第2-1話 海面上昇
時刻: 12月21日 午前6時00分
場所: 太平洋、ツバル諸島フナフティ環礁
南太平洋の小さな島国、ツバル。
国土の最高標高はわずか4.5メートル。
人口約1万1千人のこの国は、地球温暖化による海面上昇で、常に存亡の危機にさらされてきた。
しかし今朝、首都フナフティの海岸線を見た住民たちは、これまでとは比較にならない異変に気づいた。
「海が...近い」
環礁の住民、テパナ・ロティは、自宅の窓から海を見た。
彼は毎朝この窓から海を眺めるのが習慣だった。
波の音、潮の香り、地平線に昇る太陽。
それらは彼の人生の一部だった。
通常、海岸線まで約50メートルあるはずだった。
しかし今朝、その距離は約30メートルまで縮まっていた。
いや、縮まっているというより、海が迫ってきている。
彼は目を疑った。
昨日まで見えていた砂浜の目印――白く塗られた流木、子供たちが積み上げた石の山――それらが水没している。
テパナは、急いで海岸に向かった。
裸足のまま、砂の上を走った。
砂浜が、明らかに狭くなっている。
通常は干潮時でも露出している珊瑚礁の一部が、完全に水没していた。
波が、いつもより高い位置で打ち寄せている。
「これは...どういうことだ」
彼の声は震えていた。
テパナは62歳。この島で生まれ、この島で育った。
海のことなら誰よりも知っている。
だが、こんなことは見たことがなかった。
テパナは、海洋観測所に駆け込んだ。
観測所の職員、マラマ・タウィは、潮位計のデータを凝視していた。
彼女の顔は青ざめていた。
「信じられない...」
マラマは呟いた。
「過去72時間で、海面がおおよそ60センチメートル上昇しています」
「60センチ...?」テパナは息を呑んだ。「3日で?」
「ええ。しかも、上昇は加速しています」
マラマは、別のグラフを表示した。上昇速度を示す曲線が、急激に立ち上がっている。
「現在のペースだと、1日あたりおおよそ30センチメートル」
「1日で、30センチ...」
テパナとマラマは、互いを見つめた。二人とも、同じことを考えていた。
このペースが続けば、ツバルは数週間で水没する。
完全に。永遠に。
時刻: 12月21日 正午(各地の現地時刻)
場所: 世界各地
ツバルだけではなかった。
世界中の沿岸都市で、同様の異変が報告され始めていた。
ニューヨーク、マンハッタン
ハドソン川の水位が、記録的な高さに達していた。
通常、満潮時でも川岸から1メートル以上の余裕がある。
厚いコンクリートの護岸が、川と街を隔てている。
しかし今朝、水位は護岸のわずか30センチメートル下まで迫っていた。
マンハッタン下部、バッテリーパーク付近では、一部の低地が既に冠水し始めている。
普段は観光客で賑わう遊歩道に、川の水が溢れ出していた。
ニューヨーク市水管理局の職員、ジェームズ・コールマンは、モニターに表示されるリアルタイムデータを確認していた。
画面には、市内各所に設置された水位センサーからの情報が、刻一刻と更新されている。
「これは...おかしい」
彼は、過去72時間のデータをグラフ化した。
水位を示す青い線が、ほぼ垂直に立ち上がっている。
「過去72時間で、ハドソン川の平均水位がおおよそ50センチメートル上昇している」
ジェームズは、同僚のサラ・チェンを呼んだ。
「サラ、このデータを見てくれ。間違いないか確認してほしい」
サラは、黙ってグラフを見つめていた。
一分。二分。
彼女は何も言わない。
「……サラ?」
呼びかけて、ジェームズは気づいた。
彼女の指が、無意識に机を叩いている。
一定のリズムで。意味もなく。
「間違いありません」
ようやくサラは言った。
「でも……理由が、分からない」
理由が分からない、という言葉がジェームズの胸に奇妙な重さで残った。
ジェームズは、市長室に緊急報告を送信した。
件名には、赤い文字で「URGENT」と記されていた。
東京、荒川
荒川の水位観測所。早朝の薄明かりの中、観測員の佐藤健一は、水位計のグラフを何度も確認していた。
「間違いない...水位が異常上昇している」
佐藤は、この観測所で15年間働いてきた。台風、豪雨、高潮。あらゆる気象条件下での水位変動を見てきた。
しかし、これは違う。
過去72時間で、荒川の水位はおおよそ55センチメートル上昇していた。
これは、通常の年間変動幅を大きく超える値だった。
さらに問題なのは、上昇速度が加速していることだった。
佐藤は、時系列データを詳細に分析した。
「最初の24時間はおおよそ15センチ。次の24時間はおおよそ20センチ。そして直近の24時間は...おおよそ20センチ」
彼は、パターンを探した。しかし、降雨量、上流のダム放流量、潮位。どの要因とも相関していない。
これは、外部からの水の流入だ。海からの。
佐藤は、国土交通省に緊急報告を送った。電話の向こうで、担当官の声が緊張していた。
「佐藤さん、予測はできますか?このペースが続くと?」
「はい。このペースが続けば、72時間以内に警戒水位に達します。そして1週間以内に...堤防を越える可能性があります」
電話の向こうが、沈黙した。
バングラデシュ、ダッカ
ガンジス・ブラマプトラ川デルタ地帯。
海抜わずか数メートルのこの地域は、世界で最も水害に脆弱な場所の一つだった。
1億6000万人が暮らすこの国の大部分は、海面からわずか10メートル以下の高さにある。
気象局の主任、ラフマン・アリは、全国の観測所からのデータを統合していた。
彼のオフィスは、古いビルの3階にあった。窓からは、ダッカの街並みが見える。
密集した建物、混雑した道路、そして遠くに見える川。
「全観測点で、水位の異常上昇を確認...」
ラフマンは、デジタル地図上に、各観測所のデータをプロットしていった。赤い点が、次々と地図を埋めていく。
「平均でおおよそ60センチメートル」
彼は、さらに詳細な分析を行った。
驚くべきことに、内陸部の観測所でも水位上昇が記録されている。
「内陸部でも、河川水位が上昇している。これは...海面上昇の影響が、既に内陸まで及んでいる」
バングラデシュの河川システムは、複雑に入り組んでいる。ガンジス川、ブラマプトラ川、メグナ川。
それらは無数の支流と水路で結ばれている。
海面が上昇すれば、その影響は河川を遡り、内陸深くまで達する。
ラフマンは、浸水予測モデルを実行した。画面上の地図が、徐々に青く塗りつぶされていく。
彼は、政府に緊急提言を送った。
「国土の低地部、約15%が、今後1週間以内に浸水する可能性があります。影響人口は...約2000万人」
送信ボタンを押した後、ラフマンは窓の外を見た。
いつもと変わらない、ダッカの朝の風景。
しかし、その風景が、まもなく失われるかもしれない。
オランダ、アムステルダム
国土の26%が海抜ゼロメートル以下のオランダ。
「神は世界を創造したが、オランダ人はオランダを創造した」という諺があるほど、この国は水との戦いの歴史だった。
しかし、高度な治水技術により、これまで洪水を防いできた。
数百年かけて築き上げた堤防、運河、排水システム。
それらは、オランダの誇りだった。
しかし今、その技術が試されていた。
水管理局のディレクター、ヤン・デフリースは、全国の排水ポンプのデータを確認していた。
大型スクリーンには、オランダ全土の水管理システムがリアルタイムで表示されている。
「全ポンプがフル稼働...それでも、運河の水位が上昇し続けています」
通常、オランダの排水システムは余裕を持って設計されている。
最大想定降雨量の150%にも耐えられる能力がある。しかし今、そのシステムが限界に近づいていた。
ヤンは、エンジニアのピーター・ファン・デル・メールに尋ねた。
「ピーター、ポンプの能力をさらに上げられないか?」
「無理です、ディレクター。既に定格の110%で稼働しています。これ以上は、機械が壊れます」
オランダの治水システムは、海面が一定の範囲内にあることを前提に設計されていた。
しかし、海面が継続的に上昇すれば、システムの能力を超える。
水を排出する先である海が、上がってしまえば、もはや排水できない。
「現在の海面上昇ペースだと...72時間以内に、一部地域で排水能力を超えます」
ヤンは、首相官邸に緊急報告を送った。
世界各地から、同様の報告が続々と寄せられていた。
太平洋の島嶼国、アジアのデルタ地帯、北米の沿岸都市、ヨーロッパの低地国。
海面上昇は、もはや一部地域の問題ではなかった。
地球規模の危機が、始まっていた。
時刻: 12月21日 午後3時00分(東部時間)
場所: 国連本部、IGDE危機管理センター
国連本部の地下に設置されたIGDE危機管理センター。
大型スクリーンには、世界地図が表示され、各地の海面上昇データがリアルタイムで更新されている。
赤い点が、世界中の沿岸部に散らばっている。それぞれが、異常な水位上昇を示している。
浩と洋子は、マリアとともにこのセンターにいた。
二人は72時間、ほとんど眠っていなかった。
浩の目には充血が見え、洋子の髪は乱れていた。しかし、二人の目は鋭く、集中力は失われていなかった。
「現在の海面上昇は、平均でおおよそ55センチメートル」
海洋学者のアイーシャ・ナシルが報告する。彼女はエジプト出身で、ナイル川デルタの水位変動を専門としていた。
今、彼女の故郷も、危機に瀕している。
「しかし、上昇速度が加速しています」
アイーシャは、グラフを拡大表示した。
青い曲線が、急激に立ち上がっている。
「最初の24時間は1日15センチのペースでしたが、現在は1日おおよそ30センチのペースです」
マリアが尋ねた。彼女の声は、疲労の色を帯びていた。
しかし、決意は揺らいでいない。
「このペースが続くと?」
浩が、量子コンピュータで計算した結果を表示した。
彼の指が、キーボードの上を素早く動く。
数秒後、新しいシミュレーション結果が画面に現れた。
「21日間の降雨期間で...最終的な海面上昇は7.2メートルに達します」
センター内に、重い沈黙が広がった。
「7.2メートル...当初の予測より高い」マリアが呟いた。
「はい。氷塊の密度が、当初の推定より高かったためです」
洋子が、詳細データを提示した。
彼女は、NASAジェット推進研究所(JPL)からの最新分析結果をまとめていた。
「JPLの追加分析によれば、氷塊の平均密度は0.92グラム/立方センチメートル。通常の彗星氷――大体0.6から0.7程度――より約40%高密度です」
「それは...より多くの質量が地球に降り注いでいるということですね」
アイーシャが、計算機を叩いた。
「その通りです。当初想定していた水量の約1.5倍になります」
浩は、次のシミュレーション結果を表示した。
世界地図が、徐々に青く塗りつぶされていく。
陸地が、海に飲み込まれていく様子が、視覚化されている。
「7.2メートルの海面上昇の場合...」
「15ヤード...」マリアが小さく呟いた。
その呟きは、ほとんど聞き取れないほど小さかった。しかし、洋子の耳には届いた。
(彼女は南米の出身よね?)
洋子は、どうでもいいことを思った。マリアがメートル法ではなく、なぜヤード・ポンド法で距離を思考したのだろう。
なぜかそんな些細なことに気を取られた。
洋子は、そんな思考で言葉が少し止まったが、続けてリストを読み上げた。
水没する主要都市(部分的または完全):
•ニューヨーク: マンハッタン島の90%
•東京: 山手線内側全域、東京湾岸全域
•ロンドン: テムズ川流域ほぼ全域
•上海: 市街地の95%
•バンコク: 都市全域
•ムンバイ: 沿岸部全域
•マイアミ: 完全水没
•アムステルダム: 市街地の70%
•シンガポール: 島の40%
•香港: 九龍半島の大部分
浩が、統計データを追加した。
「水没する陸地面積: 全陸地の約14.2%」
「影響を受ける人口: 30億人以上」
「30億...」
センター内が、重い沈黙に包まれた。
30億という数字は、あまりに大きすぎて、実感が湧かない。
しかし、それは統計ではない。
一人一人の人生、家族、仕事、思い出。
それらすべてが、危機に瀕している。
洋子が、別のデータを表示した。彼女の指が震えていた。
わずかに、しかし確実に。
「さらに問題があります。主要な穀倉地帯も影響を受けます」
地図が切り替わる。今度は、農業生産地域が赤く表示されている。
「ガンジス川デルタ――インド、バングラデシュ。メコン川デルタ――ベトナム。ナイル川デルタ――エジプト」
洋子は、一つ一つの地域を指し示した。
「これらの地域は世界の米生産の約35%を占めています」
「それらが...」マリアの声が詰まった。
「水没します」
浩が、冷静に答えた。しかし、彼の拳が、わずかに握りしめられていた。
「最悪の場合、世界の食糧生産能力が30%減少します」
洋子が付け加えた。
「尤も私は農業生産の専門家ではないので...この数字には不確実性があります」
彼女の声は、わずかに歯切れが悪かった。
マリアは、深く息を吸い込んだ。彼女は、窓の外を見た。
ニューヨークの街並みが広がっている。
高層ビル、道路、人々。すべてが、いつもと変わらぬ日常を営んでいる。
しかし、その日常は、まもなく終わるかもしれない。
「避難計画は?」
マリアは、次の問題に取り組むことにした。立ち止まっている時間はない。
時刻: 午後6時00分
場所: 同上
緊急避難計画の策定会議が開催された。
各国の代表、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際赤十字、そしてIGDEの科学者たちが参加している。
会議室は、緊張した空気に満ちていた。
UNHCR代表、フィリッポ・グランディが報告する。
彼は60代後半、イタリア出身で、長年にわたり難民問題に取り組んできた。
しかし、今回の規模は、彼のキャリアの中でも前例がない。
「影響を受ける人口、30億人。そのうち、実際に避難が必要な人口は...推定15億人です」
「15億...」
誰かが、息を呑んだ。
「はい。史上最大規模の避難です。しかし、受け入れ先が...」
グランディは、地図を表示した。
内陸部の都市、高地の地域が、緑色で示されている。
しかし、その数は少ない。
「内陸部の都市、高地の地域。しかし、既存のインフラでは、15億人を受け入れることは不可能です」
各国代表が、次々と発言する。
アメリカ代表――中年の女性、国務次官補――が立ち上がった。
「もう無理だ、うちの国は!国内の避難民で手一杯なんだよ!マイアミだけで100万人だ。ニューオーリンズ、ボストン、全部合わせたら500万人を超える!」
彼女の声は、怒りと疲労に満ちていた。
インド代表――初老の男性、外務省高官――が応じた。
「ふざけるな!お前らの500万人がどうした?バングラデシュからの難民が2000万人来たらどうする?我が国だって限界がある!」
ヨーロッパ連合代表が、テーブルを叩いた。
「誰が2000万人も受け入れられる!住む場所がない、食糧がない、水もない!全部足りないんだ!」
議論は紛糾した。
マリアは、各国代表の言葉を黙って聞いていた。しかし、彼女の内側では、怒りが渦巻いていた。
(私がこの状況に一番怒りたいのに)
彼女は、拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込んだ。
(誰が纏めると思っている!)
彼女は、深呼吸をした。一度、二度、三度。怒りを押さえ込む。今、感情を爆発させても、何も解決しない。
そんな中、浩が発言を求めた。
「時間はどれくらいありますか?」
マリアの怒りが、さらに高まった。
(勝手に話を進めるな!場が収まってからにしろ!)
彼女は、浩を睨んだ。しかし、浩はマリアの視線に気づいていないようだった。そして、グランディも、マリアの怒りの気配など全く感じ取らず、答え始めた。
「海面上昇のペースから逆算すると...」
グランディは、自分のタブレットでデータを確認した。
「主要都市での大規模浸水は、早ければ1週間後に始まります。避難は、それまでに完了させる必要があります」
「1週間で15億人...」
洋子が呟いた。
彼女のマイクは、たまたまオンになっていた。
その呟きが、スピーカーから会議室全体に響いた。
一瞬、会議室が静まり返った。
そして、再び怒号が飛び交い始めた。
「そんなの無理に決まってる!」
オーストラリア代表が叫んだ。
「物理的に不可能だ!1週間で15億人だと?飛行機が何機あっても足りない!船も、バスも、列車も!全部合わせても無理なんだよ!」
中国代表が、冷ややかに言った。
「できるわけがないだろう。我が国だけで3億人の国内移動が必要だ。他国の面倒を見る余裕などない」
会議室は、完全な混乱状態に陥った。
マリアが、議論を制止した。
「静粛に!」
彼女の声が、会議室に響いた。
洋子は、心の中で呟いた。
(迂闊なことをしてしまった)
自分のマイクがオンになっていたことに、今更気づいた。
あの呟きが、混乱を加速させてしまったかもしれない。
しかし・・・洋子は考えた。
(最近甘いものを食べていなかったし)
そう、それが原因だ。
血糖値が下がって、注意力が散漫になっていた。
だから、マイクの確認を怠ったのだ。
そういうことにしよう。
洋子は自分で自分を納得させた。
あとはマリアがうまくやるだろう。
多分。カフェテリアのケーキは何が残っているだろう・・・
マリアの声が、再び響いた。
「静粛に!」
しかし、怒号は止まらない。
マリアは、テーブルを強く叩いた。
「静粛に!」
声が裏返った。
自分でも驚くほどだった。
会議室が、静まった。
誰もがマリアを見ている。
マリアは、一瞬だけ言葉を失った。
何を言うつもりだったのか、分からなくなった。
――時間がない。
その思考だけが、はっきりと浮かんだ。
「段階的な避難計画を立てます」
彼女は、早口で言った。
「最優先地域を特定してください。十五分以内に」
「最優先地域を特定してください。海抜5メートル以下の地域、人口密集地、インフラが脆弱な地域。リストアップして、15分以内に報告を」
「了解しました」
スタッフが、急いでデータを入力していく。
マリアは、各国代表に向き直った。
「各国の皆様。私たちは、今、人類史上最大の危機に直面しています。しかし、諦めるわけにはいきません」
彼女は、一呼吸置いた。
「私は、皆様に協力を求めます。しかし、強制はできません。それぞれの国が、それぞれの判断で動いてください。ただし...」
マリアは、厳しい表情で続けた。
「この会議の内容は、全て記録されています。後世の人々が、私たちの行動を評価するでしょう。その時、あなた方は、自分の選択を誇れますか?」
会議室が、再び静まり返った。
数分後、スタッフが報告を持ってきた。
マリアは、優先避難地域のリストを表示した。
Phase 1(最優先、48時間以内):
•ツバル、キリバス、マーシャル諸島(太平洋島嶼国) - 標高5m以下の全域
•モルディブ(インド洋) - 国土の80%
•バングラデシュ沿岸部 - 標高3m以下の地域
•オランダ海抜ゼロメートル地域
•マイアミ、ニューオーリンズ(アメリカ) - 沿岸低地
影響人口: 約8000万人
Phase 2(優先、1週間以内):
•ニューヨーク、ボストン沿岸部
•東京湾岸、大阪湾岸
•上海、香港、シンガポール
•ムンバイ、カルカッタ
•ロンドン、アムステルダム
影響人口: 約3億人
Phase 3(2週間以内):
•その他の沿岸都市
•河川流域の低地
影響人口: 約12億人
「これでも...間に合うかどうか」
グランディが、疲れた声で言った。
マリアは、答えなかった。彼女も、わからなかった。
しかし、やるしかない。
時刻: 12月22日 午前3時00分
場所: バングラデシュ、ダッカ
最初の大規模浸水が発生した。
ガンジス川とブラマプトラ川が、ほぼ同時に氾濫。
デルタ地帯の低地が、急速に水没していった。
ダッカの南部、海抜2メートル以下の地域。
人口約200万人が居住するこの地域に、川の水が流れ込んだ。
住民たちは、深夜に避難を開始した。
しかし、道路も冠水し、移動は困難だった。
「早く!高台に!」
人々は、わずかな荷物を抱えて走った。
しかし、水はすぐに膝まで達し、次いで腰まで達した。
多くの人が、屋根に避難した。しかし、水は止まらない。
「助けて!」
悲鳴が、暗闇の中に響いた。
時刻: 午前6時00分 場所: IGDE危機管理センター
バングラデシュからの緊急報告が入った。
「ダッカ南部で大規模浸水。推定200万人が孤立状態」
マリアが、即座に対応を指示した。
「国連平和維持軍に救援要請。ヘリコプター、ボートを総動員してください」
「しかし、他の地域でも同様の事態が...」
「わかっています。優先順位をつけて、できる限りの救援を」
その時、浩と洋子のもとに、複数の専門家たちが集まってきた。
気候学者、水文学者、土木工学者。
彼らは、それぞれの専門分野から浸水予測を行っていた。
しかし、各自のシミュレーションには、不確実性があった。
「量子コンピュータのシミュレーション環境を使わせてもらえないでしょうか?」
気候学者のデイビッド・チャンが、浩に尋ねた。
「私たちの予測モデルを統合すれば、より精度の高い予測ができるはずです」
浩は、洋子と目を合わせた。二人は、一瞬で理解した。
「もちろんです」浩が答えた。「環境を再構築しましょう」
次の数時間、浩と洋子は、量子コンピュータのシミュレーション環境を拡張した。
複数の専門家が同時にアクセスできるよう、インターフェースを構築し、データ形式を統一し、計算リソースを最適化した。
午前10時、新しいシミュレーション環境が完成した。
専門家たちが、それぞれのモデルを投入し始めた。気候モデル、水文モデル、地形モデル。それらが、量子コンピュータの中で統合されていく。
浩は、その様子を見ながら、小さく笑みを浮かべた。
(これは今後のシミュレーションの不確定要素を減らせる)
彼らは、環境を提供しただけだった。
実際のシミュレーションは、他の専門家たちが行っている。
しかし、環境を提供したことで、自分たちもそれが使えることになる。
予期せぬ副産物、嬉しい誤算だった。
浩は、洋子に小さく頷いた。だが、洋子は何故か戸惑っているようだった。
午後1時、統合シミュレーションの結果が出た。
「バングラデシュだけではありません」
気候学者のデイビッドが、結果を報告した。
浩は、その言葉を横取りする形で説明を続けた。
「今後48時間以内に、同様の浸水が世界各地で発生します」
画面に、予測される浸水地域が赤く表示される。
ベトナム、メコンデルタ。エジプト、ナイルデルタ。オランダ、アムステルダム周辺。タイ、バンコク。
「我々は...間に合わないかもしれません」
洋子が小さく呟いた。
しかし浩は、彼女の肩に手を置いた。
「諦めるわけにはいきません」
時刻: 12月23日 午後6時00分
場所: 同上
氷雨開始から6日間が経過した。
海面上昇は、累計1.2メートルに達していた。
世界各地で、浸水被害が拡大している。
バングラデシュ: 国土の18%が浸水、800万人が避難
オランダ: アムステルダム市街地の一部が冠水、50万人が避難
マイアミ: 沿岸部が完全水没、全市民100万人が避難命令
東京: 荒川が氾濫危機、100万人に避難勧告
そして、最初の死者数の報告が届き始めていた。
バングラデシュ: 推定3000人
ベトナム: 推定1200人
タイ: 推定800人
その他地域: 推定2000人
総死者数: 約7000人
IGDE危機管理センターの大型スクリーンに、その数字が表示された。
誰も声を出さなかった。
マリアは、ふと端のモニターに目を向けた。
現地映像の一つが、無音で流れている。
冠水した道路。
倒れた自転車。
水の中に、赤いサンダルが一足浮かんでいた。
子供用だ、と彼女は思った。
なぜそう思ったのかは、分からない。
7000という数字。しかし、それは単なる統計ではない。
一人一人の人生、家族、夢。それらが失われたことを意味していた。
マリアは、その数字を見つめていた。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私たちは...もっと早く動くべきでした」
浩が言った。
「マリアさん、あなたの責任ではありません。誰も、このような事態を予測できませんでした」
「でも、7000人もの命が...」
洋子が、静かに言った。
「マリアさん。私たちは、この犠牲を無駄にしてはいけません。プロジェクト・アセンションを成功させ、これ以上の犠牲を防ぐ。それが、私たちにできることです」
マリアは、二人の言葉を聞いた。
しかし、怒りが彼女の中で湧き上がった。正しいことを言っている。それは理解できる。正しいのに腹が立つ。
だが、マリアはその矛盾を飲み込んだ。
無理やり喉の奥に押し込んだ。
「あなたたちは正しい。泣いている暇はありません」
彼女は、二人に背を向けた。
マリアは、スタッフに指示を出し始めた。
「各国政府への緊急支援要請を強化してください。国連総会に、IGDE権限拡大の提案を提出します」
彼女の声は、いつもと変わらず冷静だった。
浩と洋子は、互いを見た。
二人とも、何も言わなかった。
窓の外では、ニューヨークにも雨が降り続けていた。
あと21日間で止む美しい氷の雨。
マリアは、窓の外を見た。雨に煙るニューヨークの街並み。
美しい街並み。そして、彼女は決意を新たにした。




