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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第2章-水の黙示録
9/12

第2-4話 天啓の教団

時刻: 1月1日 午前10時00分

場所: サウジアラビア、メッカ郊外

砂漠の中に、巨大なテント都市が出現していた。

白いテントが、地平線まで続いていた。

数えきれないほどのテント。

その一つ一つに、人々が住んでいた。

数十万人の人々が、ここに集まっていた。

「天啓の教団」の信者である。

教団は、絶望した人々の入信で、わずか2週間で急速に勢力を拡大していた。

なぜ、このような災害が起きたのか。

なぜ、自分たちが苦しまなければならないのか。

そして、教団は答えを与えた。

「氷雨は神の審判である」

「科学技術という傲慢への罰だ」

「悔い改めよ。そうすれば救われる」

教団の教義は単純で、力強かった。

混乱の中で、人々は明確な答えを求めていた。

科学は複雑で理解しにくく、不確実性に満ちている。

しかし、信仰は簡単だった。

信じれば、救われる。

その約束は、シンプルで、魅力的だった。

テント都市の中央に、巨大な演壇が設置されていた。

高さ5メートルの木製の構造物。

そこに、二人の男が立っていた。

イブラヒム・アル=ファディル――教団の穏健派指導者。

60代、白いローブに身を包んだ、穏やかな表情の男。

長い白髭が、風になびいている。

元天文学者で、科学と信仰の調和を説く。

ザカリア・ベン=ユセフ――教団の過激派指導者。

40代、黒いローブを纏った、鋭い目をした男。

短く刈り込まれた黒髭。

原理主義者で、一切の妥協を認めない。

二人は、表向きは協力していた。

共同で教団を「指導」していた。

しかし、その思想は根本的に異なっていた。

イブラヒムは、科学との共存を説いた。

ザカリアは、科学の否定を主張した。

その対立は、表面化しつつあった。

そして今日、新年の特別礼拝が行われようとしていた。

数十万人の信者が、演壇の前に集まっていた。彼らは、静かに待っていた。

指導者の言葉を。

導きを。

希望を。

午前10時30分、礼拝が始まった。


時刻: 午前10時30分

場所: 同上

イブラヒムが、演壇に立った。

数十万人の信者が、静粛に彼を見つめる。

風が、砂漠を吹き抜けていった。テントが、わずかに揺れた。

「兄弟姉妹たちよ」

イブラヒムの声は、穏やかだが力強かった。

拡声器を通じて、テント都市全体に響き渡る。

「私たちは今、かつてない試練の中にいます」

彼は、空を見上げた。灰色の雲から、雨が降り続けている。

砂漠にとって、雨は恵みだった。しかし今、その雨は災いをもたらしていた。

「この雨は、何を意味するのでしょうか。なぜ、私たちにこの試練が与えられたのでしょうか」

イブラヒムは、群衆を見渡した。彼らの顔には、苦悩が刻まれていた。

「私は、かつて天文学者でした」

彼の声が、わずかに柔らかくなった。

「宇宙を研究し、星々の運動を計算し、物理法則を探求しました。私は、望遠鏡を通じて、何十億光年も離れた銀河を見ました」

彼の過去を知る信者たちが、頷いた。

イブラヒムは、かつてサウジアラビア最高峰の天文学者の一人だった。

「私は、科学の力を信じていました。科学は、私たちに答えを与えてくれると思っていました」

イブラヒムは、一呼吸置いた。

「しかし、ある日、私は悟りました。科学は、宇宙の『how(どのように)』を説明できる。しかし、『why(なぜ)』を説明することはできないと」

彼は、再び空を見上げた。

「なぜ、宇宙は存在するのか。なぜ、私たちは存在するのか。なぜ、今この試練があるのか。これらの問いに、科学は答えられません」

「なぜなら」イブラヒムの声が、少し高まった。「科学は手段であって、目的ではないからです。科学は『どのように動くか』を教えてくれる。しかし『なぜ動くべきか』は教えてくれません」

群衆が、静かに聞き入っている。

「しかし」

彼の声が力強くなった。

「信仰は答えを与えてくれます」

群衆が、声を上げ始める。

「天よ、導きたまえ!」

イブラヒムは、手を上げて静粛を求めた。群衆は、再び静まり返った。

「しかし、兄弟姉妹たちよ。私たちは科学を敵とすべきではありません」

この言葉に、一部の信者がざわめいた。

隣に立つザカリアの表情が、わずかに険しくなった。

「科学は、私たちに与えられた理性の結晶です」

イブラヒムは、続けた。

「私たちには、知恵が与えられました。この世界を理解する能力が与えられました。そして、その知恵を使って、問題を解決する力が与えられました」

彼は、群衆の中の一人の老人を見た。

「私たちの祖先は、星を見て、方角を知りました。それは科学でした。しかし同時に、天への畏敬の念でもありました」

「私たちの祖先は、井戸を掘り、灌漑を作り、砂漠に緑をもたらしました。それは科学でした。しかし同時に、自然からの贈り物への感謝でもありました」

イブラヒムの声が、情熱を帯びてきた。

「氷雨は、確かに試練です。しかし、それは科学を否定するための試練ではありません」

彼は、拳を握りしめた。

「それは、私たちが協力し、知恵を結集し、共に生き延びる力があるかを試す試練なのです」

「私たちには、理性が与えられました。そして今、その理性を使うことが求められているのです」

イブラヒムは、遠くを見つめた。地平線の向こう、世界のどこかで、科学者たちが戦っている。

「科学者たちが、解決策を模索しています。軌道エレベータという、壮大な計画を立てています」

彼は、深く息を吸い込んだ。

「私は、それを支持します」

群衆のざわめきが、想定よりも大きかった。

イブラヒムは、無意識に指を組み直した。

——伝わっていない。

そう悟ってから、彼は言葉を足した。

「それ自体が救いだからではない。私たちが“何もしないこと”を選ばないための、道具だからです」

群衆が、再びざわめいた。一部は賛同の声を上げ、一部は反発の声を上げた。

「なぜなら、それもまた導きだからです」

イブラヒムの声が、群衆を圧倒した。

「私たちには、試練が与えられると同時に、解決策も与えられる。科学者たちの知恵も、人類に与えられた贈り物なのです」

「彼らは、与えられた理性を使って、人類を救おうとしています。それは、正しい行為なのです」

イブラヒムは、両手を広げた。

「だから、私たちは科学者たちを……」

イブラヒムは、そこで一度言葉を切った。

「支援すべきです。協力すべきです」

彼は、言い直すように続けた。

「それは、彼らが“正しい”からではありません。

私たちと同じく、与えられた理性を使っているからです」

「信仰と科学は、対立するものではありません。どちらも、私たちに与えられた道具なのです」

彼は、演説を締めくくった。

「兄弟姉妹たちよ。祈りましょう。そして、行動しましょう。信じましょう。そして、助け合いましょう」

穏健派の信者たちが、拍手を送った。歓声が上がった。

しかし、過激派の信者たちは、険しい表情を浮かべていた。彼らは、拍手をしなかった。

そして、ザカリアは、冷ややかな目でイブラヒムを見つめていた。


時刻: 午前11時30分

場所: 同上

イブラヒムの説教が終わった後、ザカリアがゆっくりと演壇に上がった。歓声はなかった。代わりに、ざわめきと、警戒に近い沈黙が広がった。

ザカリアは、それを気にする様子もなく、群衆を見渡した。鋭い目だったが、そこにあったのは怒りではなく、計算だった。

「兄弟姉妹たちよ」

声は低く、意外なほど落ち着いていた。

「イブラヒム師の言葉は、美しい。調和。共存。希望。——だが、それだけで世界が救われるなら、今、我々はここにはいない」

一部の信者が息を呑んだ。ザカリアは続ける。

「科学を否定するな、と言われた。科学者を支援しろ、と言われた。では問おう。彼らは、これまでどこにいた?」

ざわめきが広がる。

「都市が沈むとき、通信が途絶えたとき、子供たちが飢え、凍え、死んでいったとき——彼らは、どこにいた?」

「――“決定がなされた場所”に、我々は一度でも呼ばれたのか?」

ザカリアは拳を握らなかった。声も荒げなかった。それがかえって、不気味だった。

「彼らは“計算していた”。どの国を優先するか。どの地域を切り捨てるか。どの命が“許容損失”かを」

群衆の中から、怒りのうなり声が漏れた。

「我々は、その間、何をしていた?祈っていた。助け合っていた。瓦礫を片付け、食料を分け合い、自分たちで生き延びる仕組みを作っていた」

ザカリアは、演壇の縁に手を置いた。

「それを、彼らは今になって“危険だ”と言う。武装している? 当然だ。秩序が崩れた世界で、無防備でいることが美徳だと誰が決めた?」

一瞬、沈黙。

「私は、分かっている」

その言葉に、空気が変わった。

「我々が“過激派”と呼ばれていることも、私が“狂信者”と呼ばれていることも」

ザカリアは、初めて自嘲するように笑った。

信者たちが、戸惑った表情を浮かべる。

「穏健であれば、交渉の席に呼ばれる。しかし、舐められる。切り捨てられる。“あってもなくてもいい存在”にされる」

彼は、指を一本立てた。

「だが、恐れられれば違う。無視できない。排除できない。世界は、力を持つ者としか対話しない」

群衆の中から、様々な反応が起きた。

過激派の信者たちは、拍手し、歓声を上げた。

穏健派の信者たちは、困惑した表情を浮かべた。

そして、一部の信者は、恐怖の表情を浮かべた。

最後に、彼はこう締めくくった。

「兄弟姉妹たちよ。私は、清廉ではない。だが、覚悟はある」

「この世界が、力を信じるなら、我々もまた、力を持つ」

ザカリアは、ゆっくりと演壇を降りた。

拍手は、すぐには起きなかった。しかし、沈黙の中で、多くの信者が理解してしまった。

——彼の言葉には、狂気だけでなく、現実が含まれていることを。

ザカリアは、演説を終えて演壇を降りた。

過激派の信者たちが、彼を取り囲んだ。彼らの目は、狂信に満ちていた。

「師よ、我々は正しいのですね」

その問いに、ザカリアは即答しなかった。

「……正しいかどうかは、重要ではない」

信者の一人が、戸惑った表情を浮かべた。

しかし、ザカリアは、それ以上説明しなかった。

一方、穏健派の信者たちは、イブラヒムの周りに集まった。彼らは、不安そうに互いを見合っていた。

午前11時45分、礼拝は終了した。

しかし、テント都市には、重い空気が残っていた。

二つの派閥が、互いに睨み合っていた。

穏健派と過激派。

イブラヒムとザカリアは、演壇の下で顔を合わせた。

「ザカリア」

イブラヒムが言った。

「科学者たちは、人類を救おうとしています」

「私は、イブラヒム師を否定しない。あなたは、この教団の“顔”だ。だが、私は“影”だ」

「影がなければ、光は輪郭を持たない」

イブラヒムは肯定も否定もせず聞いていた。

「軌道エレベータを、我々は止める。それは神への冒涜だからではない」

彼は声を強めた。

「彼らは、我々抜きで世界が“次の秩序”を作ろうとしているからだ」

「我々を救済の対象として固定し、二度と対等な存在として扱わない未来を、私は受け入れない」

ザカリアは、両手を広げた。

「だから、反対する。だから、止める。だから、恐れられる役を引き受ける」

「それが、我々がこの世界に居場所を持つための、唯一の方法だからだ」

イブラヒムは、言葉を返さなかった。

ザカリアも、それ以上は語らなかった。

自分の選択を理解される必要はない、そう思っていたからだ。

教団の分裂は、もはや避けられなかった。


時刻: 1月2日 午前10時00分

場所: IGDE危機管理センター

マリアは、天啓の教団に関する報告を受けていた。

報告書の最初には、驚くべき数字が記されていた。

現在の信者数: 推定4億人

わずか2週間で、4億人。

世界人口の約5%が教団に入信していた。

マリアは数字がまるで模様のように見えた。——多すぎるでしょう!

「これは一見すると異常です」

情報分析官のサラ・チェンが説明する。

「通常、新興宗教が1億人の信者を獲得するには、数十年かかります。」

マリアは、地図を見た。世界中に、赤い点が散らばっている。それぞれが、教団の拠点を示していた。

「分布は?」

「全世界に広がっています」サラが答えた。「特に、被災地での増加が顕著です」

マリアは、深いため息をついた。

「人々は、希望を失っているんですね」

「そうではありません。『人はパンのみにて生きるにあらず』とは言いますが、実際にはパンなしには生きられないのです。」

「そのカラクリは以降に詳細にまとめてありますが、彼らの戦略の要点はこれから説明する3つです」

• 「家族捜索・通信メッシュネットワーク」

• 「独自通貨」による労働交換

• 「聖域」の運営と治安維持

「教団は、シンプルな答えを提供しています。食料・通信・治安です」

マリアは、説明を聞きつつ詳細の確認を続けた。

過去に洋子が教えてくれた、日本ではそういうものを指して「3種の神器」と言う、という他愛のない話をしていたね...

サラの説明が続く。

「元天文学者であるイブラヒムは科学知識が豊富で、既存の通信網が途絶する中、教団独自の簡易衛星通信や無線メッシュネットワークを構築しました。

そして『信者限定』に開放しました。データベースも構築し、一般向けの通信インフラが崩壊している中、簡単に安否確認ができるのです。」

「また、『神の加護による安全地帯』と呼ぶ巨大なテント都市を作り、自警団を配備して安全を保証します。

警察機能が麻痺する中ですから、入信が即安全につながるのです」

それは理解できる。

雪崩を打つように入信するだろう。しかし...

「必要な物資はどうやって調達したの?」

「慈善活動のためにプールされた数千億ドル規模の資産を手に入れました。『今こそこの資金を全人類救済に使う時だ』という『名目』で。

これで既存の備蓄食料や医薬品までも教団の管理下に置けます。

さらに教団の保護下に入る裕福な企業家や投資家を押さえ、財産の一定割合を即座に供出させたのです。

そしてここが重要な点ですが・・・」

マリアは、そこで改めて報告書に視線を落とした。

——なるほど。

これは“信仰”の話ではないのだ。

そして、サラの説明を更に聞くと、なんと巧妙な、と思わざる得ない仕組みがあった。

彼らは、既存の通貨が暴落する中、教団内でのみ通用する電子通貨を発行し、瓦礫撤去や配給の手伝いなどの労働の対価として支払っている。

ただ、それがなぜ継続かつ安定して機能しているのかについては、報告書には記述がなかった。

「わかっているのは、それが今でも『継続して機能している』という事実だけです」

サラはそれ以上説明せず、報告内容を先に進めた。

「システムを作り上げ、運用しているのが、穏健派のイブラヒム、そして過激派のザカリアが物資の調達や自警団の運用などを握っています」

以上が、現在判明している全てだ。

「つまり……」

マリアは、ゆっくり言葉を選んだ。

「ここにいる限り、生きられる。でも、外に出た瞬間に何も残らない」

「はい。その通りです」

マリアは大きく息を吐いた。

全容は概ね理解した。

通信網の確保、治安維持、物資供給。

それらが揃えば、人は集まる。

少なくとも、そう考えることはできる。

実際、信者数は爆発的に増加した。

理解したからといって、入信を止められるわけではないのだが。

「穏健派と過激派の比率は?」

「現在、穏健派が約60%、過激派が約40%と推定されます」

「しかし、過激派の勢力が急速に拡大しています。特に、若年層での支持が高い」

サラは、グラフを表示した。

「過激派の信者は、より活動的です。デモを組織し、インターネットで宣伝し、新しい信者を勧誘しています」

マリアは、ザカリアの写真を見た。鋭い目をした男。

「彼の主張は?」

「軌道エレベータ計画の阻止。科学技術の放棄。そして...」

サラは、躊躇した。

「必要とあらば、武力行使も辞さない、と」

マリアの表情が、厳しくなった。

「具体的な脅威は?」

「現時点では、明確な攻撃計画は確認されていません。しかし、複数の過激派グループは、既に武器を確保しています。大量に、です。」

「武器?」

「小火器、爆発物。そして、一部の情報では、化学兵器の可能性も」

マリアは、立ち上がった。

「各国の治安機関に警告を発してください。IGDE関連施設の警備を強化します」

「了解しました」


時刻: 午後6時00分

場所: IGDE危機管理センター

浩と洋子は、教団の勢力拡大に関するデータ分析結果を確認していた。

「1ヶ月以内に信者数は10億人を超える、という予想ですね」洋子が言った。

「そして、そのうちの40%が過激派...」

「もし4億もの過激派が、妨害活動を開始したら...活動が組織的でなくてもプロジェクト・アセンションは深刻な遅延を被ります」

「建設は不可能になるでしょうね」

洋子は、浩を見た。

「私たちは...どうすればいいんでしょうかね」

浩は、答えなかった。

科学は、技術的な問題を解決できる。

しかし、これは技術の問題ではない。

窓の外では、雨が降り続けていた。

美しい雨である。


時刻: 1月3日 午前3時00分 場所: チリ、アタカマ砂漠

アタカマ砂漠。世界で最も乾燥した地域の一つ。

ここに、ラ・シヤ天文台がある。ヨーロッパ南天天文台(ESO)が運営する、世界有数の天文観測施設だった。

浩と洋子は、この天文台のデータを使って、氷塊の軌道分析を続けていた。遠隔でアクセスしているが、現地には複数の天文学者が常駐している。

その一人が、マリア・サントス博士だった。40代の女性天文学者。氷塊の分光分析を担当していた。

午前3時。

観測ドームの中は、思っていたより寒かった。

マリア・サントス博士は、手袋をしたままキーボードを叩いていた。

金属製の机に触れるたび、指先から冷えが這い上がってくる。

「……0.92」

密度の数値を読み上げた自分の声が、妙に大きく聞こえた。

ドーム内は静かすぎる。

空調の低い唸りと、遠くで回転するモーター音だけが、一定のリズムで続いている。

彼女は無意識に肩を回した。

背中が張っている。

ここ数日、まともに眠れていなかった。

送信ファイルを確認する。

氷塊の分光データ。

予測通り。問題はない。

「……これでいい」

マウスに手を伸ばした、そのときだった。

——ガン。

鈍い音。

金属がぶつかるような、不規則な音。

マリアは一瞬、意味が分からなかった。

風?

いや、このドームは密閉されている。

次の瞬間、警告灯が一瞬だけ赤く点滅した。

すぐに消える。

誤作動だと思った。

「誰か……?」

声が、喉に引っかかった。

乾いている。

返事はなかった。

——ギィ、とドアが開く音。

冷たい空気が、流れ込んできた。

それと同時に、空調の回転数が一段階上がる音。

自動制御が反応している。

そこに、三人の男が立っていた。

黒い服。顔を覆う布。しかし、妙に動きが揃っていない。

「……誰ですか?」

自分の声が、震えているのが分かった。

それが、ひどく腹立たしかった。

一人が前に出る。

足音が、想像以上に大きい。

「マリア・サントス博士」

名前を呼ばれた瞬間、胃がきゅっと縮んだ。

理由もなく、吐き気が込み上げる。

「あなたの研究を、中止してもらいます」

言い方は、丁寧だった。

その丁寧さが、逆に不自然だった。

「ここから出て行ってください」

言い終わる前に、アラームが短く鳴った。

ピッ、という間抜けな音。

警報ではない。通信エラーだ。

マリアは、反射的に警報ボタンへ手を伸ばした。

——その瞬間、手首を掴まれた。

冷たい。

手袋越しでも分かる、皮膚の硬さ。

「静かに」

耳元で囁かれた声が、近すぎた。

「離して……!」

声を張り上げようとしたが、喉が鳴るだけで声にならない。

呼吸が浅くなる。

空気が、足りない。

視界の端で、別の男が機材に近づくのが見えた。

「やめっ!」

今度は、声が出た。

だが、その声は自分のものではないみたいに高かった。

——ガシャッ。

最初の一撃で、レンズカバーが割れた。

ガラス片が床に散る。

アラームが、今度は連続して鳴り始めた。

ピ、ピ、ピ、ピ——

規則正しいはずの警告音が、途中で途切れる。

ノイズが混じる。

通信が乱れている。

「やめて……お願い……」

そう言いながら、自分が誰に向かって言っているのか分からなくなっていた。

ハンマーが振り下ろされるたびに、

金属音、ガラス音、

そして、自分の心拍の音が重なる。

ドクン、ドクン。

耳の内側で鳴っている。

——これは夢だ。

そう思おうとしたが、

足の裏に伝わる振動が、それを否定した。

数十年。

数十年分の時間が、音を立てて壊れていく。

壊れていく様子が、マリアにはスローモーションのようにはっきりと見えた。

逆に回せば元に元せるんじゃないかな、と想像してしまった。

男たちの動きは、荒かった。

効率的ではない。

怒りというより、焦りがあった。

ザカリアが、この作戦に自ら関与しなかったからだ。

そして、結果はザカリアの想定通りではなかった——力は、必ずしも思い通りには振るえない。

それを理解していないザカリアではなかったが、それは、この襲撃を止める理由にはならない。

最後に、リーダーの男が近づいてきた。

「これは警告です」

言葉の途中で、空調が一瞬止まり、再起動する音がした。

低い唸り。

それが、なぜか妙に安心感を与えた。

「軌道エレベータ計画を中止してください」

マリアは、床に座り込んでいた。

いつ座ったのか、覚えていない。

「……あなたたちは、間違ってる……」

声は、ほとんど息だった。

男は、少しだけ首を傾げた。

「そうかもしれません」

その答えは、予想外だった。

「ですが、正しさだけでは、世界は動きません」

彼らは、去って行った。

ドアが閉まる音。

その後、警報が完全に鳴り止むまで、数秒の間があった。

静寂。

静かすぎて、自分の呼吸音がうるさく感じられた。

マリアは、床を見つめた。

散らばった破片。映り込む、歪んだ自分の顔。

気づくと、涙が落ちていた。泣こうと思ったわけではない。

勝手に、流れていただけだった。

そして、座り込んだまま、散らばった破片をなんとなく集めはじめた。

午前3時27分。

駆けつけた警備員に声をかけられたとき、彼女はうまく立ち上がれなかった。

足が、まだ震えていた。


時刻: 1月3日 午前10時00分

場所: IGDE危機管理センター、マリアのオフィス

チリからの緊急報告が届いた。

「報告書(速報) ラ・シヤ天文台への襲撃。マリア・サントス博士の負傷と観測機器の破壊状況について」

マリアは、報告書を読んだ。だが文字が頭に入らない。

全てを読み終える頃、コーヒーは既に冷たくなっていた。

彼女は電話を取った。

「マリア・サントス博士の今の容態は?」

「軽傷です。打撲と擦過傷。しかし、精神的なショックが大きい」

「すぐに彼女を安全な場所に移してください。24時間体制の警護をつけて」

「既に実行済みです」

マリアは、次の指示を出した。

「全世界のIGDE関連施設に、警戒レベル最高を発令します。すぐに」

マリアは、深く息を吸い込み、センターの全員に向けて館内放送を入れた。

「皆さん、緊急の報告があります。30分後、メインホールに集合してください」

招集された科学者たちが、次々と集まってきた。浩と洋子も、その中にいる。

マリアが、演壇に立った。

「皆さん、深刻な事態が発生しました」

彼女は、チリでの襲撃について報告した。

科学者たちは、衝撃を受けた表情を浮かべた。

「皆さん全員に、標的になる可能性があります」

ざわめきが広がった。

「危険を感じる方は、プロジェクトから離れることもできます」

しかし、誰も立ち上がらなかった。

マリアは、全員を見渡した。

「皆さん、ありがとうございます。しかし、くれぐれも注意してください。警備を強化しますが、完全な安全は保証できません」

誰も何も発言しないので、会議は30分経たずに終了した。

科学者たちは、重い足取りで散っていった。

浩と洋子は、カフェテリアに移動していた。

二人とも、コーヒーカップを持っているが、ほとんど飲んでいない。

洋子の手元にはチーズケーキもなかった。

「襲撃...」洋子が呟いた。「本当に起きてしまいましたね」

浩は、窓の外を見ていた。

雨に燻る景色は美しい。

「覚悟はしていました。でも、実際に起きると...」

「怖いですか?」

浩は、洋子を見た。

「もちろん怖いです。でも...」

彼は、一呼吸置いた。

「降りる気はありませんよ」

洋子は何も言わなかった。

浩も「洋子はどうするのか」とは問わなかった。

二人は、しばらく黙っていた。

その時、マリアがカフェテリアに入ってきた。

彼女は、二人を見つけて近づいてきた。

「お二人とも、ここにいましたか」

マリアは、隣の椅子に座った。彼女も、疲れた表情をしていた。

「新しい情報があります」

マリアは、タブレットを取り出した。

「イブラヒム・アル=ファディルから連絡がありました。穏健派のリーダーです」

「彼は、ザカリアの過激派と決別を宣言しました。そして、IGDEへの協力を申し出ています」

浩が、驚いた表情を浮かべた。

「協力...ですか」

「はい。穏健派は、プロジェクト・アセンションを支持すると」

洋子が言った。

「でも、それがブラフの可能性は?」

「ありますね」マリアが頷いた。「しかし、希望でもあります。信者のうち、60%が穏健派なのですから」

マリアは、自分のコーヒーと二人分のケーキを注文した。

「これから、長い戦いになります」

彼女は、二人を見た。

「お二人とも、本当にありがとう。あなたたちがいなければ、私は希望を失っていました」

浩と洋子は頷いた。

「こちらこそ、マリアさん。あなたがいなければ、計画は実行には移らなかった」

三人は、コーヒーを飲んだ。

窓の外では、雨が降り続けていた。

あと5日間で止む美しい雨。

雨が止んだ後、来るのは晴れ間か、嵐なのか。

それでも、彼らは進む。

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