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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第1章-未知との遭遇
4/12

第1-4話 科学者たちの結集

時刻: 12月20日 午前9時00分(東部時間)

場所: 国連本部、ニューヨーク


国連本部ビルの地下3階。通常は立ち入り禁止の区画に、臨時の会議室が設営されていた。厳重なセキュリティチェックを経て、世界中から招集された科学者たちが、次々と入室していく。

総勢50名。天文学者、気候学者、海洋学者、物理学者、工学者。それぞれの分野で世界最高峰の専門家たち。

会議室の中央には、大きな円卓。その周囲に、参加者の名札が置かれている。

「日本 - 桜井洋子」「日本 - 堀川浩」「アメリカ - エミリー・チェン」「ドイツ - マーティン・ローゼンバーグ」「インド - ラジェシュ・シン」

洋子は、会議室に入った。長いフライトの疲れが残っているが、彼女の目は鋭い。靴音がやけに響くのは、部屋の構造なのか、疲れで鋭敏になっているのだろうか。

彼女は、自分の席を見つけた。そして、隣の席の名札に気づく。

「日本 - 堀川浩」

「同じ日本の研究者...軌道工学の専門家か」

洋子は、堀川浩という名前を知っていた。軌道エレベータ理論の若手研究者として、学会では有名だった。しかし、直接会うのは初めてだ。

彼女が席に着くと、隣の席に男性が座った。

「初めまして。堀川浩です」

「桜井洋子です。よろしくお願いします」

二人は、簡単に握手を交わした。

洋子は、その後ふと思った。

日本人同士なのに、なぜかわざわざ握手してしまった。

国際会議の雰囲気に飲まれたのか。それとも、英語で話していたからか。不思議な感覚だった。

しかし、そんなことを考えている暇はない。会議が始まろうとしていた。


時刻: 12月20日 午前9時30分

場所: 国連本部地下3階、IGDE準備委員会 会議室


会議室の扉が閉まった。そして、前方のスクリーンに、IGDEのロゴが表示される。

議長席に、マリア・ロドリゲスが立った。

「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。私は、国連事務次長のマリア・ロドリゲスです。これより、IGDE準備委員会の第一回科学諮問委員会を開催します」

マリアは、元物理学者。MITで博士号を取得し、素粒子物理学の研究に従事していた。しかし、20年前に政治の世界に転身。科学的知識と政治的手腕を併せ持つ、稀有な存在だった。

「状況は、皆さんご承知の通りです。氷雨は48時間以上継続し、海面上昇は現在12センチメートルに達しています」

氷雨。美しいと思う。

彼女は、世界地図を表示した。沿岸部が赤く塗られている。

「各分野の専門家から、現状報告をお願いします。まず、気候学から」

気候学者の報告。

韓国の気候学者、デイビッド・パクが立ち上がった。

「過去48時間の気象データを分析しました」

彼は、グラフを表示する。世界各地の気温、降水量、気圧の変化。

「総降水量は、既に年間降水量の3〜5倍に達しています。特に、赤道付近と中緯度帯で顕著です」

次のスライド。大気循環のシミュレーション動画。

「膨大な水蒸気が大気に放出されたことで、大気循環が変化しています。ハドレー循環、フェレル循環、極循環、全てのパターンが乱れています」

パクの声が、重くなる。

「このまま続けば、気候システムは臨界点を超える可能性があります。一度超えれば、元の状態には戻りません」

海洋学者の報告。

モルディブの海洋学者、アイーシャ・ナシルが続いた。

「海面上昇は、現在12.3センチメートル。上昇速度は、1日あたり約6センチメートルで加速しています」

彼女の故国、モルディブは、国土の平均標高が1.5メートルしかない。この海面上昇は、彼女にとって祖国の存亡に関わる問題だった。

「このペースが続けば...」

彼女は、予測グラフを表示した。

「21日後、海面上昇は累計で25〜30メートルに達します」

会議室が、静まり返った。

「影響を受ける国は、全世界193カ国中、152カ国。影響を受ける人口は...28億人です」

社会学者の報告。

ドイツの社会学者、ヨハン・ミュラーが、社会への影響を報告した。

「SNSでの投稿分析を行いました。過去48時間で、氷雨に関する投稿は12億件を超えています」

彼は、感情分析のグラフを表示した。

「当初は、『美しい』『神秘的』といったポジティブな感情が80%を占めていました。しかし、24時間を過ぎた頃から、『不安』『恐怖』『怒り』といったネガティブな感情が急増しています」

次のスライド。世界地図に、ホットスポットが赤く表示されている。

「特に懸念されるのは、宗教的な解釈の広がりです」

ミュラーは、複数のスクリーンショットを表示した。

「数多くの新興宗教が、自身の教義に合わせて不安を煽り、布教活動に結びつけています。『これは神の審判である』『科学技術という傲慢への罰だ』『悔い改めよ』...こうしたメッセージが、急速に拡散しています」

彼は、統計グラフを表示した。

「現時点で、推定6000万人がこれらのメッセージに共感しています。このまま危機が続けば、社会不安は加速度的に増大します」

マリアが、厳しい表情で頷いた。

「ありがとうございます。情報統制と社会安定化も、並行して進める必要がありますね」

彼女は、次の報告者を指名した。

「では次に、天文学と軌道力学の観点から。桜井博士、堀川博士、お願いします」


時刻: 12月20日 午前10時45分

場所: 国連本部地下3階、IGDE準備委員会 会議室


洋子が立ち上がった。彼女は、ノートパソコンをプロジェクターに接続する。

「私からは、氷塊の起源と組成についてご報告します」

スクリーンに、深宇宙観測データが表示される。

「私の軌道計算では、この氷塊群の起源は太陽系外縁部、距離約2500天文単位です」

彼女は、軌道図を表示した。太陽系の惑星軌道が、小さな円として表示されている。そのはるか外側から、氷塊群の軌道が伸びている。

「注目すべきは、その軌道特性です。離心率0.32、軌道傾斜角3.7度。これは、自然な重力摂動では説明できない、極めて円形に近い軌道です」

彼女は、比較データを表示した。過去に観測された長周期彗星との比較。

「既知のどの彗星とも、軌道特性が異なります。この軌道は...何らかの意図的な調整を受けた可能性があります」

会議室が、ざわめいた。

洋子は、次のスライドを表示した。JPLの組成分析結果。

「さらに、JPLの分析では、氷の同位体比率、結晶構造、内部の空洞ネットワーク、今のところ納得のできる理論に辿り着けていません」

彼女は、電子顕微鏡画像を表示した。規則的な空洞構造。

「以下の仮説も可能性の一つに加えたいと思います」

洋子は、一呼吸置いた。

「この氷塊は、数億年前に高度な地球外文明によって製造された探査装置の残骸である可能性があります」

会議室が、静まり返った。

一人の研究者が、手を挙げた。

「それは...確実な結論ですか?」

「いいえ」洋子は正直に答えた。「あくまで仮説です。しかし、複数の独立した分析が、同じ方向を示唆しています」

マリアが、発言した。

「ありがとうございます、桜井博士。次に、堀川博士」

浩が立ち上がった。彼は、自分のノートパソコンを接続する。

「私からは、軌道力学的な予測と、今後の影響についてご報告します」

スクリーンに、複雑な軌道計算のグラフが表示される。

「まず、降雨継続期間です。氷塊群の軌道要素、地球との相対速度、大気圏突入率を計算した結果...」

浩は、グラフを指し示した。

「降雨は、あと19日間継続すると予測されます。誤差は±2日です」

次に、海面上昇の予測。

「大気圏突入時、氷塊の約85%が水蒸気化し、雨として地表に到達します。残り15%は、固体のまま海洋または陸地に衝突します」

浩は、計算結果を表示した。

「最終的な海面上昇は...28.7メートル。誤差は±3.2メートルです」

会議室に、重い沈黙が落ちた。

浩は、少し間を置いてから付け加えた。

「まあしかし、不確定要素が多すぎるので、必ずしもこうなるとは断言できませんがね」

彼は、軽く笑おうとした。しかし、会議室の空気は変わらなかった。

浩は、次のスライドを表示した。世界地図。青く塗りつぶされた領域が、水没地域を示している。

「水没する陸地面積は、全陸地の12.3%。主要都市の多くが、壊滅的被害を受けます」

次のスライド。都市ごとの詳細。

「ニューヨーク、東京、ロンドン、上海、バンコク、ムンバイ...これらの都市は、その大部分が水没します」

浩の声が、静かだが確固としていた。

「影響を受ける人口は、28億人以上。推定死者数は、最悪シナリオで500万〜1000万人です」

会議室に、絶望的な空気が漂った。

しかし、浩は続けた。

「ただし...」

彼は、新しいスライドを表示した。

「これは、何も対策を講じなかった場合のシナリオです」

会議室の全員が、浩を見た。

「つまり?」

マリアが聞いた。

「対策を講じれば、被害を大幅に軽減できる可能性があります」

浩は、そう答えた。

会議室に、わずかな希望の光が差し込んだ。



時刻: 12月20日 午前11時15分

場所: 国連本部地下3階、IGDE準備委員会 会議室


浩は、新しい図を表示した。地球から空へと伸びる、一本の線。

「私は、軌道エレベータの研究者です。そして、この危機を乗り越えるための、一つの提案があります」

会議室の全員が、浩に注目した。

「水を、宇宙に戻す」

浩は、軌道エレベータの概念図を表示した。

「地表から静止軌道まで、約12万キロメートルのケーブルを伸ばします。そのケーブルを使って、地表の水を宇宙空間まで汲み上げます」

洋子は、その説明を聞いていた。しかし、正直なところ、上の空だった。

軌道エレベータの基本原理は、既に知っている。静止軌道の理論も、遠心力と重力の釣り合いも。彼女にとっては既知の情報だった。

むしろ、彼女の頭の中には別のことが浮かんでいた。

こんな時なのに、お昼には甘いものも食べたいな。

国連本部のカフェテリアに、デザートはあるだろうか。ニューヨークだから、チーズケーキくらいはあるかもしれない。

洋子は、自分の思考に苦笑した。危機的状況なのに、何を考えているのか。

次のスライド。宇宙空間での水の処理。

「宇宙空間で水を氷結させ、月の重力を利用したスリングショット軌道で、太陽系外へ射出します」

浩は、基本的な計算結果を表示した。

「必要な輸送能力は、1日あたり約2.7億トン。これを実現するには、赤道上に12基の軌道エレベータを建設する必要があります」

一人の工学者が、手を挙げた。

「堀川博士、軌道エレベータは理論上は可能ですが...建設には10年以上かかるのでは?」

「従来技術では、その通りです」

浩は、次のスライドを表示した。

「しかし、新しい技術を導入すれば、大幅に短縮できます」

彼は、三つの技術を列挙した。

「第一に、新素材。JPLの分析で明らかになった氷塊の結晶構造を、カーボンナノチューブの製造に応用します。これにより、引張強度を3倍に向上させ、製造時間を50%削減できます」

その瞬間、洋子の注意が戻った。

氷塊の結晶構造。カーボンナノチューブ。

それは、彼女の専門分野だった。

次のスライド。

「第二に、AI建設管理システム『アトラス』。量子コンピュータを用いたリアルタイム最適化により、建設工程を効率化します」

第三のスライド。

「第三に、ナノロボットによる自動組立。人間の作業を最小化し、24時間365日の連続建設を実現します」

浩は、建設スケジュールのガントチャートを表示した。

「これらの技術を統合すれば...第一基の建設期間を、18ヶ月に短縮できます」

会議室が、ざわめいた。

「18ヶ月...?」

「はい。理論上は可能です」

しかし、別の研究者が反論した。

「堀川博士、その新素材『ステラーカーボン』は、まだ実証されていませんね?」

「その通りです」浩は認めた。「しかし、基礎理論は確立しています。実証実験は、3ヶ月以内に可能です」

「リスクが高すぎる」別の研究者が言った。「失敗すれば、貴重な時間と資源を無駄にします」

さらに別の研究者が言及する。

「君の研究成果を試したいだけなんじゃないのかね。軌道エレベータは君の夢だろう。危機に便乗して、自分のプロジェクトを通そうとしているんじゃないか?」

浩は、その言葉に一瞬言葉を失った。

会議室は、賛否両論に分かれた。がしかし、結論には程遠い。

その時、それまで黙っていた洋子が発言を求めた。

「議長、発言してもよろしいですか?」

「どうぞ、桜井博士」

洋子は、立ち上がった。

「堀川博士の提案を、私は支持します」

彼女は、自分のノートパソコンを操作した。

「私の手元には、氷塊の結晶構造を詳細に分析した結果があります。この構造は確かにカーボンナノチューブの強化に応用できると予想しています」

洋子は、分子動力学シミュレーションの結果を表示した。

「結晶構造の原子配列が、応力を均等に分散させる機能を持っています。これをテンプレートとして使用すれば、理論上、堀川博士の予測通りの強度向上が期待できます」

(不確定要素が多過ぎて、期待だけですけどね)とは流石に言わなかった。

浩は、洋子の発言に驚いた。彼女は、自分のアイデアを即座に理解し、科学的裏付けを提示してくれた。


時刻: 12月20日 午前11時45分

場所: 国連本部地下3階、IGDE準備委員会 会議室


マリアが、議論を制止した。

「皆さん、ご意見はわかりました。しかし、時間がありません」

彼女は、会議室を見渡した。

「完璧な解決策を待っていれば、人類は滅びます。我々に必要なのは、実行可能な最善の策です」

マリアは、浩を見た。

「堀川博士。あなたの提案を、詳細に検討します。48時間以内に、実行可能性を評価した詳細レポートを提出してください」

浩は、頷いた。

「ただし」マリアの表情が厳しくなった。「これは賭けです。失敗すれば、我々は貴重な時間と資源を無駄にすることになります。成功の保証はありますか? いえ、言い方を変えましょう 可能性はありますか?」

浩が答えた。

「保証はできません。しかし、可能性は計算できます。そして...他に選択肢がありません」

マリアは、深く息を吸い込んだ。そして、決断した。

「わかりました。堀川博士には、IGDEの特別作業部会に所属していただきます。必要な資源、人員、設備は、可能な限り提供します」

彼女は、洋子を見た。

「桜井博士。カーボンナノチューブの製造に関して、堀川博士に協力していただけますか?」

洋子は、一瞬躊躇した。そして、口を開いた。

「マリア事務次長、以前お会いしていますよね」

会議室が、わずかにざわめいた。

マリアは、表情を変えなかった。

「存じていますが、今回の件と関係がありますか?」

洋子は、その冷静な対応に少し気まずくなった。

「...余計なことでしたね。協力させていただきます」

マリアは、頷いた。

「ありがとうございます」

彼女は、会議室全体を見渡した。

「これより、IGDE準備委員会は正式に活動を開始します。各国政府への承認申請は、私が担当します」

マリアは、各分野の専門家たちを順に見た。

「気候学チームには、今後の気候変動の予測と、その対策案の策定をお願いします」

デイビッド・パクが頷いた。

「海洋学チームには、海面上昇への適応策と、沿岸地域の避難計画の支援をお願いします」

アイーシャ・ナシルが頷いた。

「社会学チームには、社会不安を抑えるための情報発信戦略と、宗教団体との対話の枠組みを検討してください」

ヨハン・ミュラーが頷いた。

「工学チームには、軌道エレベータ構想への技術的な問題点の洗い出しと、代替案の検討をお願いします」

数名の工学者が頷いた。

「皆さんには、それぞれの専門分野で最善を尽くしていただきたい。48時間後に、再度全体会議を開催します」

マリアは、最後に付け加えた。

「人類の未来が、この部屋にいる私たちにかかっています」

会議が、一時休憩となった。


時刻: 12月20日 午後0時30分

場所: 国連本部、カフェテリア


浩と洋子は、カフェテリアで昼食を取っていた。しかし、二人とも食事にはほとんど手をつけていない。

浩が、口を開いた。

「マリア事務次長とお知り合いで?」

「はい、ちょっと」

洋子は、短く答えた。

甘い物好き同士という親近感で、場違いなところで声をかけてしまった。今更ながらに恥ずかしくなった。あの場で個人的な話題を出すべきではなかったよね、と。

洋子は、話題を変えたくなって言った。

「48時間...短いですね」

「ええ。しかし、やるしかありません」

浩は、コーヒーを一口飲んだ。

「桜井博士は、材料科学にも詳しいんですか?」

「大学時代、量子化学を専攻していました。分子動力学シミュレーションは、得意分野です」

「それは...完璧な組み合わせですね」

浩は、微笑んだ。

「私は理論を実装に落とし込むのが専門です。しかし、材料科学は専門外でした。あなたの協力があれば...」

自分の夢を現実にできる。

浩は、心の中でそう呟いた。軌道エレベータ。それは、彼が長年追い求めてきた夢だった。そして今、その夢が現実になるチャンスが目の前にある。

野心的だと自覚している。危機に便乗していると言われても否定できない。

しかし、それでも。

「一緒に、やりましょう」洋子が言った。

二人は、握手を交わした。

その瞬間、浩は奇妙な感覚を覚えた。まるで、この女性と以前から知り合いだったかのような既視感。彼女の直感とそれに基づく思考が、自分の思考回路と自然に同期する感覚。

洋子も、同じことを感じていた。彼の論理展開が、自分の思考の流れと重なる。

しかし、二人ともそれを口に出すことはなかった。

「では、作業場所を確保しましょう」浩が言った。

「ええ。データも共有する必要がありますね」

二人は、カフェテリアを出た。

食欲はなかったが、レモンのチーズケーキだけは食べた。

窓の外では、ニューヨークの空にも、雨が降り続けていた。

光の雨。美しく、そして恐ろしい。

しかし、浩と洋子には、もう恐怖はなかった。

彼らには、やるべきことがある。

人類を救うという、途方もない使命が。

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