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翌朝の寝起きは最悪だった。
何か夢を見ていたのか、目が覚めた瞬間、今の状況がどういう事なのか分からなくて、周りを見渡して、ああ、朝だ、と思う。
会社に行かなきゃ。
目覚ましを止めて起き上がり、いつものように準備をする。
いつもと変わりない朝なのに、私の気分はひどく悪かった。
上岡との再会は、ただそれだけで追い詰められたような気分にされる恐怖だった。
混乱をするほどに穏やかで紳士的だった再会した彼と、思い出すだけで不快感で埋め尽くされるような付き合っていた頃の彼と。
もし、あれほど傷つけられていなかったら、もし、私にとって彼があれほどまでに愛した人でなかったのなら、この出会いはもっと気持ちの良い再会になっていたのかもしれない。
彼の本心がどうあれ、あれほど優しく穏やかに接してこられたのなら、悪い気はしなかっただろう。「変わったわね」なんて笑って友達として付き合えたかもしれない。
けれど、私にとって、そんなに簡単に過去のこととして流せるほど、彼の存在は軽くはなかった。若い頃というのは、恐ろしいと思う。あの頃の私は、彼に全てを捧げていた。彼が全てだった。今思えば、笑ってしまうほどに。現実が見えてなくて、私の世界は恐ろしいほどに狭くて、彼だけいれば全てが満たされて、彼だけいれば生きていけると。彼がいなければ生きていけないと。本気でそう思っていた。
あれだけ彼のことが全てで、よく、私はあのとき、彼から逃げられたと思うほどに。
笑って再会など、果たせるはずがなかった。何より、彼は、未だに私に影響を及ぼす。忘れたと思っていたのに、最低の男だと思うのに、どうしようもなく彼に惹かれてしまう。
もう二度と会うことがないのなら、また、無理矢理にでも忘れてしまえばいい。一度出来たのだから、二度目もきっと出来るだろう。でも、彼はそれをする気はなさそうだった。家は知られてしまった。電話番号はかろうじて教えずに済ませたけれど。
そこまで思い出して、私は、そう言えば、とテーブルの上に昨夜置いた彼の名刺に目をやる。
少し乱暴に見える殴り書きしたような数字。見覚えのある彼の字だった。
穏やかそうに見えても、雑な彼の字は変わっていないらしい。あの、いい加減とも言える性格は隠されていただけで、今も彼の中に残っているのだろうか。
人間が、早々簡単に変わる事なんてない。どうせ、良い人面をしているだけだろうと考える。
そうだ。彼は、きっと変わってはいない。
昨夜の出来事の一つをふと思い出し、私は確信する。
左手にしていた指輪を外して隠したあの行動。結局、アレが彼の本質だろうと。
人なつっこくて、優しくて、でも雑で、自分勝手で、いいかげんで、そしてロマンチストな一面もあった彼は、つきあい始めてすぐの頃に指輪をくれた。喜んだ私に「ペアリングなんだから、外すなよ」と、笑った。私はうれしくて、言われたとおり、ずっとつけていた。高校も、そういうところがそれほど厳しいところじゃなかったからつけたままでも何も言われなかった。
なのに、外したのは、彼だった。
私のいないところで外して、他の女性に手を出していた。
昨日のあれも、きっと、そう言うことだろうと、私は思い当たる。
適当なことばっかり、自分の都合の良いことばかり言う彼を、信用する必要なんてない。
私は名刺を手に取ると、そのままゴミ箱に捨てた。