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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第2章-水の黙示録
7/12

第2-2話 気候の狂乱

時刻: 12月24日 午前9時00分

場所: 世界気象機関(WMO)本部、ジュネーブ

クリスマスイブの朝。

しかし、WMO本部には、祝祭の雰囲気は微塵もなかった。

海面上昇は累計1.8メートルに達し、世界各地で沿岸部の浸水被害が拡大していた。

しかし、さらに深刻な問題が明らかになりつつあった――気候システムそのものの崩壊である。

気候監視部門の緊急会議室。世界各地の気象観測所からのデータが、リアルタイムで集約されている。

壁一面を覆う大型スクリーンには、色分けされた気象データが表示され、刻一刻と更新されていた。

部門長のマリア・ガルシア博士は、スクリーンに表示された地球全体の気象データを凝視していた。

彼女は50代後半、スペイン出身で、30年以上にわたり気候変動を研究してきた。

しかし、今画面に映し出されているものは、彼女の経験を遥かに超えていた。

「これは...前例がありません」

彼女の隣に座る、気候モデリング専門家のデイビッド・チャン博士が、シミュレーション結果を表示した。

カナダ出身の彼は、40代前半で、気候システムの数値モデル化を専門としていた。

「過去7日間で、大気中の水蒸気量が平常時の3.8倍に増加しています」

画面には、地球全体の水蒸気分布が色分けで表示されている。

通常は赤道付近に集中するはずの水蒸気が、地球全体に広がっていた。

赤とオレンジの領域が、異常なまでに拡大している。

「これだけの水蒸気が...大気循環を完全に変えています」

デイビッドはそのまま沈黙した。

「次に行ってくれ。本当に言いたいことはコレじゃないんだろ?」

ガルシアの声は、疲労と焦燥に満ちていた。

デイビッドは、頷いた。そして、大気循環のシミュレーション動画を表示した。

通常、地球の大気は三つの循環セル――ハドレー循環、フェレル循環、極循環――によって安定している。

それぞれの循環が、熱帯、温帯、極地の気候を決定している。数億年にわたり、地球の気候を支えてきたシステムだった。

しかし、シミュレーション上の大気は、混沌としていた。三つの循環セルが、歪み、乱れ、境界が曖昧になっている。

「ハドレー循環が...崩壊しているのです」

ハドレー循環――赤道付近で上昇した空気が、緯度30度付近で下降する大規模な循環。

これが熱帯と亜熱帯の気候を決定している。

サハラ砂漠も、アマゾンの熱帯雨林も、この循環の産物だった。

しかし今、その循環が乱れていた。

上昇域が拡大し、下降域がずれ、循環の強さが不規則に変動している。

デイビッドは、別のグラフを表示した。

「循環の強さが、過去7日間で40%増加しています。しかし、安定性は失われています」

「これは...気候システムの臨界点を超えたかもしれません。だから皆に集まっていただいたのです。はっきりさせるために。」

ガルシアは、椅子に深く座り込んだ。

気候システムの臨界点。それを超えれば、システムは不可逆的に変化する。元には戻らない。

「世界各地の観測データは?」

「すぐにお見せします」


時刻: 12月24日 正午

場所: シンガポール

赤道直下の都市国家、シンガポール。

通常、12月の平均気温は約27度。

しかし今日、気温は既に午前中に40度を超えていた。

気象庁の観測員、リー・ウェイミンは、温度計の数値を何度も確認していた。

デジタル表示を見て、アナログの温度計を見て、予備の温度計を見て。

しかし、どれも同じ数値を示していた。

「43.2度...これは観測史上最高です」

シンガポールの過去最高気温は、37.0度。2024年に記録されたものだった。

しかし、それを6度以上も上回っている。

リーは、窓の外を見た。通常なら活気に満ちた街が、静まり返っていた。

道路には人影がない。車もほとんど走っていない。

彼は、別のデータを確認した。

「相対湿度92%...」

高温と高湿度の組み合わせ。これは、人体にとって極めて危険な状態だった。

リーは、即座に政府に緊急報告を送った。

「屋外活動は致死的危険。全市民に屋内退避を勧告してください」

同じ現象が、赤道付近の各地で発生していた。

ジャカルタ(インドネシア): 気温45度、湿度90%

ラゴス(ナイジェリア): 気温47度、湿度88%

マナウス(ブラジル、アマゾン): 気温48度、湿度93%

キンシャサ(コンゴ民主共和国): 気温46度、湿度89%


時刻: 午後3時00分

場所: キンシャサ

キンシャサの病院は、熱中症患者で溢れかえっていた。

「また搬送です」

救急隊員が、意識を失った患者を担架で運び込む。

彼らの声は、切迫していた。走っていた。必死だった。

しかし、病院の中は、異なる空気が流れていた。

医師のムワンバ・カセンバは、次々と運ばれてくる患者の対応に追われていた。

彼の動きは、流れるように鮮やかだった。

「体温42度。重度の熱中症。冷却を」

彼は隙のない指示を出した。普段のようなジョークが一切ないのだ。

看護師のアマンダが、新しい患者のバイタルを測定していた。

彼女も同じだった。

手は正確に動いているが、今日は彼氏との予定とか、口に出さないのだ。

「ベッドが足りません」

アマンダは声も平坦だった。事実を述べているだけ。

「廊下に」

ムワンバが答えた。同じトーンで。

救急隊員は、患者を廊下に運んだ。

そこには、既に十数人の患者が横たわっていた。

ムワンバは、次の患者を診た。そして次。そして次。

動作は正確で判断は迅速だった。

午前中、ムワンバは一人でも多く救おうと、走り回っていた。

しかし、患者は増え続けた。10人、20人、50人、100人。

そして、彼は理解し、如何に効率よく回すか、に集中するようになった。

「次」

ムワンバは、次の患者を呼んだ。

午後6時の時点で、キンシャサだけで熱中症による死者は200人を超えていた。

「カルテの紙が足りないなぁ」

思い浮かんだのは、それだった。


時刻: 午後7時00分

場所: マナウス、ブラジル

アマゾンの中心都市、マナウス。

通常は湿潤な熱帯気候だが、今日は灼熱地獄と化していた。

公立病院の救急部門。

医師のカルロス・サントスは、12時間連続で勤務していた。

彼の白衣は、汗で濡れていた。

病院のエアコンは、もはや外気温に対応できていなかった。

「先生、また来ました」

看護師が、新しい患者を連れてきた。

60代の男性。意識レベルが低下している。

カルロスは、診察した。

「体温41.5度。脈拍微弱」

彼は、冷却処置を指示した。

しかし、その声は、もはや緊張していなかった。

最初の患者を診た時、カルロスは焦っていた。

心拍数が上がり、手が震えていた。

しかし、20人目を過ぎた頃から、何かが変わった。

迷いが、作業に置き換わっていた。

カルロスは、窓の外を見た。

夕暮れのマナウス。

オレンジ色に染まった空。

美しい景色だった。

そして、彼もそう感じた。美しい・・・


時刻: 12月24日 午後6時00分(現地時間午前6時00分)

場所: ノルウェー、トロムソ

北緯69度の北極圏都市、トロムソ。

通常の12月の平均気温は、マイナス4度程度。

しかし今朝、気温はマイナス52度まで下がっていた。

気象台の観測員、オーレ・ラーセンは、自分の目を疑った。

「マイナス52度...これはトロムソの観測史上最低です」

過去の最低気温記録は、マイナス18.4度。1985年に記録されたものだった。

それを30度以上も下回っていた。

オーレは、市役所に緊急連絡を入れた。

「全市民に屋内退避を。暖房を最大にしてください。停電すれば、凍死者が出ます」

同様の異常低温が、高緯度地域全体で発生していた。

シベリア、ヤクーツク: マイナス68度

アラスカ、フェアバンクス: マイナス59度

カナダ、イエローナイフ: マイナス61度

グリーンランド、ヌーク: マイナス55度


時刻: 午後9時00分(現地時間正午)

場所: ヤクーツク、ロシア

氷雨開始から7日目。世界で最も寒い都市の一つ、ヤクーツク。

しかし今日の寒さは、その記録を大きく更新していた。

住民のイワン・ペトロフは、自宅で暖炉に石炭をくべ続けていた。

「もっと石炭を...」

しかし、室内温度は5度までしか上がらない。

外気温があまりに低く、建物の断熱性能を超えていた。

「パパ、寒い...」

6歳の娘、アナスタシアが震えている。

イワンは、娘を毛布で包んだ。

「大丈夫だ。すぐ暖かくなる」

しかし、暖炉の石炭は残り少なかった。

あと1時間分もないだろう。

午後3時、イワンは決断した。

石炭を買いに行く。

商店までわずか200メートル。

防寒着を重ね着すれば、往復10分で戻れるはずだった。

彼は、可能な限りの防寒着を着込んだ。下着を3枚、セーター2枚、ジャケット、オーバーコート。手袋を二重に。

「アナスタシア、すぐに戻る。毛布から出るなよ」

「うん...」

イワンは、ドアを開けた。

その瞬間、息が凍りついた。

吐いた息が即座に凍結し、顔の周りに氷の雲を作る。

彼は、必死に走った。

しかし、50メートル進んだところで、手足の感覚が失われ始めた。

「もう少し...」

しかし、彼の体は動かなくなった。

翌朝、イワンは自宅から70メートルの地点で、凍死した状態で発見された。

彼を発見したのは、近所に住むアレクセイ・ソコロフだった。

アレクセイは、朝の見回りをしていた。

極寒の中、誰かが倒れていないか。

毎朝、近所を見て回るのが、彼の日課だった。

「イワン...」

アレクセイは、凍りついたイワンの体を見た。

彼は、すぐにイワンの家に向かった。

ドアは、鍵がかかっていなかった。

「誰かいるか!」

彼は、家の中に入った。

暖炉の火は消えており、室内は冷え込んでいた。

「誰か!」

アレクセイは、寝室に入った。

ベッドの上で、毛布に包まれた小さな塊が動いた。

「アナスタシア...!」

アレクセイは、毛布を開いた。

少女は、かろうじて生きていた。

体温は危険なほど低下していたが、まだ意識があった。

「パパは...?」

「大丈夫だ。今、助けが来る」

アレクセイは、少女を自分のコートで包み、外に出た。

彼の家まで、50メートル。

彼は、走った。

アレクセイの妻、オルガが、ドアを開けた。

「アナスタシアを!」

オルガは、少女を抱きかかえ、暖炉の前に運んだ。

温かいブランケット、温かい飲み物。

アナスタシアの体温は、ゆっくりと戻り始めた。

アレクセイは、市当局に連絡した。

「イワン・ペトロフが凍死。娘のアナスタシアを保護した。すぐに来てくれ」

1時間後、市の救援チームが到着した。アナスタシアは、保護センターに搬送された。

保護センターは、小学校の体育館を改造したものだった。

中には、何十人もの子供たちがいた。

親を失った子供たち。

家を失った子供たち。

寒さに震える子供たち。

アナスタシアは、簡易ベッドに横たわった。隣のベッドには、同じくらいの年齢の少年がいた。

「君の名前は?」

少年が尋ねた。

「アナスタシア...」

「僕はミハイル。パパとママは...もういない」

アナスタシアは、何も言えなかった。

彼女は、毛布を頭まで被った。

そして、静かに泣いた。

保護センターには、同じような子供たちがたくさんいた。

200人以上。

そして、その数は増え続けていた。

ボランティアのエレナ・ワシリエワは、子供たちに食事を配っていた。

温かいスープ、パン、温かいお茶。

しかし、それだけでは足りない。

子供たちが本当に必要としているものは何か?

エレナは一人の少女のそばに座った。少女は、膝を抱えて震えていた。

「大丈夫よ」

エレナは、少女を抱きしめた。

少女は、エレナにしがみついた。

それが、必要としているものなのかもしれない。


時刻: 12月25日 午前3時00分

場所: 太平洋、北緯35度

クリスマスの朝。しかし、太平洋上では、モンスターが誕生していた。

超大型台風。

いや、台風という言葉では不十分だった。これは、それを遥かに超える存在だった。

アメリカ海洋大気庁(NOAA)の気象衛星が、その姿を捉えていた。

直径: 1,200キロメートル 中心気圧: 850ヘクトパスカル 最大風速: 85メートル/秒

通常の台風の2倍の大きさ。記録上最強だったスーパー台風「ハイエン」(2013年)を遥かに上回る勢力。

そして、それは北東に進んでいた。

目標: 日本。

時刻: 午前6時00分 場所: 気象庁、東京

気象庁の予報官、田中誠は、衛星画像を凝視していた。

「これは...カテゴリー6だ」

通常、台風の強度分類は、カテゴリー5が最大だった。

しかし、この台風は、その基準を超えていた。

田中は、進路予測を実行した。

「48時間後...東京湾に直撃」

彼は、首相官邸に緊急報告を送った。

時刻: 午後2時00分 場所: IGDE危機管理センター

台風の情報が、IGDEにも届いていた。

浩と洋子は、気象学者らとデータ分析をしていた。

そして、別の問題に気づいた。

「高潮の予測は?」洋子が尋ねた。

気象学者のデイビッド・チャンが答えた。

「通常の台風なら、高潮は5~8メートル程度です。しかし、この台風の規模では...」

彼は、計算結果を表示した。

「高潮が10~15メートル。それに、既に上昇している海面が加わります」

浩が計算結果を表示した。

「海面上昇分1.8メートルを加えると...東京湾岸での最大水位は17メートルに達します」

(こんなことに統合したシミュレーションプログラムを最初に使うことになるとは思わなかった)

浩は、心の中で呟いた。

(あのプログラムは、本来なら軌道エレベータの構造解析に使うはずだった。建設の可能性を探るための、希望のツールだったはずだ)

(それが今、災害予測に使われている)

(いや、災害予測だけならまだいい。実際には、どれだけの人が死ぬかを計算するツールになっている)

(専門家たちと協力して環境を整備した時、俺は少し浮かれていた。これで精度が上がる、不確定要素が減る、と)

(でも、精度が上がるということは、より正確に死者数を予測できるということだ)

(それが、嬉しいことなのか?)

浩は、その考えを振り払った。

今は、そんなことを考えている場合ではない。

「17メートル...」

マリアが呟いた。

「東京の防潮堤は?」

「最大で12メートルです」

田中が答えた。

「耐えられません」

浩は、口を開いた。

「統合シミュレーションの精度は上がりましたが、こういう使い方をするとは思いませんでしたね」

その言葉は事実の確認のようだった。

しかし、心の中では、ぐだぐだと考え続けていた。

(俺たちは何をしているんだ?)

(量子コンピュータを使って、最先端のシミュレーション技術を駆使して、そして何を得た?)

(より正確な絶望の数値だ)

(東京湾岸の住民は、何人死ぬ。バングラデシュでは、何人が溺れる。キンシャサでは、何人が熱中症で倒れる)

(俺たちは、それを計算している)

(これが、科学の役割なのか?)

浩は、洋子を見た。しかし、彼女は何も言わなかった。


「避難勧告を」マリアが決断した。

「東京湾岸、全域。対象人口は...」

「約500万人です」田中が答えた。

「48時間以内に、500万人を避難させる」

マリアは、日本政府に連絡を取り始めた。

どの地域が、どの程度浸水するか。

どのルートが、使用可能か。

どれだけの人が、逃げ遅れるか。

数字が、次々と表示される。

それは、冷徹な現実だった。

時刻: 12月26日 午前3時00分 場所: 太平洋

台風は、さらに勢力を増していた。

中心気圧: 840ヘクトパスカル 最大風速: 90メートル/秒

そして、それは日本に向かっていた。


時刻: 12月26日 午後3時00分

場所: 東京湾

台風が上陸した。

中心気圧840ヘクトパスカル。最大風速90メートル。

それは、東京湾を直撃した。

高潮が発生した。海面が、一気に12メートル上昇した。

既に上昇していた海面1.8メートルと合わせて、総水位は13.8メートルに達した。

東京の防潮堤は、12メートルまでしか耐えられない設計だった。

午後3時17分、防潮堤が決壊した。

まず江東区で。次いで江戸川区で。そして品川区で。

海水が、街に流れ込んだ。

時速50キロメートルで。

逃げる時間は、なかった。

俺は、その時、IGDEの危機管理センターにいた。

モニターを通じて、リアルタイムの映像を見ていた。

防災カメラが捉えた映像。ドローンが撮影した映像。衛星からの画像。

それらが、次々と画面に表示された。

水が、街を飲み込んでいく様子が。

建物が、水に沈んでいく様子が。

人々が、流されていく様子が。

俺は、何もできなかった。

ただ、見ているだけだった。

洋子も、マリアも、他の専門家たちも。

誰も、何もできなかった。

洋子はぼんやりと思い浮かべていた。近所にあった洋菓子屋のことを。

(あのお店もなくなっちゃったよねぇ・・・)

不謹慎だとわかってはいるが、そういうことが思い浮かんでしまうのだ。


午後4時、被害状況の第一報が届いた。

江東区、江戸川区、品川区、大田区。東京湾岸の広範囲が浸水。

推定被害人口: 200万人。

死者数: 不明。

午後6時、死者数の推定が出た。

推定3万人。

3万という数字を見た時、俺は何も感じなかった。

画面の隅に、カーソルが点滅していた。

何かを入力しなければならない気がして、

でも、何を打てばいいのかは分からなかった。

(これが、科学の役割なのか)

あまりに大きすぎる数字は、もはや数字でしかなかった。

3万人。

それは、一人一人の人生だった。家族だった。夢だった。

しかし、俺の頭は、それを統計として処理していた。


午後8時、台風は通過した。

風は止んだ。

しかし、水は引かなかった。

海面が上昇しているため、水は街に留まり続けた。

東京湾岸は、巨大な湖になった。

その夜、俺は何も食べなかった。食欲がなかった。

洋子も同じだった。

マリアは、各国政府との調整に追われていた。彼女も、食事を取っていなかった。

俺たちは、ただ働き続けた。

次の災害を予測するために。

次の死者数を計算するために。

これがわかっていれば、軌道エレベーターの建設が現実になるかもと浮かれていなかったかもしれない。

いや、全てが終わった後から考えると、絶望で手をつけなかったかもしれない。

何が良くて何が正解なのか、後からどれだけ考えてもわからない。

あの時、統合シミュレーション環境を整備したことは、正しかったのか?

より正確な予測ができるようになったことで、救えた命はあったのか?

それとも、ただより正確に、絶望の深さを測れるようになっただけだったのか?

わからない。

今でも、わからない。

ただ、確かなことが一つだけある。

俺たちは、あの時、できることをやった。

それが正しかったかどうかは、わからない。

しかし、それしかできなかった。


時刻: 12月27日 午前10時00分

場所: IGDE危機管理センター

台風通過から19時間が経過した。

被害の全容が、徐々に明らかになってきた。

東京: 死者推定3万2000人、行方不明者1万8000人

大阪: 死者推定8000人(別の台風による被害)

上海: 死者推定1万5000人

マニラ: 死者推定2万人

世界各地で、同様の超大型台風が発生していた。

そして、死者数は増え続けていた。

マリアは、疲労困憊していた。

彼女の目には、深い隈ができていた。髪は乱れ、服は皺だらけだった。

「これは...いつ終わるんでしょうか」

彼女は、窓の外を見た。ニューヨークは雨が降り続けていた。

雨のニューヨークは美しい。

「氷雨は、21日間続きます。あと14日間です」

「14日...」

「はい。そして、氷雨が止んだ後も、気候の混乱は続きます」

洋子が、予測データを表示した。

「大気中の水蒸気量が減少すれば...約6ヶ月で気候システムは安定し始めます」

しかし、洋子の心の中には、不安があった。

(しかしそれは不確定要素にもっともらしい数値を当てはめただけ)

気候システムの予測には、無数の変数がある。

大気の組成、海洋の温度、氷床の融解速度、植生の変化。

それらすべてを正確にモデル化することは、不可能だった。

洋子の予測は、いくつかの仮定に基づいていた。

そして、その仮定が正しいという保証は、どこにもなかった。

「6ヶ月...」

浩は、その言葉に戸惑った。

洋子が言い切った。

珍しいことだった。

彼女は通常、予測には必ず留保をつける。

不確実性を明示する。

しかし今、彼女は「6ヶ月」と断言した。

浩は、洋子を見た。彼女の目には、わずかな迷いがあった。

浩は、理解した。

洋子は、希望を与えようとしている。

マリアに。そして、自分たちに。

たとえ、その希望が不確かなものであっても。

「6ヶ月...耐えられますか?」

マリアが尋ねた。

「俺も誰も予測できませんでした」

浩が答えた。

「しかし、耐えるしかありません。そして、その間に、プロジェクト・アセンションを準備します」

マリアは、頷いた。

「軌道エレベータ...」

「はい。それが、唯一の解決策です」

洋子が続けた。

「海面を元に戻す。失われた都市を取り戻す。そのためには、軌道エレベータが必要です」

「しかし、建設には時間がかかります」

「18ヶ月です」浩が答えた。「第一基の完成までに」

マリアは、計算した。

「気候が安定するまでに6ヶ月。建設に18ヶ月。合計24ヶ月...2年」

「はい。2年間、人類は耐えなければなりません」

「2年間...」

マリアは、深いため息をついた。

「2年間、この混乱が続く」

「いえ」

洋子が言った。

「6ヶ月後には、気候は安定し始めます。その後の18ヶ月は、復興と建設の期間です」

「しかし、その6ヶ月の間に、どれだけの人が死ぬんでしょうか」

浩は、答えなかった。

洋子も、答えなかった。

彼らは、その数字を計算していた。

しかし、口に出すことはできなかった。

マリアは、立ち上がった。

「わかりました。各国政府に、プロジェクト・アセンションの承認を求めます」

「しかし、反対する国もあるでしょう」

「説得します。何としても」

マリアは、決意を固めた。

「この2年間を、無駄にしてはいけません。197万人の犠牲――」

彼女は、言葉を訂正した。

「いえ、今は20万人を超えています。そして、最終的には...」

「100万人を超えるかもしれません」

浩が、静かに言った。

マリアは、拳を握りしめた。

「その犠牲を、無駄にしてはいけません」

窓の外では、雨が降り続けていた。

氷の雨。そして美しい。

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