第2-5話 30億人の難民
時刻: 1月4日 午前10時00分
場所: 国連総会、ニューヨーク
「本日は、人類史上最も重要な決定を下す日となるでしょう」
事務総長のそのセリフから総会は始まった。
国連総会の議場。193カ国もの代表が集まっていた割に、議場は異様な雰囲気に包まれていた。
各国の代表は、普段のように関係国の代表と雑談を楽しむようなことはなく、深刻な表情を浮かべている。
議題が、IGDE(地球防衛統合機構)の正式承認と、その権限拡大、だからである。
総会の開催を告げたあと、彼は、大型スクリーンに世界地図を表示した。青く塗りつぶされた領域が、水没地域を示している。
海岸線が、内陸に侵食されている。島々が、消えている。
「海面上昇により影響を受けている人口は...推定30億人です」
議場は静かなままである。
30億人。
それは、世界人口の約37%に相当する。そのような数字は誰もが把握済みだからである。
事務総長は、次々と被害状況のスライドを表示した。
難民キャンプの航空写真。
配給を待つ長い列。
空っぽの棚。
絶望した人々の顔。
「被害の深刻さは皆さんご承知なので、もう前置はこのくらいでいいでしょう」
事務総長の声の調子が確かに変わった。
「我々は、この危機に対処する必要があります。そして一つの対策がIGDEから示されています」
軌道エレベータ計画
だがそれは、世界の総力を結集しなければ実現できない、だから...
IGDEに強力な権限を与え、国々を協調させるのだ。
「本日は、その承認について採決を行います」
彼は、議場を見渡した。
「この決定は、人類の未来を左右します。慎重に、しかし迅速に、判断してください」
議場が、静まり返った。
「では、各国代表からの発言を開始します」
事務総長は、リストを確認した。
「最初に、アメリカ合衆国代表」
時刻: 午前10時30分
場所: 同上
アメリカ代表が、演壇に立った。50代の女性、国務長官代理のエリザベス・ハート。
「アメリカ合衆国は、IGDEの正式承認を強く支持します」
彼女が示したスライドは、被害状況ではなく、経済分析のグラフだった。
「我が国では、この計画に対し“宇宙に金を捨てるのか”という声も強くあります」
「しかし、注目していただきたいのは、今ある被害額ではなく不作為のコストです」
ハートは、グラフを指し示した。
「軌道エレベータ建設費用は、約5兆ドル。確かに巨額です。しかし、何もしなかった場合の世界全体のGDP損失予測は...150兆ドル以上です」
彼女は、計算式を表示した。
「5兆ドルは、この損失のわずか3.3%に過ぎません。極めて保守的に見積もっても、他の選択肢より遥かに高い効果が見込まれます」
次のスライド。各国の防潮堤建設計画。
「さらに、各国が個別に適応策を取った場合のコストを試算しました。防潮堤の建設、都市の移転、インフラの再構築。これらを193カ国がバラバラに行えば...総額は30兆ドルを超えます」
「軌道エレベータ1基の建設コストの6倍です。しかも、これらの適応策は根本的な解決にはなりません」
そして軌道エレベータの説明に進んだ。
「NASAは、国際宇宙ステーションの運用で25年間の経験を積んできました。宇宙デブリ除去技術、軌道保持技術、これらは既に実証済みです」
「軌道エレベータは、夢物語ではありません。既存技術の延長線上にあります」
次に、日本代表が発言した。外務大臣の田中誠。
「日本も、IGDE承認に賛成します」
彼は、技術的実現可能性を強調した。
「多くの方が疑問に思われるでしょう。本当に18ヶ月で完成するのか、と」
田中は、自信を持って答えた。
「可能です。なぜなら、理論的基盤が既に確立されているからです」
「日本は、過去に“技術への過信”で苦い経験をしています」
と言いながら彼は、浩の技術論文を引用した。
「堀川浩博士が提唱する軌道エレベータ理論。この理論は、国際的に検証され、認められています」
「そして、今、IGDEで軌道エレベータの指揮を取っているのも彼なのです」
「静止軌道からのカーボンナノチューブの垂下は、理論上、現代の材料工学の延長線上にあります」
「正直に言えば、我々自身も恐れています。だからこそ、恐れを前提に設計してきました」
「その結果生まれた1ミクロンの誤差も許されない精密加工。日本の精密機械技術が、それを可能にするのです」
中国代表が続いた。外交部長の李明。
「中国は、IGDEを支持します」
彼は、リソース配分の観点から論じた。
「上海だけで、3000万人が避難しました。沿岸部全体では、2億5000万人が影響を受けています。我々は、すでに多くの犠牲を払っているのです」
そして李は、別の角度から切り込んだ。
「この3000万人を永久に守るための都市改造には、20年かかります。莫大な費用と時間がかかります」
「しかし、軌道エレベータによる根本解決なら、18ヶ月で済みます」
「18ヶ月という期間は、平時では不可能です。しかし、IGDEに全権を委ねることで可能になります」
「この危機は、秩序か混沌かを選ばせているのです」
「世界中の造船所、工場、建設会社。これらを一つの『巨大な工場』として同期させる。それが、IGDEの役割です」
「中国は、宇宙ステーション『天宮』の建設技術を持っています。この技術を、軌道エレベータの静止軌道ステーション建設に転用できます」
「また、超高層建築の自動化ロボット技術も提供します。上海タワー、平安金融中心。これらの建設で培った技術が、軌道エレベータ建設の基盤になります」
EU代表が発言した。フランス外相、マリー・デュポン。
「欧州連合も、IGDE承認を支持します」
デュポンは、科学的な観点から論じた。
「オランダでは、国土の30%が浸水しています。しかし、問題は海面上昇だけではありません」
彼女は、気候システムのデータを表示した。
「氷雨によって放出されたエネルギーは、大気に蓄積されています。海面が下がっても、気候システムは元の平衡点には戻りません」
グラフが表示される。気候システムの臨界点。
「科学者として、私は“断定”という言葉を使うことを本来避けたい。常々それに気を付けてきた」
「しかし、これは、不可逆性です。一度臨界点を超えると、システムは元に戻らない」
デュポンの声が、緊迫感を帯びた。
「軌道エレベータは、単なる輸送手段ではありません」
「軌道エレベータは、地球規模の『熱交換機』の背骨になります」
「宇宙空間での巨大な遮光板設置、大気中の余剰水分除去。これらを可能にするインフラです」
「EUは、素材科学と宇宙技術を提供します。カーボンナノチューブの大量生産技術、宇宙環境での精密組立技術」
「そして、気候システムの不可逆的崩壊を防ぐために、全力を尽くします」
賛成派の発言は、40分続いた。
128カ国が、具体的な根拠とともに賛成の意思を表明した。
議場の空気が、わずかに変わり始めた、気がした。
その感覚はマリアの願望だったのかもしれないが。
時刻: 午前11時30分
場所: 同上
賛成派の発言が続いた後、反対派が発言を求めた。
パキスタン代表が立ち上がった。外務大臣のアフマド・カーン。彼は、技術者としての経歴を持つ男だった。
「パキスタンは、IGDEの計画に強く反対します」
議場が、ざわめいた。
カーンは、技術的リスクを指摘した。
「賛成派は、技術的に可能だと言いました。しかし、私が問いたいのは、失敗した時のコストです」
彼は、軌道エレベータの構造図を表示した。
「このテザーは、静止軌道から地上まで、約3万6000キロメートルに及びます。もし、建設途中で破壊された場合、あるいは事故が起きた場合...」
「私は技術者ですが、同時に父親です」
カーンは、シミュレーション動画を再生した。
テザーが切断され、地球に降り注ぐ様子。超高温に加熱された炭素繊維の帯が、地球を数周する。
「これは、地球規模のギロチンです」
彼の声が、冷徹になった。
「テザーが赤道付近で切断されれば、超高音に加熱された炭素繊維の帯が地球を数周し、水没を免れた地域まで焼き尽くします」
「これは救済策ではありません。人類の首に縄をかける博打です」
カーンは、別のデータを表示した。
「宇宙デブリの衝突リスク、テザー自体の振動制御の不安定さ。これらの問題は、まだ完全には解決されていません」
「18ヶ月という突貫工事で、これらのリスクをゼロにできる保証がありますか?」
彼は、議場を見渡した。
「科学的な『可能性』と、生存への『安全性』は別物です」
ブラジル代表が、続いた。外務大臣のカルロス・サントス。
「ブラジルも、IGDEの計画に反対します」
サントスは、現場のリアリズムを訴えた。
「アメリカ代表は、効率的だと言いました。遥かに高い効果が見込まれると」
彼の声が、怒りを帯びた。
「しかし、その計算式には、何が含まれていないのですか?」
サントスは、難民キャンプの写真を表示した。
「今日、飢えている人々です。今日、病気で苦しんでいる人々です。今日、寒さに震えている人々です」
「5兆ドルを投じれば、今日飢えている1億人を10年間養えます」
彼は、データを表示した。
「細かい数字は専門家に任せますが、軌道エレベータが完成する18ヶ月後、我々の国民が何千万人生き残っていると思っているのですか?」
サントスの声が、悲痛になった。
「賛成派が言う『効率』とは、切り捨てやすい弱者を切り捨てた後の計算式です」
「我々に必要なのは、空を見上げることではありません。泥水に浸かった足を地につけるための資金です」
彼は、別の観点を提示した。
「国家が個別に動くことは、多様な生存戦略を試すことです。高台移転、浮体都市、地下シェルター。一つの巨大プロジェクトが失敗した際のリスクヘッジになります」
ロシア代表が、発言を求めた。外務大臣のアンドレイ・ペトロフ。
ロシア代表、外務大臣のアンドレイ・ペトロフは、すぐには演壇に立たなかった。
一度、議場全体をゆっくりと見渡してから、ようやく口を開いた。
「ロシア連邦は――まず最初に申し上げておきたいのですが」
彼は、言葉を選ぶように間を置いた。
「本日の議論が、いかに人道的な情熱と、科学的誠実さに満ちているかを、十分に理解しています」
賛成派の席に、軽く視線を向ける。
「そして同時に、我々の発言が、ある種の“水を差すもの”として受け取られる可能性があることも承知しています」
ここで、彼は一度原稿に目を落とした。
「それでもなお、発言せねばならないのが、国家というものの役割です」
会場が、わずかに硬くなる。
「我々は今日、技術について議論しているようでいて、実際には権力の配置について議論しています」
彼は、地図を表示した。
赤道直下に引かれた一本の線。
「軌道エレベータの基部。赤道。美しいほどに中立的な場所です」
わずかに、皮肉を含んだ声。
「しかし、その“中立”は、誰が定義するのですか?」
ペトロフは、IGDEのロゴを指し示した。
「IGDEは、優秀な科学者と技術者で構成されているのでしょう。疑ってはいません」
彼はしばし沈黙した。
「ですが、歴史上、善意と専門性だけで巨大な権力を安全に運用できた組織が存在した例はありません」
彼は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「もし、完成後にIGDEが――仮定の話です――
『安全保障上の理由から、特定地域への物資輸送を制限する』
そう判断した場合」
彼は肩をすくめた。
「我々は、どこに異議を申し立てればよいのでしょうか?」
会場に、ざわめきが走る。
「理事会ですか? 技術委員会ですか? それとも、“人類全体の利益”という、反論不可能な言葉でしょうか?」
彼は、少し声を落とした。
「ロシア連邦は、気候変動の脅威を否定しません。
我々もまた、被害を受けています」
「しかし、我々の国民は政府にこう問います。『水没の前に、主権を差し出したのか』と」
ペトロフは、結論を言い切らなかった。
「我々は、IGDEの理念に反対しているのではありません」
彼は、議場をゆっくりと見回した。そして、
「全権委任という形式に、深い懸念を抱いているのです」
最後にこう締めた。
「文明は、洪水によって滅びることもあります。
しかし同じくらい、善意の集中によっても滅びてきました」
演壇を降りる彼に、拍手はほとんどなかった。
その時、サウジアラビア代表が発言を求めた。
「科学的な観点から、疑問を呈したい」
彼は、科学顧問を伴っていた。
「軌道エレベータは、輸送手段です。しかし、気候制御手段ではありません」
科学顧問が、データを表示した。
「氷雨の原因である『ケフィリアン』の意図や、大気組成の変化がまだ解明されていません。なぜ、巨大な『棒』を立てることに執着するのですか?」
「海面が上昇し続ける限り、地上側のベースキャンプは常に移動や補強を強いられます。土台が動く場所に塔を建てるのは、砂上の楼閣です」
「まずは『雨を止める』のが先決です。エレベータは、順序が逆です」
科学顧問は、別のリスクを指摘した。
「建設に膨大なエネルギーを消費します。大気をさらに加熱し、氷雨の被害を加速させる恐れがあります」
イラン代表が、IGDEの報告書を掲げた。
「皆様、IGDEの報告書、1200ページの脚注を見てください」
彼は、該当ページを表示した。
「そこには『建設成功率64%』とあります」
議場が、ざわめいた。
「残りの36%に、我々の文明を賭けろと言うのですか!」
彼は、マリアを見た。
「マリア・ロドリゲス事務次長。あなたに問いたい」
マリアは、動じなかった。
「あなたは、科学者として動いているのですか?それとも、救世主になりたいという虚栄心で動いているのではありませんか?」
議場が、静まり返った。
マリアは、答えようとした。しかし、別の声が響いた。
バングラデシュ代表だった。
「先ほど、アメリカ代表が、効率的な計算をされました」
彼の声は、静かだった。しかし、重かった。
「その『効率的』な計算の中に、我が国の子供たちの命は何人分含まれていますか?」
会場が、沈黙した。
完全な、沈黙。
誰も、答えられなかった。
時刻: 午後1時00分
場所: 同上
昼食休憩の時間があったにもかかわらず、バングラデシュ代表の問いかけによる沈黙がまだ残っている演壇に、マリア・ロドリゲスが立った。
「各国代表の皆様、ご発言ありがとうございました」
マリアは、深く息を吸い込んだ。彼女の手が、わずかに震えていた。しかし、声は確固としていた。
「私は、科学者として、そして政治家として、皆様に訴えたいことがあります」
彼女は、最新のデータを表示した。
「現在の被害状況を、改めて確認してください」
大型スクリーンに、氷雨開始から18日の被害を受けた世界全体の統計データが表示される。
「しかしこれは、統計ではありません。一人一人の人生です。家族です。夢です」
彼女は、犠牲者の写真をキャプション付きのスライドショーで表示した。
笑顔の少女の写真、バングラデシュで溺死した6歳の少女[ファティマ]
孫たちに囲まれた幸せそうな老人の写真、ニューヨークで凍死した70歳の老人、[ジョン]
赤ん坊を抱いている若い女性、ジャカルタで熱中症で亡くなった35歳の母親、[ヌール]
一枚一枚、写真が表示される。
子供、老人、男性、女性。様々な人生。しかし、全て失われた。
マリアは、名前を読み上げるたびに、自分が彼らの人生を要約してしまっていることに、辛さを募らせた。
「彼らには、生きる権利がありました。いえ、“あったはずだ”と、私は信じたい。その重さに、私の虚栄心が入る余地などありません。虚栄心を持てる人がいるのでしょうか」
マリアは、反対派の国々を順番に見た。
音のない世界に、議場の空腸音だけが静かに聞こえた。
「みなさんの疑問にお答えしていきます」
「まず、パキスタン代表は、テザーが地球規模のギロチンになると指摘されました」
彼女は、テザーの構造図を表示した。
「確かに、リスクはゼロではありません。しかし、管理可能です」
「テザーは単一の巨大な紐ではありません。数百万の繊維が編み込まれた多重構造です。一部が破断しても、自律的に溶断・気化する『非常用焼却プログラム』を組み込んでいます」
マリアは、シミュレーション動画を再生した。
「地上に落ちる前に、それはただの灰になります」
「皆さんは『リスクを冒すな』と言います。しかし、我々はすでに沈みゆく船に乗っています」
「船底に穴が開いているときに、救命ボートの設計ミスを恐れて船に留まるのは、生存戦略ではありません。緩やかな自殺です」
「この安全制御システムの監視には、各国の通信衛星網の協力が不可欠です。皆さんの『目』が、このギロチンを希望の糸に変えるのです」
「ブラジル代表は、今日のパンが必要だと言いました。その通りです」
経済データを表示した。
「しかし、5兆ドルは宇宙に消えるのではありません。その8割は地上の供給網、つまり皆さんの国の工場、造船所、労働力に支払われます」
「これは、史上最大の経済刺激策です」
別のスライドを提示した。
「軌道エレベータは、宇宙への道であると同時に、地球上のあらゆる場所に低コストでエネルギーと物資を届ける『垂直の物流拠点』になります」
「これがあれば、孤立した難民キャンプへの物資輸送コストは100分の1以下になります」
「IGDEの予算は、単なる建設費ではありません。参加国の雇用維持と技術移転の資金です」
「自国を守るための『堤防』を、宇宙への『支柱』という形で一緒に作りませんか」
ブラジルからの反応はない。彼女の声が、わずかに厳しくなった。
「そして、資金についてもう一つ、申し上げたいことがあります」
彼女は、別のデータを表示した。天啓の教団への寄付金の流れ。
「皆さんは『資金がない』とおっしゃる。しかし、各国の国内では今、何が起きているか」
グラフが表示される。急激に増加する寄付金の額。
「政府の救済が届かない場所で、市民は『天啓の教団』に全財産を寄付し、救いを求めています」
「事実上、皆さんの国の富は、国家の管理を離れ、膨大な勢いで教団の『テント都市』へと吸い込まれています」
議場にざわめきが漂った。このスライドは事前の資料にはなかったのだ。
マリアは、軽く手を上げて制した。
「それを否定したり糾弾したいのではないのです。」
再び静まり返った。マリアの言いたいことがわからない。
「教団がパニックを抑え、人々に心の平穏を与えていることは、統治の観点からは一つの『コスト削減』でしょう」
「皆さんが教団による物資管理や治安維持を黙認し、間接的にリソースを提供しているのは、それが現状で最も『安上がりな生存戦略』だからです」
マリアは、本題に入った。
「ならば、その論理を我々にも適用してください」
彼女の声が、ゆっくりと続ける。
「教団への寄付が『魂の救済』のための保険なら、軌道エレベータへの拠出は『肉体の生存』のための保険です」
「教団に流れているリソースのわずか数パーセントを、IGDEの技術債券に振り替えていただきたい」
「我々は、皆さんの国民から『信仰』を奪うつもりはありません。ただ、教団が約束する『死後の救済』を待つ間に、彼らが『現世で生き続けるための足場』を、我々に作らせてほしいのです」
マリアは、サウジアラビアの科学顧問の主張に答えた。
「科学顧問は、雨を止めるのが先だと言いました。その通りです」
彼女は、地球の大気圏の図を表示した。
「しかし、現在、我々は泥沼の底から、空の霧を眺めているような状態です」
「氷雨を降らせている雨の核は、成層圏より高い位置に存在しています」
マリアは、別の図を表示した。
「地上からの観測やミサイル攻撃では、大気の厚みが壁となり、本質的なアプローチができません」
「軌道エレベータは、敵の懐へ飛び込み、雨の蛇口を直接閉めるための唯一の『梯子』なのです」
「調査団には、反対派諸国の科学者も優先的に受け入れることを約束します」
最後に、ロシア代表に向きあった。
「ロシア代表は、IGDEが独裁機関になることを懸念されました」
「IGDEは統治組織となるべきではないでしょう。ですから...全加盟国が株主となる『公社』とすることを提案します」
「エレベータの運営コード、エネルギー分配アルゴリズムをすべて公開します。193カ国すべての承認がなければ変更できない『ブロックチェーン管理』を採用します」
マリアは、続けた。
「これは一部の国の独占物ではありません。赤道直下の国々は『土地』を、先進国は『技術』を、資源国は『素材』を」
「全員が持ち寄らなければ完成しない、人類初の『相互依存型』のインフラなのです」
彼女は、最後に一つの楔を打った。
「この公社への不参加は、自国の発言権を放棄することを意味します」
「中でルールを作る側に回るか、外で沈むのを待つか」
「選択肢は一つのはずです」
マリアは、深く頭を下げた。
議場に、静寂が広がった。
時刻: 午後3時00分
場所: 同上
採決の時間が来た。
事務総長が演壇に立った。
「これより、IGDE正式承認について、採決を行います。投票してください」
彼はもう緊張していなかった。人類の未来を決める採決まで辿り着いたのだから。
議場が静まり返った。
座っている人が動く音、空調の音だけが聞こえてくる。
各国の代表が、ボタンに手を伸ばす。
大型スクリーンに、リアルタイムで集計結果が表示される。
緑のランプが、次々と点灯していく。
賛成: 50、60、70...
マリアは、控え席で見守っていた。
途中から正確な数を認識できなくなっていた。
(過半数は97、届く?いや反対数が多ければ...棄権を入れると?)
経過を見届けたい気持ちと、もう結果だけをどこか別の場で知りたい気持ちが入り混じる。
だが、自分がここから逃げるわけにはいかないのだ。
反対: 25、30、35...
そして、最後のランプが点灯した。
カウントが停止した。
賛成: 128
反対: 35
棄権: 30
事務総長が、結果を確認した。彼は、深く息を吸い込んだ。
「投票総数193。賛成128、反対35、棄権30」
一呼吸置いて読み上げる。
「3分の2以上の賛成により、IGDEの正式承認が...可決されました」
議場に、拍手が起こった。
一部の代表は、立ち上がって拍手した。
しかし、反対派の国々は、座ったままだった。険しい表情を浮かべている。
サウジアラビア代表は、腕を組んだまま微動だにしなかった。
それが反対の意思表示なのか、単なる癖なのか、マリアには判断がつかなかった。
イラン代表は、目を閉じていた。
祈っているのか、考えを遮断しているのか。
パキスタン代表は、携帯電話を取り出し、誰かに連絡を始めた。
国への連絡なのか、それとも――
議場の雰囲気は、喜びと緊張が混在していた。
マリアは、安堵の息をついた。しかし、同時に新たな戦いが始まることを知っていた。
彼女にとって可決は、終わりではない。
事務総長が、議場を静めた。
「本日の採決により、IGDEは国連の正式機関として承認されました」
「IGDEには、以下の権限が付与されます」
彼は、リストを読み上げた。
「第一に、軌道エレベータ建設の総合指揮権」
「第二に、加盟国からの資源・技術・人員の調整権」
「第三に、建設のための国際予算の執行権」
「第四に、建設地の選定と管理権」
「これらの権限は、本日より有効となります」
事務総長は、マリアを見た。
「IGDE事務次長、マリア・ロドリゲス」
議場の全員が、彼女を見守っている。
「マリア・ロドリゲス事務次長。あなたは、IGDEの代表として、人類の未来を託されました」
「お願いしますね」
マリアは、深く頭を下げた。
「はい。人類の未来のために、全力を尽くします」
喜びの拍手が、どこか別の部屋で響いている音のように聞こえた。
マリアの頭の中では、いくつかの懸念が浮かびかけては、形になる前に消えていく。
喜んでいる場合ではない――だが、どこから着手すれば良いのだろう。
時刻: 午後6時00分
場所: IGDE危機管理センター
採決の結果が、即座にIGDE本部に伝えられた。
その事実は、センターにいる全員に同じ重さで伝わったわけではなかった。
危機管理センターでは、招集された科学者たちがその瞬間を見守っていた。
浩と洋子も、その中にいた。
「可決...」
誰かが呟いた。
そして、センター内に歓声が響いた。
科学者たちが、互いに握手を交わした。
「これで、正式に動けますね。面倒な書類ごとが減るのは嬉しい」
「18ヶ月後、という目標も、現実として見えてきましたな」
気候学者のデイビッド・チャンと海洋学者のアイーシャ・ナシルがそんな会話をしている。
しかし、マリアから教団の話を直接聞いた浩と洋子は、手放しでは喜べなかった。
「過激派はいつ動くのでしょうか」
洋子が、小さく呟いた。
「...決定が定着する前、でしょうね。向こうの連中の考え方からすると」
浩が答えた。
二人は、窓の外を見た。
美しい雨
これを見れるのもあと数日しかない。
「穏健派が協力を申し出てきた意図も、まだわからないそうです」
「イブラヒム師の真意はどこにあるのでしょうね」
思考がすっきりしない洋子は、甘いものが欲しくなった。
イブラヒムはケーキが好きだったりしないのだろうか...
浩は、考え込んだ。
「教団内部の主導権争い...穏健派が協力することで、過激派を孤立させる戦略かもしれません」
「それとも...」
その時、緊急警報が鳴り響いた。
センター内の歓声が、止まった。
大型スクリーンに、緊急ニュース速報が表示された。
「速報: 南米ボリビア、ラパスのIGDE気象観測所が襲撃」
科学者たちが、スクリーンに注目した。
「天啓の教団過激派組織『神の剣』が犯行声明」
「観測所は爆破され、科学者2名が負傷、1名が死亡」
センター内が、静まり返った。
誰かが息を吸い込む音だけが、やけに大きく聞こえた。ゴクリ、と飲み込む音さえ聞こえる気がする。
「死亡したのは...ミゲル・コルテス博士、42歳、気象学者」
洋子は息を呑んだ。浩は立っている感覚が消えるような錯覚を感じた。
ミゲル・コルテス。彼は、南米の気象観測を統括していた。浩たちとも、気候データのやり取りで協力していた。
「まさか...こんなに早く」
「採決の直後...確かに効果的だ」
浩の口調は先からの思考の延長線にあるようだった。
その時、センターのドアが開いた。
マリアが入ってきた。
科学者たちが、彼女に駆け寄った。
しかし、マリアは手を上げて、それを制した。
彼女の顔色は蒼白だが、表情は崩れていない。
「皆さん、聞いてください」
彼女の声は落ち着いていた。しかし、本当にそうだろうか。
「ボリビアの観測所が襲撃されました。ミゲル・コルテス博士が...亡くなりました」
「採決後に備えて、全施設に警備強化の指示を出していました。しかし...対応が遅かった」
マリアは、拳を握りしめた。
「マリアさん、別にあなたの責任では...」
デイビッド・チャンが言った。
「いいえ」マリアは首を横に振った。「責任の問題ではないのです」
センター内に、重い空気が流れた。
科学者たちが、過激派のリスクについて話し始めた。
壁際に離れて電話をかけている者もいる。家族や同僚なのだろう。
「次の標的は?」
「警備をさらに強化すべきだ」
「彼らは、世界中に支持者がいる」
「我々全員が、危険に晒されている」
しかし、浩と洋子は、別のことを考えていた。
「反対に回った国々も、動くでしょう。いや、既に動いているかもしれない」
浩が、小さく洋子に言った。
「資材の輸出制限、技術者の渡航禁止、妨害の方法は、いくらでもあります...」
計画のどこを見直さなければいけないのか、すぐにでも関係者と協議を始めなければ。
過激派のテロは、目に見える脅威だが、国家による妨害は見えにくい。それでいて、効果的である。
二人は、互いを見た。
目に見える敵より、名前すら出てこない相手の方が、よほど厄介だ。
「もっと単純なら良いのに...」
浩はそう思った。
マリアが、全員に向けて言った。
「皆さん、これから厳しい戦いになります」
見えない相手をする、マリアの今後の苦労はすさまじいよね、と洋子は同情した。
なぜ、自分は考えなくていいと思ったのだろう。
「しかし、私は諦めません。ミゲル・コルテス博士の犠牲を、無駄にしません」
「明日から、建設準備を本格的に開始します」
科学者たちが、頷いた。




