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獣医さんのお仕事 in 異世界  作者: 蒼空チョコ
異世界召喚編
4/62

プロローグ

書籍化に伴い、WEB版のこちらは若干変更されました。

ダイジェスト化回避には3分の1以上、文章・類似したシーンが被ってはいけないのだそうで似たようで違う流れとなっております。

そのため、書籍とWEB版は別々で楽しめるのでよろしければ両方お取りください!


そして獣医や医学というテーマ上、書籍版もそうですがこちらのWEB版では特に緩い物語のみを期待される方にはお勧めできません。

異世界の生物、農業や医学、それらの改善などをじっくりと考えたい大人や、ドラゴンやファンタジーのロマンが好きで生物好きな人向けです。

書籍版とはグリム童話の原作と普通のもののような感じで楽しんでいただけると幸いです。

 


 さて、獣医という職がある。

 動物のお医者さん、ドクタードリトル、愛犬ロシナンテの災難などなど色々な作品で描かれるアレだ。

 この職業は漫画や小説、果ては映画でも取り扱われているから知らない人はほぼいないだろう。

 


 動物を相手にするお医者さん。

 多くの人が抱く印象はそんなところのはずだ。

 


 しかし実を言うとそれが全てではない。

 年に約千人ずつ国家試験に合格した獣医学生の四割から五割ほどが動物病院に就職し、残りはあまりドラマなどでは写らない場所で活躍する。

 


 判りやすいところだと、動物園や水族館など。

 判りにくいところだと、農済と呼ばれる農業共済組合や保健所の衛生担当、空港の検疫、製薬会社の研究職など。

 


 獣医というものは人気の反面、動物を相手にするので人間の医者とはかなり勝手が違うことも多いが――それは置いといて。

 軽いスーツに見えなくもないカジュアルな服装で取り繕った風見心悟かざみしんごもその一人だ。

 


 彼を一言で言うと無難の男である。

 イエスかノーで聞かれたらまず、うーんどうしようかなと悩む。

 食堂に行ったらとりあえずおすすめか日替わりメニューを選ぶ。

 


 彼に欲を聞けば唯一、趣味に生きることと迷わず答える。

 彼は幼い頃からアニメ、ゲーム、漫画、小説など夢やロマン、ファンタジーといったものに影響されていた。まあ、それもサブカルチャーに溢れた現代ならさして珍しくはないだろう。

 自分は自分の人生の主人公というが、彼が獣医という珍しい職を選んだのもそんな夢やロマンの一端を自分も演じてみたいと思ったからかもしれない。

 


 採用数が医者の十分の一しかないため、一部では医者以上に難関だと言われる獣医。そんな獣医はやはり他とは違い、大学内でもちょっと変わっている。

 まず、国公立大学では三十人ほどの少人数となっている上に同じ志を持っているのでクラス全体がとても親密になりやすい。

 現役入学もいれば一浪、二浪も当たり前。大学卒業後や社会人から入学した三十代や四十代の人も六学年中、数人はいる。

 


 また、上の学年とも多くの交流会が設けられていて全体が知り合いで教授も含めて仲がいいというのが獣医学科の特徴と言える。

 獣医という特殊な職業柄の連帯意識は強く、学生の時から日本獣医学生協会(JAVS)という全国的な繋がりもある。

 それは全国獣医大の交流だけでなく、海外獣医大との交換留学の斡旋や、社会で働く獣医との講演を設けたりと大学一つに縛られない動きがあるのだ。

 


 今まで嫌々と行なっていた数学や社会、国語や英語の授業も大学二年を終わる頃にはなくなり、獣医としての専門的な学問と実習に埋もれることができる。

 このような特色と大学の自由さも相まって、やる気さえあれば実に充実した学生生活が送れるのだ。

 


 風見はそんな大学から離れるのが惜しく、大学院に進むことでもう少しばかりモラトリアムを延長した人種だ。

 その本分である授業があれば大学におり、そうでなければ所属している研究室で研究をする。余った時間があるなら大学の伝手で紹介される獣医関係のバイトである程度の収入を得ているというのが彼の生活だった。

 


 研究室というのは、自分が勉強したい学問を専門とする教授の下で実験やルーチンワークをこなすところだ。

 それは大きく三系統に分けられる。生体の基礎系。感染症系。臨床系の三つだ。

 


 基礎系は解剖学、生理学、薬理学、毒性学など生物の基本的な機能や、薬や毒が生体に与える影響の研究だ。生き物の仕組みの基礎を学ぶ場所であり、発展すればiPS細胞など再生医療の研究も行える。

 感染症系は微生物学、寄生虫学、感染症学、公衆衛生学など病気を引き起こす微生物の研究だ。バイオセーフティーなどのある研究室での研究や、食中毒や施設の衛生を検査するイメージで差し支えない。

 臨床系は外科学、内科学、放射線学など実際の動物病院での仕事を大学の動物病院で行いながら研究をする。その研究は病院に連れてこられた動物への治療に関することが主となる。

 


 それらの中、風見が所属していたのは基礎系に分類される病理学の研究室だ。

 そこでは病気や奇形で廃用となった産業動物や病死した動物園の動物の死因調査、動物病院から依頼された病理組織の鑑定などがルーチンワークとなっている。

 


「風見君、すまないが今日農家が肺炎の牛を持ってくるんだが解剖をやっといてくれんかな? 僕や大学生は授業があって手が空いてないんだ」

「はい、大丈夫です。報告はいつも通りまとめて、解剖最中の写真も何枚か撮っておけばいいですね?」

「悪いね、頼むよ」

 


 研究室でウイルスについての論文を読み漁っていたところ、老齢の教授がそんなことを言いに来たので「いえ」と軽く返しておく。

 研究室に回される仕事は大学生や大学院生が教授の指示でこなすのはいつものことだ。

 教授は自分の仕事や研究の補助を学生に頼み、学生は自分の研究の助言を教授にしてもらう。そういうギブアンドテイクなのだ。

 


「それでそいつはいつ来るんですか?」

「もうじき来ると思うんだが――おお、来たみたいだ」

 


 話をしていると、ぶろろろとトラックのエンジン音が外から聞こえた。

 教授は風見の肩を叩いて念を押すと時計を見、「おっと、いかんいかん」と言い残して足早に去っていった。

 


「さて、じゃあやってきますか」

 


 一人で行うには少々重労働なのだが、仕方がない。

 ツナギに手を通し、ささっと着替えてしまった風見は相手を待たせるわけにはいかないと迎えに走るのだった。

 


 


 


 □

 


 


 


 古くより、血には力があるとされていた。

 それに異常があれば人は病み、それを失えば死に至り、動物の血を飲めば活力が沸くとまで言われるのだからそこには何かがあるのだと思えてしまう。

 


 そして事実、血は律法の力を高めた。

 百や千の律法使いから血を集めれば奇跡や天変地異でも起こせるとまで言われている。

 


 かつてその奇跡は四度成った。

 異世界から人を召喚するという奇跡だ。

 最初の一人は血で血を洗う戦場で偶然に召喚され、言葉に窮しながらも戦場で傷ついた人を助け、後に人を導いて争いの火種を鎮めたという。

 


 それらの奇跡ではいずれも異邦の知識により多くの人が救われた。

 伝えられたものは武器、戦術、文化、技術、食物など様々な形があるが、どれも奇跡と言うに等しい功績となっていた。異邦はこちらの数百年、もしくは計り知れないほど先を行った世界なのだと人は言う。

 そんなものを異世界からもたらしてくれた客人――マレビトは猊下と尊ばれ、勇者や英雄以上にもてはやされた。

 


 魔物が跋扈し、国々は領土を求めて争う。

 この世界は繁栄と衰退と隣り合わせになったまま、歴史を繰り返していた。

 


 そして、四度目にマレビトが召喚されてから久しく。その奇跡を自らのために起こそうという一人の領主が現れた。

 表向きは流行り病、飢饉による被害を抑えるため。

 そのために五百人ほど領内の”資本”を間引きする。引いてはその犠牲によって猊下を召喚し、かの知識で他国の侵略を排して領内の繁栄を目すために――。

 


 もちろんそれは表向きの理由で、彼は自分の利益ためにそれを行おうとしている。そうでもなければこれまでの失態の責で領主の地位を追いやられる危険があったからだ。

 だが、このまま行けば衰退していくのは確かである。

 そんな私欲が上手く働けば領民の犠牲は最小で済むというのも皮肉な話だろう。

 


 大を守るために小を殺す。

 そんな言葉はいつの世にも、どこにでも存在するものだ。華々しい舞台の裏にはいつだって影がある。

 


 奇跡のための準備はまるで屠殺の光景だった。

 次から次へと血の詰まった肉袋――人を裂いて回るだけの仕事が行われていった。

 


 場所は古い曰く付きな鎮守の森において。

 そこは真っ白い朝霧のベールに包まれていたが、その下では赤い染みがどんどんでき、至るところで増えていた。

 森の穏やかな匂いには、今や血の生臭さが混じっている。

 


 森には三種類の人間がいた。

 ひざまずいてがたがたと震えながら刃が振られるのを待っている人間と、刃を振るう人間。それからごく少数ながらそれを見つめる人間だ。

 


 猿ぐつわを噛まされ、手を縄で縛られてひざまずく人には老人や、何か罪を犯したような厳つい顔の男もいれば村娘や年端もいかない子供も入り混じっていた。

 外套を羽織った騎士達はそんな人々の首を淡々と切って回る。

 髪を掴み、首を曝け出させ、涙を流して辞世の句を唱えようとする人の首を捌いて回るだけ。その後はごとりと顔から地面に突っ伏すのだ。

 


 それを延々と、延々と――。

 五百にも届く数を十数人ばかりで捌いていく。正常な精神を持つ者なら確実に心を病みそうな光景しかこの場にはなかった。

 


「まったく、やってられんね。こういう殺しは面白くとも何ともない。私は領主への報告ついでに異常がないか周囲を見て回るから殺人癖がある輩にでもやらせておけ。ためらいがある者にはやめさせろ。中途半端だと殺す方も殺される方も無駄に苦しむだけだからね。手が足りないなら私を呼べ。いいね、グレン?」

「了解しました、団長殿」

 


 そんな光景を白けた瞳で見つめた亜人の騎士は側近にその場を任せた。

 殺害の現場から離れた場所には件の領主――騎士の飼い主であり、この殺しの実行者がいた。

 彼は肥えた腹から湧き上がる笑みに口元を歪めている。これからを想像して期待を膨らませる彼には目の前の光景は霞んでしまっているのだろう。

 


 そんな領主の前に膝をつき、騎士は冷めた様子で状況を報告するのだった。

 


 


 


「あの、リイル様。これは……本当に正しい行為なのでしょうか?」

「あんたはどう思うんだい?」

「わかりません……。こんな光景を見るとわからなくなってしまいます」

 


 白い霧に隠され、見渡す限りには異常が見えない。

 だが、鼻ではそれが行われていることがはっきりと判ってしまう。

 生物の中身が溢された、もわっとした生の臭気が森に立ち込め始めていた。

 


 神官の少女はそれに顔をしかめている。

 服ではなく、心にこびり付いてしまいそうな悪臭だった。

 


「んー。じゃあ例えばの話、干ばつがあって最低でも千人は餓死者が出る飢饉になったとしようかね。そこで真っ先に五百人を殺し、次の収穫祭まで一人も餓死者を出さなかったらそれは正しい行いだと思うかい?」

「……残酷なことですが、結果論で言えば五百人が助かった分だけ良かったのだと思います」

「数字の上では正しい答えだね。道徳としちゃ合っていないけど人という種の保存を見ればそうなんだろうさ。ま、もっと長い目で見れば人が勝手にやっていることであって、良いも悪いもないんだろうけどね」

 


 神官の女性は悟った目で霧の奥を見つめていた。

 目を凝らせばここからでも赤い染みが見える。その傍では涙を流した老婆が今まさに切られる様があった。

 少女はそれから目を逸らそうとするが女性は彼女の頭を掴み、「目を逸らすな」と許さない。

 


 くぐもった呻きと共にまた一つの肉袋が裂かれて倒れた。

 


「あれは他人の所有物だし、どう扱おうとあたしらが口出すような用件じゃない。所有者の自由さ。それにこの行いに異議は唱えないっていうのがハドリア教としての総意ってことに決まったんだ。実行には加担していなくても黙認はしてる。あんたはそんな総意に付き添う役目があるんだから現実から目を背けるな」

「は、はい……」

「現実なんてこんなもんだよ。これでたくさんの命が救えますと会議場で拍手していてもこうなる。戦争と何も変わりゃしない。どんな聖人君子だってこんな犠牲の上に平和を成り立たせている。あたしらはたまたまそれを目の前に見てるだけさ。あんたはそれから目を背けていられる偽善者になるな」

 


 少女が小さくなっているところ、女性は肩に腕を回して語りかける。

 落ち込んでいるようだがこれもこの世界の一片なんだと諭そうとしているようだ。

 


「でもこれだって考えようによっちゃあ、領地が落ちぶれて他国に蹂躙される前に対処しようとした領主の英断だったかもしれない。ま、おっそろしく前向きに考えたらの話だけどね。悪けりゃ狂った領主が夢物語にすがろうとしてるってとこかね」

 


 女性は苦笑もできず、息を吐いた。

 


 確かに多くが死ぬはずのところで小を犠牲にし、結果的に多くの人を生かせたら政治的に言えば正しい行いかもしれない。

 疫病の蔓延を防ぐために村を焼いたり、住民を間引いたり、良くても発生地域に無理やり閉じ込めたりなんてことは古い政治では日常茶飯事の判断だ。

 これを悪いと断じられる人は同じことを生き残った人の前で言えるかどうか考えてみるべきだろう。

 


 だが、少女は首を振った。

 それだけではダメなのだと彼女は行動を言葉にする。

 


「夢物語ではありません……」

「うん?」

「夢物語で終わらせてはダメです。こんな狂行の果てに意味もなく殺されただけの命なんてあっていいはずがありません! ならせめてこれが正しい行いだったと言えるよう、私が変えてみせます! そのような道に猊下をお導きするのがお付きを命じられた私の役目ですっ」

「犠牲がなきゃ、そもそも現れてくれない相手でもかい?」

「その善悪を決めるのは私ではありません。精一杯のことを為して、それでも悪だと言われるのなら私が真っ先に罰を受けます」

「そうかい。そりゃあ大儀だね」

 


 落ち込み、現実に押し潰されるかと思った少女はむしろそれを跳ね除けても立ち上がった。

 女性にとってはそれが意外で一瞬きょとんとしたが、その真っ直ぐ過ぎる意思は面白いと愉快そうに笑う。

 


「いいんじゃないのかい。未熟だろうと、青かろうとそういうことをはばからずにやれる人間は貴重だと思うよ。あんたは良い子だ。真っ直ぐ過ぎるくらいにね。あんたはあんたの正しいと思うことに尽力すりゃあいい。その背はあたしが押してやろう。で、あんたはどんな猊下がいい? いずれ確実に破綻しそうな領で。隣国とも争いが絶えない世界でどんな英雄様を求めてみたい?」

「皆を救える人がいいです。誰かを殺したりせず、餓えも、病も、争いも。全てから人を救える、夢物語を現実にしてくださるような方がいいです」

「ぷははっ! それはまた贅沢な願いだねえ。うーん、じゃあいるか判んないけどそういうのを見繕ってみようかね」

 


 理想論を語る優等生の意見がおかしくて女性は吹き出して笑っていた。

 が、少女の方は大真面目らしい。それを真実にするのが自分の仕事なのだと深く気負っているようにも見える。

 


 そんなやり取りを二人の神官がしている間に領主と亜人の騎士がやってきた。

 召喚の触媒準備は滞りなく終わったとその報告を持ってきたのだ。

 


 


 


 □

 


 


 


「ご苦労様でした」

 


 病畜を受け取った風見はトラックを見送った。

 隣では風見の腰ほどしかない子牛が、こふこふとくぐもった咳をしている。まさに典型と言える肺炎の特徴だ。

 


 抗生物質で治療しても治らない牛は他の牛に伝染させる前に廃用が決定してこのように大学に渡したり、安楽殺してそのまま産業廃棄物にされたり、またはレンダリングと言って飼料や粉末肥料として骨や脂の一片まで再利用される。

 その他にも生育不良、奇形、骨折で利益の見込みがないものは飼料代ばかりがかさむ前に廃用が決定する。

 悲しい話だが、畜産も商売なのでこのあたりの現実は非情なのだ。

 


「ごめんな。できるだけ痛くないようにするから」

 


 頭を撫でてあやすとその牛はお腹が減っているのか指に吸い付いてきた。まだ哺乳期から完全に抜けきっていなかったらしい。

 指を抜くとツナギの端を咥えて吸ってくる始末だった。

 随分と人馴れをしている。農家では相当に可愛がられて育ったのだろう。

 


「よしよし。それじゃあミルクを作ってやりますか」

 


 頭絡に結んだロープを引き、解剖室に入る。

 そこは風呂場のように撥水性で勾配がつけられた床となっている。中央には側溝のように格子がはめられた溝が通っていた。

 


 風見は近場の解剖台にロープを結び付けると粉ミルクと二リットルも入る哺乳瓶を用意した。牛ではこれが平常なサイズなのである。

 粉ミルクを人肌のお湯で溶かし、いざやろうと近付くと牛は哺乳瓶に向けてしきりに舌を伸ばしてきた。よほど空腹だったらしい。

 


「おっと、慌てるなってば」

 


 押し倒される前に与えてやるとミルクはあっという間に減ってしまう。

 出るのが遅いと顔で押し上げられて催促されながら二リットルは流れるように消えてしまった。

 


「……」

 


 気は引けるが、躊躇ってはいられない。こんな時はとても切なかった。

 


 牛が満足して大人しくなっている間に風見は二つの薬瓶と二本の注射器を準備した。

 注射器に手早く薬剤を入れるとすぐにまた戻る。

 いつまでも見ていると情が移って何もできなくなってしまいそうなのでこういう時の動きは手早かった。

 


 頚静脈の心臓側を指で押さえてキシラジンと呼ばれる鎮静剤を投与すれば牛は十秒もしないうちにふらふらとして倒れてしまう。そうして力を失って倒れたところで今度は麻酔を投与して意識を混濁させる。

 その上で足をロープで縛ると口と肛門に電極を付けて電気ショックで心停止をさせ、瞳孔反射がないと死亡確認をしてから首を切って放血させれば終わりだ。

 簡単に言うと筋肉を弛緩させ、麻酔で痛みを止めて意識もなくしてから迅速に殺すわけである。安楽殺の中では最も丁寧な方法の一つだ。

 


「……仕方ない犠牲とは思いたくないよな。せっかく生まれてきた命なら、せめて全部の子がもっと楽しい経験をしていけたらいいのに」

 


 物言わぬ屍となり、中空を見つめたままの牛を撫でる。

 


 このような廃用となる動物を減らすために早期に病気を発見する手法を開発したり、より良い治療法を見つけるのは獣医が行う研究における重要課題の一つだ。

 元の絶対数が多すぎるだけで昔と比べて進歩がないわけではない。十年、二十年前と比べれば歴然とした違いがあるのは確かである。

 


 そのまま目を閉じて風見は十数秒の間、冥福を祈っていた――と、そんな時のこと。

 


『――みぃつけた、と』

「……?」

 


 不意に女性の声が聞こえた気がした。

 けれど解剖室には誰もいないはずだ。大学生の誰かが探しに来たのかと見て回ったのだが、部屋にはやはり誰もいない。

 


「空耳か?」

 


 ここまではっきりとした空耳は経験がないのだが、そうとしか考えられなかった風見は棚から自分の解剖刀を取り出すと気を取り直して病理解剖を始める。

 


 リンパの腫れや、その他の異常はないかと見ると最後尾肋骨から腹腔へ穴を開けた。

 まだ温かい腹に指を通して掴むと、肋骨の半ばくらいにある肋軟骨結節という軟骨の生成部位を切り、鎖骨まで切って離す。骨は切れなくてもこうして骨と骨を繋ぐ軟骨を切れば生き物はナイフ一つでもバラバラにできるのだ。

 


 そうして肺から腸まで全て露出してしまうと、あとはそれらの異常な所見を写真とメモで記録する。

 それが終わると病変部位をホルマリンが詰まったジップロックのようなパックに入れてしまえば終了だ。

 血がべったりと付いた手を洗った風見はきょろきょろと棚を見回す。

 


「ええと。コンテナとビニール袋は、と」

 


 こうして解剖をした検体は業者に渡し、燃やすなりレンダリングで再利用してもらうなりしてもらわなければならないが、業者を何度も呼ぶのはお互いに大きな手間となる。

 そのため関節などを切り、それぞれ十キロほどの塊にしてビニール袋に入れ、コンテナに入れて巨大冷凍庫に収納しておくのだ。

 


 仕事を終えた風見は研究室に戻ると過去、同じように採集した素材から作った組織切片を観察し始めた。

 低倍率から高倍率まで。

 細胞の様子などから病原菌の目安をつけようとしていたのだが――そんな時、ぶつっと顕微鏡の電気が唐突に途切れた。

 


「ん、どうしたんだ?」

 


 これはつい最近、購入し直した顕微鏡だから壊れるのはおかしい。

 そう思って目を離した時、彼はさらに異変に気付いた。

 点けていたはずの部屋の電気まで消えている。いや、それどころかまだまだ明るい時分のはずなのに研究室の外が暗かった。

 


「えっ……。はい?」

 


 目を疑った風見は腕時計を確かめた。

 時刻は三時前。まだ秋とも呼べない暖気が残るこの時期だ、暗くなるはずはない。不思議に思った彼は窓に近付き、外の様子を確認する。

 


 真っ暗――否。真っ黒だ。

 普段窓から見えた光景は何の光沢もない黒で塗り潰され、形というものが一つとして確認できない。

 近場から遠くまで全て消え失せ、地面は奈落への大口を開けていた。

 


「な、なんだよ、これ……」

 


 後ずさると同時、ぽたぽたと。

 窓に“血”が滴り、雨粒のようにつうっと垂れて下がった。

 


 目を瞬いて確認し直すが見紛うことなき赤色である。雨水ではない。

 今まで幾多の動物の血を見てきた彼だ。この赤を他と見紛うはずはない。血ならたった今だって見て来たばかりではないか。

 


 しかもこの血は出血してから少々間を置いたものらしい。

 濃い赤色で、滑り落ちれば色むらができるその特色や、中途半端なゼリーのように凝固しかけてガラスを落ちていく血のゲル。どちらも見慣れたものだ。

 絞り出されてしばらく経った血はこうなってどこかに溜まる。だから食肉処理場や解剖室の側溝は排管詰まりを起こさぬよう、使用中は絶えず水を流し続けるのだ。

 


 まさか白昼夢かと思って顔を強くつねってみる。じんと痛みは広がるが、目の前の光景は変わらないままだ。

 やはり、何かがおかしい。

 窓を開けて確認してみようかと考えが一瞬頭を過ったが、彼は窓に手を掛けられなかった。あんな血に触れるのは御免である。

 


「そうだ、他の人達はっ……!?」

 


 校舎内にいる他の人とひとまず合流した方がいい。そう考えた風見はドアに駆け寄った。

 幸い、ここは校舎の一室。あの血に晒されることはなく他の研究室や教室へと向かえる。

 


 そう思ったのだが――。

 


「なっ……!?」

 


 部屋から飛び出ようとした瞬間、その一歩先から正面まで果てしなく黒が続いていた。

 すでに踏み出した一歩を踏み外し、奈落へと落ちそうになった風見はとっさに手を伸ばし、ドアノブを掴んだ。

 それは本当に奇跡的なことだった。広げた腕が偶然、ドアノブに触れてくれたからよかったものの、そうでなければ奈落へと真っ逆さまであった。

 


「そんな、嘘だろ……!?」

 


 ドアノブ一つに身を支えられ、宙吊りとなっている風見は蒼白になっていた。

 足は不安定に揺れ、空を掻くばかり。下半身は本来床だったはずの高さを突き抜けていたが触れるものなんて何一つとしてなかった。

 ドアの金具がぎぃぎぃと悲鳴を上げ、金属製のドアノブから指が滑りそうになる。無理をした肩がずきんと痛んだが、風見はそれどころではなく必死になって指に力を込めていた。

 


 目に入る限り、全て黒一色だ。

 何が何だか理解不能だが、無事なのはこの研究室一室のみらしい。

 


 状況の理解を置いて、そこだけ把握した風見はドアノブを両手で握り、何とか部屋に戻ろうと足掻いていた。

 けれど“始まり”は風見を少しも待たず、さらに激化していく。

 


「えっ……」

 


 なんと突然、研究室の外壁にまでヒビが走ったのだ。

 


「ちょ、え。そんな、まさかっ……!?」

 


 その上、ヒビは壁も無視して空間を走り、どんどん広がった。

 まるで画面の中の登場人物が液晶と共に割られるかのようである。

 


 そしてヒビが走る場所は人がいる空間も関係なかったらしい。それはなんの抵抗もなく風見の体も貫通し、広がり続けた。

 だが、割れたはずの体には痛みもなければ出血もない。

 


 びしびしと亀裂が広がる音とわけの判らない現象に脅され、流石の風見も心臓の鼓動が速まる。

 


「何がどうなっているんだよっ!?」

 


 次々に連鎖崩壊していく世界。

 そんな中で放った言葉が、彼の故郷での最後の言葉となった。

 



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