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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第1章-未知との遭遇
1/13

第1-1話 宇宙からの雨

時刻: 12月17日 午後11時47分

場所: 世界各地


深夜の空に、光が降り始めた。


最初に気づいたのは、アイスランドのレイキャビク郊外で星空観測をしていたアマチュア天文家だった。北の空に、流星とは異なる連続的な光の筋が現れた。一本、二本、十本、百本。数秒のうちに、視界全体が無数の光の線で埋め尽くされた。

「これは...何だ?」

彼がスマートフォンで撮影した映像は、三分後にはSNSで拡散され始めた。ハッシュタグ「#史上最大の流星群」が、瞬く間にトレンド入りする。

東京では、帰宅途中のサラリーマンが立ち止まった。渋谷のスクランブル交差点で、人々が一斉に空を見上げている。ビルの谷間から見える冬の空に、無数の光の筋が降り注いでいた。美しい。誰もがそう思った。スマートフォンのカメラが、一斉に空を向く。

ニューヨークのタイムズスクエアでは、大型ビジョンが通常の広告を中断し、CNNの速報を流し始めた。「観測史上最大規模の流星群、世界各地で観測」

しかし。

NASAゴダード宇宙飛行センターの深夜当直チームは、既に異変に気づいていた。管制室の大型スクリーンに、全米の気象レーダーネットワークからのデータが表示されている。そこに映し出されているのは、通常の気象観測では説明のつかない現象だった。

レーダーエコーが、雲のない空で反応している。

高度5000キロメートルから8000キロメートルの範囲に、広範囲にわたる反射信号。これは流星ではない。流星なら、一瞬で燃え尽きる。

当直の気象観測担当、ジェニファー・チェンが眉をひそめた。モニターの数値を三度確認する。しかし、結果は変わらない。

「管制、NOAA(米国海洋大気庁)からの緊急問い合わせです。西海岸の観測所でも同様の現象を確認」

通信担当が報告する。

ジェニファーは、国際宇宙ステーション(ISS)への直接回線を開いた。決断は早かった。迷っている時間はない。

時刻は、12月17日午後11時47分。

人類は、まだ何も知らない。


時刻: 12月18日 午前0時15分

場所: NASAゴダード宇宙飛行センター、メリーランド州

管制室の大型スクリーンに、レーダーネットワークからのデータが表示され続けている。ジェニファーは、データの詳細分析を開始した。反射強度、移動速度、分布パターン。どのパラメータも、既知の気象現象とは一致しない。

「これは...流星群じゃない」

彼女の声は、管制室に響いた。周囲の職員が、一斉に振り返る。

ジェニファーは、すぐに判断を下した。ISSへの直接通信。彼女の指が、通信ボタンを押す。

時刻: 12月18日 午前0時32分

場所: 国際宇宙ステーション(高度408km)


日本人宇宙飛行士の田中健一は、キューポラモジュールから地球を見下ろしていた。定期的な地球観測の時間。しかし今日の光景は、異常だった。

地球の大気圏、高度10000キロメートル付近で、無数の白い光点が燃え上がっている。通常の流星なら、一瞬で燃え尽きる。だがこの光点たちは、長い軌跡を描きながら、ゆっくりと地球へと降下していく。

美しい。

しかし、その美しさは不気味だった。

「ヒューストン、こちらISS。緊急報告」

田中は管制センターへの通信を開始した。彼の声は落ち着いていた。宇宙飛行士の訓練が、冷静さを保たせている。

「大気圏外から、未確認の物体群が地球に向かって降下中。規模は...測定不能。これまで見たことのない現象です」

ヒューストンのNASA管制センターが、緊張した声で応答する。

「ISS、詳細データの送信を開始してください。同時に、全観測機器をこの現象に向けてください」

田中は、ISSの観測カメラとスペクトロメーターを起動させた。高解像度カメラが捉えた映像には、大気圏を貫いて降下する無数の白い物体が映し出されている。

数が多い。あまりにも多い。

分光分析の結果が、モニターに表示される。田中は、その数値を二度確認した。

「ヒューストン...これは氷です。H2Oの吸収スペクトルと一致します」

管制室が一瞬、沈黙した。通信回線を通して、その沈黙が伝わってくる。

「ISS、確認します。氷、ですか?」

「はい。しかし、質量が...異常です。通常の彗星の塵とは桁違いの質量を持っています」

田中は、質量推定値をヒューストンに送信した。一個あたりの平均質量、約12トン。流星としては、ありえない数値だった。

彼は窓の外を見た。光の雨が、地球を包んでいる。

それは美しく、そして恐ろしかった。


時刻: 12月17日 午後6時20分(ハワイ時間)

場所: マウナケア天文台、ハワイ島

標高4,207メートル。地球上で最も空気の澄んだ場所の一つ。ここには、世界13カ国の最先端望遠鏡が林立している。

すばる望遠鏡の観測室では、夜間観測チームが緊急召集されていた。主任観測員のデイビッド・レイノルズが、8.2メートルの主鏡で捉えた画像を拡大表示する。

「これを見てください...」

画面には、無数の小天体が映し出されている。それぞれの直径は10メートルから50メートル程度。しかし、その数が異常だった。

若手研究員のサラ・チェンが、データ解析結果を報告する。彼女の声は震えていた。

「概算で...2000万個以上。いや、これは視野内だけの数です。全天では...億単位かもしれません」

デイビッドは振り返った。

「何故、億単位だと?」

サラは一瞬言葉に詰まった。

「なんとなく、そう思いました」

「なんとなく、だと?」

デイビッドの声は厳しかった。科学者が「なんとなく」で判断してはならない。彼はそう教えられてきたし、部下にもそう教えている。

「申し訳ありません。視野角から全天への外挿計算を...」

「それを最初に言え」

サラは唇を噛んだ。「どうでもいいでしょ」と心の中で呟く。しかし、口には出さない。

デイビッドは、分光観測の結果を確認した。批判は終わり。次の作業に移る。

「スペクトル分析...H2Oの吸収線が明確。しかし、同位体比率が...」

彼は、表示されたグラフを凝視する。眉間に皺が寄る。

「重水素の比率が、通常の彗星氷より22パーセント高い。酸素同位体O-18も、太陽系標準値から+12パーミル偏差している」

サラが、過去の彗星観測データベースと照合する。手早く、正確に。

「既知のどの彗星とも一致しません。オールトの雲起源の彗星とも、カイパーベルト天体とも異なります」

デイビッドは、軌道計算プログラムを起動させた。観測データを入力し、逆算して起源を特定する。量子コンピュータへの接続が確立される。計算が始まる。

数分後、結果が表示された。

彼は、その数値を見て息を呑んだ。呼吸が止まる。

「起源座標...太陽系外縁部、距離2000天文単位以上。オールトの雲の...外側?」

サラが、確認のために同じ計算を実行する。結果は同じだった。

「間違いありません」

二人は、顔を見合わせた。

同時刻、世界各地で同様の観測が進行していた。


チリのアタカマ砂漠。ALMA電波望遠鏡アレイが、ミリ波・サブミリ波での観測を開始している。南アフリカ、サザーランド天文台。南天の観測データが、北半球の観測所のデータと統合されていく。中国、貴州省。世界最大の単一口径電波望遠鏡FAST(天眼)が、降下する物体群の詳細な電波観測を実施している。

データは、リアルタイムで国際天文学連合の緊急データベースに集約されていく。

世界中の天文学者が、同じ結論に達しつつあった。

これは、既知の現象ではない。


時刻: 12月18日 午前3時00分(東部時間)

場所: CNN本社、アトランタ

早朝の特別番組が開始された。キャスターのデイビッド・アンダーソンが、画面いっぱいに映し出される光の雨の映像を背景に、視聴者に語りかける。

「世界中が、史上最大規模の天体ショーに湧いています。専門家は、これを『アイスメテオシャワー』と名付けました」

画面が切り替わり、気象学者のインタビュー映像が流れる。

「これは確かに大規模ですが、一過性の現象でしょう。数時間で収束すると予測しています」

楽観的な予測。しかし、その予測は間違っていた。

SNSでは、#IceRain(氷雨)、#CosmicShow(宇宙ショー)といったハッシュタグがトレンド上位を占めている。世界各地で撮影された美しい光の雨の動画が、次々とアップロードされていく。

パリのエッフェル塔を背景に降り注ぐ光。ニューヨークの摩天楼の谷間を流れる光の川。東京タワーから見下ろす、街を覆う光の幕。

人々は、スマートフォンを空に向け、この歴史的瞬間を記録しようとしている。祝祭の空気。誰もが、この美しさに魅了されていた。

しかし。

科学コミュニティでは、既に警戒感が高まっていた。


時刻: 12月18日 午前6時30分(日本時間)

場所: 気象庁、東京

予報課の会議室では、緊急ブリーフィングが開催されていた。

「降水量が...異常です」

観測担当の職員が、全国の雨量計データを提示する。彼の手は、わずかに震えていた。

「過去6時間で、平均降水量は通常の12月の3倍。しかも、まだ増加傾向にあります」

河川情報課の担当者が、河川水位のグラフを表示する。右肩上がりの曲線。予測モデルを超えている。

「主要河川の水位が、予測を上回るペースで上昇しています。このまま続けば、48時間以内に警戒水位に達する河川が複数出てきます」

会議室に緊張が走る。空気が重い。

「気象衛星ひまわりの画像を見てください」

画面に、日本列島上空の衛星画像が表示される。しかし、そこには雲がない。快晴の空。なのに、雨が降り続けている。

若手職員が口を開いた。

「ない...雲が。気象学では、これ説明、常識できません」

語順が崩れている。混乱している。

「落ち着け」

上司が、短く制止した。

若手職員は深呼吸をした。そして、もう一度言い直す。

「雲が...ない。これは、気象学の常識では説明できません」

上司は頷いた。そして、次の指示を出す。

「国土交通省に報告。避難勧告の準備を進めるよう要請してください」


時刻: 12月18日 午前8時00分

場所: 太平洋、ツバル 首都フナフティ(及び世界各地)


最初の異変が報告され始めたのは、太平洋の島嶼国からだった。

ツバル、首都フナフティ。国土の最高標高がわずか4.5メートルしかないこの島国で、潮位計が異常な数値を示し始めた。

「潮位が...上昇しています」

海洋観測所の職員が、モニターを凝視する。信じられない。何度も確認する。

「満潮時刻ではありません。しかし、海面が平常時より35センチメートル高い」

35センチメートル。この島国にとって、それは致命的な数値だった。

同様の報告が、世界各地の沿岸部から寄せられ始めた。

バングラデシュ、ダッカ。ガンジス川デルタ地帯で、河川の水位が異常上昇。オランダ、アムステルダム。海抜マイナス地域の排水ポンプが、フル稼働を開始。日本、東京湾。荒川の水位が、12時間で30センチメートル上昇。

データが集約される。国連海洋科学委員会が、緊急声明を発表する。

「世界の海面が、過去12時間で平均3.2センチメートル上昇しています。この現象の原因は、現在調査中です」

しかし、科学者たちは既に、恐ろしい可能性に気づき始めていた。

氷が降り続けている。大気圏で溶けた氷は、水となって地表に到達している。そして、その総量は...

計算したくない。しかし、計算しなければならない。

世界中の科学者が、同じ計算を始めていた。降り注ぐ氷の総量。それが全て水になったら、海面はどれだけ上昇するのか。

答えは、まだ誰も口にしていない。

しかし、誰もが同じ結論に達しつつあった。

これは、終わりの始まりかもしれない。


時刻: 12月18日 午前11時30分

場所: 国立天文物理研究所 深宇宙観測室、東京都三鷹市


複数のモニターに、世界各地の観測所からのデータが表示されている。

洋子は、徹夜でデータ解析を続けていた。彼女の専門は深宇宙観測と天体物理学。特に、太陽系外縁部の天体の軌道力学を研究している。

コーヒーカップは既に空だった。三つのモニターを同時に見ながら、軌道計算プログラムを走らせている。

世界中の観測所から集約されたデータ。氷塊の軌道要素、速度ベクトル、質量推定。それらを統合し、起源天体を逆算する。

量子コンピュータが、複雑な軌道計算を実行している。進捗バーが99パーセントに到達した。

洋子は、画面から目を離さない。

結果が表示される。

彼女は、息を呑んだ。

軌道の起源は、太陽系外縁部...いや、さらにその外側。オールトの雲の境界を超えた領域。距離にして、約2,500天文単位。

「これは...星間空間から来たのか?」

しかし、より驚くべきは、その軌道の特性だった。

離心率: 0.32

軌道傾斜角: 3.7度

通常、太陽系外縁部から飛来する彗星は、極端に細長い楕円軌道を持つ。離心率0.9以上。軌道傾斜角も大きく変化する。

しかし、この氷塊群の軌道は、あまりにも「整っていた」。

洋子は、別の計算を実行した。質量推定。

観測された氷塊の数、平均サイズ、密度。それらを積算していく。計算式を三度確認する。間違いがあってはならない。

結果が表示される瞬間、彼女は自分の目を疑った。

総質量: 約480兆トン(±50兆トン)

これは、地球上の全淡水の約3.4パーセントに相当する。

洋子は、さらに計算を進めた。もしこの氷が全て地球に降り注いだら...

降雨継続期間の推定。氷塊の軌道から、地球との相対速度、大気圏突入角度を計算。統計的に、いつまで降り続けるのか。

計算結果: 21日間(±3日)

そして、最終的な海面上昇の推定。

洋子の手が震えた。

画面に表示された数値: 18〜25メートル

「そんな...」

彼女は、計算を三度確認した。パラメータを変えて、再計算。しかし、結果は変わらない。誤差の範囲内で、同じ値が出力される。

窓の外では、美しい光の雨が降り続けている。人々は、その美しさに魅了されている。SNSには、喜びの投稿が溢れている。

しかし、その雨の正体は...

洋子は、深く息を吸い込んだ。呼吸を整える。冷静にならなければ。

彼女は、レポートを作成し始めた。観測データ、計算過程、結論。全てを正確に記録する。

キーボードを叩く手が震える。しかし、止めない。

レポートの最終行に、彼女は書いた。

「予測される海面上昇: 18〜25メートル。影響人口: 推定25〜30億人。早急な対策が必要。」

送信ボタンを押す前に、彼女は一度だけ躊躇した。

このレポートを送信すれば、世界は変わる。パニックが起きるかもしれない。しかし、真実を伝えなければ、もっと多くの人が死ぬ。

洋子は、送信ボタンを押した。

レポートは、国際天文学連合の緊急対策本部に送信された。同時に、日本政府、NASA、ESA、JAXA、主要な研究機関にも転送される。


数分後、彼女の携帯電話が鳴った。

発信者表示: 「国際天文学連合 緊急対策本部」

洋子は、電話に出た。

「もしもし」

電話の向こうから、緊張した声が聞こえてきた。

「レポートを拝見しました。至急、ニューヨークの国連本部に来ていただけますか。緊急科学諮問委員会を招集します」

洋子は、一瞬の沈黙の後、答えた。

「わかりました。いつ出発すれば?」

「できるだけ早く。今日中に」

電話が切れた。

洋子は、窓の外を見た。光の雨は、まだ降り続けている。


時刻: 12月18日 午後2時00分

場所: 世界各国 政府機関


世界各国の政府に、緊急報告が届き始めた。国際天文学連合からの正式な警告。海面上昇の予測値。影響人口の推定。

各国の危機管理センターが、一斉に動き出す。

ホワイトハウス、国家安全保障会議。クレムリン、安全保障会議。北京、中南海。ロンドン、内閣府ブリーフィングルーム。

しかし、情報の公開は慎重に制限された。パニックを避けるため。社会秩序を維持するため。

「まだ確定的ではない」「予測には誤差がある」「対策を検討中」

各国政府は、同じ論理で情報を抑え込んだ。

だが、科学コミュニティ内では、情報が急速に拡散していた。

時刻: 12月18日 午後5時00分

場所: NASA本部


NASA本部が、緊急記者会見を発表した。世界中のメディアが、その中継準備を始める。

時刻: 12月18日 午後8時00分(東部時間)

場所: NASA本部 記者会見場


NASA長官のロバート・ハリスが、壇上に立った。彼の表情は、硬い。

「本日未明から観測されている氷雨現象について、重要な発表があります」

会議場の記者たちが、一斉にペンを構える。カメラのシャッター音が響く。

「我々の分析によれば、この現象は当初予測されていたよりも、はるかに大規模なものです」

ハリスは、一呼吸置いた。

「氷塊の総質量は、約500兆トンと推定されます。降雨は、今後20日間程度継続する見込みです」

記者席がざわついた。

「そして...」

ハリスの声が、重くなる。

「これにより予測される海面上昇は、最大で25センチメートルに達する可能性があります」

会議場が、静まり返った。

25センチメートル。

一瞬、その数値の意味が理解されなかった。しかし、すぐに理解が広がる。

沿岸都市。低地の国々。島嶼国。何億人もの人々が、影響を受ける。

「質問を受け付けます」

記者たちの手が、一斉に上がった。

「この予測の確実性は?」

「約80パーセントの信頼区間で、20〜30センチメートルの範囲です」

「対策は?」

「各国政府と連携し、避難計画を策定中です」

「死者の予測は?」

ハリスは、一瞬言葉を詰まらせた。

「...それは、各国の対応次第です。適切な避難措置が取られれば、最小限に抑えられるでしょう」

記者会見は、30分続いた。

そして、世界は知った。

これは、単なる美しい天体ショーではない。これは、人類史上最大級の自然災害だ。


時刻: 12月18日 午後9時00分

場所: 世界各地


世界中のニュースチャンネルが、一斉に特別番組に切り替わった。

「氷雨による海面上昇の危機」

「沿岸都市に避難勧告」

「史上最大の気候災害か」

SNSのトーンが、一変した。祝祭の空気は消え、不安と恐怖が広がる。

#IceRain のハッシュタグの下に、新しい投稿が溢れる。

「私の街は大丈夫なのか?」

「どこに避難すればいい?」

「これは終わりの始まりなのか?」

世界各地で、人々が動き始めた。沿岸部から内陸部への移動。食料品店に殺到する人々。ガソリンスタンドに並ぶ車の列。

混乱が、始まっていた。


時刻: 12月19日 午後1時30分(日本時間)

場所: 国立天文物理研究所、洋子の研究室

彼女は、ニューヨークへの出発準備を進めていた。必要な資料をデジタル化し、クラウドにアップロードする。ノートパソコン、タブレット、充電器。最小限の荷物。

研究室を見渡す。ここで10年間、研究を続けてきた。深宇宙の観測。太陽系外縁部の天体。その軌道と起源。

その全てが、今、現実の危機として目の前に現れている。

コーヒーカップは既に空だった。洋子は、昨夜食べた夜食のことを思い出した。コンビニで買った冷凍パスタと、サラダ。簡素な食事。デザートをつければよかった、と少しだけ思う。チョコレートケーキでも買っておけば、もう少し気分が違ったかもしれない。

しかし、もう遅い。

彼女は、デスクの引き出しから、一冊のノートを取り出した。祖父から譲り受けた、古いモレスキンのノート。そこには、祖父の研究メモが記されている。

祖父は、天文学者だった。彗星の研究者。彼から、洋子は星空を見上げることを教わった。

ノートの最後のページに、祖父の言葉が記されている。

「宇宙は、時に美しく、時に恐ろしい。しかし、それを理解しようとする努力を、決して止めてはならない」

洋子は、ノートを鞄に入れた。

彼女は、研究室のドアに手をかけた。振り返り、もう一度部屋を見る。

「戻ってこられるだろうか」

そんな考えが、頭をよぎる。しかし、すぐに打ち消す。悲観的になっても仕方がない。

洋子は、研究室を出た。

廊下を歩きながら、彼女は考えていた。これから何が起きるのか。自分に何ができるのか。

答えは、まだない。

しかし、答えを見つけなければならない。

エレベーターで1階に降りる。ロビーには、数人の研究員がいた。彼らも、緊急の作業に追われている。

洋子は、建物の外に出た。

冷たい空気。12月の東京は、寒い。

空を見上げる。光の雨が、降り続いている。

美しい。

しかし、その美しさの裏に、何が隠されているのか。

迎えの車が到着した。洋子は、後部座席に乗り込む。

「成田空港まで、お願いします」

車が動き出す。窓の外を流れる東京の街並み。いつもの風景。しかし、もう「いつも」ではない。

洋子の携帯電話が鳴った。

着信表示: 「国際天文学連合」

彼女は、電話に出る前に一瞬だけ躊躇した。

このタイミングで電話がかかってくるということは、何か新しい情報があるのだろう。良い知らせとは思えない。悪い知らせの予感。いや、予感というより確信に近い。しかし、こんなご都合主義的なタイミングで、と心のどこかで思う。現実は、物語のように都合よく展開しない。はずだった。

洋子は、電話に出た。

「もしもし、桜井です」

電話の向こうから、切迫した声が聞こえてきた。

「新しいデータです。氷塊の降下量が、予測を上回っています」

洋子の表情が、強ばった。

「どのくらい?」

「約15パーセント増。このペースだと、海面上昇は30センチメートルを超える可能性があります」

30センチメートル。

洋子は、その数値が持つ意味を即座に理解した。

影響人口は、さらに増える。死者数も。

「わかりました。ニューヨークで詳細を確認します」

電話が切れた。

洋子は、窓の外を見た。

光の雨。

それは、止まる気配がない。

そして、人類の試練は、まだ始まったばかりだった。

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― 新着の感想 ―
xから読まさせていただきました。 緊迫感時間軸 怖いです。 感想書かせていただきます。 ある冬の夜に世界各地で降り注ぐ“光の雨”のような異常現象――後に「氷雨」と呼ばれるものが、最初は誰もが美しいと感…
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