異世界にINしました
よく見た展開ではどうだっただろうか。
確か奇妙な現象に巻き込まれた主人公は穴に落ちたり吸い込まれたりすると意識を失い、目覚めるとそこは異世界――そんなところだ。
「研究室……じゃ、ないよなぁ。どう見ても」
しかしながら風見の感覚も記憶も途切れはしなかった。
その過程で彼が目にしたのは果たして現実だったのか否か。それはどう頭を捻ろうと出ない答えだ。
砕け散った世界を見た。
砕け散った自分を見た。
けれども体がそこにあるのは感じていた。手もあるし、足もある。感じようと思えば心臓の鼓動だって判った。
いくつもあった感覚の中、まずは慣性が消える。
視界は判ったものではなかった。
世界にヒビが入り、風景がメッキのように落ちた辺りから全く意味不明だ。
同じ風景の植生が変わっただけのものも見えたし、かと思えば万華鏡をのぞき込んだかのような妙な世界が見えた気もした。
現象の意味が判らない度合いで言うなら不思議の国のアリスと同じレベルだったかもしれない。
ぐにゃんぐにゃんと歪む風景は何の関連もなく移り変わっていく。
だが一つだけ奇妙な部分がある。
それは“赤”が今も前もずっと付きまとってくることだ。窓に吹きつけていたはずの血の雨はどんどん激しくなり、どしゃ降りで全てを埋めていく。
色を失い、また新たな色を発し……。
赤と走馬灯の世界にとうとう吐き気をもよおした風見は口を押えてその場に手をついた。
「地、面……?」
手がつける――らしい。
そういえばいつの間にか落下のような感覚が消えていた。
彼は地面を見つめてからようやく気付いた。
もうすっかり異常は止み、重力も戻ってきている。
「おぇぇぇっ…………。うぅ」
だが気持ちが悪い。酷い車酔いや荒れた飲み会明けのような気分だ。
残念ながら自分の中で渦巻いている気持ち悪さを吐き出せないまま、風見は青い顔を上げた。
視界は白く曇っている。
まだ目がおかしいかとも思ったが、肌をひんやりと湿らせる感覚からすると霧なのではないかと推測できた。
目を凝らしてみれば薄っすらと木々が見える。
思い出されるのは映画などでよくある、濃い霧が森を覆っていたシーンだ。視野はほんの五メートルもあるかどうかである。
視線を下げれば地面には腐葉土が広がっていた。
やはり森で違いないらしい。
半径一メートル足らずに樹が生え揃い、下草はほぼない。まばらに幼木が見える辺りはブナの陰葉樹林っぽく思える。
尤も、そんなものを気にできる余裕はまだない。
「うぁ、もう一波来た……」
風見は喉の奥まで競り上がってくる感覚をなんとか飲み下そうとしていた。
研究室や大学は一体どうなったのだろうか?
果たして、よく判らないこの場で吐いてもいいものかと悩んでいた時、彼はふと足元に肌色を見つけた。
両手を荒縄で縛られた、華奢な手だった。
視線に気付いたのか、それはぴくりと動きを見せて弱々しく動き、ズボンの裾を握ってきた。
「女の子……?」
年端もいかない少女がうつぶせに転がっていた。
小柄だが、中学生くらいだろうか。よく見れば彼女は華奢というよりも痩せ衰えたと表現する方が適切だろうか。
頬は若干こけているし、唇は荒れている。茶色の長髪もつやがなく、目下のくまもかなり深かった。
それに衣装も気になる。
彼女が着ている服は最近あまり見かけない麻のようで、それもこんな若い子が着るにしてはデザインも悪かった。
ロングスカートと質素な作りのシャツで、粗悪品を掴まされているようなイメージがある。しかもところどころが擦れたりよれたりするほど着込んでいるようだった。
簡単に例えるなら中世の村娘のような格好である。
「……ぁ。――……くふ。…………っ」
そんな服ばかりに気を取られていた風見は陸に上げられた魚のような少女の喘ぎ声を聞き逃していた。
彼女は苦しそうな吐息をしながら助けを求めて裾を握りしめてくる。
「あ、おい大丈夫か? 意識と感覚はちゃんとあるのか?」
大学の研究室にいたはずがいつのまにか森の中。その上、よく判らないうちに縄で縛られた少女に遭遇。
今までを思い返したが何の筋道も立たない。
現状は全く以って理解不能だが少女の具合が先決だった。もしかすると彼女は酷いぜんそくで呼吸がままならないのかもしれない。
風見は腹式呼吸がしやすいようにと上体を起こしてやる。こういう時、寝かせたままだとかえって呼吸し辛くなるものだ。
だが、風見はその瞬間に目を見張ることとなった。
髪がさらりと流れて露わになったのは“赤黒く染まった”首筋だったのである。
「なっ……」
目を凝らせば血に塗れた首には一本線の切り傷が見えた。
十中八九、鋭利な刃物で切られた傷だろう。それほど深くはないが、浅くもない。
血が黒っぽいし、流れも緩いので恐らく頚静脈が切れているのだろう。
霧でよく見えなかった地面には大量の血が染み込んで血だまりになっている。
下にしていた少女の右半身にもかなり血が染みており、もうすでに手遅れになるか否か……そんな瀬戸際に見えた。
『助、けて……』
少女は弱々しくささやこうとしていた気がした。
だがここには輸血用の機材もなければどこなのかも判らない始末だ。
これも奇妙な夢の一つだったら良かったが、ぞっとするほど冷えた少女の体温はこれが現実だと風見に突き付けてくる。
(なら、どうやって助ける……!?)
通常、血液が足りないと低血量性ショックになる。
血が足りないと血圧が減り、脳や重要な臓器に血が回らないから酸素も届かない。そうなると体は重要な脳や臓器に血を集中させてしまう。
するとエネルギー供給が上手くいかず、心臓にも新たなエネルギーが届かないために非常用のエネルギーを使い始める。しかしそれを使うと心機能を低下させる老廃物が溜まってしまい、心拍は段々と弱まって死に至るという悪循環だ。
輸血。さもなければせめて輸液か、血圧が低下して血管が潰れてしまう前に輸血用のルートを確保しなくては。
風見は持ち合わせの知識で対処を考えたが、現状では治療できる場所へ一刻も早く連れて行くのが最善だった。
「呼吸は深くしっかりとしておくんだ。すぐに治療してやるから少し辛抱しろ」
酷なようだが自発呼吸だけはしてもらわないといけない。
風見は少女の瞳を見つめて強く言いつけた。
少女は這い寄ってくる冷たい感覚に怯えながらもこくんと頷く。風見は強い子だと褒めるように目で語りかけ、背負おうとした。
ぱきっ。
不意に小枝を踏み折る音がした。
顔を上げてそちらを見れば霧にシルエットが浮かび、誰かが歩み出てくる。
まず見えたのは翡翠色の瞳だった。
冷たい、無機質に相手を見据えるそれ。風見はそこに狼の瞳を幻視して肌を粟立たせた。もちろん、本物がいたわけではない。
現れたのは褐色肌の少女だった。
腰には二本のサーベルを下げ、足には丈夫そうな皮のブーツを履いている。
着ているものは綿でできた普通の服ではなく、青みがかった灰色の制服だ。その装いには威圧感のある硬さが感じられ、軍服を思わせる。
容姿といい、衣装といい異国の人としか思えない。
夢とも現実とも定かではないのにこれだ。風見は困惑していた。
天の助けなのか、否か。それが問題だ。
風見は警戒した瞳で軍服の女を観察する。
すると彼女は風見と少女を順に見てからポケットをまさぐり、細い何かを取り出した。小指サイズで穴が一つしかない……笛、だろうか?
彼女はそれを咥える。
すると何もされていないのに耳がキーンと痛んだ気がした。
(犬笛か?)
耳から頭の奥へと響くこの感覚は他にありそうもない。
数秒も吹くと笛はしまわれた。
彼女は腰を過ぎるくすんだ灰色の長髪を揺らしながらゆっくりと近付いてくる。
「Voce e um convidado(お前は誰だ)?」
(……何語だ?)
「……Voce e o convidado do assunto(ああ、なるほどね。お前が例の)」
軍服の女は風見を見つめて浅く口の端を上げる。
笑みだったのだろうが微かに陰湿さが漂う妙な表情だ。聞き覚えがない言葉といい、どこか不気味に感じられてしまう。
「Eu empreendo isto posteriormente(あとは私が引き受けるよ)」
彼女は相変わらずの表情で少女の傍らに寄ると風見に向かって真っ白い手袋をした掌を向けてくる。
そのまま静止しておけ。構わなくていい。
そういう意味なのだろうと推測できた。
「……ぅ、ぁ」
彼女が少女を引き受けた時、少女はかすかに震えた気がした。
気のせいだったのかと風見が手に残る感触を思い出していると彼女はすっとサーベルを引き抜く。
(やっぱり本物だったのか)
刀身の輝きと使っているからこその味が本物を感じさせた。
しかしそんなもので何をする気かと注目していると、彼女は荒縄を切った。少女の手はばさりと音を立てて腐葉土に落ちる。
そして彼女は一転して穏やかで優しい微笑み、少女を抱きしめた。
まるで姉が妹を慈しむかのような顔である。
「Obrigado. E um trabalho excelente(ご苦労様。お手柄だね)」
その言葉に少女は弱々しく笑みを作ろうとしながら頷く。
だが、少女の顔には泣きそうな表情が見え隠れしていた。
軍服の女はそれをなぐさめ、落ち着かせるように頭をいくらか撫で――おもむろに少女の首を捻った。
何かが折れる音がして、
少女は首をありえない方向に曲げて、
軍服の女が手を放すと腐葉土へと倒れ込んだ。
「――っ!?」
風見はすぐに女を突き飛ばして少女を見た。
呼吸は、もうなかった。
見ていると瞳孔は徐々に散大していく。
要するに、そこにはもう死体の反応しか残されていなかった。
首の骨がこうまで折れて中まで断裂されると意識は一瞬で断たれ、呼吸の命令も届かなくなってしまい手の施しようがない。
即死だ。
彼は言葉が出せなかった。
目の前で失われた命を惜しみ、悔やみ、息を詰まらせた。
思わず拳をぐっと握り締めた時、彼は殴り倒すべき悪を思い出した。
鋭い睨みで軍服の女を捉え、――ひゅんと音を立てて眼下から振り上げられる“何か”。
咄嗟のことだったが彼はのけぞってなんとか回避した。
いや、回避させてもらったのだ。
無理な動きで背後に倒れそうだったのを何とかこらえたのだが、翠色の眼光はそんな彼を嘲笑しているようだった。
ぱさん! と音を上げて舞いあがる落ち葉。
気付けば風見の股の間には鞘に収まったサーベルが突き立てられていた。
影を縫われたのか。
はたまた蛇に睨まれたのか。
その瞬間を境に風見は行動というものを忘れてしまった。
いきなり放り込まれた危険な舞台に、風見はわっと噴き出す嫌な汗を感じた。