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それだけなら、まだ良かったのに。
良くはないけど、でも、それだけなら、まだ良かったのだ。
私は、携帯電話を握りしめて、溜息をつく。自分一人だけしかいない自室で、その音は、やけに大きく自分の耳に響く。
私はあのとき彼の車に、スケジュール帳を落としていたかもしれなかった。
そのことが大きくのしかかってきている。
今、私がどうしようもなく苦しくなっているのは、取り付けられた約束のせいでも、スケジュール帳を落としたことでもなかった。
問題なのは落としたスケジュール帳が、明日、会社でどうしても必要な事だった。
正しくは、その中に書き込んだメモ内容なのだけれど。
本当は今日必要な物だった。会社でないことに気付き、仕方なく確認は明日にしましょうという話になった。それで帰ってから家の中を探しても、どこにもない事に気付き、現在に至る。
今朝は、彼のことがあって、慌てて準備をしたけれど、確かにスケジュール帳はバッグに入れた。なのに、会社に着いたときはなかったし、確かに車の中でスケジュール帳を出して明日の予定を確認したりと、身に覚えもある。
私は、泣きたい気持ちで今朝のことを思い返す。
どうして車に乗ったりしたんだろうと、今更ながらのことを、何度も何度も後悔する。
明日の夜会うときに確認するのでは遅い。
私は、出来るだけ早く彼に連絡を取らなければいけなくなっていた。
携帯を片手に、私は惨めな気持ちで、深く息を吐く。
私の目の前にあるのは、ゴミ箱だった。十日ほど前に、名刺を捨ててそのままになっているゴミ箱。その中に、彼の携帯の番号を書いた名刺がある。
十日も前に捨てた物がまだ入っている、未練ばかりが詰まったゴミ箱。
今、私は捨てることも出来ていなかった惨めさに唇を噛む。自分の未練がましさを突きつけられているようだった。嫌いだ、嫌だと言いながら、名刺一つ捨てられないほど、結局彼にしがみついているのは自分じゃないかと、そう言われているように思えた。
惨めだ、と、もう一度思う。彼のことを捨てきれない自分が情けない。
私は、ゆっくりとゴミ箱に手を入れる。
トン、とゴミ箱の底に指が当たって、カサリ、と名刺がこすれて音を立てる。
それを拾い上げて、彼の名前が印刷された紙面をじっと見つめる。印刷された文字は、私の目に入ってくるのに、ぼんやり見つめる私の脳には、意味をなさない絵のようにただ目に映るだけ。代わりに、彼の書いた携帯の番号の文字が、ひどいインパクトでもって、私に訴えかけてくる。
苦しい。
電話なんて、かけたくない。かけたくなんかない。
なのに、私は電話番号を見ながら、心臓が高鳴るのを感じる。怖いのとも、不快なのとも違う、期待のような緊張感。かけたくないと思う理性は本当なのに、電話をかければ彼の声が聞こえる、彼を身近に感じることが出来る、そんな期待感がわき上がって、私の胸は高鳴る。
嫌なのに、私の心は、私の理性を裏切る。
電話をかけるしかないと思う理性と、かけたくないと思う理性と、電話をかけたい私の心。
私は、彼の番号を、震える手で押した。