初めてと言わないでください
クロエは森を走っていた。
足を引っかける罠のように所々で隆起している木の根を上手く踏み分けながらも、常人が平地で全力疾走するような速度で森を行く。
彼女が追っているものはユニコーン――ではなく、ウサギだ。それもちょっと特殊なウサギである。
「ちょっと、ついてこないで下さいよぉっ!?」
クロエの頭上ではノーラが悲鳴に似た声を上げていた。
枝から枝へと身軽に飛び移る彼女をクロエが追っているのである。
ノーラは何とか追跡を撒こうと方向転換をしたり、速度を上げたりするが一向に振り切れない。
訓練をしている亜人の脚に、こんな森の中で追い縋るだけでも異常なのだがクロエはそこらの枝に引っかかりやすいローブを着込んでいてもこれなのだ。
亜人の中でも脚力が優れている方だったノーラとしてはちょっとしたホラーのようにも思えてしまうのだろう。表情は引きつっている。
「ついて行かないわけにはまいりません。あなたの耳と鼻なら放っておけば先にユニコーンを捕まえられてしまいます!」
「いいじゃないですか! そ、そりゃあ多少は下心もありますけど……。でも、ウチだって幸せを掴みたいんですからっ。花嫁修業だって何だって似たようなもんじゃないですか! 悪いことでもないし、誰にも迷惑をかけないから放っといてください!」
「それはそうかもしれませんが……。でも、でも、ダメですっ! あなたに恨みはありませんが、それは見過ごせないんです!」
「ぐぬぅ、だったらそれはどーしてですか!?」
ノーラは逃げながらも視線だけクロエに向ける。
彼女は相も変わらず、つかず離れずの距離で追い縋っていた。
さらさらと綺麗な金髪を靡かせ、女でも羨んでしまうスタイルを弾ませ、人間なのに亜人の脚に追いついてくるのだ。
それを改めて見るだけで一言では言い表せない敗北感が込み上げてしまう。こんなに恵まれているというのにどうしてこれっぽっちの高望みも許してくれないのかと苛立ちまで混じってしまいそうだった。
「それはその、とても言い辛くて……」
「――っ!」
どうにも煮え切らない様子に、つい頭が沸騰してしまったノーラは太腿にベルトで括り付けていたナイフに手を伸ばしてしまった。
このお邪魔虫の足を止めるついでにちょっとくらい脅かしてやればいいと魔が差したのである。
気付いた時にはクロエの爪先近くという、際どいところにナイフを投擲していた。やりすぎてしまったとノーラは思わず速度を緩める。
――と、その瞬間のこと。
悩み顔をしていたクロエだが、刃を見るなりスイッチが切り替わるように表情が変わった。
ナイフの軌道をはっきりと目で追った彼女はものの見事に指で刃を掴み止めると、ノーラへと正確に投げ返したのだ。
素人どころか、生半可な者では真似できない芸当である。
「いっ!?」
まさかこうなるとは予想もしていなかったノーラは意表を突かれ、枝から足を滑らせてしまった。
幸い、そのおかげで投げ返されたナイフに当たることもなかったのだが、ノーラにとってはもっと厄介なことがそれに引き続き、起こってしまう。
「動かないでください」
「ぐえっ」
ノーラの耳元でクロエが囁く。
枝から落ちたところ、宙で捕まえられたかと思えば、流れる動作で背後から首を絞められ、腕まで完全に固定されてしまったのだ。
それは武道で言うところの片羽絞めに近い。
こうなっては無理に解こうとしても絞め落とされる方が早い。みしりと軋みさえ上げそうなほどに完璧に極められた腕は少しも動きそうになかった。
なら、腕に指を食い込ませて痛みで緩めさせられないものかと力を込めたが、これもダメだ。腕には固い金属の感触がある。どうやらクロエは幅広の白ローブの下には手甲か何かを隠していたらしい。
「すみません。手荒な真似をするつもりはなかったのですが、つい反射的に……。けれどあなたに……いえ、他の方に風見様を奪われるわけにはいかないんです」
「ぐぅっ。ど、どうして?」
「あなた達がドニ様の配下にいるからです」
ノーラ達はドニが所有する隷属騎士だ。
通常の兵士と主よりもずっと厳格な上下関係にある彼らは何を命令されても断れないのは周知のことである。
「お金や男女関係などをダシにして人を思いのままにする話は例を挙げるまでもありませんよね? あなたの気持ちはどうあれ、風見様がそのようなことで取り入られるのは望ましくないんです。かつてマレビトはその異邦の知識を以って大陸全土を揺るがすほどに活躍されました。そのような影響力を持つ方をたった一人が私欲のために動かせば争いを呼ぶだけです。私達ハドリアはマレビトの行いを尊ぶと同時に、彼らを正しく導く義務があります。私のような付き人が付けられるのはそのためです」
クロエは風見の付き人としてハドリア教から派遣されたが、そのお役目はなろうと思ってなれるものではない。
求められるものは器量良しで、文武両道で、見目も良くあれと文字通りの“完璧”。それを大陸全土にいる数百万人規模のハドリア教徒の中からたった一人だけ選りすぐるのだ。
汝、私欲に駆られることなかれと召喚主にあれこれ指図をし、おまけに召喚主にとっては邪魔でしかない付き人をハドリアが付けられるのには理由がある。
それは、マレビトを召喚できる能力を持つのがハドリア教に属する枢機卿ただ一人だからだ。
このハドリア教は人に生き方を説く宗教として生活に深く根付きながら、その半分はマレビトのための補助機関なのである。
「だからウチには、諦めろって……?」
「いいえ、そうは言っていません」
クロエは首を振るが、ノーラとしては全くそのように聞こえない。
ぎり、と歯噛みした彼女はより深く絞まるのにもかかわらず首を動かして腕と首の間に指を入れるとしっかり掴み、そして強引に背負い投げをした。
予想外にあっさりと外れたが、これはまた組み敷く自信の表れなのだろう。投げられたクロエは猫のように宙で体勢を直して見事に着地していた。
優雅な余裕のあるクロエに対し、ノーラはわなわなと震えながら啖呵を切る。
「そんなのに従ってたまるか! ウチは国とか他人の幸せなんて知らない。自分の命一つで精一杯だっ。一瞥すらもくれなかった連中の幸せを考えられるほどいい育ちはしてない! 明日の保証があって、飢えなくて、温かくて……それが手に入るならなりふり構ってられるか! ウチは絶対に猊下に見初めてもらう。自己中心的だろうと何だろうと、ウチはそこを譲る気は微塵もないね!」
「構いません。でも、私は他の方には負けません。誰が相手でも私は全部を使って勝ちに行きます。あなたのように未来を望んでいても報われなかった人達の命を無駄にさせるわけにはいかないんです」
本当に志しの差は比べようもない。かたや崇高な思いで、かたや切実な思いだ。
ノーラはどう主張しても自分がみじめに思えて仕方がない。
こうやって対してみればよくわかる。
クロエは透き通るような白い肌で、絹糸のような髪をしていて、さらにはローブを着ているというのに女性らしい線まで伺える。プロポーションとしていえば非の付けどころがない。
反対にノーラはそばかす混じりで、髪もくせっ毛な上にきしきししていて、胸は――回す栄養がなかったと残念の一言で終わってしまう容姿だ。
競り合うまでもない歴然とした差に涙が滲んでしまう。
「たっ、たかが可愛くておっぱいが大きくて育ちも良くて戦えるくらいで何ですかっ! そう、お綺麗な処女さんにはできないことでも何でもして気に入ってもらいますよ! もう何でも拒みませんしぃ、出されれば舐めますしぃ、挟んだりだっ――は、挟むのなんて嫌いに決まってますからぁっ!」
自分の胸を叩いた時に使うべき武器の貧相さに泣いたノーラはなりふり構わずに叫んで返す。
すると見目の通り清純だったクロエはその露骨さに赤面し、言葉の端々でその様相を想像してしまったようで真っ赤になっていた。
「しょ、処女って言わないでください! というかあなただってこんな場所に来た時点で私と一緒ではないですか!」
「いーえ、一緒じゃないです! ウチはあなたみたいな面倒くさそうな人じゃないですもん」
「め、面倒くさそうじゃありません! 私だっていざとなればな、何だってできます! 他の方に目移りなんてさせないくらいに満足させるべく、何でも努力してきたんですから」
「どうだか。口だけならどうとでもってやつです。ウチなんてほんともう、お手軽で――って、ウチは何でこんなに自分で自分を下げてるの……」
口喧嘩をするようにまくし立て合っていた二人であったが、気付けば自分や相手の放つ諸刃の刃がざくざくと大量に刺さって相打ちとなっていた。
どっと押し寄せてきた自己嫌悪に二人はつい我を忘れて頭を抱えてしまう。
そんな時、ぶるるると荒い鼻息が二人の耳に届いた。
ハッとして顔を上げると、いつからそこにいたのか藪から何かが顔を出しているではないか。
目立つのは真っ白な毛色。
そして脳天の辺りから突き出した、特徴的な一角。
……ユニコーンである。
この馬はさっきからの話を聞いていたらしい。
ぶるるると失笑するようにまた鼻息を鳴らし、さらには上下の唇をひっくり返してフレーメン反応まで見せてきた。
「な。こ、この、馬っ……」
「笑われているような気がします……」
人に見られたかのように羞恥心が込み上げてきた二人はぷるぷると震えた。
この馬はどうしてくれようと怒りの矛先を向けようとしたのだが――ユニコーンはそれを察知してか、くるりと反転して藪の奥へ消えてしまった。
「絶対ウチが捕まえて……!」
「ダメです。それは私がっ!」
無論、二人はすぐに追いかけようとするのだが足の引っ張り合いは続くのだった。
□
(この草もどう見ても見覚えがある種類だな。全く見知らぬものばかりじゃないってわけか)
「おい、シンゴ。いつまでそんなことをしているつもりだ?」
風見は先程からユニコーンを探して藪を掻き分けるものの、草やらそこらにいる生物やらに目を引かれていた。
まあ、リズとしてはその程度はどうでもいいのだがちょっと目を話すとその隙にどこかに消えてしまうのが厄介だった。
彼はああして何かをしながらたまに道なき道に頭を突っ込んでいくのである。その無駄な好奇心にリズは疲れ、腕を組んで傍から見ていた。
「興味がある。面白いです」
「そんな草なんぞの何が面白いのやらね。まあ、いなくならない程度だったら好きにやればいいさ」
「そうする」
風見は頷き、観察を再開する。
これは何も子供のような好奇心というだけではない。ちゃんと重要なことだ。
こちらの世界では馬を始めとして共通点がある。本で確かめたように全く知らない動植物もいれば、明らかに同じ生物まで。
それは召喚なんて接点があればあってもおかしくはないのだろうが確かめておくのは重要だ。なにせ、似通ったものならば風見の知識はそのまま通用する可能性は高まる。それがあるのとないのでは大違いだ。
と、彼が一木一草にも目を配っていたその時、がさりと掻き分けたその藪の先から何かが顔を出した。
「うおっ?」
「どうし――……」
現れたのはユニコーンである。まさかこんな風に何の脈絡もなく、のっそりと現れるとは風見としても予想外だった。
リズとしても彼がごそごそとしている音に紛れ、気取れていなかったのだろう。ユニコーンが興奮していないのを見て取ると静かにサーベルを抜き、刺激しないようにゆっくりと風見の元に近付く。
「わかっているね? ゆっくりと下がれ」
「わ、わかってる」
処女以外は決して近づけさせないと悪評轟く馬だ。ここで大人しいのは奇跡的とでも思いながら風見は慎重に下がろうとする。
だが、ユニコーンは風見が下がるのに合わせて追ってきた。
それどころか興味ありげに顔を近づけて頭の匂いを嗅いでくるではないか。ばふぅっと鼻息を出した時には風見もビクッとしたが、ユニコーンは全く気が荒れている雰囲気がない。
「お、おお……?」
一体何故かはわからないが嫌がられてもいないし、興味を持たれているらしい。
後ずさりを続けると木の根に足を掬われかねなかった彼はその場に止まり、恐る恐るユニコーンの首を撫でてみた。
……怒ってはいない。
唇をもごもごとさせ、服を甘噛みしてくるくらいなのでむしろ催促されているようである。
そんな一部始終を眺めたリズは怪訝そうに眉をひそめながらも剣を収めた。こうして凶器をちらつかせる方が危険と踏んだのだろう。
しかし男の風見が何故、ユニコーンに嫌われていないのだろうか?
リズはしばし顎を揉んで考える。
考えられる可能性といえば―― 一つしかない。
「おいシンゴ。お前…………童貞かな?」
「は……? はぁっ!?」
「いや、だってその馬は初物好きだしね。シンゴみたいなのの噂なんて聞いたこともないが、それくらいしか思いつかんよ」
どっちだろうと別にどうでもいいが。とリズは言葉を表情にしている。
そんな性事情をネタにされてもコメントし辛い風見としては次の言葉が見つからなかった。
しかもそうこうして固まっているとさらに草を掻き分ける音が聞こえ、
「ここですかっ!?」
声と共にクロエが飛び出してきた。それに続き、ノーラも飛び出してくる。
彼女らは森に入った当初から今まで競って探していたらしいことはこれを見れば風見にもわかった。
しかし、二人が獲得争いをしていたユニコーンはすでに風見の横について落ち着いているわけで。彼女らは状況を把握するなり、愕然としていた。
え? え? と風見に対する疑問をリズに対して視線で問いかけずにはいられないらしい。
「あ、あの、これは一体……?」
「知らんよ。とにかくユニコーンはそれを選んだらしいね。お前達は二人とも負けだ」
「ちょ、えっ!? 待ってください団長。それってウチらは猊下よりも女としての魅力が薄いってことですかっ!?」
「知らんと言ってるだろうが。それより、目的を終えたなら早く戻るよ。陽が暮れるより早く戻りたいところだしね」
説明を求める二人には付き合いきれないと、リズは早々に踵を返すのであった。




