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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第8章-裏切りの代償
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第8-5話 デブリとの遭遇

時刻: 10月5日 午前3時

場所: 軌道監視センター

建設再開から1週間、作業は順調だった。

第一基のケーブルは現在高度52,000キロメートル。

1日あたり約1,000キロメートルのペースで伸びている。

計算上は正確に、計画通りに。ステラーカーボンの分子構造が重力に逆らって積み上がっていく。

人類がこれまでに建造したどの構造物よりも細く、どの構造物よりも長い線が、今夜も宇宙に向かって伸びている。

私は夜勤で軌道監視センターにいた。

記録者の仕事として夜勤に入ることは珍しくない。

むしろ深夜の方が、観察に適した場面が多い。

人間は緊張が緩む時間帯に本質的な行動を取りやすい。

そういう時間に現場にいることが、記録の密度を上げる。

地球軌道上には無数のデブリが漂っている。

人工衛星の残骸、ロケットの破片、微小な金属片。

60年以上にわたる人類の宇宙開発が残した痕跡だ。

現在追跡されている直径10センチメートル以上のデブリは約2万7,000個。

しかし1センチメートル以下の微小破片は推定1億3,000万個以上とされている。

その多くは追跡不能だ。

大型デブリは監視されている。

問題は、それが常に「既知の軌道」を飛び続けるとは限らないことだ。

「デブリ、軌道逸脱を確認!」

オペレーターの声に緊張が走った。

いつものアラートとは声質が違った。

「原因は?」

「不明。数秒前に微小な衝撃波を観測しました。先行するデブリ群との二次衝突、あるいは内部残留ガスの爆発の可能性があります。予測軌道が急激に修正——ケーブルと交差します!」

「衝突確率は?」

「……数秒前まで0.1パーセントでした。現在、90パーセントを超えています」

直径3メートルの金属塊。旧ロシアの観測衛星の残骸で、これまで監視網の「安全リスト」に入っていたものだ。

それが微小デブリとの二次衝突で弾かれ、予測円の外側へ飛び出した。

52,000キロメートルの構造物が、直径3メートルの金属塊一つで終わる。

「回避可能か」

「……現状では不可能です」

私は記録端末を開きながら、状況を把握した。

衝突まで、最大でも数時間。


時刻: 午前3時5分

場所: 同上

5分後、全員が集まった。

浩、洋子、マリア。

それぞれが走ってきたはずだったが、センターに入った時点で各自が状況の把握を終わらせていた。

洋子が軌道データを投影した。

「二次衝突による弾道偏差です。質量は推定500キログラム前後。ケーブルとの交差角度は87度。ほぼ直角です」

「ケーブルを動かして回避できないのか」

浩が首を振った。

「低高度の頃は、基地ステーションの微細な位置調整でケーブルを『しならせて』かわせた。

鞭のように。だが今は5万キロを超えている。

ステーションを動かしても、その波動がデブリ通過高度に届くまでに、物理的なタイムラグが発生する。……間に合わない」

ケーブルが長くなるほど、応答が遅くなる。成長することで、新しい弱点が生まれていた。

「ケーブルを動かすのではなく、デブリを動かす。レーザー照射だ」

「地上からレーザーを照射してデブリ表面を蒸発させ、その反動で軌道を変える。アブレーション推進の原理です。理論上は可能です。しかし実際に5万キロメートル先の標的に対して精密照射を行ったことは——」

「ない。でも、他に方法はない」

マリアが言った。

「成功確率は?」

浩と洋子が目を合わせた。

「照射施設の精度、大気の状態、デブリ表面の反射特性——変数が多すぎて正確な算出は困難ですが」洋子が言った。

「現時点での最良推定値は、60パーセント前後です」

「やります。準備を」

マリアは即断した。60パーセントという確率を、彼女は一秒も迷わなかった。

それが彼女の判断の様式だ——選択肢の中で最善のものを最速で選ぶ。迷う時間は、確率を下げる。

「照射施設の選定が問題です」洋子が続けた。

「単一施設からの照射では大気の揺らぎで精度が落ちます。

複数拠点から同時照射して、誤差を相殺する必要があります」

「使える施設は?」

「ハワイの天文台の適応光学レーザー、チリの観測所の高出力レーザーガイド星装置、オーストラリアの防衛施設の対衛星照射システム。この三点を同期させれば、単独照射の約2.3倍の精度が出ます」

「外交的な許可は?」

「マリアさん、今すぐ三カ国の担当機関に直接連絡を。私が技術仕様書を30分で作ります」

「了解。通信を繋いで」

マリアが動いた。そこから先の外交交渉は、私が今まで見た中で最も圧縮された形で行われた。

国防省、宇宙機関、施設責任者。

マリアは「軌道エレベータへの脅威」という一点を軸に、それぞれの担当者から必要な権限を引き出した。

許可が下りるまで22分だった。

浩と洋子が作業を開始した。

「座標を受信しました。照射準備を開始します」

時刻は午前3時17分だった。


時刻: 午前5時

場所: 同上

照射開始まであと1時間。浩と洋子は最終的な計算を進めていた。

「出力は1メガワット。照射時間は30秒。これで、デブリの速度を秒速0.5メートル変更できます」

「それだけで足りるのか」

「ギリギリです」洋子が答えた。

「衝突予測点から計算すると、0.3メートル毎秒の速度変更があれば回避できます。

0.5メガワットの余裕を持たせています。

ただし、これ以上出力を上げると照射ビームの拡散でケーブル本体を熱損傷させるリスクが高まります」

「その設定で行きましょう」

浩が頷いた。

しかし頷いた後も、彼の目は画面に残っていた。

計算を確認している。

新しい情報——デブリ表面の反射特性の推定値、太陽圧による微細な軌道補正——を随時取り込みながら、回避確率が100パーセントに収束するのを待っていた。

祈って待つ様な男ではなかった。

午前6時、レーザー照射が開始された。

地上から目に見えない光の矢が放たれる。

ハワイ、チリ、オーストラリア——三点からの照射が52,000キロメートル先の3メートルの標的に収束する。

デブリの表面が一瞬、センサーの映像の中で輝いた。

表面素材が蒸発し、その反動でわずかに軌道が変わる。

わずかに。それで十分かどうかは、数時間後にならないと分からない。

3時間は長かった。技術的に何もできない待機時間というのは、人間の処理能力にとって特殊な負荷だ。

行動できないまま待つことは、行動し続けることよりも消耗する。

私はNDB時代の情報待ちの経験をいくつか思い出した。

あの時間の密度と、今のこの時間の密度は似ている。

浩は椅子に座って軌道計算の数値を繰り返し確認していた。

新しい情報が入るたびに、数字が更新される。

99.1パーセント。

99.4パーセント。

99.2パーセント。

わずかな揺らぎが残ったまま、数値は収束しきらない。

それでも、通過を待つしかなかった。

洋子は別の画面でアトラスの学習データの整備を進めていた。

待ち時間を次の準備に使う。

それが彼女の時間の使い方だ。

マリアだけが何もしていなかった。

椅子に座り、腕を組み、正面のメインモニターを見ていた。

3時間、ほぼそのままだった。

午前9時。

「ケーブルとデブリの最接近点、通過しました。距離——500メートル」

「接近終了。通常監視に戻ります」

オペレーターが淡々と告げた。

深い吐息がいくつか重なった。キーボードを叩く音が戻ってきた。

誰かが冷めたコーヒーを飲んだ。

それが、この場所のプロフェッショナルたちの「歓声」だった。

浩と洋子が向き合った。言葉は何も出なかった。それで十分だった。

「これで終わりじゃない」

浩が言った。「宇宙デブリは無数にある。また、同じことが起きる」

「今回の経験で対処法が分かりました」洋子が答えた。

「次からはもっと迅速に対応できます。アトラスにデブリ軌道の予測を学習させます。照射パラメータのライブラリも構築します。今夜の数値が、次の基準になります」

問題を解決した後に、次の問題を準備する。それが洋子の思考の連続性だ。

安堵は一瞬で仕事に変わる。


時刻: 午後3時

場所: 洋子の研究所

デブリ回避成功から6時間後、洋子は一人で研究所にいた。

「ケーブルの強度……まだ不十分だ」

独り言だった。しかし声に出すことで思考を固定する、洋子の習慣だ。

今回は回避できた。

しかし次はそうならないかもしれない。

より大きなデブリが、より短い予告時間で接近するかもしれない。

二次衝突のような予測不能な軌道変化が、またいつ起きるかは分からない。

「もっと強いケーブルが必要だ。回避に頼らず、衝突そのものに耐えられる素材が」

洋子はステラーカーボンのデータを見直した。

ケフィリアンの氷塊から解析した結晶構造を再び展開し、電子顕微鏡レベルの分子配列を観察する。

量子コンピュータの画面に、原子の位置関係が三次元マップとして浮かび上がる。

研究開始から数ヶ月、洋子はずっと気になっていたことがあった。

ケフィリアンの遺物に含まれる微量の重金属だ。製造工程で混入した汚染物質だと判断し、除去しようとしていた。

しかし除去すると、試作品の強度が理論値をわずかに下回る。

理由が分からないまま、その事実をノイズとして処理してきた。

「……待って」

洋子の指が止まった。

モニターの三次元マップを拡大する。

炭素の格子の中に、規則的な間隔で配置された重金属原子。

その配置パターンは——ランダムではなかった。

「……不純物じゃなかった。これは、ドーピングだわ」

洋子がモニターをさらに拡大する。

「純粋なステラーカーボンは、それだけでも強度は高い。でもケフィリアンは、わざと格子を歪ませる原子を打っていた。欠陥をあえて作り込むことで、衝撃エネルギーを格子全体に分散させていたのね。……割れを止めるストッパーとして、不完全さを設計していた」

完全な結晶は一点に亀裂が入ると、そこから一気に破断する。

しかし意図的に「転位」を仕込んだ格子は、亀裂の進行を止める。

欠陥が、強さになる。

この発想は、地球の材料科学にも存在する。

しかしケフィリアンのドーピング設計は、地球の技術が到達していない精度で行われていた。

「引張強度……従来のステラーカーボンの1.7倍。カーボンナノチューブ比で5倍」

洋子はすぐに浩を呼んだ。

「浩さん、見てください」

浩が駆けつけた。洋子が発見を説明する。浩はデータを見た。10秒ほど黙っていた。

「これは……すごい。ステラーカーボンIIだな」

「そうです。ただ、製造方法が問題です。このドーピング配置を再現するには、原子レベルで精密に位置を制御しなければならない。通常の化学気相成長法では再現できません」

浩が計算を始めた。洋子も同時に考える。

問題が面白い時の、科学者の集中だ。

それは意志によって切り替わるものではなく、問題の質が人間を引き込む時に自然に発生する状態だ。

外側から見ると、二人の体から余分なものが落ちていくように見えた。

疲弊も不安も、問題の前では後景に退く。

数分の沈黙の後、二人が同時に言った。

「量子アニーリング」

二人は顔を見合わせた。

記録者として、私はこの部分を書いておく。

二人が同時に答えを出した。笑った。

それだけだ。その笑いが何を意味するかについては、私には言葉がない。


時刻: 午後10時

場所: 中央管制室

四人が集まった。

浩と洋子がステラーカーボンIIを報告した。

データの投影、製造プロセスの説明、コスト試算。

30分でプレゼンテーションが終わった。

「ケフィリアンの設計思想を逆算して実装します。意図的なドーピングにより、デブリの直撃に対しても一定の耐性を持ちます。そして量子アニーリングによる製造プロセスは、従来比で工程時間を30パーセント短縮できます」

「つまり」

マリアが言った。「製造ライン改修に1ヶ月かかるとしても、トータルで完成期間が6ヶ月に短縮される」

「その通りです」

マリアは一拍置いた。

「決定です。ステラーカーボンIIの製造を開始しましょう」

会議が終わった後、マリアと洋子が先に出た。

私は浩と二人きりになった。

「すごいな。君と洋子さんのコンビネーションは」

「ああ。洋子さんとは……不思議な繋がりがある」

浩は少し考えてから続けた。

「俺が言いかけたことを、彼女が引き継ぐ。彼女が止まった時に、俺が別の方向から補完する。どちらが先に考えたかが分からなくなることがある。今日の量子アニーリングも、どちらが先に思いついたのか、俺には分からなかった」

「それは二つの処理系が並列で走っている時に起きることだ」

以前のリモートアクセス作業を観察した時にも、同じ状態を記録した。

言葉にしようとしたが、適切な語彙がないと判断して書かなかった。

今も、書かない。

「分かるよ」それだけ言った。

浩は少し黙っていた。

「先輩には、感謝している。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」

「お互い様だ」

それだけの会話だった。

しかし私は、その「お互い様」という言葉を選んだことを、後で記録に残したいと思った。

謙遜でも儀礼でもなく、私は本当にそう思っていた。

浩がいなければ、私の記録に書くものがなかった。

書くものがなければ、記録者は存在できない。


時刻: 10月8日 午前10時

場所: 全体集会

浩が壇上に立った。

「洋子博士が新しい素材を開発しました。ステラーカーボンII。従来のステラーカーボンの1.7倍の強度を持ち、デブリの衝突に対してより高い耐性を示します。そして製造工程の量子アニーリング最適化により、建設期間が8ヶ月から6ヶ月に短縮されます」

大きな歓声が上がった。

少し前にあった建設再開宣言の歓声と、今日の歓声は性質が違った。

あの時は「これからやる」という決意の声だった。

今日の声には、「できつつある」という実感が混じっていた。

希望には、根拠があると強くなる。

ステラーカーボンIIは、その根拠だった。

デブリを回避した昨日の経験と、今日の素材強化の発表が重なって、この島にいる全員の中で何かが変わった。

私はそれを会場の空気の変化として感知した。

誰もが、同じ未来を見ていた。

集会の後、私は洋子と二人で研究所にいた。

「君の発見のおかげで、希望が見えてきた」

「浩さんとの共同研究の成果です。私一人では、できませんでした」

「でも、着想したのは君だ」

洋子は小さく頷いた。

「……ありがとうございます。あなたが差し入れを持ってきてくれた。それが支えになっていました」

「それだけか?」

「それだけ、です」

洋子が微笑んだ。

その微笑みがどういう種類のものかを、私は書かない。

その時、緊急警報が鳴り響いた。

「緊急事態。地球でマグニチュード9.2の大地震。震源地はインドネシア沖。津波警報が沿岸部全域に発令されています」

いつの間にか研究所に浩も来ていた。

連絡を聞いて、来たのだろう。

浩は画面を見つめたまま、端末を操作し始めた。

「被害予測を出してみた。地震規模から到達波高を5メートルと仮定する。沿岸部の難民キャンプの収容人数と、現地の避難インフラのおおよその麻痺率を掛け合わせると……」

浩の指が止まった。

「……死者は、推定50万人」

浩の声には、悲しみよりも、その「回避不能な等式」を自分の手で解いてしまったことへの拒絶感が混じっていた。

彼は一度だけ、計算画面を閉じた。再び開くまで、三秒かかった。

数字を出すために計算した。

計算した結果が50万人だった。

計算すること自体を、拒むことができなかった。

それが彼の職業的な性質であり、今夜最も残酷な側面だった。

私たちは言葉を失った。

50万人。

今朝の歓声が、遠いところの話になった。

研究所の中の空気が変わった。洋子の表情から微笑みが消えた。

消えたというより、引き込まれた。

内側に向かっていくものがある時の顔だ。

「急がなければ」

浩が言った。「一日でも早く、完成させなければ」

世界は、まだ待っている。私たちが作っているものを。

洋子が頷いた。「はい。私たちに、時間はありません」

それきり、誰も話さなかった。

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