第2-3話 社会の崩壊
時刻: 12月28日 午前10時00分
場所: バングラデシュ、ダッカ郊外の難民キャンプ
ダッカ郊外に設置された巨大な難民キャンプ。
テントが、地平線まで続いていた。
1000万人以上、と職員は言っていた。
多すぎて、誰も実感できていなかった。
国連世界食糧計画(WFP)が、食糧配給所を設置していた。
しかし、供給は需要に追いついていなかった。
午前10時、配給が始まった。
配給されるのは小麦粉であり米ではない。
バングラデシュの主食は米だが、ここでは小麦での代替を余儀なくされていた。
人々は、長い列を作っていた。数百メートルに及ぶ列。
しかし、配給される小麦粉は、5人家族なら3日分にもならない程度と説明された。
列に並ぶ人々は、何日という単位で考える余裕を失っていたので、問題はなかったが。
列の前方で、声が上がった。
「順番を守れ!」
誰かが、割り込もうとした人物を押し戻した。
「俺が先だ!」
割り込もうとした男が、押し返した。
そして、殴り合いが始まった。
最初は二人だった。しかし、すぐに周囲の人々も巻き込まれた。
「やめろ!」
「押すな!」
列が崩れた。
その隙に、何人かの男たちが配給所に走り寄った。
配給テーブルの上にある小麦粉の袋を掴み、走り去った。一人、二人、五人。
「泥棒だ!」
誰かが叫んだ。
しかし、止める者はいなかった。皆、自分の分を確保することに必死だった。
配給所の職員――WFPのスタッフ――が、拡声器で叫んだ。
「落ち着いてください!全員に配給します!」
しかし、その声は混乱の中に消えた。
人々は、配給所に殺到した。
テーブルが倒れた。小麦粉の袋が地面に落ち、破れた。白い粉が、砂埃と混ざった。
それでも、人々は奪い合った。
地面に散らばった小麦粉を、素手で掻き集めた。
地面に落ちた小麦粉を掴んだ瞬間、それが砂だらけだと気づいた。
それでも、手を離せなかった。
子供が泣いていた。
老人が倒れていた。
国連平和維持軍の兵士たちが、ようやく到着した。彼らは、群衆を押し戻そうとした。
「下がれ!全員下がれ!」
人々が引かなかったため、兵士の一人が警告射撃をした。
銃声が響き、ようやく群衆が動きを止めた頃には、配給所は荒らされ、小麦粉の袋の大半が奪われ、地面に散乱していた。
WFPの責任者、ファティマ・アブドゥルは膝から崩れ落ちた。
「もう...無理だ」
これは、バングラデシュだけではなかった。
世界中の難民キャンプで、同じことが起きていた。
時刻: 12月28日 午後3時00分
場所: ニューヨーク、マンハッタン
マンハッタン下部は、水没していた。
バッテリーパークから、ウォール街、チャイナタウン。
海抜の低い地域が、海面下に沈んでいた。
そして、水没と共に、インフラも破壊されていた。
地下鉄。
ニューヨークの地下鉄網は、世界最大級だった
400以上の駅、1,000キロメートル以上の路線。
マイケルは数字を途中で追うのをやめた。
すべてが、都市の血管として機能していたのに、今はその血管は水で満たされていた。
ニューヨーク都市交通局のエンジニア、マイケル・ブラウンは、地下鉄の被害状況を確認していた。
「マンハッタン下部の全路線が浸水。1番線、2番線、3番線、A線、C線、E線...」
彼は、リストを読み上げた。
しかし、途中で止めた。
あまりに多すぎた。
「簡潔に言えば、マンハッタン南部の地下鉄は全滅です」
復旧の見通しは?
マイケルは、首を横に振った。
「海面が元に戻らない限り、不可能です。ポンプで排水しても、すぐに海水が流れ込みます」
電力網。
ニューヨークの電力は、複数の発電所から供給されていた。しかし、そのうちの一つ、マンハッタン南部の変電所が水没していた。
コンソリデーテッド・エジソン社のエンジニア、サラ・ジョンソンは、電力網の状況を報告していた。
「マンハッタン南部、約50万世帯が停電しています」
それが多いのか少ないのか、誰も判断できない。
「復旧は?」
「変電所が水没している限り、不可能です。そして、仮に水が引いても、設備は塩水で腐食しています。全て交換が必要です」
「どれくらいかかる?」
「最低でも6ヶ月。部品があれば、ですが。部品の調達できますかね?」
通信網。
光ファイバーケーブル、通信基地局。それらも、水没の影響を受けていた。
AT&Tのネットワークエンジニア、デイビッド・リーは、通信障害の範囲を確認していた。
「マンハッタン南部の通信基地局、30%が機能停止。バックアップ電源も尽きています」
「携帯電話は?」
「つながりません。固定電話も同様です」
時刻: 午後6時00分
場所: 東京、品川区
品川区の一角。通常なら、高層ビルが立ち並ぶオフィス街だった。しかし今、1階部分は完全に水没していた。
住民の佐藤家は、マンションの5階に住んでいた。幸い、水は4階までしか達していなかった。
しかし、電気が止まっていた。水道も止まっていた。
佐藤健一は、妻の美香、娘の愛、息子の翔太と共に、5階の部屋に籠もっていた。
「パパ、お腹すいた」
8歳になる愛の声は、思っているより張りがなかった。
健一はそれでさらにつらくなった。
「もう少し待って」
健一は、言いながら娘の頭を撫でた。何を待てばいいのか自分でも分からない。
備蓄していた食料は、残りわずかだった。水は、浴槽に溜めていたものがまだある。
昨日までは「まだある」と思えたのに、今は「これしかない」に変わっていた。
おそらく数日分だろう。
「救援は来ないの?」
美香が尋ねた。
夫に聞いても意味がない。
彼にわかるなら同じ状況にいる私でもわかる。
なのに聞いた。
「来る」
健一は答えた。それ以上、何も言わなかった。それ以上考えることもしなかった。
窓の外を見た。水没した街。動かない車。人影のない道路。
夜が近づいていた。
健一は無意識に、スマートフォンの時計を見た。
電波はない。時間を確認する意味もない。
黒い画面でも、見る癖だけが残っていた。
健一は、キャンプ用のランタンに火を灯した。LEDの明かりが、部屋を照らした。
「今夜もここだ」
家族四人は、寄り添って座った。
時刻: 午後8時00分
場所: ロンドン、テムズ川流域
テムズ川が氾濫し、ロンドン中心部の広い範囲が浸水していた。
国会議事堂、ビッグベン、ロンドン塔。それらの歴史的建造物も、水に浸かっていた。
英国土木学会の会長、ジェームズ・ハリソン卿は、被害状況を視察していた。
「これは...」
彼は、言葉を失った。
テムズ川にかかる橋。ウェストミンスター橋、ロンドン橋、タワーブリッジ。
それらが、水面ギリギリのところにあった。
「橋の耐久性は?」
「水圧に耐えられるか、なんて、わかりませんよ」
ハリソンのアシスタントが答えた。
「長期間の浸水を想定した設計なんてしませんよ」
「もし橋が崩壊すれば...」
「テムズ川の交通が完全に遮断されます。そして、川の両岸が分断されます」
(聞くなよ、わかってるくせに)と思いつつ、聞かずにはいられない心中を察して答えた。
ハリソンは、深いため息をついた。
「ロンドンは...機能を失った」
世界中の都市が、同じ状況だった。
都市は、もはや都市として機能していなかった。
時刻: 12月29日 午前9時00分
場所: ニューヨーク証券取引所(NYSE)
ウォール街。世界金融の中心地。
しかし、ニューヨーク証券取引所のビルは、1階部分が浸水していた。
取引フロアは使用不可能だった。
取引は、バックアップサイトで継続されていた。
ニュージャージー州のデータセンター。
そこから、電子取引が行われていた。
しかし、市場は崩壊していた。
午前9時30分、取引開始。
開始から5分で、ダウ平均株価は3,000ドル下落した。
ヒートマップは赤一色である。
さらに10分で、5,000ドル下落。
サーキットブレーカーが発動した。取引が一時停止された。
しかし、15分後に取引が再開されると、さらに下落が加速した。
午前11時、NYSE理事会は決断した。
「市場を閉鎖します」
これは、2001年の同時多発テロ以来の措置だった。
その決断が、本当に最善だったのかを確認する者はいなかった。
少なくとも、今この瞬間、
「これ以上判断を先延ばしにしなくて済む」
という安堵だけは、確かにそこにあった。
ロンドン証券取引所も閉鎖された。
東京証券取引所も閉鎖された。
上海、香港、フランクフルト。
世界中の主要証券取引所が、相次いで閉鎖された。
金融システムが、停止した。
時刻: 午後1時00分
場所: 中国、上海港
上海港は、世界最大のコンテナ港だった。
年間取扱量は、4,000万TEU以上。世界の海上貿易の要だった。
しかし今、港は麻痺していた。
港湾管理局の副局長、李明は、被害状況を確認していた。
「使用可能な埠頭は6割程度。クレーンも使えて7割だろう」
李明は、別のデータを見た。
「滞留コンテナは...」
彼は、数字を確認した。そして、苦笑した。
「世界中が欲しがる電子機器、衣類、医薬品に食品。それらがざっとコンテナ50万個分。無駄になるとはねぇ...」
50万個のコンテナ。正確に数えるのは意味な数字だな、と李明は思った。
その中には、世界中に輸出されるはずだった商品が詰まっていた。
スマートフォン、ノートパソコン、テレビ。服、靴、おもちゃ。薬、医療機器、食品。
コンテナは、ただそこにあるだけだった。
時刻: 午後3時00分
場所: ドイツ、フランクフルト
欧州中央銀行(ECB)の緊急理事会が開催されていた。
総裁のクリスティーヌ・ラガルドは、深刻な表情で報告していた。
「ヨーロッパの銀行システムが、危機に瀕しています」
画面には、各国の銀行の不良債権比率が表示されている。
「オランダ、ベルギー、デンマーク。低地国の銀行は、不動産融資の大部分が不良債権化しています」
水没した不動産。それらを担保にした融資は、価値を失っていた。
「推定損失額は...2兆ユーロ」
誰かが小さく息を吸い込んだ。
理事たちはざわめいた。
2兆ユーロ。それは、ヨーロッパのGDPの約15%に相当した。
「銀行への資本注入が必要です」ラガルドが続けた。「しかし、各国政府も財政難です」
「では、どうするんですか?」
理事の一人が尋ねた。
ラガルドは、答えなかった。
彼女にも、わからなかった。
時刻: 午後5時00分
場所: シンガポール
世界有数の金融センター、シンガポール。
しかし、シンガポール金融管理局(MAS)のオフィスは、混乱していた。
局長のラビ・メノンは、次々と入る報告に対応していた。
「香港からの送金が停止しています」
「上海との決済システムが機能していません」
「東京の銀行と連絡が取れません」
国際金融システムは、複雑に連結されていた。
ニューヨーク、ロンドン、東京、香港、シンガポール。
それらが、24時間体制で資金を動かしていた。
しかし今、そのネットワークが断線していた。
「これは...」ラビは呟いた。「金融システムの心停止だ」
世界経済も、同じ状態だった。
時刻: 午後8時00分
場所: 国際通貨基金(IMF)本部、ワシントンD.C.の郊外。
IMF職員の一人は、デスクの引き出しを閉めた。
もう、明日使う書類はない。
上からのメールは、短かった。
「全職員、自宅待機」
彼は画面を閉じた。
明日、この件について
説明しなくて済むことを、心のどこかでありがたいと思ってしまった。
世界経済が崩壊した、という知らせを、
これ以上、誰にも伝える必要はなかった。
時刻: 12月30日 午前10時00分
場所: ポーランド・ウクライナ国境
ポーランドとウクライナの国境検問所。
通常なら、1日数千人が通過する程度だった。しかし今、数十万人が押し寄せていた。
ウクライナからの難民。
黒海沿岸部が水没し、オデーサ、ミコライウなどの都市から避難してきた人々だった。
彼らは、ヨーロッパを目指していた。
ポーランド国境警備隊の隊長、ヤン・コワルスキは、検問所の状況を確認していた。
「1日あたり5万人が到着しています」
彼の副官が報告した。
「しかし、処理能力は1日1万人が限界です」
数字は明確だった。受け入れは、不可能だった。
「国境を閉鎖しろ」
ヤンは、決断した。
「しかし、隊長...彼らは行き場がありません」
「貴官には、妙案でもあるのかね?」
そう言われて、引き下がるしかなかった。
時刻: 午後2時00分
場所: トルコ・ギリシャ国境
エーゲ海沿岸から避難してきた難民が、トルコ・ギリシャ国境に押し寄せていた。
トルコ側だけで、推定30万人。
彼らは、ヨーロッパへの入国を求めていた。
しかし、ギリシャは国境を閉鎖していた。
エヴロス川に面した国境地帯。高いフェンスが、二つの国を隔てていた。
ギリシャ国境警備隊は、川岸に展開していた。
難民の一部が、川を渡ろうとした。
「止まれ!」
警備隊が警告したが、難民は止まらなかった。
数十人が、川に入った。水は冷たく、流れは速かった。
一人の男性が、軽微対が懸念した通り流されていく。
「助けて!」
彼の叫び声が川岸に響くが、誰も助けない。
ギリシャの警備隊も、動かない。
トルコ側の人々は、川に入ることを恐れたままだ。
そして、男性は視界から消えた。
時刻: 午後5時00分
場所: アメリカ・メキシコ国境
リオグランデ川。アメリカとメキシコの国境を流れる川。
南米からの難民が、この川を渡ろうとしていた。
ベネズエラ、コロンビア、エクアドル。
太平洋沿岸部が水没した国々からの避難民だった。
彼らは、メキシコを経由して、アメリカを目指していた。
しかし、アメリカは国境警備を強化していた。
国境警備隊、州兵、さらには正規軍まで動員されていた。
テキサス州の国境検問所。
アメリカ陸軍の大尉、ジェームズ・ミラーは、部隊を指揮していた。
「誰も通すな」
彼の命令は明確だった。
「しかし、大尉...彼らは難民です」
若い兵士が言った。
「命令だ」
ジェームズの声は、冷たかった。
彼も、葛藤していた。しかし、命令に従うしかなかった。
川の対岸には、数千人の難民が集まっていた。
彼らの中には、子供も、老人もいた。
一人の母親が、幼い子供を抱いて川に入ろうとした。
「止まれ!」
アメリカ側から、警告の声が響いた。
しかし、母親は止まらなかった。
結果、戻ってこなかったのは、
抱かれていた子供だった。
時刻: 午後8時00分
場所: 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部、ジュネーブ
フィリッポ・グランディは、世界地図を見つめていた。
地図上には、赤い点が無数に散らばっていた。
それぞれが、難民キャンプの位置を示していた。
「現在の難民数は...」
彼のアシスタントが報告した。
「6億5000万人です」
聞いている人の誰も、その数字を繰り返さなかった。
人類史上、最大の難民危機だった。
「そして、その数は増え続けています」
グランディは、別のデータを確認した。
難民キャンプでの死亡率。
それは、日に日に上昇していた。
感染症、栄養失調、寒さ、暴力。
様々な原因で、人々が死んでいた。
「昨日より、さらに増えています」
正確な数を聞く者はいなかった。
聞いたところで、意味がなかったからだ。
グランディは、椅子に座り込んだ。
「私たちは...何ができるんだ」
彼は、自問した。
UNHCRの予算は、既に枯渇しかけていた。
人員も不足していた。
物資も足りなかった。
「国際社会に、さらなる支援を要請します」
アシスタントが言った。
「しかし...応えてくれるでしょうか」
グランディは、答えなかった。
(俺が聞きたいよ)
各国は、自国の問題で手一杯だった。
他国を支援する余裕など、なかった。
難民たちは、見捨てられていた。
そして、その数は増え続けていた。
窓の外では、雪が降り始めていた。
ジュネーブの冬は寒い。
時刻: 12月31日 午後11時00分
場所: IGDE危機管理センター
大晦日。
しかし、招集された学者たちは年越しも仕事を続けていた。
無論、浩と洋子もである。
センター内の大型スクリーンには、世界各地の被害状況がリアルタイムで更新されていた。
死者数: 58万人
難民数: 6億5000万人
水没都市: 142都市
経済損失: 推定50兆ドル
数字が事実である。
だからこそ、誰も口に出して読んだりはしない。
マリアは、各国首脳との電話会議を終えたばかりだった。彼女は疲労を隠せてはいない。
しかし力強さは取り戻せたようだ。
「皆さん」
マリアは、センター内の全員に向けて話し始めた。
「私たちは、今、人類史上最悪の危機に直面しています」
彼女は、スクリーンを指した。
マリアは、一呼吸置いた。
「しかし、私たちは諦めません」
「プロジェクト・アセンションを進めます。軌道エレベータを建設し、海面を元に戻します」
「そして、失われた都市を取り戻します。その為の下準備を整えてきました」
マリアは、浩と洋子を見た。
「浩さん、洋子さん。軌道エレベータの建設計画は、どこまで進んでいますか?」
浩が答えた。
「基本設計は完了しています。必要な資材の算出も同じです。」
洋子が続けた。
「ステラーカーボンの生産準備も進めています。最初のサンプルは、1週間以内に完成する予定です」
「建設開始は?」
一番熟知しているにも関わらず質問をするマリア。
確認したいのではない。これらの質疑応答を通して、全員に周知させたいのだ。
「氷雨が止んだ直後」浩が答えた。「1月8日を予定しています」
受ける浩も心得ている。だから「氷雨が止んだ直後」と答えたのである。
マリアは、頷いた。
「各国政府には、既に協力を要請しています。資金、資材、人員。全てを結集します。そのための各国首脳との電話会議でした。」
「しかし...」
マリアは、躊躇した。そして、続けた。
「そこで別の懸念点が浮上しました。ここからの詳細を、あなたのデータも交えて説明してください、ミュラーさん。」
指名されたのは、ドイツの社会学者、ヨハン・ミュラーだった。
技術的な問題になぜ社会学者が?という疑問を持つ者もいた。
「私もこの件ではいくつかの会議に参加しており、かなりのリスクが見込まれると警告を発し、ほぼ全ての国から理解を得ました。」
技術的問題ではないリスク。
そういえば、彼はSNSでの投稿分析を行っていたのだった。
「新興宗教が、『これは神の審判である』『科学技術という傲慢への罰だ』『悔い改めよ』...こうしたメッセージを自身の教義に合わせて不安を煽り、布教活動に結びつけている、という状況を以前説明しましたが、これが急速に勢力を伸ばしています。この中で特に『天啓の教団』という団体が勢力拡大著しく、テロ活動まで始めているのです。」
彼はさらに続けた。
「この団体も、教義は一言で言えばありふれた『科学による解決を拒絶する』というもので、氷雨を神の審判と解釈し、信者を増やしています。現在、既に4億人を超えていることが確認されています。」
「4『億』?」
「そうなのです。そして問題はそのテロ活動です。現在、各国の諜報部が協力して情報を集積中なのですが、あの団体は既にプロジェクト・アセンションの情報を入手していました。そして、教団の過激派は、プロジェクトを妨害すると宣言しているのです」
ここでマリアは、別のデータを表示した。
「こちら側も黙って見ているわけではありません。彼らの情報収集も進められています。先の会議で提供された最新の情報がこれです」
教団による攻撃予告。
世界各地のIGDE関連施設、科学者の自宅、研究所。
それらが、標的としてリストアップされていた。
「私たちは、警備を強化します。しかし...」
彼女は、全員を見渡した。
「危険は避けられません。それでも、プロジェクトを中止することはできません。人類の未来が掛かるプロジェクトがテロに屈するわけにはいかないのです。」
では、どうするのか? と、誰も問わない。
誰も発言しない時間が会議室を支配した。
やがてマリアが再び喋り始めた。
「プロジェクトを中止することはできません、とは言いました。しかしそれはプロジェクトの話であって、皆さんの話ではありません。」
なるほど、と浩は理解した。
だが、自分がいなくなっても継続できる可能性は限りなく低い。
いや、彼女がいれば続けられる可能性はあるだろう。
洋子の知識と頭脳とセンスがあれば。
そして予想通り、マリアが口を開いた。
「皆さんはこのプロジェクトを続けますか?」
洋子は全く別のことを考えていた。
テロが起きれば、社会不安がさらに増大し、流通は滞り食量事情はさらに悪化する。
飢えないために嗜好品が後回しにされるのは常識である。
大好きな甘いものがさらに遠のいちゃうのは、ねぇ、と。
静まり返った会議室で、一人の科学者が立ち上がった。気候学者のデイビッド・チャンだった。
「私は続けます」
彼の声は、静かだが確固としていた。
「私が諦めれば、さらに多くの人が死にます」
別の科学者が立ち上がった。
「私も続けます」
そして、また一人。
「私も」
次々と、科学者たちが立ち上がった。
浩も立ち上がった。
(おそらくマリアが、事前にチャンに頼んでおいたのだろう。この流れになれば誰もやめるとは言い出せないだろうからな)
(だがそれでも構わない。計画が進むのならどうでも良いことじゃないのか)
最終的に、全員が立ち上がった。
マリアは、涙を拭った。
「ありがとうございます」
午後11時59分。
あと1分で、新年を迎える。
マリアは、時計を見た。
「新しい年が始まります」
「この年に、私たちは人類の未来を決めます」
「軌道エレベータを建設し、地球を救います」
新年のカウントダウンが始まった。
10、9、8、7...
3、2、1。
午前0時。
時刻: 1月1日 午前2時00分
場所: IGDE危機管理センター
新年最初の会議が開催されていた。
参加者は、マリア、そして招集された主要な科学者たち。浩と洋子も、その中にいた。
「現状の整理をします」
マリアが、議事を進めた。
「氷雨開始から13日が経過しました。残り8日間です」
「現在の海面上昇は、累計3.2メートル。最終的には、7.2メートル」
誰かが、思わず天井を見上げた。そんな程度の高さではないのに。
「被害状況は、皆さんご存知の通りです。死者58万人、難民6億5000万人」
マリアは、次のデータに切り替えた。
「そして、社会秩序の崩壊が加速しています」
画面には、世界各地での暴動、略奪、難民キャンプでの混乱の報告が表示されていた。
「バングラデシュ、ナイジェリア、インドネシア。多くの国で、政府の統制が効かなくなっています」
「食糧配給所への襲撃、商店の略奪、そして...」
「難民キャンプでの暴力事件が、急増しています」
海洋学者のアイーシャ・ナシルが、質問した。
「氷雨が止まった後、どれくらいで社会秩序は回復するでしょうか?」
マリアは、首を横に振った。
「わかりません。しかし...楽観的には見ていません」
彼女は、別のデータを表示した。
「世界の食糧生産能力は、30%減少しました。穀倉地帯の水没により、今年の収穫は絶望的です」
「つまり、食糧不足は長期化します。少なくとも1年間は」
「だからこそ」
マリアは、声を強めた。
「プロジェクト・アセンションを成功させなければなりません」
「軌道エレベータを建設し、海面を元に戻す。それが、我々の手の内にある唯一の解決策です」
浩が、建設スケジュールを改めて説明した。
「第一基の建設期間は18ヶ月。しかし、海面を7.2メートル下げるには、最低でも12基が必要です」
「12基全ての完成には...約3年かかります」
「3年...」
誰かが、ため息をついた。
ここにいる誰もが理解している数字なのに、である。
誰も「長い」とも「短い」とも言わなかった。
洋子が付け加えた。今まで不確定要素が多すぎるため、試算に留めていた数字である。
「第一基が完成すれば、海面を下げ始めることができます。完全に元に戻すには3年かかりますが、部分的な回復はもっと早く始まります」
「どれくらい早く?」
「第一基の完成から6ヶ月で、約2メートル下げられます」
「2メートル...」
「現在の海面上昇が7.2メートル。2メートル下がれば、5.2メートル」
「それでも高いですが、一部の都市は機能を回復できるかもしれません」
現実はうまくいかないかもしれないが、雰囲気だけでも変わればいい。
マリアは、全員を見渡した。
「皆さん、これから私たちは長い戦いに入ります」
「3年間。いえ、それ以上かもしれません」
マリアは、一呼吸置いた。
「しかし、私たちが成功すれば、何億、何十億という人々を救えます」
一人、また一人と、頷いた。
窓の外では、雨が降り続けていた。
氷の雨。
あと8日間、降り続ける美しい雨。
それが止んだ時、人類の未来をかけた戦いを始めるのだ。




