上司との対面
今朝、無造作に束ねた髪を結い直し、頬を叩いて気を引き締める。
自分の実力を一番に認めていくれている人に、情けない醜態を晒すわけにはいかないのだ。
だるそうな姿勢から瞬時に殻を破った女に、周囲はちらちらと視線をよこす。煩わしくてそれらの一つを睨んでやると、不幸な該当者は震えた手で敬礼した。懸命にも、自分と彼女の格差は理解しているようだ。
諸国でも珍しい髪の色をしていると、嫌でも目立つ。またそれが彼女の傑出具合を示しているみたいで。
決して第一等ではないが、レナータは特殊部隊でも『首席』と称されるほどずば抜けた魔術師だ。彼女が生まれる前に死んだ父親も魔術師だったから、遺伝らしい。
レナータの魔力が発覚したのは六歳の夏。転んでできた傷を瞬時に治したのを、母親が目撃したのだ。
人間と懸け離れた異形のモノ――――人々はそれを『異族』と呼び習わす――――に夫を殺された傷が癒えない母親は、また同じ悲しみを繰り返したくないと娘を捨てた。数少ない魔術師で構成される近衛師団、特殊部隊に。
拾ったのは現在のエルトゥールル特殊部隊長だ。幼い少女の魔力を有力視した彼が、責任を持って最高の魔術師に仕立て上げると誓ったのだ。
彼の理想に近づけたのかは不明だが、それでも今の自分は隊長の存在があったからこそとレナータは信じている。だからこそ、彼だけには女々しい姿を見せるのは嫌だった。
重厚な扉の表面を叩いて、無表情のまま入室する。
執務室の豪奢な椅子に腰かけ、組んだ手に人の良さそうな顔を乗せる男。足音を控えて歩み寄ると、執務机に寝そべっていた白猫が背筋を伸ばしてにゃあと鳴いた。ふわふわの毛並みを、その男は愛おしげに撫でる。
エルドリッジ・ケイトン・エルトゥールル。特殊部隊を総轄する弱冠三十四歳の隊長だ。六歳の頃に入隊させられたレナータを、以降ずっと見守ってきてくれた恩師でもある。
こうして彼が隊長となり、彼女が特殊部隊首席に昇り詰めても、二人の関係は変わらない。
レナータがフェルデンから伝言を聞いた旨を伝えると、エルトゥールル隊長は途端に真剣な面持ちになった。
「最近は君を酷使しているようで悪いが、別の隊員では力不足でな。一日ぐらい休ませてやりたいのだがそうもいかない。――――君の実力を見込んでのことだ」
そんな前置きをされてしまえば、反射的にレナータの姿勢が正される。
最も尊敬している人物はと問われれば、躊躇いなく彼だと断言できる。だから彼に欠片でも認めてもらえると、自然と引き締まるのだった。
エルドリッジは書類の束に目をやりながら、本題に入った。
「サルヴァトーレ郊外の村で吸血鬼被害が出ているらしい」
「吸血鬼?はあ‥‥」
ありふれた種族である。レナータが正式に特殊部隊員となって早八年。そのうち吸血鬼被害は経歴の半分まで達していることだろう。
吸血鬼は他の異族より頻繁に人と接触する。定期的に人血を摂取せねば餓死してしまうからだ。中には獣の血で生きている者も多く存在するが、大概は人である。今日では各国の魔術師が徹底的に討伐しているので、些か影を潜めている節があるようだが。
「昨晩までで被害者数は五十近く上っている。幸いにも死者はいない」
一体どれだけ殺したのだろう、と思ったところに意外な報告をされて不信感が募る。
「いない‥‥だって?」
その村での被害は昔からちらほらあったそうだ。しかし被吸血者が一月に数えるほどしかいなかったのと、村おこし事業に専念していたので暗い外聞を抑えたかった内情から、隠し続けていたのだ。現在になって事態が重くなった為、村長が視察に来た役人に報告したという。
「しかも生者の首筋にある傷跡が死者とまるで違う。‥‥これが検察官のスケッチだ」
厚い紙を手渡される。白い紙面には生々しい描写がなされていた。
初めこそ、絵とはいえ見るに堪えない情景に目を逸らしていたが、回数を重ねる毎にそんなのも薄れてしまっていた。特に王道ともいえる被吸血死体となれば。
だから別にスケッチなど見せられなくても想像がつくのだが、今回ばかりは違う。今回は死者でなく、生者なのだから。
確かに死体とは一目瞭然だ。死者の首は吸うというよりは抉られたような痕があるけれど、この生者の傷は――――絵で見る限り――――打ち身に似ている。
経験上のケースとは大違いだ。小さな傷跡といい、そして‥‥。
「生還者がいるというのは驚きです」
素直な感想に、エルドリッジは神妙な面持ちで頷く。
そう。吸血鬼と遭遇して生還できる可能性はほぼ皆無と言われている。彼らは血液という血液を残さず吸い上げるからだ。身体機能が未熟だから自制が効かないのだ。たとえ飲みきれずに捨てたという場合でも、充分死に至らしめるまでには奪っている。
だからこそ、生者という言葉とその大人しい傷口に疑問を抱かざるを得ないのだ。
「心して行けよ。もしかすると純血かもしれん」
純血。
白猫の真紅の眼と碧眼が交わった。