研究材料をキャプチャーしにいきます
――そして、翌日。
正午を知らせる鐘楼の音が鳴り響いた頃のことだった。
「なあ、ちょっと休憩していいかな。ずっと動かなかったし、そこら辺を散歩してきたいんだ」
朝からクロエにみっちりと語学を教わった風見はそう申し出た。
座り続けだったせいで肩や首ががちがちに凝り固まっているし、腰まで痛いのでそろそろ血を通わせたいのだ。
「そうですね、あまり根を詰め過ぎてもいけませんし気分転換にどうぞ。私はちょっと次のことをまとめておきます」
現在はアルファベットなどのような基本の記号を何度も書いて覚え、数字の数え方、『これはペンです』『私の出身は日本です』『ありがとう』などの超初級編をいくらか覚え終わったところだ。
次はもうちょっと進歩して疑問文や助動詞を使った文を作るらしい。
中学や大学で英語や第二外国語を学び始めた時を思い出される。あの時もこういう順序で進んでいったものだった。
「あ、あはは。まだやるのな……」
「はいっ。ジューイ様の活躍を待たれている方は多いのですから!」
きらきらと輝く粒子すら発散しそうな笑顔だ。
彼女には勉強疲れなんて微塵も感じられない。むしろ今が楽しくてしょうがなく、嬉しくて堪らないという様子をしている。
彼女が幸せそうで何よりだ。
いつかその幸せを共有できたらいいと思うがその未来が全く浮かばない。それはどこの風見さんの話題なのかとさえ思えてしまった。
「うん、まあちょっと歩いてくる。そこら辺を歩いてくる分には問題ないんだよな?」
「はい。立ち寄ってはいけない場所などは特に聞いていません」
「じゃあ適当に歩いてくることにするよ」
メイドのように慎ましやかな一礼に見送られ、彼は外に出た。
外にはリズと他の人がまた警備をしているので「お疲れ様」とだけ伝えて階段を下りていく。
「さて、フリーの時間をもらったんならドニさんのことやらクロエのことやらと、ついでにいろいろ調べてみないとな。できれば街にでも出て不特定の人に話を聞きたいし、どんな様子か見てみたいんだけど……」
人に話を聞けるのは理想だが、聞けないとしても街の様子を見られるだけでドニが善政を敷いているのかどうかくらいは判るはずだ。
散歩からの迷子など、場に不慣れな今を利用して調べられる機会なのだから有効に使わない手はない。
彼はそう思いつつ、庭園までやってきた。
そこには低木や色とりどりの花で複数の蛇に剣を刺した図が描かれている。これはヒュドラを倒したというドニの先祖にちなんだ家紋を描いた西洋式の庭園――というところだろうか。
手入れは欠かせないようで今も庭師と思われる老人が作業をしている。
「うーむ。何か外に出る良い理由はないものか」
庭師の手入れ道具を街へ買いに行くお使いを思い浮かべてみたがこれはダメだろう。いくらなんでも手入れ道具を切らしているとは思えない。
城の厨房などにしたって商人に直接搬入をさせているようだし、買い出しついでに外を見て回るという手は使えそうになかった。
と、そんな時だ。
風見はひゅんと視界を飛び去っていく妖精を見た。目で追ってみるにどうやら街の方へ飛んで行ったらしい。
「……」
――あ、良い相手を見つけた。
異世界に初めて来たばかりの人間なのでこういう異世界らしい相手に興味を持って追いかけていったなんて良い言い訳になるだろう。
よし、と方針は決めた風見は追いかけることにした。
尤も、本当に好奇心があったのも確かだが。
彼はご飯の匂いに誘われるようにその後を追い、とうとう城門までやって来る。
そこには小さな詰所があり、警備の騎士が数人待機していた。
誰だろうと首を傾げられたが誰かが『例の猊下だよ、猊下』とでも言ったのか全員が納得した顔をする。どうやら顔くらいはいくらか知れているらしい。
門を出そうな雰囲気を察すると女性が一人出て来た。
歳は二十歳くらいだろうか。異世界の亜人らしくウサギの耳を揺らした女性は大きな身振り手振りを加えながら、ゆっくりと話しかけてくる。
「Você sai(お出かけですか)?」
「え? あー、うん。多分そんなところ」
まだまだ言語の初歩を学んだばかりの風見にはリスニングをこなすのは無理だった。尋ねてくる女性騎士には主に苦笑と頷きで返しておく。
意味が伝わっている感触はあるので問題はないはずだ。
そしてそのまま通り過ぎようとすると、さっと前を塞がれてしまった。
彼女としてもこのままどこかに行かれるのは警備の都合上マズイのか、苦笑気味に止めようとしてくる。
「Você adquiriu permissão(許可を得ましたか)?」
「えっと、疑問形だから……Sim! そうそう、SimだなSim」
とりあえずイエスと同じ肯定の言葉を連呼してみるとかえって怪しまれ、いぶかしそうな顔をされてしまった。
どうも彼らは警備以上の命令を与えられていないらしく判断に迷っているらしい。
けれどもここで止められてしまっては妖精を見失ってしまう。あれを追いかけていくのが外へ出る名目なのだから逃がしてはいけない。
なので風見は、
「散歩だよ。散歩。ちょっと行ってくるな」
と、日本語で伝え置いて先を急いだ。
すると見送るわけにもいかない騎士達はどよどよと判断に迷い、少々遅れて一人がついてきた。
「あれ、仕事途中ならわざわざついて来なくてもよかったのに。えーと、Qual é seu nome(名前はなんて言うんだ)?」
「Nora. Meu nome é Nora(ウチの名前はノーラです)」
「ふむふむ、ノーラか。よろしく。俺の名前は風見心悟。えーと、Meu nome é Shingo. シ・ン・ゴ。伝わったかな……?」
自分を差してノーラやらシンゴやらと身振り手振りで自己紹介する。
ボディランゲージは本当に素晴らしい意思疎通方法だった。
「あ、いかんっ……!」
と、呑気にそんなことをしている間に妖精を見失いそうなことに気付いた風見は急に走り出した。
「逃がすかぁーっ!」
「……? ……Ah!?」
彼が目で何を追っているかくらいはノーラも認識していたようだが突然の全力ダッシュに、ぎょっとしていた。
まあ、ドニのような貴族がこんな怪奇行動に走ることはまずあり得ないだろうから当然だろうか。
「Por favor espere(ま、待ってください)! Espere(待ってー)!」
風見はあっという間に見失いそうな速度で走っていく。
ノーラはそれを必死に追いかけるのだった。
□
風見の後を追い、正門詰所までやってきたリズは騎士達の言葉に唖然とした。
「は? 逃げた?」
「いえ、それがよく判らないのですがともかく街の方へ走っていったのです。もしかしたら妖精を追いかけていただけなのかも……? ともかく止めていいものかと迷った挙句、突然に走りだされてしまったので現在はノーラが追っています」
「はあ、猊下様の気まぐれには困ったものだね。まあノーラが追っているのならとりあえず平気かな」
風見を影から監視しておこうと思った矢先、急に走り出したのを見て慌てて追いかけてみたらそんなことになっていたようだ。
見ず知らずの世界でとりあえず脱走を図るなんて無謀をする歳にも見えなかったのだが、そんな行動に出られてしまったのならもうそれに合わせて行動するしかない。
面倒な限りだ。
リズはこれからを思って重いため息を吐く。
「とりあえず手が空いてる者をかき集めろ。これに乗じてあれの暗殺やら奪取やらを企む輩が出てくるかもしれん。良ければ炙り出しにもなるからこの機を逃すな。いいね?」
「マークしていた集団が動いた場合には?」
「その場合は容赦なく殺せばいい。この際取りこぼしは致し方ないね。それから部屋で呑気にしている白服にも知らせて走ってもらえ。あれも上等な戦力らしいから陽動にはもってこいだろうさ。私達は影に徹するよ」
「了解」
そんな言葉と共に数名の騎士が散開するのだった。




