いざ出陣
街の郊外とは聞いていたが、こんなにも険しい道を通らねばならないとは思いも寄らなかった。
道はこれで合っているのか、地図は本当に信頼できるのかと心配になるくらい、くすんだ緑の蔦や木々が生い茂っているのだ。しかし石畳の通路だけは綺麗に整備されているので、それのみを命綱に進んだ。
涼やかな碧眼により目の前が拓けていく。短く刈られた草の絨毯の上には、確かに無数の民家が鎮座していた。一まず、不安の種は消える。
手元を見下ろすと、地図は村の玄関で終わっている。後は自分で調査しろ、と言いたいらしい。都合のいい突き放し方だ。いくら未確認の種族とやり合うといっても、優遇はされないみたいだ。‥‥まあ、何となく分かっていたが。
連日の被害で緊迫感こそ重く圧しかかっているが、喧騒などはない。多分、こちらの方がかの吸血鬼よりも一足早かったのだろう。
奴の居場所を正確に特定する為、全神経を研ぎ澄ませて一つに纏めた。
耳を澄ませば、緊張感を煽るような葉擦れの歌が聞こえる。
漆黒の髪をなびかせた女は、閑散とした場には似つかわしいほど整った容姿をしていた。
昨夜の月を想起させる、無感情な淡い蒼の瞳。雪像と見紛う透き通った肌。
美しいがそれだけではなく、楚々とした純真さも窺える。一見した者は誰しも深窓の令嬢と思うだろう。しかし実体は、静かな気迫を纏った狩人だ。
糸で引かれたように足を前へ差し出す。人とは異なる気配を感じ取った魔力が、ひとりでに動いたのだ。それの持ち主である彼女も歩き始める。
暫く経つと、葉の重みで垂れ下がった枝を持つ木々の垂れ幕が通せんぼした。一風変わった森へと潜り込んだら、すぐに衣服が引っかかった。これなら先方に吸血鬼の住処があると予測しても実行には移しにくい。
どうにか硬質な葉を掻き分けて行くと、仰々しくそびえる古めかしい館が瞳に飛び込んだ。太く背の高い大樹でなされた森に囲まれている様相は、さながら難攻不落の王城だ。
あれこそが、吸血鬼の住処。本能が強く指し示す。
遠目からでも、明かりが極薄く灯っているのが分かった。もうすぐ外出、という頃合だったのだろう。
その余裕も今限りで終わるさ。
レナータは形の良い唇の端を怪しく持ち上げた。久し振りに湧く高揚感だ。
――――完全に殺してはいけない。研究材料になるから、昏倒させて持って帰れ。生きているなら半死状態でもいい。
敬愛すべき上司の言葉が蘇る。
小脇に抱えていた、継ぎ接ぎだらけのぼろいショールを頭から被れば、誰もがみすぼらしい娘だと騙されるだろう。念には念を入れて、討伐対象の油断を作る為に『隣街に行く予定だった女が道に迷って途方に暮れていた』というシナリオを作っておいたのだ。
すう、と息を吸い、できるだけ弱弱しい女の声を作る。
屋敷の傍まで飛翔して、錆びた扉の真ん中をコンコンと叩いた。
「誰か、誰かいらっしゃいませんか。‥‥道に迷って街に行けなくなったんです。今晩だけでも泊めて頂けませんか?」
返事はない。数秒の時間が過ぎた後、分厚い扉が隙間を作り始めた。主の人影が映し出される。
「おやおや。今回はとても美しいお客様ですね」
出てきたのはまだ若い、二十歳前後だと思われる長身の青年だった。
肩に微かに触れる金茶の髪、優しげで上品な風貌。色素の薄いアイリスの瞳が愛想良く細められた。男にしてはやや細い身体を包むフリルのシャツが、寄り一層匂やかな気品を放つ。人柄の宜しい雰囲気に中てられそうになった。
これが標的なのだろうか。にわかには信じがたい。
けれど。
「‥‥夜分にご迷惑をおかけします。道に迷ってしまいまして。納屋でも構わないので、どこか一晩眠れる場所を貸して下さいませんか?」
本能が告げる。こいつの体内で様々な血が入り混じっている、と。
ならば徹底的に裁くまで。
「迷い人ですか。女性一人の身では大変でしたでしょう。どうぞお入り下さい。納屋とは言わず、ちゃんとした寝床を提供しますよ」
頼りない面差しの裏に隠された激情を察知せず、青年は無防備に狩人を受け入れた。――――あるいは、互いに仮面をつけ合っているのかもしれない。
レナータもそこまでは考えついていないのだろう。そのまま足を踏み入れた。