■第2章:異変
鼻の奥が、ひりついた。
「……っ」
大輔は、顔をしかめた。
くしゃみが出そうで、出ない。
目の奥が、じんわりと熱い。
涙が滲む。
「……なんやこれ」
鼻を押さえる。
ここ数日、ずっとこうだ。
外に出ると、決まってこうなる。
部屋の中では平気なのに。
「……花粉か?」
今まで無縁だったはずなのに。
外に出る。
春の空気。
少しだけ暖かい。
だが。
違和感がある。
空気が、重い。
見えない粒子が、漂っているような。
「……」
目を細める。
道路脇の電柱。
何気なく、手を伸ばす。
触れた。
その瞬間。
カチ。
音がした。
どこからともなく。
録画ボタンを押したときのような。
——REC。
視界の端。
赤い点が、灯る。
「……?」
瞬き。
次の瞬間。
世界が、ズレた。
色が、変わる。
わずかに、くすむ。
音が、遅れる。
空気が、違う。
「……は?」
人が歩いている。
服装が、古い。
看板が、違う。
車の形も。
「……なんや、これ」
理解が追いつかない。
だが。
身体は、動かない。
視界の右端。
小さな表示。
——REC
半透明の帯と数字。
00:00:03
「……」
数字が、増える。
00:00:04
00:00:05
呼吸が、浅くなる。
そのとき。
こめかみの奥に、違和感が走る。
最初は、ごく軽い圧迫感だった。
じわ、と。
内側から押されるような。
「……?」
無意識に、右手が上がる。
右のこめかみに触れる。
軽く、押す。
瞬間。
映像が、跳んだ。
人の位置が変わる。
光の角度が変わる。
「……っ!?」
同時に。
鋭い痛みが走る。
こめかみの奥。
神経を直接、突かれたような。
「……っ、あ……!」
思わず声が漏れる。
反射的に、手を離す。
映像が止まる。
だが。
痛みは、残った。
じんじんと。
奥で脈打つ。
「……なんや、今の……」
恐る恐る。
もう一度、右のこめかみを押す。
今度は、少し強く。
——跳ぶ。
映像が大きく進む。
数分。
いや。
もっと。
時間が滑る。
「っ……!!」
痛みが、跳ね上がる。
さっきとは比べ物にならない。
焼けるような熱。
内側からえぐられる感覚。
視界が、わずかに白む。
音が、遠のく。
「……やば……」
思わず、呟く。
直感だった。
これは、やばい。
だが。
それでも。
視線が、離れない。
見てしまう。
動いている過去を。
生きている人間を。
“今じゃないもの”を。
「……」
左のこめかみに触れる。
押す。
戻る。
また、痛み。
今度は。
鈍い。
重い。
頭の奥に、異物があるような。
思考が、少しだけ鈍る。
「……っ……」
呼吸が乱れる。
それでも。
手が、離れない。
触れている限り。
見える。
だから。
離せない。
「……っ!」
強引に、手を引く。
電柱から、離れる。
その瞬間。
世界が、戻る。
色。
音。
空気。
すべてが、元通り。
「……はぁ……っ」
息が荒い。
心臓が、速い。
こめかみが、痛い。
離れたはずなのに。
まだ、残っている。
じんじんと。
遅れて、強くなる。
「……あ、たま……」
頭を押さえる。
視界が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬。
さっきの映像が、フラッシュバックする。
人。
声。
光。
「……っ!」
振り払うように、首を振る。
消える。
だが。
完全には消えない。
“残っている”。
「……なんや、これ……」
振り返る。
電柱。
ただの、電柱。
変わった様子はない。
「……」
手を、見つめる。
震えている。
じんわりと、痺れている。
触れた感触が、まだ残っている。
そして。
こめかみの奥。
微かに。
“動いている”。
まるで。
何かが。
同期したみたいに。
「……」
もう一度、触れるか。
迷う。
やめるか。
そのまま。
数秒。
「……」
結局。
手を下ろす。
「……気のせいや」
小さく呟く。
そういうことにする。
じゃないと。
説明がつかない。
振り返らずに、歩き出す。
そのとき。
視界の端。
ほんの一瞬だけ。
赤い点が、灯る。
——REC。
すぐに消える。
「……」
気づかないまま。
大輔は、歩き続けた。




