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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第11章-並列化
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61/61

第11-1話 第一基、動く

時刻: 4月15日 午前8時00分

場所: 太平洋上の人工島、中央管制室

昨日、第一回射出が成功した。

今日は2回目が行われた。

3回目も予定されていた。

管制室の画面には、前日に射出した氷塊の軌跡が表示されていた。

月に向かって進んでいる。

現在位置、地球から140,000キロメートル。

速度、秒速2.4キロメートル。

正常軌道からの逸脱はゼロ。

軌道修正は不要だった。

「正常軌道を維持しています」

オペレーターが報告した。

「月周回軌道到達まで、あと2日」

浩は頷いた。

「続けてくれ」

「はい」

2回目の射出が行われた。

3回目も。

4回目は昼前の予定だった。

1日10回、1回あたり2,500トン。

合計2万5,000トン。

静かに、繰り返される作業。

世界の注目は昨日ほどではなかった。

当然だ。最初の1回が最もニュースになる。

2回目からは、日常になっていく。

日常になることが、大切だと私は思った。

第一回射出の映像は昨夜も各国メディアで繰り返し流れていた。

画面の中でケーブルを駆け上がっていく氷塊が、同じ角度から何度も放送された。

しかし管制室のオペレーターたちは今朝、いつもと変わらない表情で席に着いた。

チェックリストを確認し、モニターのパラメータを確認し、次の射出準備を進めた。

浩も洋子も、開口一番に昨日の話をしなかった。

データを見て、報告を受けて、次の指示を出した。

昨日との連続性を意識している様子は、どこにもなかった。

これが正しい在り方だ、と私は思った。

歓声の翌日に作業が静かに継続されること。

その当然を記録しておく価値がある。

管制室の外では、太平洋の朝が静かに明けていた。

波の音は建物の中まで届かない。

私はその場の隅に座った。

手帳を開いた。4月15日、と書いた。


時刻: 4月15日 午後2時00分

場所: 洋子の研究室

1週間の稼働データが揃う前に、洋子は動いていた。

初回射出から24時間が過ぎた段階で、暫定値をもとに計算を始めていた。

私がその場にいたのは偶然だった。

報告書を届けに来て、そのまま呼び止められた。

「現在のペースでの海面変化を試算しました」

スクリーンに数値が並んだ。

「第一基単独で、1日10回射出、射出量は約2万5000トンです」

浩が数値を見た。「それで?」

「第一基だけでは、一年間射出しても海面変化は計測できません」

洋子はスクリーンから目を離さずに続けた。

「地球の海洋全体の質量に対しては誤差の範囲です。変化は起きていても、観測できない。しかし、12基が同時稼働すれば、年間の実効射出量は58億トンになる。その規模になれば、計算が変わります」

「どう変わる?」

「1年で5センチメートル程度の海面低下が、観測可能なレベルで生じます」

浩は数値を見た。

「5センチ」

「現状の海面を基準に、年間約5センチずつ下げていく計算です。海面を元に戻すことは、人間の時間スケールでは現実的ではありません。それは3月に確認したことです。しかしこれ以上の上昇を止め、少しずつ下げることはできる。12基フル稼働から約2年で、明確な海面低下傾向が観測されると予測します」

「安定から低下への転換点が、フル稼働から2年後か」

「ええ。その前に、まず海面の安定化が来ます。上昇が止まる。それだけでも、世界は変わります」

浩はしばらく数値を見ていた。

「3月の計算と整合はとれているか」

「はい。角運動量の影響も織り込み済みです。第一基単独での自転速度変化は0.4マイクロ秒/年。12基同時稼働で4.8マイクロ秒/年。現時点では許容範囲内です」

「よし。12基のスケジュールは今週の会議で確認する。計算は続けてくれ」

「はい」

私はこのやり取りを記録していた。

昨日の式典の感動は本物だった。

しかし今日の数字も本物だ。

喜ぶための成功と、仕事として続けるための成功は、並んで存在する。

どちらかがどちらかを否定しない。

ただ性質が違う。

記録者として、その両方を書く。

浩が部屋を出た後、洋子はスクリーンに向き直った。

私にはまだ用があったので、しばらく黙って同じ部屋にいた。

洋子は何かを呟いていた。

声は聞こえなかった。

唇が少し動いていた。

数字を繰り返しているように見えた。

5センチという数字か、それとも別の数字か。

「まだいましたか」

洋子が気づいて言った。

「すみません」

「いいえ」

それだけだった。

洋子はまた画面に向き直った。

私も書き物を続けた。

研究室は静かだった。

外のエレベーター機構から微かな機械音が聞こえていた。

管制室の喧騒から離れた、

こういう場所で洋子は計算をする。

2年間でそれが分かっていた。


時刻: 4月17日 午前6時15分

場所: 中央管制室

「月面の『静かの海』レシーバーから入電しました」

オペレーターの声に、浩が顔を上げた。

「第一塊、および第二、第三塊の着弾を確認。誤差は半径50メートル以内。月面の重力下では、文字通りの水資源です。現地からは、脱塩処理が必要になるが、生活用水の不安が解消されたと、歓喜に近い報告が届いています」

オペレーターは手元の資料に目を落としながら補足した。

「課題もセットです。大規模な脱塩プラントの建設が急務になります。分離された膨大な塩を月面でどう処理するか。堆積させておくのか、工業利用に回すのか。射出するたびに、地球側は月面に新しい物理的な問題も送り届けることになります」

浩は画面を見た。

洋子が隣に立っていた。

「海水には約2.7パーセントの塩分が含まれています。1回の射出2,500トンに対して、約68トンの塩が月面に届く計算になります」

「1日10回なら680トン。年間では」

「約25万トンの塩が月面に積み上がります。月面の塩は将来的には建材として使えます。ただ、処理施設が整うまでの間をどうするか。送り届けた水の問題を解くと、塩の問題が現れる」

「次の課題が常にある」

「それが、システムというものだと思います」

私はこのやり取りを書いた。

地球から宇宙に水を送る。

その水に、地球の記録が混じっていた。

海水の塩は、地球46億年の記憶だ。

それが月面の新たな地層として積もっていく。


時刻: 4月20日 午前10時00分

場所: 中央管制室、全体会議

「12基建設計画の詳細を確認します」

マリアがオンラインで会議を進行した。

「第一基の完成式典でも公表した通り、残りの11基をあと4ヶ月で完成させます。第一基の建設に18ヶ月かかりました。しかし、その経験と技術の蓄積が今回の加速を可能にします。この方針に変更はありません」

技術部門長が補足した。

「ステラーカーボンIIの製造設備は既に13拠点に設置済みです。建設マニュアルの標準化も完了しました。AIアトラスのアルゴリズムは第一基の18ヶ月分の実績データを全て織り込んで更新してあります」

「人員配置は?」

「各拠点に3万5,000人から5万人。合計約50万人を見込んでいます。第一基から精鋭を12基に分散させつつ、新規参加者も受け入れます。ただし、各拠点の環境は異なります。海上拠点、陸上拠点、地震多発地帯——それぞれに対応した建設方法が必要です」

「スケジュールのバッファは?」

「2週間です」

会議室に短い沈黙があった。

「十分か?」

「十分にはなりません。しかし、2週間を適切に使えば吸収できます。AIアトラスの予測精度が大きく向上しているため、トラブルの事前検知が第一基の時より早くなっています。問題が小さいうちに対処できる」

浩が手を挙げた。

「一つ確認があります」

「何でしょうか?」

「今、第一基の稼働管理もある。12基の建設指揮も同時にやる。俺と洋子さんだけでは、物理的に対応しきれない局面が必ず来る」

会議室に静寂があった。

「各拠点に現場統括責任者を置きます」

洋子が言った。

「第一基で経験を積んだリーダーたちが各拠点に散ります。浩さんと私は全拠点を統括する立場に移ります。現場の日常判断は各統括責任者が行い、判断できない問題だけが私たちに上がってくる構造にします」

「それで対応できるか?」

「AIアトラスが12拠点の情報をリアルタイムで統合します。私たちは判断するだけで良い。ただし——」

洋子は少し止まった。

「24時間対応になります」

「覚悟の上です」

と浩が言った。

「分かった。では、もう一つ。人員がまだ不足している。50万人は現状確保できる人数の上限に近い」

「地球信仰側から、人員提供の拡大要請があります」

マリアが言った。

会議に間があった。

拡大の詳細は、と誰かが聞いた。

マリアは「午後に確認します。

詳細は来週の会議で共有します」

と答えた。

議事が次に移った。

私は記録していた。

50万人、12拠点、4ヶ月。

数字は積み上がっていた。

第一基に18ヶ月かかったという事実と、残り4ヶ月という目標の間の距離を、誰も声に出して問題にしなかった。

それは楽観ではなかった。

1ヶ所で積み上げたことを11ヶ所に反映させてやる、という確信が、この会議室の技術者たちには共通してあった。

私にはその確信の根拠が分からなかった。

だが、それが嘘ではないことは分かった。

会議が終わった後、浩が洋子に言った。

「昼を食べているか」と。

洋子は少し間を置いて、「今日は食べていない」と答えた。

「食べてきてください」と浩が言った。

洋子は頷いて出た。

私はその場に残って、メモを整理した。


時刻: 4月20日 午後3時00分

場所: マリアのオフィス(オンライン)

会議後、マリアから連絡が来た。浩と私が同席した。

「イブラヒム・アル=ファディルから連絡がありました。今回は、規模の拡大と、対象分野の拡充についての申し出です」

昨年6月にイブラヒムが人工島を訪れ、地球信仰の信者200万人をプロジェクトの労働力として提供する合意が成立した。

当初は100名から始まり、段階的な審査を経て参加者は増え続けていた。

建設現場での実績は、この10ヶ月間、問題なく積み上がっていた。

「具体的には何ですか」

浩が聞いた。

「まず、参加人数を500万人に拡大したいと。今の体制が機能しているので、さらに広げたいと言っています」

「もう一点は?」

「建設現場への労働力提供だけではなく、他の分野にも参加の範囲を広げたい、という申し出です」

マリアは資料に目を落とした。

「沿岸域の復興支援、避難民の定住支援、農業の再建、医療、教育。彼の言葉を借りれば、『地球の傷を癒すすべての仕事に、信者が関わりたい』ということです」

「信者の数は今どのくらいですか」

浩が聞いた。

「現在2億5,000万人です。第一基の完成式典を機にさらに増えています。参加を希望する信者が多くて、イブラヒム自身も割り振りに困っていると」

「建設に入れる人数は、もう上限に近づいているということか」

「そういう読み方もできます。それだけ組織として動く気力がある、という読み方もできます」

その時、マリアの端末が点滅した。

「少し待ってください」

マリアが文面を確認した。

表情は変わらなかった。

ただ、眉間に一度だけ力が入った。

「国連からの緊急電です。地球信仰の信奉者、推定500万人が主張する人工島への移住権について、国連が公式見解を求めています」

浩が画面越しにマリアを見た。

「聖地として、ですか」

「ええ。彼らはこの塔を信仰の拠点として要求しています。射出が日常になる一方で、それを聖なる行為だと捉えて物理的に近づこうとする層が出てきた。そして別の層は——」

マリアは少し止まった。

「それを冒涜だと呼んで、国連に申し立てをしています。技術が成功すればするほど、私たちの仕事は複雑になっていくようです」

「同じ信仰の中で、動きが分かれているということか」

「それとも全く別の動きかもしれない。今の段階では判断できない」

私はこのやり取りを記録していた。

10ヶ月前の200万人という数字が、500万人になった。

同時に、別の500万人が国連の議場にその名を出した。

協力の申し出と政治的な要求が、同じ数字を使って別の方向を向いていた。

「マリアさんはどう見ていますか」

私が聞いた。

「前向きに検討すべきだと思っています。ただ、分野が広がれば、IGDEの権限だけでは収まらない。各国政府、国連の人道支援機関、医療組織——調整が必要な組織が一気に増えます。そして今日届いた国連電のように、技術が成功すればするほど、政治的な調整の複雑さも増していく」

「時間がかかる」

「ええ。ただ、12基の建設が完成した後の復興フェーズを見据えれば、今から枠組みを作っておく価値はあります。むしろ、今作らなければ間に合わないかもしれない」

浩は少し考えた。

「500万人の審査体制は整えられますか」

「現行のプロトコルを拡張すれば、対応できます。ただ、一つ、直接聞かなければならないことがあります」

「残存過激派の動向ですか」

「ええ」

私が口を挟んだ形になった。マリアは頷いた。

「ザカリアは今は形を潜めています。しかし、分野が広がり、人数が増えれば、意図しないリスクが紛れ込む可能性も上がります。そして国連に圧力をかけている動きが、残存グループと関係しているかどうかも確認しなくてはならない。イブラヒムが残存グループの動向をどこまで把握しているかを、直接確認する必要があります」

浩が頷いた。

「必要な確認だ」

「では、今回は対面で会いましょう。オンラインではなく。日程を調整します」

「私も同席します」

「来てください。あなたの情報ネットワークが、その場で役に立つかもしれない」

画面が切れた後、浩がしばらく黙っていた。

私も黙っていた。

教育、医療、農業、復興支援。

建設現場とは異なる現場に、信者たちが入ることになる。

接触する人間の数が増え、管理の難度が上がる。

しかし12基が完成した後の世界を考えれば、それは避けられない段階だった。

タワーを建てることと、その後に続く世界を整えることは、別の仕事だ。

建設は終わっても、傷は残る。その傷に触れる手が必要になる。

「先輩」

浩が言った。

「何だ」

「200万人が500万人になる。分野が広がる。プロジェクトの性質が変わりますか」

「変わる」と私は答えた。「建設から復興へ。技術から生活へ。しかし、目標は同じだ」

浩は頷いた。

残存過激派という問いと、国連からの緊急電は、まだ答えのない問いのまま、その日の終わりまで残っていた。

私はそれを書き留めた。


時刻: 4月25日 午前8時00分

場所: 海面観測センター

10日間の稼働データが出た。

「海面変化は……まだ計測できません」

観測センター長が報告した。

「当然です。まだ10日間で25万トンしか射出していない。地球の海洋の総重量は約1.4×10の21乗グラムですから。計測可能な変化は生じません」

「では意味がない?」

浩が聞いた。

「そうは言っていません」

センター長が続けた。

「変化が観測できないことが確認できました。つまり、意図しない副作用もないということです。地球自転速度の変化も許容範囲内。第一基稼働による延びは0.4マイクロ秒/年で、計算値と一致しています。海流パターン、気圧配置、どこにも異常はありません。想定通りに何も起きていない。それが今日の報告です」

浩は頷いた。

「ありがとう。続けてください」

「はい。ただ、一つ付け加えると」

センター長は少し口調を変えた。

「1年で5センチなら、現在の観測精度を極限まで上げれば、数ヶ月後には統計的に有意な変化の兆しを検出できるかもしれません。気候のゆらぎに埋もれる程度の微差です。ただ、もしその兆しを数値として提示できれば、人々が120年という数字を見る時の感覚は変わるはずです。私は、希望を持って精密な観測を続けますよ」

センター長が退席した後、洋子が言った。

「おかしな報告ですよね」

「何が?」

「何も変化していません、という報告をするために来て、最後に希望を置いていった」

「そうだな」と浩が答えた。

「でも、それが正しい。今は変化しないことが正常だから。そして希望も、正常の中にある」

私はこのやり取りを手帳に書いた。

変化しないことが正常だ、という状態が続く。

それが今の正解だった。

12基が揃い、年間58億トンの射出が始まる時まで、この正常が積み重なる。

その正常の積み重ねがいつか別の数字になる。

5センチという数字が現実になるのはまだ先だ。

しかし今日の0は、その先につながっている。

「次の観測は1ヶ月後です」

センター長が扉の前で言った。

「その頃には、第二基から第三基の建設も進んでいますね」

「ええ」と洋子が答えた。「ぜひ経過を教えてください」

センター長は頷いて出た。

観測センターの窓から、海が見えた。

晴れていた。

波は穏やかで、どこも変わっていなかった。

変わっていないことが、今日の答えだった。

帰りの通路で、私は浩に聞いた。

「今日の報告、どう見ましたか」

「正しいと思う。変化がないことが確認できた。それで十分だ」

「センター長の最後の言葉は?」

浩は少し考えた。

「それも正しいと思う。希望と誠実さは、矛盾しない」

洋子はすでに先を歩いていた。次の計算を、頭の中で始めているように見えた。


時刻: 4月25日 夜

場所: 展望デッキ

夜、展望デッキで浩と話した。

「12基の建設に第一基の技術を乗せながら、第一基の運用も続ける。どうだろう?」

私への問いではなかった。独り言に近かった。

「忙しくなるな」

「それは分かっている。先輩に聞きたいのは、そういうことじゃない」

私は少し考えた。「何を聞きたい?」

「俺たちは、正しい方向に進んでいるか」

それは問いというより、確認だった。

「ああ」

私は答えた。

「海面は大きくは下がらないかもしれない。でも、これ以上は上がらない。月に水が届く。そして、12本の塔が赤道を取り巻く。十分だ」

浩は頷いた。

ケーブルが夜空に白く見えた。

太平洋の夜はよく晴れていた。

雲がなく、星が多かった。ケーブルが光を受けて細く輝いていた。

120,000キロメートル。

月軌道付近まで伸びる白い線が、今夜も静かにそこにあった。

「イブラヒムに会おう」

浩が言った。

「ええ」

それで決まった。

浩が何も言わず先に戻っていった。

私はしばらくデッキに残った。ケーブルを見ていた。

今日も2万5,000トンが宇宙に向かった。

明日も同じことが行われる。繰り返しが、変化を作る。

それだけのことだ。しかしその「だけ」が、何かを決めていた。

私は手帳を閉じた。

数字としての成功は、もう記録した。

しかし、数字の先にあるもの——月面で塩の山を前にする整備士や、国連の議場で声を荒げる各国代表、そして空を見上げて祈る500万人の生活。

それらがこの射出によってどう変わるのか、あるいは変わらないのか。私はまだそれを見ていない。

私は、それらもこれから記録していくことになる。

この塔が作る、新しい世界の断片を。

松田が夜勤でどこかの通路にいるだろう、と私は思った。

式典の映像を見て泣いていた家族がいる、という話を聞いたのは先月だった。

今も家族に会えていないかどうかは知らない。

それを書けるかどうかは、まだ分からない。

分からないまま、デッキを後にした。

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