■第9章:最初の“救い”
それは、軽い依頼だった。
少なくとも、最初はそう思った。
通知の中に埋もれていた、一件。
他と変わらない文章。
短くて。
要点だけ。
『父が亡くなりました。
事故でした。
最後、どんな顔で、何を言っていたのか知りたいです』
「……」
スクロールが、止まる。
指先が、わずかに宙で固まる。
視線が、画面に張りついたまま動かない。
だが、焦点だけが微妙に揺れている。
今までの依頼とは、違う。
場所でもない。
原因でもない。
証拠でもない。
求めているのは——
“顔”と、“言葉”。
「……」
読み終えたあとも、目を逸らせない。
まばたきが、少しだけ増える。
眉の奥が、じわりと寄る。
理解できないわけじゃない。
むしろ、理解できてしまう。
だから——引っかかる。
「……なんやねん」
片方の口角が歪む。
納得できない感情だけを吐き出すように、低く呟く。
他の依頼は、もっと単純だ。
金になるかどうか。
それだけ。
だがこれは違う。
金にならない。
役にも立たない。
それでも——無視できない。
「……」
メッセージを開く。
送信者のアイコン。
若い女性。
笑っている写真。
その笑顔を見た瞬間、視線がわずかに細まる。
違和感を測るように。
文章との温度差。
噛み合っていない。
「……」
もう一度、依頼文を見る。
“最後、どんな顔で、何を言っていたのか”
それだけ。
それ以上は、求めていない。
真相でもない。
責任でもない。
理由でもない。
ただ——
“最後の瞬間”。
「……」
スマホを伏せる。
天井を見る。
だが、視線は合っていない。
光だけを受けて、どこも見ていない。
数秒。
思考を止めようとする。
けれど——
浮かぶ。
勝手に。
交差点。
澪。
最後の瞬間。
「……」
目を閉じる。
その瞬間、眉間に皺が寄る。
奥歯が、わずかに噛み締められる。
消えない。
むしろ、はっきりする。
「……はぁ」
息だけを吐く。
頬の力が抜けきらないまま、肩がわずかに落ちる。
諦めたように、スマホを取る。
『場所、教えてください』
送信。
指は迷いなく動く。
だが、視線だけがどこか落ち着かない。
既読。
すぐ。
返事は、少し遅れて届く。
『奈良市内です。
このあたりで亡くなったとだけ聞いています』
地図。
住宅街。
細い道。
何もない。
「……」
画面を見つめたまま、目だけが細かく動く。
範囲をなぞるように。
大輔は、立ち上がる。
そのときには、もう迷いはなかった。
現地は、静かだった。
昼過ぎ。
人通りは少ない。
古い家が並ぶ。
どこにでもある風景。
「……」
顔は動かない。
だが、視線だけが忙しく動く。
スマホと周囲を、何度も往復する。
このあたり。
曖昧だ。
点ではない。
面だ。
「……めんど」
目を細める。
だが、焦点はむしろ鋭くなる。
やることは同じ。
ただし——
探すものが違う。
場所ではない。
“最後の瞬間”。
触れる。
——REC。
再生。
違う。
顔が見えない。
言葉もない。
外す。
次。
また触れる。
再生。
違う。
「……」
繰り返す。
まばたきが減る。
目が乾く。
それでも閉じない。
こめかみが、じわじわと痛む。
それでも——やめない。
理由は、わからない。
ただ。
やめられない。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
そのとき。
視線が、止まる。
「……」
再生を戻す。
ゆっくり。
今度は逃さないように。
男。
中年。
ふらついている。
足取りが不安定。
「……この人か」
画面に顔を近づける。
瞳孔が、わずかに開く。
時間を進める。
男が、路地に入る。
人はいない。
静かだ。
歩く。
壁に手をつく。
止まる。
「……」
苦しそうではない。
ただ、疲れている。
さらに進める。
男が、座り込む。
壁にもたれる。
空を見上げる。
「……」
その顔を見た瞬間。
大輔の視線が、止まる。
眉間の力が、ゆっくりほどける。
呼吸が、わずかに深くなる。
穏やかだった。
苦痛もない。
恐怖もない。
ただ——
静かに、終わろうとしている顔。
「……」
音はない。
言葉もない。
それでも。
そこに“意味”がある。
動きが、止まる。
呼吸が、ゆっくりになる。
そのまま。
変わらない。
誰も来ない。
何も起きない。
ただ。
時間だけが、流れる。
「……」
大輔は、見ている。
瞬きを忘れたように。
ただ——
その“最後”を。
やがて。
足音。
近づく。
女性。
買い物袋。
何気なく、目を向ける。
そして——止まる。
「……え?」
目が大きく開く。
理解が追いつかない顔。
一歩。
近づく。
「……ちょっと、大丈夫ですか?」
声は出る。
だが、表情はまだ現実に追いつかない。
触れる。
揺らす。
反応はない。
「……え、ちょ……」
唇が震える。
呼吸が乱れる。
もう一度。
強く。
それでも——
動かない。
顔から血の気が引く。
理解してしまう。
現実を。
「……もしもし、あの……人が……」
声が崩れる。
目に、涙が滲む。
「……」
そこで、指を離す。
現実。
静かな路地。
同じ場所。
同じ空気。
だが。
もう違う。
ここは——
“最後があった場所”。
「……」
スマホを取り出す。
メッセージを開く。
指が、止まる。
何を書く。
“言葉はなかった”と書くか。
それとも——
あの顔を、どう伝える。
「……」
視線が、わずかに揺れる。
ゆっくり、打ち込む。
『最後は、路地で座っていました。
苦しんでいる様子はありませんでした。
言葉は確認できません。
ただ——
穏やかな顔をしていました』
送信。
既読。
すぐ。
だが、返事は来ない。
待つ。
画面を見たまま。
視線が、何度も揺れる。
数分。
五分。
十分。
やがて。
通知。
『ありがとうございます』
「……」
その一文を見た瞬間。
目尻が、ほんのわずかに緩む。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
理解されたかは、わからない。
それでも——
求められていたものを、渡した。
「……なんやねん」
口元だけで、わずかに笑う。
空を見上げる。
今度は、ちゃんと焦点が合っている。
同じ空。
同じ場所。
それでも。
少しだけ、違う。
ここには。
“最後”があって。
それを知ろうとした誰かがいた。
「……」
ポケットの中で、スマホが震える。
別の通知。
別の依頼。
別の真実。
「……」
一瞬だけ。
さっきの感覚が残る。
あの静けさ。
あの軽さ。
もう一度、触れれば——
だが。
次の瞬間。
目が、すっと細くなる。
感情が、消える。
指が動く。
通知を開く。
条件を見る。
「……いくらや」
平坦な顔で、呟く。
すべてが、元に戻る。
画面の隅。
小さな赤い点。
——REC。
それは、変わらない。
何も。
記録は。
ただ、積み重なる。
救いも。
欲望も。
区別なく。
すべて。




