信頼と実績を誇ります
今から風見が越えるべき問題は二つある。
一つはヒュドラの律法だ。
あれは威力からして一撃でも当たれば致命傷となる。加えてヒュドラは水か毒のブレスを吐く通り、それに準じた属性なのだろう。
あの律法は恐らく毒。掠っただけでもどれだけ危険か判らない。
二つ目の問題はスケルトンの群れだ。
やつらは風見とヒュドラの間に群れているためにかなり邪魔だった。
これを危険だからと迂回してヒュドラに迫るならばあの律法に何度も晒される羽目になる。かといって突っ切ろうと思えばスケルトンの攻撃を全て避けなければならない。
どっちが利口な選択肢なのかは判らない。
ただ、風見は突っ切る道を選んだ。あの律法をそう何度も撃たれたくなかったのだろう。
しかし、たかが一般人にそんなことは可能だろうか?
一人で無事に駆け抜けるなら恐ろしく分の悪い賭けだったはずだ。
「猊下殿っ、お先へ!」
だが、彼は一人ではない。
先にスケルトンと争っていたグレン達は彼の姿を認めるなり、大きく薙ぎ払って僅かな道を開いてくれた。
これなら風見でも駆け抜けられる。
「助かる!」
彼は活路に駆け込み、振り落ちてくる凶器の雨の合間を縫って突き進んだ。
無論、怖いなんてものではない。
敵味方が入り乱れ、どこから剣や槍が飛んでくるかも判らない戦場を丸腰で突っ切ろうとしているのだ。
眼前や脇腹を掠めるように何本もの凶器が突き出てきた。
その度に冷や汗ものだ。心臓が止まりそうになる。
前へ。前へ。一秒でも早く――!
呪文を自らにかけ続ける風見は刃の腹を弾き、あるいは蹴り飛ばして進んでいった。
そうして次々とやって来る紙一重の死線をなんとか潜り抜け、さらに前へと駆けていく。
「リズっ!」
合図を飛ばせば茶色の閃光が足元を追い抜いていった。
途端、前方ではその光の軌跡で岩石が隆起し、横たわるヒュドラまで突き立つ岩石の道ができあがる。
あとはあの上を跳んで進むだけ。
ただし、そこに行き着くまでが大変だ。
地底湖があった付近は刀剣交じりの土砂となっているので想像を絶するほど走り難い。
突き出た剣の峰や腹は滑るし、鍔の突起は足を取る。
もし刃を踏めば足に突き刺さってしまうだろう。一つの選択ミスが命取りだ。
風見は危うく転びそうになりながらもなんとか足場を選び、ついでに突き立っていたショートソードを引き抜いた。
――だが、その間にもヒュドラの律法は完成していく。
紫の色が深くなり、濁った色の球体が宙に何個も浮かんだ。
まるでここにいる死霊が呪いの炎で燃えているかのように見えてしまう。
『死ね、死ネ。引き裂かれて、飛び散ッテ、潰レテ、イキタエロ――』
幻聴だろうか。呪う言葉まで聞こえてしまう。
恐ろしいものだ。
もう砲身は向けられている。あとは点火を残すのみというところか。
風見は岩の足場を半ばほど渡ってはいたが、それでもまだヒュドラには届かない。
律法に先んじるには決定的に数瞬が足りていなかった。
「……っ!」
この場にいる全員が風見の動向に注目し、息を飲んでいた。
ヒュドラの律法が彼に矛先を定めた時には手に汗を握っていた。
そして。
空中に浮かんでいた不気味な幻光がぷつりと失せた瞬間、それらは一斉に放たれ、襲いかかってくる。
「当たって、」
一射目が僅か左方を掠めようとした瞬間、風見は岩を蹴って跳んだ。
遥か後方で爆轟が生じていたが構いやしない。
思いきり力を込め、できるだけ高く――。
力の限り踏み切り、できるだけ遠く――。
前方へと全身全霊で身を投げ出し、彼はヒュドラの背へと跳び込む。
「たまるかぁっ!!」
追いすがる毒弾の数々は、しかしながら彼がいた軌跡を撃ち穿つだけで捉えることはない。
外れた先で岩壁を抉り、水飛沫や石片を巻き上げるばかりだ。
「ぐっ……、」
そんな暴力の真っ只中を突っ切った風見はヒュドラの背に転がり落ちた。
すぐさま受け身を取って起き上がると、頭を持ち上げたヒュドラががらんどうの瞳で睨んできていた。
たかがエサの分際で背を踏むなと咆哮したいのだろうか。
生きていた時に睨まれていたならば竦み上がったかもしれない。
竜の眼に見据えられては震え上がっただろう。
だが、今やこれはただの死にぞこない――いや、死にきれていない亡者だ。
風見は手にしていたショートソードを腰溜めに構え、ヒュドラの眼窩に全力で突き立てた。
ガズッと重く、湿った音。
眼窩の奥で骨に阻まれたのだろう。
こんな状態でもなお、竜骨は相当な強度を誇っているらしい。切っ先が少し埋まっただけだ。
そこからはもういくら力を込めても抜けないし、進みもしない。
このままではどれだけ力を尽くそうと突き抜けないと判断した風見は一歩後退し、足を振りかぶった。
「せぇ、のぉっ……!」
彼にはまだ残っている武器がある。
それには、いついかなる時も信頼と実績が約束されていた。
だから――”最強の装備”なのだ。
現場の道具を舐めてもらっては困る。
安全靴は中に仕込まれた鋼板の分、重量も強度もある。
相手はたかだか朽ちかけた竜骨。突き立った剣の柄を全力で蹴り込めば貫くなど造作もない。
一気に脳髄へと沈んだ剣の柄をさらに蹴り、中枢神経を存分に切り潰す。
それで全ては終わった。
途端に力を失ったヒュドラの頭は力を失い、水を吸った土砂に落ちた。
数歩下がって飛沫を避けた風見は周囲にまた展開しようとしていた紫色の幻光が霧散したところを見、完全に討ったのだと確信した。
「……ふぅ」
呼吸が止まっているのも再度確認すると息を吐き、緊張で上がりきっていた内圧を下げた。
「かざみさまぁっ!」
そんな時、心配の色に染まったクロエの声が飛んでくる。
彼女はガントレットから伸びる分銅付きの鎖でスケルトンの三分の一を薙ぎ払い、たんとただ一度の跳躍だけで風見のもとまでやってきた。
あの凶器にはあんなギミックまであったらしい。
それにしてもなんという忠犬っぷりだろう。
距離は十メートルを下らないように見えたのだが、“白服”には関係なかったようだ。
今までで一番の人外を見たかもしれない。
そんな彼女は「お怪我はありませんかっ!?」と必死の形相で縋り付いてくる。
あの戦闘能力とはてんで釣り合わない少女の姿であった。
「心配ないって。それよりもグレン達の方が……」
そう言ってみた矢先、あちらでは無数の岩槍が剣山のように突出し、いとも簡単にスケルトン達を蹴散らしていた。
僅かに残ったところもグレン達の手にかかれば瞬く間に刈り取られてしまう。
本当にヒュドラさえいなければスケルトンなんて物の数ではなかったようだ。
「俺がやる意味、あったかな……」
正直なところこのクロエを始め、あちらで戦う誰でもできたことだった気がした風見は複雑な思いで呟いた。
もしかしたらまた迷惑をかけただけだったかも、と不安を抱いていると胸板に顔をうずめたままでクロエが反論した。
「もちろんですっ! 本来あのタイプは確実に標的を追尾し、穿つだけの低威力な律法なんです。竜種だからふざけた威力でしたが本質は変わりません。何かしらの盾で防がなければどうにもならない攻撃でした」
律法自体にターゲッティング機能があることは風見もいくらか推測していた。
そもそも彼の見立てだとヒュドラにはほぼ何も“見えて”いなかったはずだった。
その理由はヒュドラの五感がどうなっているかを考えれば推測できる。
ヒュドラはあの外見からして、仮に蛇と同じ感覚器を持っていたとしよう。
まず目と舌はないことから視覚と味覚は残っていない。
また、蛇の主な嗅覚は舌先でニオイの粒子を捕まえ、それを口の中にある鋤鼻器という器官につけることで発生する。
だが今のヒュドラには舌ががない。
これは人で言うと鼻で息をせずにニオイを感じてと言われるようなものだ。
なので嗅覚もそれほど当てになってなかったはずだろう。
さらに蛇は耳と鼓膜が退化しているので聴覚がかなり弱い。
となると残る感覚は触覚のみ――なのだが、蛇はもう一つ感覚器官を持っている。
それはサーモグラフィーのように熱を感じるピット器官というものだ。
このピット器官は温度の受容器という点では人の温覚と同じ。
例えば熱したやかんや火を近づければそちらに何かがあると判るが、蛇はその感覚がずっと鋭いのだ。
夜行性の蛇は地面から伝わる振動と獲物の熱によって獲物の存在を知る。そして方向と距離を見定め、噛み付くわけだ。
これは暗い洞窟内に住み着くヒュドラにも必須の器官だろう。
だが、ここで少し考えたい。
ヒュドラの目や舌、体を見て取れる通り相手は衰弱しきってぼろぼろだ。
ピット器官とは要するにとても感度が高く、敏感な器官である。そんな精密装置がこんな状態でも万全とは考えにくい。
こうして感覚のほとんどが使い物にならなかったから風見達がやってきても獲物だと気付けなかったのだろう。
視線が合っただけだったのはきっとこれが理由だ。
しかし、そんなヒュドラの律法は風見達やノーラを明らかに狙い定めていた。
なら、何によってターゲッティングをしたのだろうか?
そう考えて行き着くのが律法自体のターゲッティング機能だった。
「だから”私達では”無理でした。あれを避けられたのはひとえに――歴代の猊下と同じ、風見様のお力です」
「律法では捉えられなかった、ってやつだよな」
彼もそれを思い出したからこんな行動を取った。
歴代の猊下は異邦の知識を持ち、律法には捉われず、またドラゴンさえ従えたなどの話は聞いていた。
そのうちの一つは真実だったのかもしれない。
「……、」
しかし、疑問が残る。
それが真実だったとしても、風見には特殊能力なんて何一つ授かった覚えがない。
こちらへ来た時も気を失った時間なんてなく、何か変化があれば身で感じていたはずだ。
……そのはずなのだが、この現状だ。妙なことである。
確かに無茶な要求をされるくらいなら何かしらの力くらいは欲しいと思ったが、ほいほいチートを与えるほど現実は生易しいものでもないだろう。
(これはどういう理屈なんだろうかな)
体がよく動くようになったとかそういう変化は全くない。
リズやクロエのような律法が使えたわけでもない。
異世界人は律法でロックできない?
それとも偶然ロックが逸れただけだったのだろうか?
……ダメだ。今はまだ考えても判らない問題だろう。
律法がどのような仕組みで、どんな理論で働いているのか調べないとどうして捉えられなかったのかは確定できそうもない。
と、風見が真相究明を据え置く間にスケルトンの掃討は完了していた。
グレン達はトドメを刺し残したものもいないと確認も終えたらしい。
「……五人だけでも何とか助かったか」
一息ついた風見は額の汗を拳で拭うと、クロエと連れだってリズ達の下へ戻った。
彼らは怪我一つないどころか少しも息を荒らしておらず、余裕のようだった。
団長、副団長、精鋭の三人ではスケルトンも形無しだ。
そうして風見が安堵の顔で彼らを見つめているとリズは「あ、」と声を出した。
「シンゴ……、怪我をしたのか?」
「いや、どこも?」
頭から爪先まで特に痛い場所はないし、ヒュドラの律法にも触れた覚えはない。
アドレナリンのおかげでそうだと気付いていないだけという線も考えて四肢を見回したが、やはりどこにも怪我らしいところはない。
彼の瞳には汚れの一つも付いたようには見えなかった。
疑問顔でまたリズを見つめ返すと彼女は腕を組む。
どうしたのかとグレンもやって来ると彼は風見の顔を覗き込んで青い顔をした。
「げ、猊下殿っ。額に……」
「え、額か? 何も当たった覚えはなかったぞ?」
背を転がった時に何かがついてしまったのかと失敗を思うのだが、グレンの顔はどうもそんな軽いことを示しているような色ではなかった。
いくら寄生虫といっても一瞬で皮膚から侵入されることはない。
あれらは酵素でゆっくりと溶かして侵入するし、グールの原虫程のサイズでは皮膚を貫通できるほどの酵素を作れるかも怪しい。
それにもし病原体に触れていたとても丁寧に洗い落とせば問題ないと彼らは知らないのだろう。
「そうだね、シンゴは怪我をしてないようだ。となるとその血は誰のものかということになる」
「え、血だって?」
「そうだよ。そしてそれは私達でも、クロエでもなく。だったらヒュドラのしかない」
額を手で拭うと黒っぽい液体が付着した。
随分と変色しているが元は血だったのだろう。見ればグローブにも付いていたのが判る。
暗い中に黒で判らなかったのだ。
――汗を拭ったあの時か、と。
風見は失敗を理解した。
「あー……。ま、血でもまだ大丈夫だろ。経皮感染するかどうかは判らないけど、一瞬で潜り込むことはないから消石灰で拭いてから綺麗な水と布で流しとくか。それでも俺も一応は隔離枠ってことだな」
それほど重い事態でもないだろうと言ってみたつもりだったのだが、それでもグレンの顔色は晴れなかった。
それどころか今さら顔を覗き込んで気付いたクロエは明らかに動揺し、「そん、な……」と後退っていた。
これは何か、非常に真剣みのある感じである。
流石に空気が読めてきた風見は歯の奥にものが詰まった言い方をしていたリズに問い質した。
すると驚きの答えが返ってくる。
「ヒュドラの血はね、毒なんだ」
「うあっ、そんなことってあるのか……」
ここまで大きく強い動物が体に毒を持つ必要性なんて本来はないはずなのだが、この世界ではそういった常識は通用しないものらしい。
道理で毒竜の血、毒などとグール化の引き合いに出されて恐れられていたわけだ。
彼女らが動じていた理由がようやく理解できた。
あと問題なのはこれがどの程度の毒なのか、である。
「猛毒さ。一滴でも飲めば即日に死ぬ。皮膚なら数日かけて死に至る。その後にグールになるって寸法だよ」
「あー……。嘘じゃ、ないんだな?」
「嘘をつく意味がどこにある?」
「それはやっちゃったか……」
どうにも信じ難い風見はまともに取れず、彼女らと同じ重さで捉えることができない。
けれども彼女らの視線を浴び続けると徐々に理解も追いついてきた。
(そっか。天罰だったかな、これが)
不思議とうろたえることはなかった。
人の死に対して動じようとしていた心を先程無理やりに押し殺してしまったせいだろうか。
そうなのか? と、問いかけるように風見は”彼女”がいるはずの土砂を静かに見つめた。




