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獣医さんのお仕事 in 異世界  作者: 蒼空チョコ
異世界召喚編
16/62

いろいろと足りません

 


 風見の部屋の前でクロエははたと足を止めた。

 ユニコーンが鼻血を出して死にかけているから獣医の風見に一度診てほしい。

 ドニとの話し合いでそういうことに決まったのだが、いざこうしてみるとクロエは本当にこんな内容を伝えても大丈夫なのだろうかと不安を覚えてしまった。

 いつもならばノックをしてすぐに入るのに、今日は一歩を踏み出せない理由はそこにある。

 


 そもそもユニコーンとは縄張り意識が強く、獰猛な生物だ。

 その力は並の馬の比ではなく、自分の体格の数倍もある動物をしゃくり上げ、終いには追い出してしまう話も珍しくない。また水属性の律法を操り、穢れた水を浄化したり毒を消し去ったりと希少な能力まで持つと聞く。

 強さで言えば竜種には及ばないまでもグリフォンやミノタウロスに勝るとも劣らない。そんじょそこらの魔物とは一線を画しているのだ。

 


 だというのにユニコーンは大きな欠点を持つ。

 例えば仕事はできるのに女癖は悪い男と同じだ。このように獰猛で強力だというのに人間の美女が――それも処女が大好きで、それを見ると何も考えずにノコノコと歩み寄ってくるらしい。

 それが唯一のユニコーン捕獲法とは周知のことであり、他にも穢れを払い落とす白馬には似つかわしくない逸話がごまんとある。

 


 だからさっきは了承したのだがクロエは今更ながらに迷ってしまった。

 処女に鼻息を荒くしてしまうユニコーンのことだから鼻血で瀕死というのもあり得なくはない――。風見からもそう言って笑われそうである。そんな品のない話をする女の子と思われてしまったら酷い濡れ衣だ。

 けれどもドニに言い渡されたからには理由もなく反故に出来ない。クロエは全く気乗りがしないのだが、嫌な気分をぐっと飲み込むとドアをノックする。

 


 中にいた風見は図鑑や地図などを読み漁っていた。まだ文字に苦労する彼は絵から文章を推測し、読む練習にしているらしい。

 彼は勉強が嫌とぐったりとした顔をよく見せるものの、クロエが傍にいない時も何かしらの知識を吸収しようと本を眺めている。風見が集中している横顔は、思い返してみれば記憶の端々に残っていた。

 城の調度品を見つめたり、散歩の途中で何かに興味を持ってじぃっと観察したり。

 ずっと進んだ異世界の住人のはずなのに、彼のもっぱらの姿は生真面目な学者と重なる。練度の高い兵士は日々の鍛錬を怠らない。――それと同様なのだろうか?

 


 クロエはそんな彼にお茶を一杯淹れると、ひと段落がつくまで静かに待った。自分が仕える猊下のこんな一面を独り占めできるのが心地よく、いつ来るともしれない時を待つのも苦ではない。

 


 彼はよほど集中していたのか本をひと通り読みきって閉じてからようやくこちらに戻ってきたらしく、対岸の椅子に座るクロエにはたった今気付いた様子だ。

 微笑みと共に軽く挨拶を交わしたクロエは早速本題を切り出す。すると風見はカップに口をつけながら耳を傾けてくれた。

 


「ユニコーンが鼻血を出して? えーと、それは冗談とかじゃなく……?」

「はい。一応そのように聞いているのですが……」

「ふむ、なるほど」

 


 風見は一瞬、呆けた顔をしたものだがクロエの顔を見ると顎を揉んで考え始めた。それはどうも真剣に考え始めている様子だ。てっきりもっと突っ込まれるかと思っていたクロエとしては拍子抜けをしてしまう。

 彼女は一周回って逆に困惑しながら「あ、あの……」と控えがちに問いかけた。

 


「ジューイ様はおかしいとは思わないのですか?」

「え。本当は冗談で笑いどころだったってことか?」

「いえ、そういうことではないのですが、その、あまりにすんなりと受け入れてもらえたので……。実のところ、そんな症状なんて私にも覚えがなくてジューイ様に伝えるのも憚られてしまったくらいでした」

「まあ、病気にもいろいろあるさ。皮膚が石のようにカチカチになる病気だって天然痘に、象皮病に、乳頭腫ウイルス、自己免疫疾患の一種とかいろいろ考えられる。馬が鼻血で出血死する病気っていうのも稀ではあるけどないことはない。その中でも死にかけるレベルの大量出血っていうと症状だけでもほぼ絞れる。俺の世界なら病院に連れてこられる馬のうち、千頭に一頭いるかいないかってレベルの珍しい症例だったかな」

「え、えっと……」

 


 風見は現代人に説明するように有名どころの名前をいくつか挙げてみるのだがクロエの表情はパッとしない。聞き慣れない単語を前に頷いたものか、それとも話を遮って問いかけたものかと困っている様子だ。

 その表情を見た風見は、ああなるほどと納得した。

 


 そういえばこちらは異世界だ。

 電気もなければ科学技術の発展だって乏しい、ちょうど西洋の中世のような文明なのだ。病気の正体はおろか、その症例だって一般にはそれほど出回ることのない知識だろう。

 こういった説明にももう少し噛み砕きが必要と考え直した風見は易しく言い直す。

 


「そうだなぁ。例えばの話、鼻血ってどういう時に起こると思う?」

「えっ!?」

 


 何気なく問いかけてみるとクロエは赤面した。

 口をもごもごとさせて言うに言いかねていた彼女だが、風見の視線を改めて確認すると顔を朱に染めたままぽつぽつと答え始める。

 


「そ、それは、そのっ。……せ――性的に興奮した時、とか……」

 


 クロエはとても言い難そうにしていた。

 普通ならば絶対に口にしないが、風見に問いかけられたからには答えないわけにはいかないと義務に押された顔で言葉にしている。

 もじもじと風見の体つきを見つめる彼女が何を想像しているかは容易に想像できた。

 神官は基本的に禁欲だから溜めこんだものもある。――そういう感じで免疫はないけれども、よく想像してしまうのだろうか。

 


 ……折角考えてくれた彼女には悪いのだが、もちろんそういうものとは違う。

 


「うん、まあ興奮して血圧が上がれば鼻血を出す確率は上がるだろうけど実際は厳しいと思う」

「やっ、やっぱりそうですよねっ!?」

 


 声を裏返らせてはぐらかしてくることからして、触れるべきではないのだろう。

 いじってみたらいじってみたで面白そうだが縮こまり、やってしまったと耳まで赤くして俯く彼女に何かをするのは相当に意地悪だ。

 


「ほら、鼻血と言えば顔面に受けた衝撃で出るのが普通だ。何らかの理由で鼻を通る血管が傷つかないと鼻血は出ない。例えば鼻にボールが当たる。酷い鼻炎で鼻の組織がもろくなってる。あとは出来物というか、腫瘍みたいなもので鼻の組織が壊され始めていたりとかかな。まだ他にもあるんだけど、そっちは鼻血というより別の症状で死にかけないと起きないから除外しておく。要するに、血管は何かがないと破れないんだよ。太い血管なんてなおさらだ」

 


 ううー……と声を出すクロエは両手で顔を覆いっぱなしだったのだが、少しずつ回復をしてくると手を下ろし始め、指の隙間から見つめ返してくる。

 彼女が恥ずかしさを思い出さないよう、風見は講師のような口調をことさらに強くして言葉を続けた。

 


「人間の場合はせいぜい動脈の末端が傷つく程度だからどう頑張っても鼻血で死ぬのは難しいんだよ」

「確かに鼻からの出血といえば、せいぜい垂れてくる程度だったと思います。よほど大量に流しても先に鼻の穴が血で埋まってそれ以上は出ようがありませんよね」

「そうだな。でも馬の場合はちょっと違う。馬は人よりずっと大きいし鼻呼吸を中心に生きる動物だから鼻腔も、そこに走る血管なんかも発達している。あと、その鼻から出た血は本当に鼻からの出血なのか、それとも肺の出血を咳で鼻から出してきたのかも重要だ。ただ、瀕死レベルの出血なら肺からではなさそうだな」

「鼻からそれほど大量に血が出るならすでに肺が血で満たされていないとおかしい……ということですよね?」

「ああ。それだけの出血なら鼻の奥で内頚動脈っていう動脈が破れたんだと思う。で、どこかに強打したとかいうんでもなくこれを起こしたっていうと原因は絞られるわけだ」

 


 ようやく馬の症状についてざっくりと説明を終えたところで、クロエは「え゛っ」と濁った声を上げて驚きの表情を見せる。

 彼女は自分の首に指を添わせて頚動脈といえばこれだと再確認していた。

 


「そうそう。それが内頚動脈と外頚動脈に分枝して、さらに脳や顔中に枝分かれをして血を配分しているんだよ」

「それ、死んでしまうんじゃ……?」

「かかりにくい病気なだけに一度発症すれば厄介だからな。鼻血を吹き出す段階までいってると予後は不良が多いし、治療に効果があるとも限らない。普通の生物じゃなくこっちの世界の魔物なら余計だな。ま、やってみるしかない」

 


 全ての疾病がドラマのように劇的に治せるわけではない。むしろそんな病気なんて外科的に治せるごく一部だけだ。

 健康な人がかかった普通の風邪を治すのに数日。厄介な感染症なら月単位の回復期間を考えないといけない。

 


 風見は思考を一区切りさせるとこちらの世界へと一緒に流れ着いた道具の元へと歩き、荷物を物色して何かを探していた。

 そしてメスや解剖用のナイフなどともう一つ、彼が取り出したのは褐色の小ビンである。中に入った液体はもう半分も残っていなかった。

 


「馬相手となると今回一回限りかなぁ」

「スルファ……? それは何ですか?」

「俺が知っている病気ならこれも一応効果のある薬なんだよ。残念ながら俺のいた場所は治療っていうより検査とか研究が中心の場所だったから使用期限がギリギリで廃棄予定だったこれっぽっちしかないんだけど」

 


 手元にある物と言えば自分用の解剖道具や白衣にツナギ、多少の本、あとは身に着けていた財布や腕時計くらいだ。

 とてもではないがこれ一つでこれからも獣医療を行っていけるはずがない。せいぜい数回が限度である。

 こちらで医療行為をしようと思うのなら麻酔に治療薬、手術に必要な器具まで手作りやオーダーメイドで仕上げていくしかないだろう。中世の研究者はそのせいで資金繰りに困り、修道士などになったそうだが納得できる話だ。

 


「さて、そんな症状ならできるだけ早めに行って診てみようか。クロエ、準備を――」

「ご心配なく。そちらについては隷属騎士の方々がすでに準備をしてくださっています。ジューイ様のサポートならば私たちに全てお任せください」

「そういえばこの前からずっと気になっていたんだけど、そこだ。そのジューイって呼ぶのをやめないか?」

「あ。も、申し訳ありませんっ! 私ではお名前を呼ばせていただくのは恐れ多かったですか?」

「いや、そうじゃなくてな。俺の名前は風見心悟。獣医っていうのは職業の名前で、動物のお医者さんって意味だ。だからクロエを神官さんって言ったり、ドニさんを領主さんって呼ぶのと同じようなことなんだよ」

「そんな、私はなんて勘違いを……。申し訳ありません……。あの、これからは風見様とお呼びさせていただいもよろしいでしょうか?」

「様付けもなくていいよ。クロエが呼びやすいように呼んでくれ」

 


 様付けなんておふざけ以外には未だかつてなかったのでむず痒さを覚えていたのだが、クロエは「はい、風見様」と安定のスタイルだ。

 距離が一歩近付いたことにはにかんでさえいる。残念ながら様付けなしはまた次の段階へ持ち越しらしかった。

 


 


 


 □

 


 


 


 風見はクロエに連れられて外へとやって来た。

 その合間にドニが挨拶に来ていろいろと語られたのだが、いつもの持ち上げや過保護すぎる配慮があったくらいだ。彼も仕事があるようで話の終わりは比較的短時間であった。

 


 用意された馬車の前にはリズとノーラが。その他にも御者や馬車の背後につく兵士二名が隷属騎士からつけられている。

 風見がやって来るのを見つけるとリズは馬車のドアを開けた。大した興味もなさそうに警備然としており、声をかけづらい。

 一方のノーラといえば何やらバスケットを片手に走って出迎えると手を引いてくる。

 


「猊下、目的地までは三十分ほどかかるそうです。あ、それと足元、お気をつけて!」

「え、えーと。私はあなたを覚えています。ありがとう、ノーラ」

「覚えていてくれたんですか! ありがとうございますっ」

 


 早速の歓迎に風見は拙い言語で返す。リスニングに続けて自分の言葉で返すというのは慣れないとなかなかできるものではなく、視線でクロエに確認してしまう。

 けれどもノーラにはちゃんと伝わっていたらしく、彼女はウサ耳をピコピコと揺らして嬉しがっていた。

 


 彼女は馬車に入ると風見の正面に座り、クロエは隣に座る。ドアを閉めたリズはノーラの隣についた。

 この席付けがまさに社内の雰囲気そのものである。

 


 クロエはさりげなく触れるくらいの距離でにこやかに談話を向け、対岸のノーラはどうにか接近しようとあれやこれやと話題振りに苦戦したり、バスケットから取り出したリンゴを剥いたりと何か必死そうだ。

 こちらの言葉に苦労する風見にクロエが翻訳していると、注目を取られっぱなしのノーラはあうあうと物言いたそうな顔のまま何もできないでいた。

 いくら鈍い風見でもここまでちやほやとされると普通の待遇と違うことくらいは何となく感づく。

 


(これ、なんかアピール合戦のような……)

 


 恐らくそれは勘違いではないのだろう。

 クロエとノーラは終始競い合うように――いや、ノーラがクロエのリードに焦らせ続けるような形で会話が絶えなかった。

 


 だからこそ風見としては気になるものもある。

 この風景にちらと視線を向けるリズの目はといえば何の興味もなさそうな感じなのだ。

 


 そのおかげで鼻を伸ばすこともなく、状況を冷静に捉えることができた。

 この二人は少なからず好意を持ってくれているのは確かだが、やはり今までのドニの言葉からして“もてなし”の一環もないことはないのだろう。

 


(やっぱ知らないことばかりだな)

 


 まさかないとは思うがハニートラップで踊らされたり、情事の途中でさっくり殺されるなんて展開も本などで見た覚えがある。

 そんなことにならぬよう、教えられない部分もどうにか自分の手段で知っていく必要があるかと風見は頭の片隅で再認識するのだった。

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