表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第10章-第一射出
PR
56/63

第10-2話 頂点の作業場

時刻: 2月20日 午前10時00分

場所: 高度120,000キロメートル、頂端作業区画

宇宙技術者・松田健一(38歳)は、作業区画の外壁に磁気ブーツで固定されていた。

高度120,000キロメートル。

ここは地球から最も遠い人工の作業場だった。

「立っている」という感覚ではない。重力がほぼゼロの環境では、立つという動詞が意味を変える。

磁力でケーブル構造体に張り付き、工具を使う。

それが、この高さでの「作業」の正確な記述だ。

眼下に、地球が浮かんでいた。

青い球体。

白い雲。昼と夜の境界線が、曲線として見える。

磁気ブーツで固定されているため、主観的にはこちらが「下」で、地球は「上」に張り付いているようにも見える。

だが、あまりにも遠い。

青い円盤は、暗黒の絨毯の上にうっかり落としてしまった1セント硬貨のように見えた。

こういう光景を「美しい」と言った同僚がいた。

松田には、そう思う余裕がない。

今、磁気ブーツのスイッチを切れば、自分は地球に「落ちる」のではない。

指先からこぼれ落ちた硬貨が闇に消えていくように、自分という存在がこの宇宙から「紛失」されるのだ。

重力という絆が極限まで引き伸ばされたこの場所では、「帰還」という言葉よりも「回収」という言葉の方が、物理的に正しく感じられた。

だから、そう思う習慣をつけないようにしている。

「松田、状況を報告してくれ」

浩の声が、通信機越しに届いた。

12万キロメートルを隔てているはずだが、信号の遅延はほぼない。

ステラーカーボンII自体を通信経路として使う制御システムが、この距離をほぼゼロに圧縮している。

「ユニット2の固定作業、70%完了。あと2時間で終わります。ボルトのトルク管理値、指定の1.5%増しで進めています。問題ありません」

「了解。ユニット3の準備は?」

「カプセルが5時間後に到着予定です」

「分かった。焦らずにやってくれ。ただし太陽活動に注意しろ。明後日から予報が悪い」

「了解しました」

通信が切れた。松田は作業に戻った。

今から固定するのは電磁加速装置のメインコイル結合部。

締め付けトルクは58.8ニュートンメートル——設計値に1.5%を上乗せした値だ。

式典の翌日、地上の会議で実測データを反映して更新された指示値で、昨日のブリーフィングで全班に共有された。

数字の意味は分かる。

しかし、12万キロ下の研究室でその数字を弾き出した人間たちが、どれほどの計算を積んでそこに至ったかは、松田には想像しかできない。

想像したところで工具の動かし方は変わらない。

だから余計なことは考えない。それがプロの仕事だ。

レンチを当てた。トルクレンチの指針が58.8を示した。

合っている。次のボルトへ。

ユニット2には固定ボルトが全部で48本ある。

現在、34本目。

あと14本。

温度センサーのコネクタ接続が7か所、電力ケーブルの結束が12か所。

それが終われば完了報告を地上に上げ、B班が最終確認に入る。

手順は全部頭に入っている。

余計なことを考えなければ、2時間で終わる。

宇宙服のヘルメット越し、地球が変わらずそこにあった。

故郷の街は高知にあった。

海面上昇で沿岸部が水没したので、家族は山側の避難施設にいる。

あそこに帰るために、ここにいて、この工具を動かしている。


時刻: 2月20日 午前10時00分(同時刻)

場所: 中央管制室

地上では、浩と洋子が頂端部の統括指揮を行っていた。

スクリーン15面が、各作業班のライブ映像を映し出している。

カメラ映像、工具の使用状況、コンポーネントの接続確認、各所の温度センサー、電力消費値。

全データがリアルタイムで流れてくる。

「ユニット2の固定ボルト、D班のトルク値を確認してください」

洋子が通信した。

「58.8ニュートンメートル。指定値の1.5%増しです」

「ありがとうございます。今朝のアズビルトで更新した接合部パラメータと照合してください。問題なければ次のボルトに進んでください」

「照合済みです。正常範囲です」

メインスクリーンに映る松田の映像は、光速の壁により、わずか0.4秒前の過去だ。

0.4秒。その僅かなタイムラグが、松田を「生きている人間」から「完成された映像」のように見せている。

彼は神話の巨人のように、星を背負って作業している。

50万人の意志を一本の糸にまとめ、その先端で孤独な針仕事をしている。

私たちがここで数値を読み上げ、コーヒーを飲み、議論している間も、彼は「人類の最先端エッジ」という鋭利な刃の上に立ち続けている。

私はシャッターを切るのを忘れ、モニターの中の、0.4秒前の死者かもしれない男を見つめ続けた。

この一瞬は、記録者であることを忘れ、ただ見つめてしまっていた。

浩は別のスクリーンを見ていた。

軌道データ。

微小デブリの接近予測。

太陽風強度。

「今日は太陽活動が穏やかだ。作業に適した窓だな」

「ええ。ただし明後日以降の予報が悪化しています。太陽フレアの発生確率が38%。ユニット3まで固定を終えたい」

「松田班に確認する」

浩はすでに通信を開いていた。

「松田、ユニット3の搬入タイミングを2時間前倒しできるか」

「地上側の準備が整えば対応できます」

「田中、カプセルの出発を前倒せるか」

「対応します。1時間以内に準備します」

「頼む」

私はそれを見ていた。

一人が言い終わる前に、もう一人の言葉が始まる。

浩が「松田班に確認する」と言いかけた時点で、洋子はすでに松田班のカメラ映像を拡大し、現在の作業進捗率を確認していた。

洋子が「フレアの発生確率が38%」と数字を出した瞬間、浩は残り日数とユニット固定所要時間を、声に出さずに計算していたはずだ。

なぜなら、洋子が数字を出し終えた0.5秒後に浩の「松田班に確認する」が来たからだ。

0.5秒で計算した、ということだ。あるいは、洋子が数字を出す前から、浩は計算を始めていたのかもしれない。

午前の4時間だけで、二人が処理した確認事項は180を超えた。

それを私は横で数えていた。

記録者としての習慣だ。数えながら、何かに気づきかけた。

「まるで……」という言葉が浮かんだ。

私は止めた。

記録者は事実を書く。

事実は「二人の指揮は滞りなく進んだ」だ。

それ以上の説明は書かない、という方針はこの場面でも変わらない。


時刻: 2月28日 午後3時00分

場所: 中央管制室

第9日目。

ユニット3の固定作業中に、現場から報告が入った。

「班長からです。接続部の寸法が設計値と0.3ミリ誤差が出ています」

田中がスクリーンから顔を上げた。「頂端部のB班です」

「0.3ミリ?」

洋子が即座に反応した。データを画面に引いた。

「宇宙環境での温度サイクルによる熱膨張です。地上シミュレーションでは膨張誤差を±0.1ミリの範囲で算出していましたが——」

「実際の宇宙空間では輻射熱と影の温度差が大きい」浩が続けた。

「昼夜サイクルで最大280度の差がある。それを地上シミュレーションが完全には再現できなかった」

「材料の膨張係数と温度変化の積が、想定を外れました。0.3ミリという誤差は、理論値から見れば3倍です」

「修正できますか」

「現場の工具では対応できません。接続部を削り直す加工設備は地上にしかない。ユニット3を降ろして地上で再加工するか、あるいは——」

「...シム材の調整は使えるか」

浩が珍しく0.5秒ほど逡巡したが、私はそれを書かなかった。

洋子はすでに計算を走らせていた。

「理論上は可能です。ただし、シム材の熱膨張係数がケーブル素材と合っていなければ、温度変化のたびに誤差が再び積み重なります。地上のストックにインコネル718製のシム材があるはずです。あれなら熱膨張係数が近い」

田中がデータベースを確認した。

「あります。厚み0.3ミリ、在庫12枚」

「カプセルで送ります。到着まで6時間」洋子が頂端部B班に通信した。

「作業班は待機に入ってください。

シム材を送ります。到着まで作業は止めてください」

「了解。待機に入ります」

通信が切れた。管制室に、静かな時間が流れた。

浩がコーヒーを取りに行った。

浩の行動はいつも通りだった。

あのわずかな間は何だったのか、思い出そうとしてやめた。

洋子は画面を見続けていた。

シム材の計算だけでなく、ユニット4以降で同様の誤差が発生しうるかを先読みしているはずだった。

私には、その作業が終わったかどうかを判断する方法がなかった。

洋子が画面を見ている時、それが何の計算なのかは外側からは分からない。

「大丈夫ですか」

私が洋子に声をかけた。

「ええ。こういうことは想定の範囲です。地上シミュレーションと実際の宇宙空間の間には、必ずずれがある。アズビルトも同じことです。実物が完成して初めて分かる数字がある」

「浩は気にしていないように見えるが」

「浩さんは分かっています」

洋子は少し微笑んだ。

「心配しているのは私ですよ。ユニット4と5でも同じ誤差が出た場合、シム材の在庫が足りなくなる」

浩がコーヒーを持って戻ってきた。

洋子の分も置いた。

「考えた」浩が言った。

「シム材のセットを頂端部に常備する。各素材・各厚みで10枚ずつ。温度変化による寸法誤差は今後も繰り返す。消耗品として管理する」

「私も同じことを考えていました」洋子が答えた。

「スペックリストを今から作ります。次のカプセルに乗せましょう」

二人は、また画面に向かった。コーヒーに手を伸ばさないまま。

私はその様子を見てから、管制室を出た。

コーヒーが冷めるまでの間、何かが解決されるとは思えなかった。

しかし戻ってきた時には、洋子がユニット4から6の熱膨張補正計算を完了させ、スペックリストを田中に渡していた。

コーヒーは、まだ冷めていなかった。

6時間後、シム材が届いた。

B班が取り付けを行い、接続部の寸法は設計値通りになった。

「完了報告。全パラメータ正常です」

松田班長の声が届いた。

浩はその数値を一つずつ確認してから、「了解」とだけ言った。


時刻: 3月5日 夜

場所: 高度120,000キロメートル、頂端作業区画

2週間が経った。

松田健一は、6日交代で頂端部と静止軌道中継基地を往復していた。

ユニット4の固定を終えた夜、作業区画の透明ドームの前に固定されていた。

真夜中の地球。

夜半分、昼半分。

ターミネーターラインが、球面に弧を描いている。

日本列島が昼の側に入り始めていた。

「松田さん、明日のシフト確認お願いします」

同僚の山下が声をかけてきた。

「ユニット5の搬入が午前9時。カプセル到着後30分でアンロック、そのまま固定作業に入る。午後は接続確認と温度センサーのキャリブレーション。前倒しできるなら、夕方までにユニット6の搬入受け入れ準備まで済ませたい」

「了解です」

「ユニット3の時みたいに寸法誤差が出る可能性がある。シム材は手元に用意しておいてくれ。インコネル製、0.3ミリと0.2ミリの両方」

「準備してあります。地上から先便で送ってもらいました」

「よし」

松田は地球を見た。

式典の映像を見て泣いていたと、家族から連絡が来た。

帰れると思った、と母親が書いていた。

「帰れる」と書くのは簡単だ。

しかし帰るためにユニットを6基固定しなければならず、固定した後は試験があり、試験の後に本番の射出があり、射出が何万回も繰り返されて初めて海面が下がり始める。

そこまでの道のりを全部理解しながら「帰れる」と感じることができる人間と、今夜ここに立っている松田の間には、見えている景色が違う。

どちらが正しいとは言えない。どちらも正しいのかもしれない。

ただ、工具は正確に使う。

松田はドームの前を離れ、休眠区画に向かった。

6時間後にシフトが始まる。

宇宙服を脱ぎ、水の節約された短いシャワーを浴び、食事を取り、眠る。

翌日また宇宙服を着て、ユニット5に向かう。

その繰り返しだ。地球が見える場所に戻ってくるたびに、少し海面が下がっていれば良い。

下がっていなくても、自分の作業は間違っていないなら、それで十分だ。

翌朝、彼は再び作業に出た。

その映像を、私は地上の管制室の画面越しに記録していた。

スクリーンの中の松田は、地球を振り返ることなくユニット5の固定作業に入っていた。

昨夜の映像と、今朝の映像。

その間に何があったかは、記録に残っていない。

残っていないことも、記録の一部だ。

記録とは何か、とたまに考える。

松田が工具を動かす映像を記録することも、浩と洋子の連携を記録することも、同じ仕事だ。

なぜそれが起きているかを言語化することが私の仕事ではない。

起きていることを残すことが仕事だ。

私がカメラで記録してきたものの中で、言葉で説明できるものは半分もないかもしれない。

しかし言葉で説明できないことにも、記録する価値がある。

むしろ、言葉にならないことのほうが、後になって意味を持つことがある。

それが、記録者として2年間ここにいて学んだことだ。

3月5日。ユニット4、固定完了。

松田班は、翌朝ユニット5へ移行する。


時刻: 3月10日 午後6時00分

場所: 中央管制室

「ユニット6、固定完了。全ユニット設置終了しました」

松田班長の報告が、管制室に届いた。

静寂があった。

それから、管制室にいた技術者たちが静かに拍手した。

大きな歓声ではなかった。

疲れ切った、しかし確かな達成の音だった。

2月15日の完成式典とは種類の異なる音だった。

あちらは50万人の声だった。

こちらは20人の手の音だった。

しかし私には、こちらの音のほうが、何かを正確に伝えている気がした。

式典の歓声は「完成した」という事実に対するものだった。

この20人の拍手は、「終わった」という疲労と、「なんとかなった」という安堵と、「次がある」という覚悟が、全部混ざった音に聞こえた。

浩は拍手せずにスクリーンを見ていた。

数値を確認していた。

洋子も同じだった。

数十秒後、浩が言った。

「確認事項を送ります。各班、応答してください」

「ユニット1、正常」

「ユニット2、正常」

「ユニット3、正常」

「ユニット4、正常」

「ユニット5、正常」

「ユニット6、正常」

「全ユニット確認完了」洋子が言った。

「各接続部の温度センサー、ステータス緑です。

シム材調整箇所も許容範囲内で安定しています」

「次のフェーズに移る。調整と試験動作だ」

「試験動作のシーケンスを確認します」洋子がスクリーンを切り替えた。

「まず各ユニットの電磁コイルへの通電テスト、3日間。次に全6ユニットの連動試験、4日間。問題がなければ、小規模な試験射出に移行します」

「3月17日に試験射出が打てる計算だな」

「問題が出なければ。ユニット3の時のような誤差が通電テスト中に見つかる可能性はゼロではありません」

「あの時の対処で、次は早くなる」

「ええ。シム材は現場に常備されています」

私はその空気を記録した。

拍手は止み、全員がすでに次の画面を見ていた。

設置の完了は、ゴールではない。

ここを通過して次の段階が始まる、ということが、この管制室の全員に染み込んでいた。


時刻: 3月10日 午後9時00分

場所: 展望デッキ

その夜、私は展望デッキでノートを書いていた。

手書きのノート。

デジタルの記録とは別に、私はずっとこれを持ち続けていた。

研究者時代からの習慣だ。

データには残らない印象を、手で書く。

書きながら、考えた。

松田たちが120,000キロメートルの高さで工具を動かし、ボルトを締め、ユニットを固定した。

宇宙空間の熱膨張が設計値を0.3ミリ裏切り、6時間の待機があり、それでも設計値通りの接合部が完成した。

地上では浩と洋子が止まることなく指揮した。

マリアが世界中の政治的調整を続けた。

私は何をしたか。

記録した。それだけだ。

それだけで良いのかもしれない、と思いながら書いている。

答えは出ていない。

「先輩、ここにいましたか」

浩の声がした。

「ああ」

「少し、話してもいいですか」

「もちろん」

浩が隣に座った。

しばらく黙っていた。

海の音だけがあった。

展望デッキから見える夜の太平洋は、昨日と変わっていない。

「祖母の美咲は、よく言っていました」

「何を?」

「科学は道具だ、と。使う人間の心次第で、善にも悪にもなる。大切なのは道具ではなく、何のために使うかだ、と」

「それを今、思い出したのか」

「あのユニットを見ていたら。12万キロ先でボルトを締めている松田たちを見ていたら」

私は頷いた。

タラス船長が残した言葉を、浩の祖母は別の言葉で言っていたのかもしれない。

それとも、全く別の思想が、時を隔てて同じ場所に行き着いたのかもしれない。

どちらかは分からない。

「記録しておく」

浩は短く笑った。

「頼みます、先輩」

二人でしばらく海を見た。

ケーブルは夜空に溶けて見えないが、そこにある。

12万キロ先に、ユニットが6基、設計値通りに固定されている。

明日から試験動作に入る。

浩がやがて立ち上がった。

「明日も早い。おやすみなさい」

「ああ」

一人になった。

私はノートに書いた。

3月10日。

全ユニット設置完了。

次のフェーズへ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ