『未来の私に』
失恋したての、のり子は一人で浜辺の街に旅行に来ました。自分を見つめなおして、新しい人生を始めるための、一歩にしたかったのです。
このN市の海岸は、とっても綺麗で、夕焼け時になると、海と陸が茜色に染まりこの世の物とは思えないくらいの色彩を見せてくれます。
まるで、昨日までの私の心と、明日からの未来へ続く私との境界のように。
のり子は、茜色に染まった砂浜を、裸足で歩いていた。
海と空と陸が溶け合うように輝く境界線は、まるで自分の心の境目みたいだった。
すると、後ろから小さな声が聞こえてきた。
「ねえ、おねえちゃん! 見て見て、キラキラしてるよ!」
ツインテールに赤いリボンを揺らした、幼稚園児ののり子が駆け寄ってきた。
小さな手が差し出した貝殻は、夕陽を受けて虹色に輝いていた。
その貝殻は、のり子にとって特別な宝物だった。
幼い頃、夢がいっぱい詰まっていると言って、大切にしまっていたもの。
海の音、風の匂い、未来への希望——全部閉じ込めた、キラキラの記憶。
幼いのり子は、無邪気に笑って言った。
「おねえちゃん、泣いてるの?
この貝殻、夢がいっぱい入ってるよ。
ほら、耳当ててみて。海の声が聞こえるでしょ?」
のり子はしゃがみ込み、幼い自分と目線を合わせた。
貝殻をそっと手に取ると、確かに懐かしい波の音が聞こえる気がした。
(……あの頃の私は、こんなに純粋に夢を見ていたんだ)
胸の奥が、熱く、優しく疼いた。
空がオレンジから柔らかなピンクに変わる頃、
のり子は砂浜に座り込んだ小学生の自分を見つけた。
制服のスカートを砂まみれにしながら、
その子は一生懸命、砂のお城を作っていた。
「私、いつも一人で砂のお城作ってたよ……
でも、夕陽がキラキラしてると、ちょっとだけ幸せだった」
波が優しく城壁を崩していく。
金色に輝く砂の粒が、まるで小さな宝石のように光っている。
のり子は、ふと思い出した。
砂のお城の中では、毎晩素敵な舞踏会が開かれていた。
自分はその中の一人のお姫様。
きれいなドレスを着て、想像の王子様とダンスを踊っていた。
「……え? ダンスは今でも踊れませんけどね、えへ」
小学生の自分が、照れくさそうに笑った。
のり子も、つられて小さく笑った。
あの頃の夢は、砂のように崩れやすいものだったけれど、
夕焼けの中で輝いていた時間は、今も胸の奥に残っている。
空が紫がかった茜色に深まっていく頃、
制服のスカートを風に押さえながら立つ、中学生ののり子がいた。
「初めて好きになった子に振られた日も、こんな風に海がキラキラしてた。
泣かないって決めたのに……」
風が強く吹き、彼女の髪を激しく乱す。
夕陽がその髪を金色に染め、まるで燃えているように輝いていた。
のり子は、ふと思い出した。
あの頃は、海の向こうまで行けそうな気がしていた。
心が自由で、どこまでも飛んでいけそうな気がしていた。
不安? そんなもの、なかったわ。
彼のことも、振られた次の日にはもう「まあいいか」って思って、3日後にはほとんど忘れていた……はず。
「元気にしてるかな?
顔も、もう思い出せないけど……」
中学生の自分が、照れくさそうに笑って肩をすくめた。
「私も、あれから勉強頑張ったんだよ。
泣いてなんかいられないって、必死に自分に言い聞かせてさ」
のり子は胸が少し苦しくなった。
あの強がりは、きっと本当の強さじゃなかった。
ただ、傷ついた自分を守るための、精一杯の仮面だったんだ。
でも、今の自分が思う。
あの頃の私、よく頑張ったね。
水平線が真っ赤に燃える瞬間、
少し離れたところで、制服姿の高校生ののり子が静かに立っていた。
波の飛沫が夕陽に反射して、ダイヤモンドのようにキラキラと光っている。
「あの人が笑うと、世界がキラキラして見えた……
本当に好きになったのは、彼が初めてだったかも」
彼女は遠い目をして、そっと呟いた。
本が大好きだった彼。
私も無理して詩集を読んで、図書館で話しかけたっけ。
彼の貸出票に名前を見つけただけで、胸がどきどきした。
あの小さな喜びが、今でも鮮やかに思い出せる。
「今日の夕日も……あの詩集の一場面みたいだね」
高校生の自分が、照れくさそうに微笑んだ。
風がスカートの裾を優しく揺らし、夕陽が彼女の頰を赤く染めている。
のり子は胸が締め付けられた。
あの頃の私は、恋を詩のように美しく信じていた。
彼の横顔を見るだけで、世界が輝いて見えた。
でも結局……全部、幻だったのかもしれない。
それでも、
あのキラキラした気持ちは、嘘じゃなかった。
空が深いワイン色に染まる頃、
少し大人びたのり子が、静かに砂浜に立っていた。
「一緒に夕陽を見て『ずっと一緒にいようね』って言ったよね……
あのキラキラした時間は、本物だったのに」
二人の影が長く伸びて、砂浜に重なり合う。
あの頃のまま、永遠に幸せが続くと思っていた。
小さなおそろいのプラスチックのカップ。
同じタヌキの絵が描かれたお茶碗。
おそろいのシャツに、おそろいのパンツ。
なんでも一緒が良かった。
世界は全部、二人のために用意されていると、本気で信じていた。
ふたりで半同棲をして、
一緒にキャンパスに通っていたあの頃。
「……ままごとの恋だったのかな」
大学ののり子は、寂しそうに微笑んだ。
夕陽が彼女の横顔を優しく、でも残酷に照らしている。
のり子は胸が痛くなった。
あのキラキラした日々は、確かに本物だった。
でも、ままごとみたいに儚くて、
いつか終わる運命だったのかもしれない。
おそろいの風船は、青いお空に飛んでいってしまいました。
すべての過去の自分が、ゆっくりとのり子を取り囲んだ。
幼稚園の頃の自分が、にこっと笑って言った。
「ねえ、おねえちゃん。泣かないで。私がずっと一緒にいるよ」
小学生の自分が、砂まみれの手を差し伸べながら、
「私、砂のお城作るの好きだったよ。崩れても、また作ればいいんだよ」
中学生の自分が、少し照れくさそうに、
「泣かないって決めたのに……でも、泣いていいよ。私は頑張ったんだから、おねえちゃんも頑張ってるよね」
高校生の自分が、少し顎を上げて生意気そうに言った。
「私、詩集なんて読んだことなかったのに無理して読んで、
貸出票の名前見つけただけで嬉しかったりして……バカみたい。
でも、あの気持ちは本物だったんだから、ちゃんと覚えててよね」
大学の頃の自分が、静かに微笑みながら、
「一緒にいた時間は本物だったよ……おそろいの風船が飛んでいっちゃったけど、
あの思い出は、私たちのものだよ」
「前を見て、未来の私に会いに行こう」そう言って、前を見て歩き出しました。
空は紫に沈み、一番星が輝いていました。
おしまい




