイプと被レイプが僕と彼女の間に成り立つ関係なのだろう。僕は彼女にすまない事を強いたのではないかと後悔する。律子は今度はアカアシクワガタを逆にむけ、僕の口の中につっこんだ。抵抗するクワガタの脚が僕の頬をひっかく。それでも律子はやめない。アカアシクワガタはつっこまれ、僕の舌の上にクワガタのうごめく尻があたって、苦い味がする。僕は我慢できなくなって、思いっ切り床に吐く。律子はクワガタをはなし、けたたましく笑う。僕が吐いた反吐を見ると、そこには無数の、様々な蛆虫がうごめいている。ハエの幼虫や、カブトムシやぶんぶんの幼虫なんかだ。それは無数の虫たちの白い体がゲロの赤茶色の中でうごめいている。僕はその中のセミの幼虫に同情し、なんとか逃がしたいと思う。セミの幼虫はどうやらもうすぐ羽化しそうだ。僕はセミの幼虫の背中をつかみ、トイレの格子つきの窓から逃がすため、家の廊下を急いで歩く。
セミの幼虫は成熟途中の自分自身のメタファーであると読めば、少しうがちすぎだろうか。
高校時代の思い出と聞かれても、僕はほとんど引きこもっていたので、何も無かった。よく大学に行けたものだと思う。僕は確かに精神科医への道をひた進み始めていた。神経症的な精神科医など、何かの冗談だとも思えるが、それは僕自身が向きあうべき問題である気もしたのだ。高校時代の出来事については、僕はほとんど虚妄であったと思っていた節がある。はっきり言えば、僕はそれを忘れていたのだ。寄生宇宙人もアブダクションも律子も未来人の伊藤泰海も全部、僕の妄想だったと考え、納得していた。
抑圧された記憶を僕が唐突にフラッシュバックで思い出したのは、大学で律子と再会した時の事だった。一回生の時、SF研究会に入会した僕が同じく新顔の中に見つけたのは、まぎれもなく律子だった。彼女は平気な顔して微笑んでいた。そうなのだ。例え宿主が死んだとしても、それに寄生していた宇宙人自体が死んだとは限らない。律子は生きていたのだ。
すぐに僕は律子と二人きりで話せる状況を作って、彼女を問い詰めた。僕達は河原をひたすら北に向ってずんずん歩いた。河原にはまた春が訪れようとしていた。僕は今はすっかり健康だと自分自身に言い聞かせるように考えた。もう随分あの症状も出なくなったのだ。僕はもうすっかり健康のはずだった、律子と再会するまでは。僕ははっきりと怒っていた。
「全部、僕らのせいなんだろう、結局。」
「それはどうかしら。未来の伊藤泰海の画策も影響した気もするけど。」
「全ての事を、僕にもわかるように、説明してくれないか。」
「私達の時間は実は反復すらもされていないのよ。私達はある銀河であなた方より遙かに高度に進化してきた。しかし、破局は訪れた。様々な要因から私達は進化の袋小路に入っていった。そこで私達の一部は決意したの。自分たちの時空を虚数にシフトする事に。いや、むしろ宇宙の時間の本質は実は虚数的なものだったのよ。それを生命はそれぞれ自分なりに実体論的に解釈して、有限の時間を生きている。私達はそれをやめ、虚数の、世界の真実の時間性に触れて生きる事にした。それによって、私達は進化の時間性から脱出する事に成功した。私達は再び栄光を極められるようになったのよ。だから、あなたの体験した反復する時間性すら実は、私達の虚数の時間性を自分なりに解釈した、影のようなものに過ぎない。あなたは自分の時間性を乱される体験をしているつもりかもしれないけれど、本質的には全く実体論的な人類の時間性から出れていない。」
「もう、僕がどうしてこうなっているのかなんてどうでもいいんだよ。どうやったら、僕はこの反復から脱出できるのか、それを教えてくれないか。」
律子との再会によって、またしても僕は神経症的な磁場の中に絡め取られようとしていた。もはやそれは認めざるを得なかった。またあの浮遊感と不愉快感を感じ始めていた。僕の自閉や僕の神経症は、僕の子供時代と一緒に、全部自分の故郷に置いて来たつもりだった。それでも僕はこの世界を信頼していられる事はなかった。どこまで安住しようとどこまで悟りきろうと絶対にいつかは、僕は恋する女性の中に律子の影を見はじめてしまうのだった。そうして、あの律子との関係性の反復からいつまでも抜け出せずにいた。僕はいい加減、律子の幻影を捨てて、大人になるべきだったのだ。それが必要とされるべきだったのだ。しかし、律子はそれでも僕を離してくれそうになかった。
「でも、あなたが反復を望んでいるんでしょう?」
「違うよ、僕がどれだけ迷惑をこうむったと思っているんだ。どうしてくれるんだ、君のせいで普通の恋愛できなくなってしまったよ。」
この際、僕は泣きついている側の人間だった。僕は考えれば考えるほど、深みにはまりつつあった。
しかし、僕はもう分かっていたのだ。僕のアブダクションの記憶もまた虚偽だと言う事に。以前、僕はある種の記憶が原因になって、この事態が引き起されていると考えていた。しかし、それは大きな間違いだったのだ。はっきり言って、思い出される記憶の内容はなんでも良いのだ。虚偽である事の方が多いのだ。大事なのはそれが再現前され、反復される事である。言わば、その同一性への復帰――それは虚偽の同一性で全く構わない――によって、主体の構造が維持される事こそ、肝要なのだ。全ては事後的な現象だった。それならば、いつまでも律子と言うトラウマに言い訳を求めている僕は、甘えた存在と言う事になる。僕は甘えてだけはいけなかった。いつだって、何かに立ちむかい、死ぬほど艱難辛苦して、戦わなくてはならないのだ。
「分かったよ。これが君らのやり方だって言うなら、僕はいつかの僕を迎えに行くよ。僕は義務を果たすよ。」
僕ははたと立ちどまった。僕の数歩後ろで、律子が自分の身を固くして、立ちどまっているのが分かった。その律子の反応だけ現実世界のものかもしれなかった。ただ、僕は出会う女性、女性に、全部、律子の名前をつけていっているだけかもしれなかった。僕は振り返って律子に微笑んだ。認めよう、確かに僕は彼女を愛している。どうしようもないほどだ。情けないほどだ。僕は律子を春先の防寒用のオーバーで羽織るように、包むようにして、抱きしめた。大人になった僕から見れば、律子はまるで小さな女性だった。あんなに絶対的に見えた律子も、ただの小さな女の人だと言う事が僕には分かった。
僕はとうとうこの反復から脱け出す方法を見つけたのだった。律子から逃げず、律子を愛しぬく事、やがてはやって来る律子の殺害のその時まで、それが回避できない運命でも、それを勇気を以て受け入れていく事。
それからの僕達は実際、まともに恋愛をやっていたような気がする。僕達は何度もわかれ、そして出会った。もう何度も二度と会いたくないと思ったが、それでも僕らは必ず再会した。僕はどこにいても、どんな時でも律子を見つけ出した。律子以上の女性は僕には考えられないのだ。僕はやがて、自分があの伊藤泰海氏に似てくるような気がした。僕は自分の時間性と向き合う事によって、大人になったのだった。それでも律子は時々、僕に言う。
「たまには振り返って良いのよ。」
僕は今、自分が幸せな人間だと思う。僕は愛する女性と共に時間を過ごせるのだ。僕のノスタルジーは僕を加速させ、僕をどんどん同一性の不可能な人間にしていく。僕はもう、あの決意し、反復していく僕が、果たして今の僕と同様な人間だろうかさえ疑問に思っている。それでも僕はその問いを再帰化し、再決断して、その考えを正しいものにしていく。僕はいつか、あの伊藤泰海のようになるのかもしれない。反復に耐えられず、いつか律子を殺すのかもしれない。或は、反復にまた疲れきるのかもしれない。そもそもこれこそ、神経症的な主体のあり方で、やはりこんな病んでしまった愛の形は間違っているのかもしれない。しかし、そんな事はもうどうでもいいのだ。時間が前に進まなくっていいのだ。
いつか僕が胎児になって、律子のお腹の中に還って行ってしまってもそれで僕は一向に構わない。何しろ、僕にはこういう風に律子を肯定してやる事でしか、律子から自由になる事はできないのだから。
どちらにせよ、全ては今更なのだ。今さえあれば良いと言う言説に僕は大いに賛成する。そうだ、今この時さえあればいいのだ。僕にできるのは今この時の正気を証明し続ける事だけだ。
また、僕の記憶が閉域に囚われて、どんなに元の律子が遠くなっても、僕は律子を反復する事をやめない。この病的な形がきっと最も病的でない形なのだ。
いつか僕はあの時の伊藤泰海に辿りつくだろう。そしたら、言ってやろうと思っているのだ。少なくとも、僕はとても幸せではあった、と。
〈完〉