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 何度、躊躇っては最後の通話ボタンを押すことが出来ずにやめたただろう。時計を見ると、二十二時になろうとしていた。本来なら親しくもない人にかける時間ではない。もう、いっそ、やめてしまおうかとも思ったりもする。けれど私は、このくらいの時間帯の方が、彼にとって都合が良いことも知っている。

 それに、遅くても明日の朝には取りに行かなきゃいけないし。今日中には、必ず連絡を取っておいた方が良い。

 だから――。

 さんざん自分に言い訳し、ようやく意を決し、更にさんざん躊躇った末、私は通話ボタンを押した。

 受話器の向こうで鳴り響く呼び出し音。それを聞きながら、体中に響くような音を立てて心臓が高鳴る。

『はい』

 しばらくの呼び出し音の後、受話器の向こうで事務的な声がした。

 低い声が私の耳の奥に甘く響く。甘すぎて痛いほどに胸が疼く。こんな短い一言なのに、どうしようもなく私を揺さぶる。

 何の言葉も出なかった。胸の疼きが私を支配する。泣きそうなほどに胸がいっぱいで、熱い固まりが喉までこみ上げる。

 携帯を持ったまま黙り込む私の耳に『もしもし?』と困ったような声が響いた。問いかけるような優しい声。あまりにも耳に心地よくて、胸の苦しさが増す。

 いやだ。こんな私はいや。

 携帯を持つ手が振るえた。

 切ろう、と思った。耳から離し、振るえる手で電源のボタンに触れる。

『留衣?』

 持った携帯から小さく彼の声が聞こえた。

 私は唇を咬む。そして振るえる手でもう一度、携帯を耳に寄せた。

『留衣?』

 受話器の向こうでもう一度、私の名前を呼ぶ彼の声が響く。耳もとで聞こえる彼の声は甘く誘うように私の中を突き抜ける。甘い、甘い、胸を刺すような痛み。

 痛くて苦しくて、どこまでも心地よい。

「……ふっ」

 喘ぐような吐息が漏れる。泣きたい。切なくて、苦しくて、でも、幸せで、それが嫌で。

『留衣?』

 躊躇うように、戸惑うように、彼の静かに名前を呼ぶ声が耳もとで響く。

「もしもし」

 私はようやく声を出す。その声はどこかかすれて自分の耳に届く。

『どうした? こんな時間に』

「……スケジュール帳を……車に落としてなかった……?」

 ようやく紡いだ自分の言葉に、私は自己嫌悪に陥る。

 名乗りもせずに、脈絡もなく質問をぶつけるとか、あんまりだろうと、頭の片隅で冷静に考える自分がいる。

 けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、とても常識的な反応で。

『ああ、茶色いヤツか? それならあったよ。明日の夜持って行こうと思っていた』

 私は、のどの奥が痛いのを何とか押さえながら、なんでもないフリをして、出来る限り事務的に声を出す。

「そう、よかった。探してたの。明日会社でちょっと使いたいから、今からか、明日の朝か、取りに行きたいんだけど、途中まで出てきてもらえる?」

 そうね、あのコンビニでも……と、続けようとして、電話の向こうから返ってきた彼の言葉に私は狼狽した。

『すぐ行くから、待ってろよ』

 今から会うなんて、そんな覚悟は出来ていなかったことに気付く。電話をするだけでもこんなに苦しいのに、顔を見るだなんて。

「ちょ、待って、来なくて良いから、待ち合わせを……」

『冗談。こんな時間に留衣を一人で外に出させる気はない』

「でも」

 私が何かを言う前に、彼が勝手に話を決めていく。どこか、口を挟む余地のない口調に、私は結局、彼を止めることが出来なかった。

『心配しなくても、渡したら、すぐ帰るよ』

 そう言って、電話は切れた。

 私は切れた携帯を呆然と見つめる。

 彼が、また、家まで来る……。

「留衣」と受話器から聞こえてきた、低い声を思い出して、私は体を震わせた。

 苦しくて、どこまでも甘い痛み。それはどこか、セックスの快感にも似ていて、私はその痛みに甘く酔う。

 遠い日に覚えた快感が脳裏をよぎる。よみがえった遠い日の記憶は懐かしい感覚をもよみがえらせ、ぞくりと私を襲う。

 五年も前の快感を、私は覚えていた。彼に触れられ、素肌を合わせ、耳元でささやかれる、どうしようもなく心地よいあの快感。愛おしさと、思い出す嫌悪感にまみれた、愛しすぎて、吐き気がするほど憎い記憶。

 なのに興奮する自分が惨めだった。

 電話を通して聞こえた声もまた、耳元でささやくあのときの声を彷彿させる。

 私は頭を振り、考えまいとする。のろのろと、体を動かし、惨めな気分はそのままに、部屋を片付ける。

 部屋の中に入れる気なんてない。なのに、もしかしたら、などと考えている自分もいた。




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