■第5章:事故現場
行くつもりはなかった。
少なくとも、昨日までは。
地図アプリの画面が、スマホの中で静かに光っている。
表示されているのは、一点。
よく知っている場所。
——事故現場。
「……」
親指が、画面の上で止まる。
拡大も、縮小もせず。
ただ、その点を見つめている。
そこに行けば、見える。
あの能力で。
あの日のことが。
——全部。
「……」
スマホの画面を消す。
ポケットにしまう。
立ち上がる。
玄関に向かう。
靴を履く。
ドアを開ける。
——外に出る。
そこまで、一切迷いはなかった。
現場までは、歩いて二十分ほどだった。
途中の景色は、ほとんど覚えていない。
気づけば、そこに立っていた。
「……」
何もない。
ただの道路。
少し広めの交差点。
信号機。
横断歩道。
車が、時折通り過ぎる。
普通の場所だ。
あまりにも、普通すぎる。
ここで人が死んだなんて、誰も思わない。
「……」
喉が、少し乾く。
視線が、自然と一点に向く。
——“あのあたり”。
電柱でもない。
地面でもない。
ただの空間。
「……」
足が、勝手に動く。
一歩。
また一歩。
近づいていく。
心臓の音が、やけに大きい。
「……帰るか」
口に出してみる。
その言葉は、やけに軽かった。
今なら、まだ戻れる。
見なければいい。
知らなければいい。
——でも。
「……」
手を伸ばす。
“その位置”へ。
触れようとして。
止まる。
何も、ない。
空気だけだ。
「……は?」
数センチ、横にずらす。
触れない。
さらに、ずらす。
何も起きない。
「……」
もう一度、戻す。
ほんの少し。
指先が、引っかかる。
空気じゃない。
硬くも、柔らかくもない。
存在だけがある、何か。
「……っ」
そのまま、押し込む。
——暗転。
黒。
静寂。
赤い点。
——REC。
もう、驚けなかった。
格子のように広がる“点”。
その中のひとつに、自分がいる。
選ばれる。
切り替わる。
再生。
交差点。
今と同じ場所。
だが、少しだけ違う。
時間が、違う。
人が行き交う。
車が通る。
何も起きていない。
ただの、日常。
「……」
こめかみに指を当てる。
押す。
時間が進む。
景色が流れる。
人が入れ替わる。
車が変わる。
何も起きない。
少し強く押す。
加速。
昼が夜に変わる。
夜が昼に戻る。
繰り返す。
そして。
ある瞬間で。
違和感が、走る。
「……」
速度を落とす。
細かく、進める。
少し戻す。
また進める。
探す。
——いた。
視界の端。
見慣れた後ろ姿。
「……」
喉が、詰まる。
指が、止まる。
澪が、そこにいる。
普通に歩いている。
何も知らずに。
「……」
呼びかけそうになる。
意味がないのに。
届かないのに。
それでも、口が動きかける。
ぐっと、こらえる。
ゆっくりと、進める。
数秒。
信号が、青に変わる。
人の流れが、動き出す。
横断歩道。
夕方。
光が、少し傾いている。
人混みの中。
歩いている。
そして。
ふと、止まる。
「……?」
違和感。
ほんの一瞬。
空気が、重くなる。
何かが、ある。
見えない。
だが。
“いる”。
目の前に。
澪が、口を開く。
短く。
はっきりと。
何かを言っている。
だが、聞こえない。
雑音に、かき消される。
首を、横に振る。
拒むように。
「……」
理解が、追いつかない。
何に向かっているのか。
誰に向かっているのか。
わからない。
だが。
異様だった。
視線が、逸れない。
“何か”から。
逃げればいいはずなのに。
動かない。
わずかに、体が揺れる。
迷っているように見える。
そのあと。
一歩。
横に、ずれる。
ほんの、わずか。
進行方向から、外れる。
足が、ずれる。
滑ったようにも見える。
「……っ」
クラクション。
強い光。
右から、車。
ブレーキ音。
運転手の顔。
何かを叫んでいる。
近い。
近すぎる。
「——」
避ける。
間に合うはずだった。
あと一歩で。
戻れたはずなのに。
動きが、遅れる。
固まる。
その瞬間。
澪が、こちらを見る。
気がした。
目が合ったような。
口が、動く。
何かを言った。
でも。
聞こえない。
次の瞬間。
——衝突。
鈍い音。
体が、浮く。
時間が、歪む。
現実感が、ない。
それでも。
目の前で起きている。
澪が、宙に浮いて。
地面に落ちる。
「……」
音が、戻ってくる。
悲鳴。
ざわめき。
誰かが叫んでいる。
でも。
遠い。
全部、遠い。
「……なんで」
言葉が、こぼれる。
意味はない。
これは。
ただの事故だ。
そう思うしかない。
そうじゃないと。
受け止められない。
ただ——
澪だけが、はっきり見える。
「……」
ゆっくりと。
澪の顔が、こちらを向く。
偶然か。
それとも——
わからない。
だが。
その口が、動く。
「……もう……」
音は、届かない。
だが、読める。
わかる。
その言葉は——
——もうええって。
「……」
次の瞬間。
映像が、ぶれる。
ノイズ。
赤い点が、強く光る。
——REC。
ぶつり。
■現在
「……っは」
現実に戻る。
指が、離れる。
膝が崩れる。
その場に、しゃがみ込む。
呼吸が、うまくできない。
肺が、空気を拒む。
「……なんでや」
声が、震える。
頭の中で、映像が繰り返される。
彼女。
見えない何か。
事故。
言葉。
「……事故か?」
ぽつりと、呟く。
誰に言うでもなく。
ただ、出てきた。
ひとつだけ。
引っかかる。
あの一歩。
あれは、本当に。
“滑った”だけだったのか。
ゆっくりと、顔を上げる。
目の前の電柱。
もう、ただの物には見えない。
そこには——
まだ、続きがある。
まだ、知らない何かがある。
「……」
指先が、わずかに動く。
もう一度、触れようとする。
だが。
その手は、途中で止まる。
今は、無理だ。
これ以上見れば。
何かが、壊れる。
そんな予感があった。
大輔は、ゆっくりと立ち上がる。
足元が、少しふらつく。
それでも、歩き出す。
現場から、離れる。
背後で。
見えないままの“何か”が。
まだ、そこにいる気がした。




