射抜く瞳
館の外観は時代的な旧さを感じさせるのに、中身はしょっちゅう手入れしているのか新しさがある。天秤や八文儀などの知的な調度品が控え目に飾られていて、彼女に好感を持たせた。
高い天井に取りつけられた照明も、目に煩くない。少し薄暗いこの空間に安心感を抱いた。
何より驚いたのは、その規模。
「‥‥広い」
玄関だけでこんなに開放感があるなんて。
思わず漏れた感嘆を、男は苦笑で受け止めた。
「すみません。一人身ですから、全ての部屋に手をつける余裕がなくて。少々埃っぽくても構いませんか?」
「え、ええ。充分です。有難う御座います」
宮廷に匹敵するほどの館を、一人で独占。勿体無くないだろうか。
客室に案内され、材質が宜しそうなソファを勧められる。
お言葉に甘えて座ろうとすると、
「あ、ちょっと待って」
レナータの白い頬を、男の手が挟んだ。美しい二対の双眸が重なる。
彼女は見逃さなかった。彼の鮮やかな虹彩に、怪しげな熱がよぎったのを。
「‥‥少し、冷えていますね。待っていて下さい、コーヒーでも淹れます」
振り返り様に発された言葉にはっとして、レナータは己の掌を見る。
顔を上げると、すらりとした男の背中。やるなら今だ。
悟られないように押さえながら魔力を手に込め、グッと握る。
素早く腕を伸ばせば紫の波が大きくうねった。鋭い刃を伴ったそれは男を頭から呑み込もうと襲いかかり――――
男が突然振り向いた。鋭いアイリスの瞳が抉るようにレナータを射抜く。
先まで穏やかだった瞳の温度が急激に下がったことで、金縛りめいたものに身体を支配される。
その刹那、手首を掴まれた。
「‥‥!?」
「何をなさろうとしていたのですか?」
迂闊、という単語がまず初めに思い浮かんだ。
いつの間にか、手の内に凝集した魔力は霧散していた。紫の波も消えてしまっている。
――――こいつ、魔術が効かない?
信じられない事実に、レナータの頭の中は真っ白になる。
魔術師や魔力を持つ異族には、たとえその含有量が微少でも何かしらの気配が伝わるものである。この男には感じられなかったから、純血とは名ばかりで血を吸うだけの者だと思い込んでいたのだ。
しかし、現に男は掻き消した。
――――純血の吸血鬼は、その存在数自体が希少の為、現在に至るまで確認はされていない。
最後に締め括られていた文書の一節を思い出す。人知を超えた能力を隠し持っているという想定は、要務を任された人間として立てておくべきだったのだ。失念した己に憎悪が湧く。
そして、悠然とこちらに身を寄せてくる男にも。
「やはり美しいですね、貴方は。珍しい黒の髪といい、お手といい、そしてこの容貌‥‥」
「‥‥‥っ」
骨ばった、長い指が執拗に髪の一房を梳き、女の指と絡み、白くすっきりした頬を滑る。耳のすぐ傍で甘く囁かれ、不愉快にもレナータの心臓はドクンと跳ねた。
逃れたくても、腰に回った一本の腕が許さない。
「近づくなケダモノッ!」
「おや心外。私としてはいきなり寝首をかこうとした貴方の方がよっぽどケダモノだと思いますが」
虚勢を張ってもあっさりかわされてしまう。抜け道を塞がれた彼女を更に追い詰めるがごとく、男の笑みがますます深まる。ちらりと覗いた犬歯が異様に目に止まった。
「まあ丁度良かった。喉が渇いて仕方がなかったんです」
そして奴はいきなり、女の白く細い首筋に顔をうずめた。
レナータが慌てて引き剥がそうとするが、時既に遅く。
「――――ぅあ‥‥っ!」
鋭く尖った牙が、薄い皮膚を破って血管に到達する。一瞬の激痛が走った。
浮き出た二つの紅い穴から一気に生血を啜られる。得も言われぬむず痒い感覚から逃れるかのように、レナータは身を捩った。
しかし、彼女の細腰と後頭部を固定する男の手はビクともしない。せめてもの報復で、レナータは吸血鬼の首に爪を立てた。
多少なりとも効いたのだろう、渋々ながらといった様子で吸血鬼は牙を抜く。首筋に滲む二つの紅い玉を、薄い唇が拭い取った。
「ああ。甘かった。こんなに気分が良くなったのは久しぶりですよ」
「貴様‥‥」
熱に浮かされたような、恍惚とした表情。今なら反撃も‥‥と思われたが、すぐに意識を切り替えられたのでそれは計画倒れに終わった。
「あ、申し遅れましたね。私はユーグと申します。一応、この館の主で吸血鬼です」
丁寧に自己紹介するが、黒髪の佳人を見下ろしたまま。
名前を尋ねる前に、女が聞き取れるか否かの声量で、どうして効かないと呟いた。
口元に嘲笑が持ち上がる。
「貴方が相手をしてきたのは、所詮混血でしょう?純血とは格が違います」
純血の吸血鬼にはいくつかの能力が備わっている。主だったものでいえば、血を与えることであらゆる種族を従属化させること、そして魔術を無効化することだ。故に純血の吸血鬼は存在数が極少なくても生き延びられてきたのだ。
血を吸われたのにも拘らず、彼女はまだ抵抗の意を見せる。
もう少し怯ませてやった方が賢明と判断した。
「手荒なことは嫌いなので。失礼します」
「っ!や――――」
ついさっき男が口づけた首筋に、また歯牙がかかる。回避しようとするけれども、腰に回された腕は微動だにしない。
皮膚に柔らかな吐息が触れ、身震いした。濡れた唇が再び触れる。
さっきとは比べ物にならないほど強く吸われ、一分も経たないうちに男の綺麗な髪でさえもぼやけてきた。
次第に足から力が抜け、遠のく意識と共にレナータの身体は崩れ落ちた。