妖精で論文発表を検討中です
クロエの言葉通り、部屋は豪華だ。いや、豪華すぎた。
入った時はそうでもなかったが部屋をじっくりと見回す時間ができると毒が回るように圧倒され始め、そわそわした。
あてられた客室には酒の瓶がずらりと並べられた棚が一つ。窓際に丸テーブルとイスが三つ。大きなソファー。
それから二人か三人はゆったりと寝られそうな屋根付きのベッドが配置されていた。
何を想定したベッドの広さなのだろう?
ピンク色の妄想が浮いてしまうのは男の仕様だ。きっとただ豪華なキングサイズなのだと信じたい。
他にも壺や絵画、剥製などの調度品もあったが半径一メートルを避けて歩いても余りある広さである。
三十畳……いや、もう少しあるだろうか。
結果、黄金色のオーラには絶えず目を焼かれた。
つまるところ、庶民の風見にはかなーり居心地が悪い。1K(六畳)とはえらい違いなので部屋そのものに圧迫感を覚えてしまうのだ。
ヘビなどは隠れる場所もなく、ケージが広すぎるとストレスを感じるらしいが風見の症状もそれに近い。
「あの、何か気に障ることがあったのでしょうか?」
「そうじゃないんだよ。十分に良くしてもらってると思う。というか良くされ過ぎているから逆に、な?」
「なるほど、そうでしたか。ジューイ様がおっしゃられるように私もこのような場所は落ち着かないですね。正直、ぼろ布一枚を身に包んで寝ていた修道女時代の方が私の身の丈には合っている気がします」
深窓の令嬢みたいな容姿のくせにさらりと凄いことを言った。
シンデレラのようにこき使われ、冬は水汲みでかじかんだ指を吐息で温める――そんな感じなのかと聞いてみたらクロエは「もっと凄かったです」と笑って答えていた。
冗談だと信じたい。
「けれどそれは己の都合。ドニ様がこうやってもてなすのは彼なりの示威であり、期待でもあるのです。拒むのは楽ですがそれは他人に泥を塗る行為にもなりかねません。なら私がすべきなのは拒むことではなく期待に応えることです」
「期待はともかく示威って神官が認めちゃっていいの? 皆が清く正しく慎ましく生きましょうとかが宗教では普通だろうに」
目を丸くしているとクロエは「いいのです」と頷く。
戒律に縛られるのが宗教だと考えていた風見には随分と大雑把に思えた。
「私達はそれぞれが自分に、その生業に恥じない行動をすることに重きを置いています。行動にこそ宿る神を信仰するのが私達の宗教観と言えますね。だからハドリア教には特定の神がいません」
無法者でも義賊と呼ばれるものがいる。
例えば創作のゾロやルパン、実在の石川五右衛門の行為は犯罪だが、それが悪い権力者から金品を盗んで貧しい民衆にばら撒くならヒーローと言われるだろう。クロエの宗教はそういう者を否定しないのだ。
むしろそれもできる人であれと説く。
騎士だろうと野盗だろうと、己や隣人を守るためにそうであるしかないなら迷いなく己を貫けと教える。
自分ができることや最善を行うことが結果的に一番多くの人を救うというのが教えであり、それができるものは自分の中の神が祝福してくれるというのが彼女らの考えの中心なのだそうだ。
(あの召喚も結果的には多くの人を救うって思ったからやったのかな……)
それは病気を蔓延させないために動物を殺処分にしてきた風見の仕事を人にまで波及させた行いのように感じられ、彼としては複雑な心境だった。
彼女らは俺を召喚するためにアレを行った。――だから俺のせいでまた人が死んだようなもの。
つい最近、割り切れない経験をした彼にはそんなマイナス思考が付きまとってしまう。
「そもそもこの考えがこの地に根付いたのはマレビト様がいらっしゃるからこそなんです。簡単に言えば――」
彼女は椅子を引いて立ち上がった。
何かを示そうというのか風見に微笑んで一歩近寄ろうとする。が、彼女が持ち上げた足はテーブルの脚に引っ掛かって取られてしまった。
「あっ……、」
「ちょ!?」
風見は椅子から乗り出し、傾いだ体を慌てて抱きとめる。
漫画以外ではそうそうできる芸当ではないだろうに、彼女は両手をバンザイして顔面から突っ伏すこけ方をしていた。
腕の中にいる彼女に無事だったか聞こうとすると、苦笑して「こういうことなんです」とお茶目に舌を出された。
何かを謀られていたらしく、風見は「う、うん?」と目を点にする。
「無形の神様は何もしてくれません。心が傷つこうと、怪我をしようと、財産を奪われようと、餓えようと、凌辱されようと、命を奪われようと――何もしてくれないんです。どれだけ祈りを捧げても、どれだけ手を伸ばしても、何も。助けてと暗がりで泣く私達に光をくれたのはマレビト様でした」
「それってつまり、救わぬ神より救う人って言いたいのか?」
「はい。祈って救われるのなら世界はもっと優しいです。私はあの時、奴隷の少女にも救いの手を差し伸べようとしていたジューイ様に感動しました。祈り、慕うならむしろ猊下の、ジューイ様のようなお方に対してです」
だから無形の神様には祈らないのだと少女は語った。
(要するに俺にも神様級の奇跡を期待してるってことか)
けれど一体何をどうすれば彼らの求めに応じられるのかが判らない。
魔王を倒せばOKです――なんて言われてもただの一般人にそんな能力を求めるのは間違いだ。
RPGの代名詞の如く、どこぞの王様が勇者を集わせるべきだろう。
それにあんな血生臭い召喚が関係していた相手に従って行動するのが本当にいいことなのかまだ判断がつかないところもある。
まだ様子見が必要だと風見は感じていた。
「慕ってくれるのは嬉しいけど、なかなかの無茶振りでもあるよな。喚ばれてくる人が良い人とも限らないし、役に立つ人とも限らない。それにもし断られていたら一体どうするつもりだったんだ?」
「喚ぶ相手の人柄などを見て、それから召喚するそうです。けれど相手の意志とは関係なく救済を強要しているのは確かです。私達は苦しい状況だからとあなたに泣きついているだけです。それを横暴だと言われても仕方ありません……」
悪い言い方をすれば勝手に呼び出し、重責を無理やりに押し付けるのが召喚だ。
彼女もそのことは心苦しく思っていたらしい。眉を寄せ、告解のように懺悔していた。
「しかし苦しんでいる方がいるのも、今の私達では救いようがないのも真実なのです。私はあなたがそれを救ってくれるように導けと言いつけられました。お願いできることではないかもしれませんが、それでもどうかご協力くださいっ! 私などでは足りないかもしれませんが私の全てと一生をかけてご恩を返します。だからどうか……!」
クロエは風見の手を両手で握り締め、縋り付くように祈った。
その真に迫った声は本音なのだろう。とても演技で出せるものではなく、風見の心にもじんと響くものがあった。
彼女はどんな返答が来るかと不安そうに震えながら手を握り締めて待っている。
「喚ばれちゃったもんはもうしょうがないし、俺にできることなら協力するよ。だから安心してくれ」
「は、はいっ……!」
顔を上げたクロエの瞳には涙が溜まっていた。
それほど切に願うものだったらしい。微笑むと同時に一滴が零れ、彼女の頬を伝っていた。
「でも、クロエはどうしてそこまで真剣に思うんだ? 無償で誰かのためになんてそうそう思えるもんじゃないぞ」
「初めはただ単に人助けは尊いと教えてこられたからです。ただ、人助けをするほど助けられない命を実感してしまったのです。餓える人も、病に苦しむ人も……目の前で殺される人も見ました。その中には私が殺したも同然の命もあるんです。だから私はその方々のためにも意味のあることをしなければならないんです」
元から聖女のような子だったが、あの光景を見てより一層気負ってしまったのだろうか。
寿命で死に掛けたペットや、臨終の間際の人を見たことがあるなら彼女が抱いた無念やもどかしさも理解できるだろう。
彼女はそれをあの場で死んだ人の数だけ馬鹿正直に背負ったようだ。
今日び医者を目指す人間だってここまでは言えないだろう。
十代の半ば程度でここまでの意志を持てたらもうそれだけで大したものだ。
「そっか。クロエは偉いんだな」
とんでもないと否定しようとする彼女の頭を撫で、ならば少しでも彼女の手助けをしようと風見は続けて話を聞こうとした。
「えーと、それでこの世界に慣れるって言ってもこれから何をすればいいか教えてもらっていいか?」
「あ、はい。やはりまずは知ることから始めないといけないと思います」
「……知る?」
テーブルの向かい側に座り直したクロエにオウム返しした。
「端的に言えば見て人の生活を知る。学んで言葉を知る。鍛錬して武芸を知る。そういうことを徹底的にしていくことになりますね。何を行うにしても道のりというものは必要だと思います」
「異世界……なんだよな。しかも魔法がある世界。そういうのって魔法とかでさくっと教えてもらえたりとかは……」
「魔法――現代では律法というのですが、それは血統によって使えるもので、効果は様々です。しかしながら多くは物理現象を操るもの。幻覚や催眠も可能ではあるのですが、流石に情報量が桁違いなので不可能かと思います」
「……あー。つまり、地道な勉強?」
「地道な勉強ですね」
「……」
風見は無言で首を振った。
ちょっと眩暈がしたのだ。
「……どのくらい?」
「ひと月で終えましょう! 私が知る全てをジューイ様から片時も離れず、お伝えさせていただきます!」
ずがん、と。
宣言された瞬間、風見は断頭されたように頭を落としてテーブルにぶつけた。紅茶とお茶菓子がはねたが、気にしない。
気にできるほど精神にゆとりがなかった。
(魔法で言語が通じるんじゃないのか!? 海外協力隊みたいなことをすれば終わりじゃないのか!?)
予備校時代には潤いなき勉強の嵐。
大学生時代にはテスト前に図書館籠り。レポート&論文提出に苦しむ。
社会人となっては検査室で細菌やウイルスの検査につきっきり。ついでに年に一度は研究発表が待っている。
人生は勉強とはよく言ったものだが、二十六歳で異世界に来て言語や常識、武芸までも再び勉強させられる羽目になるとは思ってもみなかった。
そういうのはせめてチート技能の一つでも授けてからにしてもらいたい。
しかもよく考えればこれは始まりに過ぎない。
これはあくまで下準備であり、その後には真の無茶振りが待っているという二段構えだ。最終目標が具体的な数値でないところがとてもイヤらしい。
どうあがいても絶望。その一言に尽きる。
クロエは勉強アレルギーという言葉を知らないらしい。突然倒れた風見に驚き、イスも跳ね飛ばす勢いで縋り付いてきた。
その心配だけはありがたい。
「ジューイ様!? やはりあのっ、お疲れなのですか!? い、今すぐ医者をっ」
「いや、俺も一応医者だし……」
げっそりとしつつクロエに目を向けると彼女は何かを大事そうに抱えていた。聖書なら神官らしいなと思ったらそれは羊皮紙の束と羽ペン、インク壺である。
奴は俺を殺す気だ。
風見はその瞬間、そう確信したという。
「もう駄目だぁ、おしまいだぁ……」
「そ、そんなにお具合がっ……!?」
泣き言を口にするとクロエはどうしましょうと目に見えて狼狽えるのだった。
……が、それが仮病だと認定されたが最後、風見は「騙すなんて酷いです!」と本気で涙を流され、陽が暮れるまでみっちりと言語学習をさせられる羽目となった。
涙する女の子に勝つ術なしである。
□
「お疲れ様です、ジューイ様。本日はここまでにしましょう」
授業は凄まじかったのだが、クロエは夜が少し更けると「お疲れでしょうから」とすぐに引き下がっていった。
勉強には照明が必須だ。
こちらの世界には電気の照明がないので夜中に起きておくのはデメリットが多いようだが、それでも早すぎる就寝ムードである。
どうやら召喚はそれほどの大イベントだったらしく、気を遣われてしまったらしい。
「んー、日頃深夜まで起きていたせいでまだ眠くないんだよなぁ」
しかし風見としては召喚され、接待されただけという気もする。
それほど疲れもない彼にはまだまだ眠気がきておらず、仕方ないので窓から外を眺めて眠くなるのを待った。
ここはやはり異世界。地球とは一風変わった夜の景色があった。
まずトンボに近い虫が蛍のように発光しながら窓の外を飛んでいた。さらにそれらと戯れるようにこれまた淡く光る妖精が数匹編隊で追っかける。
……で、たまにもつれ合って墜落する。
大丈夫なのだろうか?
あとは得体の知れない光るもやが流れていったりするがあれはよく判らない。オーロラみたいな何かだ。
もしかしたらこれにはマナとかミストとか魔晄とか魔法素なんて名前があったりするかもしれないが触れても害や効果は特にないようだった。
「ふーむ、異世界らしいな。妖精、妖精かぁ……」
面白い。実に面白い生き物である。
こちらにはクロエのような普通の人に加えて亜人という種がいる。
基本的なところで言うと人+犬という感じなのだが血の濃さによってはリズのように耳と尾だけが獣要素だったり、銀の弾丸で倒されるような全身毛むくじゃらの狼男がいたりする。
進化論的に考えれば犬などの方から人型へ進化したもの――なのだろうか? その辺りはDNAで塩基配列を比べてみないと不明だ。
確かにこちらもこちらで興味深い。
しかし、ならば妖精はなんだろうと風見は考えた。
虫だろうか?
それとも虫っぽい羽根を獲得しただけの哺乳類だろうか?
そこがとてもとても興味深い。
ついでに言うとあの体型でどうやって浮力を獲得しているのかも非常に気になる。あの形状では鳥のように上昇気流を捕まえる方法は無理だ。
実のところ、ハーピーを現実に作ろうとすると逆三角形どころではないマッチョでないと無理らしい。
羽付きのかわいい女の子がボディビルダーも真っ青な肉ダルマだったら悪夢である。
「いつか調べてみたいなぁ……」
風見の周りにはいつの間にか、ふふふふ……! と得体の知れない科学者オーラがかもし出ていた。
具体的にはどう研究するか。
まず進化の家系を調べるならいくらか方法がある。まずは骨格を比べること。次にDNAを比べることが一般的だ。
飛び方を調べるなら航空力学と羽を動かす筋肉などを重点的に調べたりする。
ただ、厳密に解き明かそうと思えばやはり数十から数百くらいは切ったり開いたりする必要があったりする。
つまりお子様には見せられないモザイク必須の研究がいるわけだ。
すると野生の勘だろうか。妖精達はびくぅっと過度に反応して散ってしまった。
「あ……、」
そういう切ったり開いたりはできない相手だなぁと思った矢先のこと。
もう少し見ていたかったのに……と残念に思うが、逃げられてしまったものはしょうがない。
「明日辺りからいろいろと調べてみようかな。異世界らしいこととか、召喚主の真意も含めて」
いくらか時間も経ち、ほどよく眠気もやってきたところだ。今日はこの辺にして寝ようと彼はベッドに入るのだった。