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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第5章-選択
26/27

第5-2話 量子の記憶

時刻: 3月15日 午前9時00分

場所: IGDE本部、ジュネーブ 記者会見室

講堂は、法廷のように冷えていた。

世界中のメディアが集まっている。カメラの列。マイクの森。記者たちの緊張した表情。

今日は、ケフィリアンの日常記録が公開される日だ。

壇上に、ジャン・デュポンが立った。フランスの言語学者。

量子メモリー解読チームのリーダー。彼の手には、数百ページに及ぶ解読データ。

「皆様」

ジャンの声が、静寂を破る。

「本日は、歴史的な発表をさせていただきます」

記者たちが、一斉にペンを構える。

「我々は、量子メモリーの残り0.3%のデータ解読に成功しました」

ざわめき。

「その内容は...」

ジャンは、一呼吸置いた。

「ケフィリアン文明の、日常生活の記録です」

スクリーンに、解読されたテキストが表示される。

「今日、子供が初めて歩いた」

記者たちが、メモを取り始める。

「配偶者と海辺を散歩した。幸せだと感じた」

「同僚と議論になった。しかし、彼の情熱は尊敬に値する」

4億年前の日記。

子供の成長を喜ぶ親。科学的議論を楽しむ同僚。配偶者と散歩する幸せな時間。

そして。

内戦の勃発。真空崩壊兵器による滅亡。

記者たちは、息を飲んだ。

「彼らも...私たちも、することはたいして変わらない、ということか」

一人の記者が呟いた。

「はい」

ジャンは頷いた。

そして。

「真空崩壊兵器が使用された」

「世界の半分が消滅した」

その時。

最前列の記者が立ち上がった。

「デュポン博士!」

男性記者。アメリカの保守系メディア。

「彼らが子供を愛していたことなど、何の意味があるんです?」

会場がざわつく。

「彼らは自分の惑星を吹き飛ばした。母星を消滅させたんですよね」

記者の声は、怒りを含んでいた。

「我々は今、その技術を使おうとしている。爆弾の設計図を、聖典のように崇めているんです」

「これは狂気じゃないんですか?」

会場は、賛同の声と反論の声が入り混じり、騒然となった。

ジャンは言葉を失った。

別室にて。

マリアは、でタブレットでその光景を見ていた。

画面の端にあるSNSのコメント欄が、超速で流れていく。


《6本足のバケモノに感情移入するな》

《技術だけ奪ってあとは忘れろ》

《いや、彼らは鏡だ。僕たちもこうなる》

《自爆装置を地球に置いていった侵略者だろ》

《タラス船長は英雄だ。彼らを侮辱するな》


マリアは、タブレットを置いて、深く息をついた。

「タラス船長の感動的な手記を流せば、みんなが握手して建設を助けてくれる...そんな甘いお伽話、最初から信じていないわ」

コツコツと、机を指で突きながら、思案する。

「『理解』は必ずしも『和解』を意味しない。それはいい。しかし...」

マリアは、情報分析官のサラにメールを書き始めた。


時刻: 3月15日 午前11時00分

場所: 世界各地

公開されたケフィリアンの日常記録は、世界中を混沌とさせた。

多くの共感と同情を呼んだのは確かだ。

ニューヨーク。タイムズスクエア。

大型スクリーンに、記録が映し出される。

「今日、子供が初めて歩いた。6本の脚で、不器用に」

通行人たちが立ち止まる。画面を見上げる。

「微笑ましい...」

誰かが呟いた。

多くの人は、良いものだ、と思った。

東京。渋谷のスクランブル交差点。

「配偶者と海辺を散歩した。波の音を聞きながら、彼女が穏やかに明滅するのを見て、嬉しくなった」

その記録を読んだ若いカップルが、互いの手を握りしめた。

ソーシャルメディアには、ケフィリアンのファンアートで溢れた。擬人化。美化。共感。

ハッシュタグ「#ケフィリアンに平和を」がトレンド入りした。

平和主義的なムーブメント。それは、真摯だった。しかし...

ロンドン。国会議事堂前。

「建設中止」を求めるデモ隊。数千人規模。警察の規制線。

「ケフィリアンは失敗作だ」

「彼らの技術は自爆装置だ」

「我々を道連れにするつもりか」

プラカードには、真空崩壊兵器の爆発シミュレーション画像。CGで再現された、惑星が消滅する瞬間。

「地球を守れ。異星人の技術を拒否しろ」

主婦が、子供の手を引いて叫んでいる。

「私の子供たちを、実験台にしないで」

恐怖は、理性を麻痺させる。

オンラインフォーラムや匿名掲示板には、陰謀論も台頭していた。

「ケフィリアンは地球を守ったのではない」

「自分たちの汚物を、地球に捨てただけだ」

「L4点の宇宙船は、時限爆弾かもしれない」

「タラス船長の手記は、我々を油断させるための情報戦だ」

恐怖は論理を超える。そして...

東京。ある多国籍企業の会議室。

「感情論は不要だ」

CEOが冷静な声色で言った。

「必要なのは、データだけだ」

「ケフィリアンの私生活は、どうでもいい」

会議テーブルには、技術資料の山。ステラーカーボンの製造特許。真空エネルギー抽出の設計図。

「製造プロセスの歩留まりを上げろ。それだけだ」

「我が社がステラーカーボンの特許を押さえれば、今後50年の市場を支配できる」

死者の遺産は、利用すべき資源に過ぎない。恐怖も感傷も不要、と。

ニューヨーク。国防総省の極秘会議。

「真空エネルギー抽出技術を、兵器転用できるか」

「おそらく可能です」

技術者が答えた。

「ただし、リスクは計り知れません」

「いや、リスクは度外視でかまわない。核の後継として抑止力に使えるかどうか、なのだ」

死者の遺産は、利用すべき資源に過ぎない。恐怖も感傷も不要であった。

カイロ。保守的な宗教団体の集会。

「あんな姿の生物に、共感など狂気だ」

説教師が叫ぶ。信者たちが、熱狂的に応える。

「6本の脚。昆虫のような体。複眼」

スクリーンには、ケフィリアンの生物学的復元図。

「神は、人間を神の似姿に創造された」

「あれは、神の被造物ではない。悪魔の眷属だ」

「ステラーカーボンは、呪われた異星人の骨だ」

「我々の子供たちに、触れさせてはならない」

生理的な拒絶。理屈ではない。本能レベルでの嫌悪。

パリ。ある知識人のブログ。

「ケフィリアンへの共感は、人間中心主義の放棄だ」

「我々は、地球という生態系の頂点に立つべき存在だ」

「異星人に膝を屈することは、人類の尊厳の喪失を意味する」


時刻: 3月15日 午後3時00分

場所: IGDE本部、マリアの執務室

マリアのモニターには、世界各地の映像が同時に映し出されていた。

デモ。暴動。熱狂的な支持。激しい拒絶。

マリアは、窓の外を見た。

「理解は、必ずしも和解を意味しない。むしろ、対立を深めることもある」

わかっていた話ではあった。そして各国首脳から申し入れが殺到することも。

「国内の世論が割れている」

「建設の見直しを求める声が強い」

「このままでは、議会が承認を撤回するかもしれない」

マリアは、一つ一つに返信した。

「プロジェクトは続行します」

しかし、それだけで納得しないことも理解している、が、時間が必要なのだ。

状況を図り、盤面を整え、そして、決定的な引き金は自分で引いてはならない。

政治の舵取り。それは、綱渡りなのだ。


時刻: 3月15日 午後6時00分

場所: ハーグ 国際刑事裁判所 拘置施設

ザカリアの声明が、ダークウェブに投稿された。

タイトル:「死せる神々の衣を纏う者たちへ」

全文が、瞬く間に拡散される。

「諸君は、4億年前の幽霊が残した手記に涙し、手を取り合ったという」

ザカリアの言葉は、鋭い。

「だが、問いたい」

「それは本当に諸君の意志か?」

「それとも、滅びた種族が見せた心理操作に屈しただけではないのか?」

「『自分たちのようになるな』」

「そう囁く死者の声は、諸君を自由にしたか?」

「否」

「諸君を、彼らの奴隷にしただけだ」

声明は続く。

「マリア・ロドリゲスよ。浩よ。そして、かつての友イブラヒムよ」

「君たちが建設している塔の資材は何か」

「異星人の繊維だ」

「エネルギーは何か」

「彼らが失敗した技術だ」

「人類は今、自分の足で立つのをやめた」

「死んだ異星人の抜け殻を拾い集め、それを奇跡と呼んでいる」

「それは進化ではない」

「墓荒らしだ。寄生だ」

そして、イブラヒムへの問い。

「イブラヒム」

「君は祈りの際、額を大地につける」

「だが、君が許したあの塔は、大地を否定し、虚無へ手を伸ばすものだ」

「君は『同胞の命を救うため』と言った」

「だが、誇りを捨てて生きながらえた種族に、何の価値がある?」

「4億年後の人類が、今の私たちを振り返った時」

「そこに人間の足跡は見つからないだろう」

「あるのは、ケフィリアンの影を追いかけた、名前のない家畜の群れだけだ」

そしてこう結んだ。

「私がエネルギー抽出を妨害したのは、破壊のためではない」

「人類に、自分たちの力で絶望する権利を取り戻させるためだ」

「他者の救済を待つ者は、他者の支配を受け入れる者だ」

「イブラヒム」

「君がそのデバイスで私の首を差し出した時、君の神は去った」

「君の心を満たしているのは、今はもう、冷たい炭素繊維の感触だけだろう?」

声明は、世界に衝撃を与えた。

賛同する者。

反発する者。

沈黙する者。

そして、最も深く傷ついたのは...

イブラヒムだった。


時刻: 3月15日 午後11時00分

場所: インドネシア・ジャカルタ、第三建設基地

爆発は、予告なく起きた。

「爆発です!」

管制室に悲鳴が響いた。

「北側セクターで!」

モニターに映し出される炎。黒煙が、夜空に立ち上る。

「被害状況を確認!」

現場責任者が叫んだ。

幸い、夜間シフトで作業員は少なかった。

「負傷者20名!」

「重傷者は?」

「いません。全員軽傷です」

「死者は?」

「ゼロです」

現場責任者は、ほっと息をついた。

しかし。

「ステラーカーボン製造工場の一部が破壊されました」

「復旧には?」

「少なくとも3日かかります」

「くそ...」

現場責任者は、拳を握りしめた。

「爆発の原因は?」

「調査中ですが...おそらく事故ではありません」

天啓の教団のシンボル。

ザカリアの残党による攻撃だった。

マリアは、イブラヒムに通信を繋いだ。

「イブラヒム師」

「マリア議長」

イブラヒムの声は、苦しそうだった。

「今回の攻撃について、深くお詫び申し上げます。私が教団をまとめきれていれば...」

マリアは、イブラヒムの沈黙をしばらく受け入れていたが、マリアから切り出した。

「残党の情報を、提供していただけませんか?」

イブラヒムは、頬を引き攣らせてよろめいた。

いつかは、と覚悟はしていたが、にもかかわらず、見ている風景から色が消えていく...

「彼らの拠点、メンバー、資金源」

「あなたなら、知っているはずです」

「時間をください」

イブラヒムはそれだけを言い、通信を切った。

時刻: 3月16日 午前0時頃

場所: カイロ、穏健派本部 祈祷室

深夜になってもなお、イブラヒムは一人、跪いていた。

しかし今夜、イブラヒムは祈ることができなかった。

目の前には、暗号化デバイス。

そこに記録されているのは、過激派ネットワークの全てだ。

拠点の座標。主要メンバーの実名。資金の流れ。連絡網。

これを渡せば、残党は一網打尽になる。

しかし。

「彼らは確かに過激だが」

イブラヒムは呟いた。手が震えている。

「元は同じ信仰を持ち、共にザカリアの理想を追った若者たちだ」

イブラヒムは、一人一人の顔を思い出していた。

「彼らを売れば、私は裏切り者として歴史に刻まれる」

イブラヒムは、デバイスを握りしめた。

「これは裏切りか、それとも浄化か」

「神よ」

それは、祈りなのだろうか。

祈祷室の静寂の中、ザカリアの言葉を思い出した。

「君の神は去った。君の心を満たしているのは、冷たい炭素繊維の感触だけだ」

違う、とイブラヒムは心の中で叫んだ。

しかし、...


時刻: 3月16日 午前6時00分

場所: カイロ、穏健派本部

イブラヒムは、側近たちを招集した。

深夜の評議会。

「IGDEが、残党の情報を求めている」

イブラヒムは切り出した。

即座に、反対の声。

「情報の譲渡は屈服だ」

強硬派の側近が言った。

「IGDEの犬になったと思われる」

「過激派は、我々の手で処理すべきだ」

別の側近も続いた。

「彼らが過激化したのは、西洋主導の開発への反発です」

「彼らを売れば、国内でさらなる火種を生む」

しかし、賛成の声もあった。

「我々の手に負える段階は過ぎた」

ある技術者が言った。

「失敗すれば、氷雨で国が消える。面子より生存だ」

若い学者が続けた。

「ケフィリアンの手記を忘れましたか?対話を拒んだ結果が、滅びです」

議論は紛糾した。

皆の意見を聞いていたイブラヒムは、立ち上がった。

「聞いてくれ」

イブラヒムは、全員を見回した。

「木を愛する者は、腐った枝を切り落とさねばならない」

「我々が情報を渡さないのは、慈悲ではない」

「木全体を枯らす怠慢だ」

イブラヒムの声は、重かった。

「4億年前、ケフィリアンの船長は自分の種族の罪を認めた」

「未来のために、盾となった」

「今の我々が、自らの種族の罪を隠蔽して、どうして未来を語れるだろうか」

側近たちは、沈黙した。

「ザカリアに熱狂した若者たちが、今はエレベータの技術を学ぼうとしている」

「彼らに見せるべきは何か」

「過去の因縁に縛られた指導者の背中か、それとも、新しい世界を切り拓く勇気か」

「師よ、...」

誰も、理解できていないわけではなかった。納得できなかったのだ。

それは我が事なのだと、皆を見ていたイブラヒムは、デバイスを手に取った。


時刻: 3月16日 午後2時00分

場所: IGDE本部、ジュネーブ

イブラヒムからの情報が、IGDEに届いた。

完璧なリスト。

盤面は揃えた。必要なピースもすべて手に入った。

そして、死者の遺品を翼に変える触媒も。

「なんて計算高くて冷徹な女、と思われるでしょうね...」

しかし、それで信念を変えようとは思わない。


時刻: 3月17日 午前3時00分

場所: アイランドベース01

精鋭部隊が、手薄に見える搬入口から侵入した。

彼らは、神の正義を確信していた。

「建設開始の式典時に、基底部の冷却システムに致命的な欠陥が出ていた」

ダークウェブからその情報を掴んだのだ。

順調に進んでいる。

そして、爆弾を設置しようとした瞬間。

周囲のコンテナが、音もなく開いた。

赤外線レーザーが、テロリストたちを照らす。

「残念ね」

サラの声が、指揮車の中で静かに響いた。

「その脆弱性、私が一週間前に書いたプログラムなの」

一発の銃声もなく、制圧はものの数分で完了した。

「マリア議長」

サラが報告した。

「清掃完了です。イブラヒム師のリストは、100%正確でした」

マリアは、喜びを見せなかった。

「そうでなくては困る」

そのリストは、その全てを背負う一人の男の、命の決断の成果なのだから。


時刻: 3月17日 午前9時00分

場所: IGDE本部、円卓会議室

ハニーポット作戦の成功から、3時間が経過していた。

しかし、会議室に安堵の空気はなかった。

モニターには、世界各地の映像が流れている。暴動。デモ。ザカリアの声明に喝采する群衆。

そして、一発の銃声もなく制圧された過激派部隊の映像。

12カ国の代表が、円卓を囲んでいた。

「ザカリアの声明が、世界に広がっています」

ドイツ代表が言った。

「国内の反対勢力が、声明を根拠に建設中止を求めています」

「我が国も同様です」

インド代表が続いた。

「議会が、ステラーカーボン繊維の提供停止を検討しています」

「予算の凍結も、視野に入れざるを得ません」

各国代表が、次々と発言する。

「混乱が収まるまで、一時停止すべきではないか」

「ザカリアの指摘には、一定の論理がある」

「人類の自律性という問いに、我々は答えられていない」

騒然とする会議室。

イブラヒムは、沈黙していた。

目を伏せて。テーブルの一点を見つめたまま。

ザカリアの言葉が、まだ耳に残っていた。

「君の神は去った」

「君の心を満たしているのは、冷たい炭素繊維の感触だけだろう」

浩は、会議室の壁際に立って、マリアを見ていた。

マリアは、騒然とする場の中で、ただ静かに座っていた。

何も言わない。

しかし、その沈黙が徐々に、会議室を鎮めていった。

一人が気づく。また一人が気づく。

やがて、全員がマリアを見ていた。

「ザカリア氏の言葉は、実に甘美な毒ですね」

マリアは、鎮まったのを見計らい、静かに口を開いた。

「『人類が異星人の影に成り下がった』。鋭い指摘。痛いところを突いてくる」

マリアは、イブラヒムに視線を向けた。

「イブラヒム師」

イブラヒムが顔を上げた。しかし、目は合わせない。

「あなたもその言葉に、信仰と誇りを汚されたような痛みを感じているでしょう」

イブラヒムの沈黙が、その答えだった。

マリアは視線を元に戻すと続けた。

「砂漠で死にかけた旅人が、先達の遺した水場を見つけ、それを飲んで生き延びたとする」

「それは、死者に寄生したことになるのかしら?」

誰も答えない。

「それは意志の継承ではないでしょうか」

マリアは、立ち上がった。

「ケフィリアンは、火を扱えず自らの家を焼き払った」

「しかし、人類は違う」

「人類が火を手に入れた時、最初はただ恐れた。しかし次に、それを竈に入れた。エンジンに閉じ込めた。文明の動力にした」

「ケフィリアンが失敗した技術だからこそ、人類が完成させることに意味がある」

「寄生ではない。私たちは、彼らが辿り着けなかったその先へ行くための、宇宙で唯一の執行人なのよ」

浩は、息を呑んでいた。

(同じ状況を、まったく異なる言葉で定義する。これがマリアさんの力...)

マリアはそこで止まらなかった。

「恐怖を代弁する各国代表に申し上げます」

いつもより低い声が耳に届く。

「今さら手を引くことは、安全を買うことにはなりません」

「なぜなら、氷雨がもたらした地球変動は、二度と元に戻らないからです」

「ケフィリアンが守ってくれた4億年は、既に終わっているのです」

マリアは、タブレットをテーブルに置いた。

「とはいえ、ここにいる皆さんが自国民に『再定義』を説いても、事態を終息させるのは至難と理解しています」

画面に文書が表示される。

「そこで、本日この場で、アセンション共同利権条約を更新します」

「軌道エレベータから得られる利益の管理権、および宇宙資源の配分比率を、建設への貢献度に完全に比例させます」

「降りるなら今です」

マリアは、各国代表を順番に見た。

「ただし、その瞬間にあなたの国は、人類が手にする無限の未来という財布から、永久に締め出されることになる」

会議室が、静まり返った。

ある者は天井を見つめ、あるいはカップのコーヒーに視線を落とし、タブレットの端を意味なく撫でる。

しかし、想像することにさほど変わりはない。

自国の企業経営者、富豪、投資家。アセンションプログラムで、莫大な利益を得る彼らと、それにぶら下がって生きている大勢の人々。

この条約を知れば、どう動くか...

各国代表は、無言のまま互いの顔を見合わせて、そして頷いた。

そして最後に、マリアはイブラヒムを見た。

「イブラヒム師」

マリアの声は、柔らかくなった。

「あなたは、同胞を売った裏切り者として歴史に名を残すことを恐れているのでしょう」

イブラヒムが、顔を上げた。

今度は、真っ直ぐに目が合った。

「ならば、聖者としてではなく、一人の父親として選ぶべきではないでしょうか」

「ザカリアの言う誇りある全滅を子供たちに遺すのか、それとも、泥にまみれながらも星を掴む生を遺すのか」

マリアは、一呼吸置いた。

「私は信じています」

「タラス船長が4億年守りたかったのは、高潔な理論ではない」

「愛する誰かと笑い合う、その泥臭い日常だったと」

イブラヒムは瞬きもせず、マリアを見つめ、やがて、ゆっくりと頷いた。

それが合図かの様に、各国代表が、条約の更新の署名手続きを始めた。

浩は、マリアを見ていた。

彼女は今、世界を動かした。

感情と論理と利害を、一本の糸で束ねて。

そして、誰一人傷つけずに。

それがマリアなのだな、と、浩は思った。


時刻: 3月17日 午後1時00分

場所: アイランドベース01、浩の執務室

浩は、サラからの報告を聞いた。

「制圧完了」

完璧な作戦。完璧な結果。

しかし、浩の心は重かった。

「俺たちが作っている塔は」

浩は呟いた。

「裏切りと策略の土台の上に立っているのか」

通信端末。洋子からの着信。

「浩くん、聞いた?」

「ああ」

「マリアさんは『これが人類のやり方よ』って言うでしょうね」

洋子の声は、静かだった。

「でも、この冷たさは、ケフィリアンの記録にあった内戦の足音に似ていると思う」

浩は、窓の外を見た。

「彼らも、誰かを犠牲にして自分たちの正義を守ろうとしたのだろう」

「その果てに、あの宇宙船という孤独な盾だけが残った」

二人は、しばらく沈黙した。

科学の美しさと、それを守るための政治の泥臭さ。

自分たちの手が、汚れている。

その時。

浩の端末に届いていた、新しいデータのことを思い出した。

量子メモリーの追加解読結果。

タラス船長の、プライベートな記録。

「洋子、見て」

二人は、同時にデータを開いた。

母星で家族と過ごした、なんてことのない夕暮れ。

仕事の合間に同僚と交わした、冗談。

配偶者との、他愛もない会話。

「コーヒーが冷めてしまったね」

「構わないよ。君といる時間の方が大切だ」

浩は、自分が持っている、冷めたコーヒーカップに視線を落とした。

「タラス船長」

浩は呟いた。

「あなたが4億年待っていたのは、技術を渡すためだけじゃない」

「この、なんてことのない日常が、どれほど守るに値するかが、伝わったよ」

洋子も、同じことを感じていた。

「物理法則は残酷」

洋子は言った。

「でも、それを扱う私たちの心は、4億年前も今も、きっと同じ」

「繋がっているのね」

浩は頷いた。

夜明けの光が、執務室に差し込んだ。

汚れた手で、美しいものを作らなければならない矛盾。

完璧ではない。欠点だらけで。それでも必死に生きた。

「行こう」

浩は立ち上がった。

汚れた手で続く建設。

それは、今日も続いていく。

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