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それでも会う回数が増えるにつれ、私と彼の距離は、どうしようもないほどに縮まっていた。一緒にいるのは楽しかったし、居心地が良かった。友人以上、恋人未満、とでも言うのだろうか。
気がつけば、とうとう彼と当たり前のように普通に話せるようになっていた。
最近は、あまり感情がマイナスに振れることが少なくなって、彼との関係を前向きに受け止めることも多くなっていた。ときどき、ぶり返すように、彼との関係を不安に感じることもあるけれど、彼と話していると杞憂のように思えるのだ。
そう思えるほどに、再会後の彼は、ずっと私に対して優しくて、誠実で、そして紳士的だった。
そう、腹が立つほどに紳士的だった。もっと以前の彼らしく自分勝手であれば私ももっと抵抗できたかもしれないし、不快に思って遠ざけることも出来たかもしれない。
けれど、最初に約束した彼の言葉通り、会うことを拒否しなければ、彼は模範的なほどに礼儀正しく私を尊重してくれた。
今、私が彼をどう思っているかは、怖くて考えないようにしていたけど、今の関係には満足していた。元々彼とは、五歳も年が離れているのに話が合っていた。付き合うようになってそれ以外の所での諍いが多くなっていったのだけれど、彼と付き合っていた頃も、その隣は居心地が良かった。
そして、あの頃とは決定的に違うのが、彼が、自分中心で物事を進めようとしないところだった。彼は基本的に一人で勝手に進めてしまうようなところがある人で、今でもその傾向はある。けれど、それでも今は私の気持ちや意見を必ず確認してくれるようになっていた。以前のように当たり前に付いてくる従属物みたいな扱いじゃなくなっていることは、私の不安感をそぎ落としていく。
時折、やはり勝手に決めていくところはあるけれど、途中で気付いて慌てて聞いてきたりする姿は、決して悪い気はしなかったし、気付かなくても、そのくらいなら、と、彼らしいと、何となくほっとした部分もあって、気にならなかった。
あまりにも違いすぎるというのも、気持ち悪いと感じていたのかもしれない。何より、私自身、何もかもを聞かれたり、全てを自分で決めるのが疲れるという自分の性格を顧みるに、彼のそういう側面がなくなっていないというのは居心地の良さにも繋がっているのかもしれない。
楽しくて、私の事も考えてくれて、優しくて……。
考えてみれば、今側にいるのは、付き合っていた頃に夢見ていたような、理想の彼だった。
あまりにも理想通りだから時折怖くなる事もあった。でも、私はそれを見ないようにした。
好きな訳じゃない。付き合っているわけでもない。ただの友人関係なのだからどうでも良いと。だから、もし嫌なことがあっても、いつでも関係は切れるからと、自分に言い訳をしていた。
そんなに、簡単にいくわけがなかったのに。
仕事で待ち合わせに遅れると連絡して、けれど思いのほか早くに終わった私は、急いで彼との待ち合わせ場所に向かっていた。
その途中、彼の後姿を見つけ、待たせずにすんだ事にほっとする。
声をかけようとしたら、その隣に誰か一緒にいるのを気付いて、私はためらった。歩みを抑えて、少し離れた彼の後ろを声をかけるか躊躇いながら歩いていると、親しそうなそぶりで話す二人の声が耳に届いてきた。
「待ち合わせって、奥さんか?」
彼に話しかけた男性の声に、私は身がすくんだ。
奥さん? 彼、の……?
頭の中が、真っ白になった。まさかという思い。ホントに、という思い。心臓が、ぎゅうっと締め付けられた。
まさか、結婚してるの?
「お前には関係ないだろ」
不機嫌そうな彼の声がした。
奥さん、という言葉を、彼は否定しようとしなかった。
「なんだ、浮気かよ」
からかうような男の声が耳障りに響く。
かぁっと頭に血が上ったような気がした。目の前のその男性に、私の事を不倫相手と言われた気がした。
心臓がどくんどくんと音を立て、のぼせたように息が上がる。
「はぁ? 浮気? するわけないだろう。何だよ、それ」
「女の子に会うんだろ。指輪、外しちゃってさ。気がつかないとでも思ってんのかよ。代わりに、首にしてるだろ、指輪。会社でもちょっと話題になってるの、知らねぇの? 奥さんとケンカしたんじゃないかって」
笑いながら言う男性の声がかんに障る。そして彼の言葉がまるで上辺を滑るように、私の耳を右から左へとすり抜けてゆく。
不快だった。
彼は浮気はしてない、そうだ。けれど、奥さんはいるらしい。
考えると、おかしくなった。
私は立ち止まり、歩いてゆく彼の後ろ姿を見つめた。
別に、私は彼から付き合おうとか言われた訳じゃない。彼はまずは許してもらうところからと笑って、指一本触れようともしない。口説かれたわけでもない。ただ、一緒に食事をしたり、話をしたりしているだけ。あくまでも、私と彼の関係は「友達」でしかない。友達以下かもしれない。元カノだった知り合いみたいなレベル。それ以上の何かを求められたこともない。
友達以上恋人未満って。私はそう思っていたことを思い出して笑う。
別に、私は裏切られた訳じゃない。
私は彼らに背を向けてその場を立ち去った。
のぼせ上がっていたのは、私だけなんだと思い知る。
ああ、私は、彼を信じていたんだ、と私は自分を嘲り笑う。
彼の誠意と好意は、唯一人の女性に向けての物だと、信じたいと思っていたのだと。
そして、その女性は私なのだと。
再会から今まで、考えまいとして、自分の気持ちを否定し続けて、なのに、心はもうそのつもりだったのだと。
無様だと思った。滑稽すぎて、もう涙も出ない。
一番最初に、見ていたのに。彼は、左の薬指に、指輪をしていた。それは日焼けして跡が付くぐらい長い間していたのが分かるほどだった。
外して、まさか首にしていただなんて。
滑稽すぎる。別れた彼女とのペアリングなんて。あんな言葉を信じただなんて。
その時の彼の言葉を思い出して、私の口端が、弧を描くようにゆがむ。
……裏切られてない?
私は気付く。
違う、私は、まただまされていた。
彼は言った「前の彼女とのペアリング」だと、もう、別れたと。
嘘は言っていないかもしれない。奥さんがいないなんて言った訳じゃない。奥さんとのマリッジリングなら、確かに「ペアリング」で、結婚する前は「前の彼女」かもしれない。
そう思って、そのこじつけに、私はうっすらと笑みを浮かべた。
滑稽だと思った。屈辱的だと思った。
「奥さん」だなんて。
あんまりだ。
確かに私との逢瀬は浮気ではないのだろう、彼の基準では。体の関係もなく、ただ、世間話をして食事をするだけの関係。手が触れることさえもない。
彼は、私がほだされていくのを、楽しんでいたのだろうか。さぞかしおもしろかっただろう。あれだけ拒絶していた女がだんだんとその気になっていくのを見るのは。
怒りに震える。
彼が私に、意図的に、フリーだと思わせたのは確かだ。私に、何かを期待させることは、全くなかったなんて、言わせない。
あんなに寄り添うように側にいて、あんなに真摯に見える誠意を向けられて。
どんなに礼儀正しくしていたとしても、私に女性としての何かを全く求めてなかったなんて、絶対に、言わせない。たとえそれを私が表向きは拒絶していたとしても。
怒りで心の中がどす黒く染まっていくようだった。
どこまでも、どこまでも落ちていくような、暗いくらい心の奥底。
もう、会いたくない。
結局、私はだまされた。
体が震えるのは、のどの奥が痛いのは、胸が軋むように痛むのは、怒りのせいだと言い聞かせた。