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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第13章-月への贈り物
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第13-1話 月面基地アルテミス

時刻: 2028年3月7日 午前10時22分(地球標準時)

場所: 月面基地アルテミス・メインドーム / IGDE本部(地球)

月の表面に、影はない。

正確には、影はある。

ただし、それは永久だ。

南極付近のシャックルトン・クレーターの内壁が、太陽光を遮断し続けている。

マイナス230度。熱も光も、そこには届かない。

アルテミス基地は、そのクレーターの縁に建てられていた。

6年前には存在しなかった施設が、今は人口5,000人を抱えている。

居住モジュール、研究棟、製造工場、水力発電装置、そして農業用温室。

低重力に適した設計で、すべてが相互に接続されている。

廊下を歩く人々がいて、食堂からの匂いがあり、掲示板に手書きのメモが貼られている。

建設直後の仮設感はすでにない。

人が住む場所の質感が、そこにはあった。

地球からこの施設を設計した者たちが、最初に考えたのは構造的な耐久性だ。

次が気密性、そして熱管理。

あちら側の空は12基の塔が支えているが、こちらの空を支えているのは、薄いチタンの壁だけだ。

そして、2秒弱の通信ラグを挟まなければ届かない。

人間が必要とするものの優先順位が、地球とは違う。

月面では、空気が一番先に必要であり、水は今日初めてそこに届こうとしている。

その順番が逆転しているのは、月が地球ではないからだ。

当たり前のことだが、当たり前のことが当たり前ではない場所がある。

これは何の始まりか、と私は書いてから、消した。

答えは今日の終わりに書けばいい。

起きたことを書く。

起きる前から結論を書くのは、別の仕事だ。

IGDE本部の管制室から、洋子はモニターを見ていた。

管制室は普段と変わらない。

席に人が揃い、画面が並び、通信が行き来する。

しかし今日の室内には、普段とは少し違う種類の緊張があった。

慣れた仕事の緊張ではなく、初めてのことが起きる前の、静かな身構えがある。

「月面チーム、最終確認を」

ヘッドセット越しに、返答が来る。

「こちらアルテミス。受け入れ施設、準備完了です」

2.5秒の遅延。地球と月の物理的な距離が、常にそこにある。

今日、最初の氷塊群が月面に到達する。


場所: 月面基地アルテミス・氷受け入れ施設 / IGDE本部

アルテミス基地の氷受け入れ施設は、永久影クレーターの縁から南側に250メートルの位置に設置されていた。

設計は浩が担当した。

軌道エレベータから射出された氷塊は、地球の重力圏を抜けた後、月の引力に引かれて落下する。

速度と角度の計算が全てだ。誤差が1%を超えれば、クレーターの外壁に衝突する。

誤差が2%を超えれば、月面に氷が拡散して回収不能になる。

着地の精度は、月面の地形と射出タイミングを1,000分の1秒単位で調整することによって担保される。

射出から月面到達まで、3日間の航行だった。

その間に行われた軌道修正の回数は、12基の氷塊群を合わせて2,847回。

修正のたびに浩か洋子の目が通り、最終的な確認が行われた。

地球から月の距離は約38万キロメートル。

その距離を飛ぶ氷塊に対して、1日あたり約950回の軌道修正が行われた計算になる。

数値にすれば単純だが、それがどういう3日間だったかは、別の記録に委ねる。

「軌道修正、最終値を入力」

地球の管制室で、浩がキーボードを叩いた。

モニターには、12基の軌道エレベータから射出された氷塊群の軌跡が表示されている。

赤道直下から打ち上げられた氷は、月の引力圏に入った時点でわずかに軌道が変わる。

その変化を事前に計算し、修正値を入力しておく必要がある。今日はその最終段階だ。

「修正完了」

洋子が、軌道計算の検証を行っていた。

浩の数値と、洋子自身の計算。二つの数値が画面上に並んでいる。

「0.003%の差がある」

洋子が言った。

「どちらが正しい?」

浩は答えなかった。数秒間、モニターを見ていた。

「君の方だ」

「理由は?」

「月の自転速度の微修正が漏れていた。昨夜の0.001秒の遅延分を入れ忘れた」

「修正して」

洋子は振り向きもせずに言った。浩はすでに手を動かしていた。

その様子を、私は少し離れた場所から見ていた。

二人はこの3年間、ほとんどの時間を物理的に離れた場所で過ごしてきた。

それでも、計算の整合性を取り合うときの二人には、奇妙な速さがある。

片方が問題の所在を指摘する前に、もう片方が答えへと向かっている。

0.003%の差を洋子が見つけ、浩がその原因を告げるまでの時間は、合わせて20秒に満たなかった。

私はその現象を記録してきた。説明はしなかった。

今もしない。

浩が管制室の片隅のコーヒーメーカーに手を伸ばしかけて、カップが空だったことに気づいて手を引いた。

その動作を誰も見ていなかった。私だけが見ていた。

記録はしなかった。

些細なことだからではない。

そういうことを書くべき場所が分からなかったからだ。

修正された軌道データが月面チームに送信された。

2.5秒後、確認の返答が来た。

受け入れ施設の担当者の声は、3日前と変わらない平静さを保っていた。

あるいは3日前より落ち着いていた。

人間は待つことで、少しずつ準備ができていく。

その後の1時間、管制室は静かだった。

モニターの更新が続き、軌跡が収束し、最終的な着地位置の予測が精度を上げた。

浩は画面から目を離さなかった。

洋子も同じだった。

離れた場所で、同じものを見ていた。

修正後の計算では、第一波35塊のうち33塊がクレーター内の目標エリアに着地すると予測された。

残る2塊はクレーター縁部への着地が想定されたが、設計上の許容範囲内だった。

100%の成功を目標にしているが、95%で十分だと浩は設計書に書いていた。

残りの5%に固執することは、残りの95%の精度を落とすことになる。

私はその設計思想を記録したことがある。

完璧でない設計が、完璧な設計より安全な場合がある。

浩はそれを知っていた。


時刻: 月面時刻 午前11時08分

場所: 月面基地アルテミス・メインモニタールーム

月面のモニタールームに、技術者たちが集まっていた。

全員の視線が、天井の大型スクリーンに向いている。

月の上空を接近してくる氷塊群の映像が映っていた。

レーダーが映す光点の群れ。

一つ一つが巨大な氷の塊だ。

最小のもので10メートル、最大のもので50メートルを超える。

合わせて35塊、総質量約8万トン。それらが月の上空を飛んでいる。

地球からここまで3日かけてきたものが、今、数百キロメートル先にある。

「第一波、接近中。距離2,400キロ」

オペレーターの報告が、静寂の中に響いた。

「減速フェーズ、開始」

各氷塊に取り付けられた小型推進装置が、逆噴射を始める。

月面への衝突速度を落とすための最終段階だ。完全に止めることはしない。

ある程度の速度で着地させることで、クレーター内への拡散を均等にする。

止めすぎれば目標点に届かず、速すぎればクレーター壁外に飛び出す。

この最終調整も、浩が設計した制御プログラムが担う。

人間が今できることは、モニターを見て、報告を聞き、問題があれば介入することだけだ。

「距離1,000キロ」

「減速率、正常範囲内」

「距離500キロ」

誰も喋らなくなった。

月面基地の外、クレーターの縁に設置された高感度カメラが、夜空を捉えている。

星が動かない中で、一点だけが動いていた。

光らない点。

宇宙の闇の中で、それは黒い影として近づいてくる。

月面は無音だ。

音を伝える大気がない。

しかし基地の内側には音があった。

空調の低い唸り。

誰かの浅い呼吸。

数秒ごとに更新されるレーダーデータの電子音。

それらが、スクリーンの前に集まった人々の時間を刻んでいた。

人々が発した言葉の最後が「距離500キロ」で、そこから先は誰も何も言わなかった。

ある種の場所において、沈黙は共同で作られる。

「距離100キロ」

「着地態勢、確認」

「─ 第一塊、クレーター内への突入確認」

スクリーンに、衝撃の映像が映し出された。

氷の塊がクレーターの内壁に当たった瞬間、粉塵が広がった。

マイナス230度の中で、氷は音もなく砕ける。

粉塵はゆっくりと舞い上がり、低重力の中で長い時間をかけて落下する。

地球なら轟音と振動を伴うはずの衝突が、映像の中では無声映画のように展開した。

静かな出来事として、それは起きた。

「成功です! 第一波、着地確認!」

歓声が上がった。

以後、35塊すべてが着地するまでの1時間、モニタールームの温度は少しだけ上がったように思えた。

暖房が変わったわけではない。

人間の体温の問題だ。

歓声と拍手は一塊目の後にあった。

二塊目からは、また静かな確認作業に戻った。

それが35回繰り返された。

35回目が確認されたとき、室内にいた誰かが深く息を吐いた。

着地確認の完了報告が出た後、モニタールームに沈黙が来た。

仕事が終わった後の沈黙だ。

何かを言う必要のない、言葉が不要な時間がある。

月面のスタッフたちは、しばらくその場に立ったままでいた。ス

クリーンには、クレーター内の白い粉塵がゆっくりと沈降していく映像が映っていた。

地球のモニタールームでも、同じ瞬間、同じ言葉が飛んでいた。

人類が初めて月に水を届けた日の、昼前だった。


時刻: 同日 午後2時30分

場所: IGDE本部・洋子のオフィス

最初の10塊が、予定通りの位置に着地した。

次の射出スケジュールをどうするか。

洋子は数値を積み上げていた。

1日あたりの受け入れ可能量、クレーターの容積、今後の月面基地の需要。

これらを組み合わせると、初期計画より控えめな数値に修正するべきだという結論が出る。

問題は容積ではなく温度だった。

大量の氷塊が着地する際に生じる局所的な温度上昇が、永久影の熱平衡を乱す。

乱れた熱平衡は、保存した氷の一部を昇華させる。

損失だ。

上限を定めなければ、受け入れれば受け入れるほど失う、という逆説が生まれる。

私はこの逆説を書き留めた。

受け入れるほど失う。

それは量の問題だが、考えようによっては量以外の問題でもある。

「10万トン/日。当初計画の3分の1だ」

浩の声が、ヘッドセットから聞こえた。

「クレーターの温度変化を確認した?」

「している。着地に伴う局所的な温度上昇が、計算より大きかった」

「保存効率に影響が出る前に、上限を設定する必要がある」

「それが10万トンだ」

洋子は、計算式を画面に表示した。

浩が同じ計算式を開いている。確認するまでもなかったが、確認した。

「一致している」

「知っていた」

洋子は短く言った。それ以上の言葉はなかった。

私はこの会話の傍らにいた。

浩がいる地球側のモニタールームから、洋子のオフィスへの映像通話の音声を聞いていた。

「知っていた」というのは、何を意味するのか。

自分の計算が正しいと知っていた、という意味なら、それは洋子の言い方ではない。

浩の計算と一致すると知っていた、という意味なら、なぜそれが分かるのか。

答えを書こうとして、やめた。

洋子のオフィスには、手書きのメモが貼られていた。

計算式の断片、スケジュールの覚書、数値の比較表。

プリントアウトではなく、すべて直筆だ。洋子は手で書くことを好む。

「手が動く速度が、考える速度に近い」と以前言っていた。キーボードは速すぎる、という意味だったのか、それとも遅すぎる、という意味だったのか。

私は確認しなかった。

「次の確認は今夜22時に設定する。クレーターの熱分布測定を最初に見る」

洋子が続けた。

「了解した」

浩の返答は短かった。

「追加の質問は?」

「ない」

通話が終わった。

静かになったオフィスで、洋子はしばらく画面を見ていた。

数値は変わっていない。

1日10万トン。

数ヶ月かければ、クレーターに数千万トンの氷が積み上がる。

それが基地の生命線になる。

水から酸素、水から水素、水から燃料。

その連鎖の最初の1日が、今日だった。


時刻: 同日 午後5時15分

場所: 月面基地アルテミス・展望通路

月面基地には、クレーターの縁に向かって伸びる展望通路があった。

透明なポリカーボネート製のチューブが、岩盤の上を這うように続いている。

その先は小さな展望室で、月の地平線が見渡せた。

展望通路を歩くと、外の岩盤が近い。

月の表面は予想以上に起伏がある。

黒と灰色の岩が、長い影を作らずに、ただそこにある。

影がないのは太陽光が届かないからではなく、光源が一方向からしか来ないからだ。

地球では散乱光で満たされる陰が、月には存在しない。

明暗の境界が鋭い。

私は、この日の午後に月面に降り立っていた。

取材目的の月面訪問。記録者としての業務だ。

それ以上の理由はない、と私は書いておく。

展望室に、洋子がいた。

地球から月への降下カプセルは数時間前に到着していた。

洋子は取材クルーとは別に、一人でそこにいた。

こちらに背を向けて、月の外を見ていた。

月の地平線は、地球よりずっと近くに感じられる。

月の直径が小さいからだ。

曲率が急で、地平線が視覚的に近い。

その分、自分が球体の表面に立っていることが、はっきりと分かる。

足の裏に、地球ではない惑星の重さがある。正確には地球の6分の1の重さだ。

その軽さが、ここが地球ではないことを体に教える。

歩くたびに、一歩が少し長い。

地球の歩幅を体が覚えているために、ここでは足が余る。

「撮れた?」

振り向きもせずに、洋子が言った。

私は手にした記録端末を見た。

彼女は首元の気密シールを、指先で確かめるようになぞっていた。

最初の氷着地の映像データ。

「ああ」

私は答えた。

答えながら、何か別のことを言いたかったのかもしれない、と思った。

何かは分からない。

それが何かを探す前に、「ああ」という言葉はもう出ていた。

それだけだった。

長い沈黙があった。

地球が昇ってくる。青と白の球体が、月の黒い空に浮かんでいる。

あの球体の中に、今日の出来事の記録がある。

私たちの来た場所がある。

人口80億の生活が、大気と海と陸の間で続いている。

この展望室から見ると、それが一つの球体として収まる。

距離が物事を圧縮する。

すべて、あの一つの球体に含まれている。

問いを持つ必要のない景色だった。

景色が問いを引き受けていた。

洋子は何も言わなかった。私も何も言わなかった。

それで十分だった、と書きたいところだが、私には十分かどうかも判断できなかった。


時刻: 同日 夜

場所: 月面基地アルテミス・第1居住モジュール

月面での夜は地球と異なる。

太陽は地平線から顔を出したまま2週間動かない時期もあれば、2週間まったく顔を出さない時期もある。

今は南極付近で、太陽光はほぼ届かない。

常夜だ。外には変化がない。

時間の経過は、時計と食事の間隔が教える。

食堂に、基地スタッフが集まっていた。

今日の成功を、静かに祝う雰囲気があった。

大声で騒ぐ者はいない。

全員が、仕事の疲れと、何か大きなことを終えたような感覚の両方を顔に持っていた。

打ち上げパーティーでも、慰労会でもない。

ただ同じ場所に集まって、同じものを食べている。

地球から遠く離れた場所で人が集まることの意味が、地上とは少し違って感じられた。

それが何かを私は書けない。感じた、と書くだけにする。

食堂の端に貼り紙があった。

「本日17:00 氷着地確認」という文字の下に、誰かが手書きで「おめでとう」と書き加えていた。

筆跡は分からなかった。それがいつ貼られたのかも分からなかった。

しかし、そこにあった。月面基地の廊下には、こういうものが時々ある。

公式の掲示ではない、誰かの手が動いた痕跡。

それを書き留めておくのも、記録者の仕事だと私は思っている。

洋子はその隅に座って、翌日以降の計画書に目を通していた。

私は、その様子を記録した。記録者の仕事は観察だ。

「第二波の射出スケジュールが確定した」

地球から、浩の声が届いた。

「4日後。数量は同じ10万トン」

「了解した」

洋子は答えた。

「月面チームの状態は?」

「問題ない。全員、集中している」

「疲れは?」

「ある。でも、そういう種類の疲れではない」

浩は少し間を置いた。

「分かった」

「次の射出まで、月面の調査を進める。クレーター内部の温度分布を測定し直す」

「俺も計算を見直す。何かあれば連絡を」

通話が切れた。

私はその会話を書き留めた。

感情の名前は書かなかった。名前のつけようがなかった、というのが正確だ。

冒頭に「これは何の始まりか」と書いて消した問いの答えを、今ならいくつか書ける。

しかし、いくつかあるということは、どれも完全ではないということでもある。

それでも、今日が何かの始まりだったことだけは、確かだ。

月面基地アルテミスの最初の夜は、こうして終わった。

1日あたり10万トン、クレーターの中に氷が積み上がっていく。

人類が月に水を届け、月を変えようとしている。

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